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第90回目(2018年10月)の課題本

 

10月課題図書

 

世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?


今年読んだビジネス書で一番深く同意し、納得した本です。基本編セミナーを受講して、

人生が激変した人が読むと、これって表現は違うけどしょ~おんセミナーで説かれている

ことと同じだなと気付くはずです。

私は何度も言ってますが、今どき科学や理屈で割り切れる物差しで幸せになれると考える

のが時代遅れなんですよ。ああいう物差しに頼るから、下品で、自利的で、利益のために

は犯罪行為に手を染めるような人間になるんです。

私は常々、こういう人たちが科学原理主義的であり、科学で割り切れないモノの価値を科

学より下に置いているところにあると考えているんですが、それを別の角度からキレイに

解説しています。

本書ではもちろん、怪しい系という概念は出てこないのですが、怪しい系の行き着く究極

のところに、美意識(本書では真善美といっています)があるんですから、ホントに同じ

ことを言っているんですよ。

この本は過去私の怪しい系のセミナーを受講した人や、これから受講してみようと思う人

は、読んでおいた方が良いですよ。科学的な目線しか持っていないと、これからの時代は

やっていけないんだなということが理解出来ますから。

 【しょ~おんコメント】

10月優秀賞

 

今月もたくさんの方に投稿して頂きました。その中で一次を通過したのが、
sikakaka2005さん、masa3843さん、Devichgngさん、diegoさん、kokchampさんの5名でした。
この5つを再度読み直して、今月はDevichgngさんに差し上げることにしました。
おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 jorryjorry55 日時 2018年10月20日


昔から良く美的センスが独特と言われています。具体的には服装が良く派手と言われていましたが、自分では全然派手とは思っていません。カラフルなネルシャツ、と言っても原色だらけではなく、暗い赤と青と緑だったと思いますが、一般的な配色のシャツだったので、何故これが派手なのかさっぱりわからず。とは言え、遠くから見つけるのにはよい目印になっていたと言われたので、それはそれで嬉しかったですが。今も昔と変わらず、同じような普段着なので、嫁さんからはたまには変えたら?と良く言われます。今回の本を読んで、自分は人と違う感性を持っているのであれば、このままで、人と差別化出来ているから良いのかなと思いました。
大学受験時代、試しに東大模試を受けた時、数学の図形問題で直感で答えが出て結果的に正解だったのですが、途中の経過を証明できなかったため、点数はもらえませんでした。もともと論理力が弱かったので当然の結果です。模試の判定はもちろんE判定。
なお、東大王の東大生は芸術分野でも抜群の知識を持っていますが、問題を先読みして答えるところは非常に美しいと感じます。私もたまに真似しますが、正解した時は非常に気持ちが良いため、今後もこの感覚を大事にして行きます。
似た感覚を感じるのは、スポーツを見ている時としている時です。昔剣道をやっていましたが、綺麗に決まった時ははたから見ていても非常に綺麗ですし、自分でも物凄く気持ちが良いです。ゴルフでもプロのスイングは非常に綺麗で見ていて惚れ惚れします。自分でも会心のショットを打った時の動画を後から確認すると、非常に綺麗なスイングで打っていますし、失敗した時は美しく無いスイングしているのがわかります。美意識を高めれば会心のショットが連発できるのでは無いかと思えるくらいです。毎回誰が見ても綺麗なショットを打ちたいものです。そうなったら、あっという間にシングルになれそうですが。この辺りの感覚は数値化出来ないので、センスもあると思いますが、訓練して自分の感性を高めるしか無いと思っています。
ところで、大学では生物系の研究、それこそ、サイエンスをやっていたわけですが、実験なんて不確定要素が多く、プロトコル通り実施してもその時々の条件で結果が変わることもあり、再現性1が低く苦労しましたが、上手くいく時はなんとなくわかりました。上手く説明出来ませんが、感覚的に「今回はうまくいく」という時が少なからずありました。修士論文を仕上げるために、年末年始研究室に籠もりきりで実験をしていましたが、その時もその感覚がありました。誰もいなかったため、CDラジカセを持ち込んで、クラシック特にバロック音楽を大音量で聴きながら実験をしましたが、もしかしたらそのお陰で感性が磨かれ実験が上手くいったかも知れません。
その延長で今の会社に就職しましたが、その会社のスローガンが「創造で想像を超える」です。アンメットメディカルニーズを満たすべく、「世界の医療と人々の健康に貢献する」という企業理念を原動力に様々な取り組みをしています。バイオ医薬品にいち早く目をつけたり、海外企業と戦略的アライアンスを結び、ガン領域でトップ企業になったりと、良好な業績が続いています。論理的に考えたら普通は手を出さない時期にいち早くその方向に舵を切った経営者の経営センスが素晴らしかったと思います。
今年のノーベル医学・生理学賞を受賞した本庶佑先生で一躍有名になったPD-1ですが、現在それに対する関連薬剤の開発を製薬会社はこぞって競争しています。あの手この手で色々な疾患に対しての適応拡大に邁進中です。領域毎にキードクターは決まっているので、各社同じ病院、同じ先生に開発をお願いする事により、症例の獲得競争、まさにレッドオーシャンでパイを奪い合っている状態。時間との戦いです。いかに他社よりも先に新薬申請するか、社内ではあらゆる事を数値化して効率化を図っています。場合によってはコンサルタントを入れ、業務効率化を図りましたが、結果としては余計に仕事が増えただけでした。上辺だけを捉えたような成果物で全然美しくない代物。会社の先輩が出来の良くない成果物に対して「美しくない」という言葉を良く使っていましたが、当時は感覚的にはわかってもどう説明すればよいか分かりませんでした。しかし、この本を読んでコンサルのやり方及び成果物の出来に腑が落ちました。会議の度に非常にモヤモヤしていたのですが、今後は上手く対処出来そうです。
最後にこの前始まったドラマ、下町ロケットゴーストで、トランスミッションのデザイン設計の段階でチームリーダーが「設計が面白くない」と言って何度も却下しますが、あれも美意識でしょうね。結果、そのリーダーがOKを出した設計がコンペで勝ちますし。ドラマと言うのも差し置いて、作者なりのこだわりを感じました。面白くない設計でできた製品って長続きしないと思います。少なくとも私は買わないです。過去に間違って買ってしまったものはありますが、すぐに使わなくなりました。今後も自分なりの基準を高めるべく、本を何度も読み返して引き続き美意識を磨いて行きます。
ありがとうございました。

投稿者 croquis 日時 2018年10月28日


20歳・・・30歳・・・そして、今年40歳。 区切りの歳になぜだろうか、私は北海道を目指す。
友と。新婚旅行。そして一人旅。今回は価値観を変える旅。

10年後の50歳、私は何をしているのだろうか? 想像もつかないが一つだけ確かなこと。
きっとまた北海道にいることだろう。 息子と共にまだ見ぬ地を目指し旅をしていることだろう。

そのために今日も一歩。心を込めて智の道をゆく。まだ見ぬ智を目指し、私は旅を続けるのだ。


→【札幌セミナー基本編の思い出を詩に。美意識向上のワークに取り入れてみました】
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さて、『美意識を鍛える』の言葉に強く惹かれました。たちまちその内容に虜に
なり、読み返しさらに読み返し、意識して美術関連に触れる日々を過ごしています。

この1カ月の間に何をしたのか振り返りました。

・毎日1枚、絵を描く。
・図書館で画集、詩集を借り、スキマ時間に見る。
・散歩を心掛け、自然の風景を楽しむ。
・マツダで、車の説明を聞いた。
・美術館に足を運んだ。
・画廊を見学し、新しい画材を購入した。
・髪型を変えた。

本書に書かれていた『パターン認識を変化させる』ために、あれやこれやと手を出しました。
短い期間ではありますが、ここまで新しい行動を起こせたのが嬉しいです。そして、どこか
少しでも、以前と変化を感じる部分がないか?自問自答してみました。


①自分の絵に変化を感じる。

画集を参考にモナリザを描いてみたり、新しい画材を使ってみたりとあれこれ挑戦しています。
そして、なんといっても絵を描く時間をどうやって確保するか?
禁酒に5時起きとライフスタイルが変わり、最近は脳ミソがフル回転です。この意思決定や
時間の配分法が、仕事に役立つようになってくるかもしれないと感じます。
毎日続けることで、絵の進歩も見て取れます。どの部分に力を込めて描くの?何を省くの?
色は?余白はどうする?無意識における選択の連続。自分の感情を表してみる。
下手だからこそ、もっともっと上手くなりたい。そんな色々な気持ちを感じ取れています。


②散歩の仕方。

10月下旬ともなると以前は近づく冬を感じ、諦めのような寂しい気持ちが先立っていました。
私の住む秋田県の宿命、豪雪のイメージ。しかし、今は風景をあるがままに感じるようにして
います。本書に紹介されていた『花を黙ってみる』、やってみると難しいもので、つい、言葉が
頭の中に浮かんできます。
呼吸法の鍛錬を思い出し、あれこれ考えずただやる。これも同じことだと思って実践中です。
そんな中、少しずつ余裕が生まれてきました。「自然の変化こそ、美意識のカタマリ」
感じ、見て、触れることで、心地よい刺激が伝わってきています。


③子育てへの嬉しい影響

息子が私の絵描きのマネをするようになりました。隣でせっせと創作活動に励んでいます。
息子は知的障害があります。他人が見たら「なんじゃこの絵?」だと思います。しかし、
鉛筆の運び方にパターンが増えたり、色数が増えたりと、急激な変化が見て取れます。
最近、私がいろいろやっているのがプラスに働いているのかもしれない。ポジティブに解釈
しています。
「なんだ、美意識って子育てにも必要なんだなぁ」と。
もちろん、絵描きだけではなく、心の部分も育てていかねば。そのために、父親も常に
見られていることを意識していかねば。身の引き締まる思いです。


美術分野を学ぼうと、この1カ月あれこれ手を出した結果、かえってその奥深さに圧倒されて
います。本書にもあった『日本人が持っていた、研ぎ澄まされた美的感覚の領域』
日本の伝統工芸品、礼儀作法、それこそ箸の使い方等、あらゆる分野が含まれてくるでしょう。
おらが町、秋田県においても、今は手仕事を生業とする会社は減少し、町の建具屋さんも
見かけることが少なくなってきています。ちなみに私の両親は、自分達で家の襖の張り替えが
出来ます。しかし、私は出来ません。日本人が忘れている美意識、その原因に自分も含まれて
いるのではと思わざるを得ません。


最後に、私の妻にインタビューをしました。友人に美的センスがいいと称賛されています。
(美術大学を卒業し、その後、2年間工芸工房で彫金を修業しました)
「美意識を高めようと思って、作業をしたことなんてない。そんなことを考えようと思った
こともない。ただ、楽しいからやってきただけ。美術が仕事に役立つとは思うけど、考えすぎ
ても意味無いんじゃないかな?」

なるほど! 私も少し肩の力をぬいて絵描きを続けよう!


美意識高めて給料アップしたい!と、思って読み始めた本。それがもっと別のモノ、数字では
測れない、もっと神秘的なモノ、自分の人生、立ち振る舞いを美しくする。
こんな気持ちになれ、一歩踏み出すことが出来た素晴らしい本でした。
しょーおんさん、ご紹介いただきありがとうごいました。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2018年10月28日


(1)アインシュタインの「真の教育」

 本書を読み始めてから強烈に思い出したのは、10年以上前、高校の友人と大学教育の意義を議論した記憶だ。
 米文学を専攻した自分は、斜に構えた口調で、
「大学の授業は趣味の延長のような内容で、今の仕事に役立っていない。塾講師のバイトの方が、教壇で講義する経験が積めて、遥かに実践的だった。大学の文学部に存在意義はあるのか?」
と疑問を口にした。

 すると友人(有名大学の法学部を卒業)は私の呟きを一喝した。
「それは違う。大学は、仕事で役立つ知識や技術を学びに行く所じゃない。
 例えば失恋したり、家族を亡くしたり。どうしようもない人生の壁にぶつかった時、
私たちを助けてくれるのは、仕事の知識ではないでしょう。
 文学者や哲学者の言葉。または音楽や絵画など芸術作品こそが、魂を奮い立たせ、傷ついた心を再生させるのよ。一見役立たないけど、後でジワジワ効いてくる真の教養を学ぶ所。それが大学なのよ!!」

 大学で法律を学び、現在も有名企業の法務部でバリバリ働く彼女は、「大学では法律しか学ばなくて、文学と芸術に飢えていた」と、しみじみと語った。

 アインシュタインは「学校で学んだことを全て忘れた後に残っているものが教育である」と名言を残しているが、彼の言う「教育」は、友人の言う「真の教養」、課題図書の「美意識」とまさに同義である。
すぐに役に立つ知識や技能は、使わなくなれば記憶からあっけなく消えるが、文学や芸術で感動し心を揺さぶられる時、その体験は人の潜在意識に深く刻み込まれ、人生に影響を及ぼし、一生残る。
 自分は学校教育で学んだ知識を、ほぼ全て忘れているかもしれないが、たとえ抽象的で言語化できなくとも、潜在意識に刻み込まれた何かがあるのだろう。それが何か見極める目を持とうと思った。課題図書により、忘れかけていた友人の言葉が思い出され、胸に突き刺さった。

(2)なぜエリートこそ美意識を鍛えなければならないのか?
 本書のタイトルを少しアレンジして、この問いを立てた。その答えを、自分なりに2点考察した。
 第一に、エリートは失敗の経験が少なく、精神が弱い。そのため日頃から文学作品を読むなどして様々な人生を知り、自分以外の価値観を知って視野を広げることが必要不可欠である。また、芸術に対する感動の心は、人をプレッシャーや悲しみから救い、癒し、想像力やクリエイティビティをもたらしてくれる。

 第二に、勉強と試験ばかりの世界で生きてきたエリートは
●「努力すれば必ず上手くいく」
●「全ての問題には、正しい答えがある」
…という価値観を絶対的真実だと思っており、この考え方は非常に危険である。
実社会(特に学校卒業後の職業の世界、恋愛を含めた人間関係)では、努力した者が必ず成功するとは限らないし、人生はVUCAで、正しい解決法が全く見えない状況も多々ある。エリート思考で生きてきた者は、望ましい結果が出なかった時に犯罪に走って結果を隠蔽・誤魔化そうとすると、本書が体系的に説明している。

 先日あるブログで「飛行機の中で、赤ちゃんの泣き声に我慢できない人は、どうすれば良いか?」という記事を読んだ。なるほど、理不尽なことが許せないエリートは特に、
「うるさい!明日は仕事だから寝たいんだよ!」「躾がなっていない。母親の責任だろ!」
と怒り出すに違いない。
 この対策法として著者が提示するのがマインドフルネスだ。瞑想をし、他人や外の世界を変える(赤ん坊を黙らせる)のでなく、自分自身を変える(心を落ち着ける)のである。しょうおんセミナーで教えてもらう呼吸法もまた、実践的なマインドフルネスの一つである。
人は誰もが美意識を鍛えねばならないが、特にエリートこそ鍛えなければならないのは、この2点によると考える。

(3)美意識なき英語教育
 著者は本書で「日本の多くの会社にはビジョンが欠けている。日本をどんな国にし、世界に何を生み出したいか、そんな熱い理想を、社長も社員も持っていない」と指摘するが、同様のことが戦後日本の英語教育にも言えることに気付いた。
 「これからは国際化社会になるから、英語!英語!」と空騒ぎするわりに、教育にビジョンがない。
その最たる証拠が、TOEICがいまだにメジャーな英語試験として君臨していることだ。

 私が小学4年の頃(1980年代後半)、英語を使って海外勤務の経験もある父が、私に懇々と語った。
「TOEICにはね。 歴史や科学、哲学や文学など、教養の要素は皆無なのだよ。
ただビジネスレターを迅速に読む能力を測るテストに過ぎないのだ。
 この試験が、トップを走るビジネスマンの英語力を測っているなんて、日本は恥ずかしいよね。
このテストで900点を取って威張る奴はバカ。900点保持者の帰国子女を崇める奴もバカ。
 お父さんはね。娘のきみに、そんなバカに育ってほしくないのだ。
いいかい。今から10年後、きみが大学生になる頃には、この試験は滅びているだろう。その時までに、もっと豊かな教養を問う英語試験が日本に誕生していることを望むよ。」

 ところが、私が大学生になり社会人になり2018年現在も、TOEICは滅びるどころか、日本人はいまだにTOEIC高得点を目指して勉強しており、本気で危惧を感じる。
 英語の教師として100%の確信をもって断言するが、TOEIC満点を目指して勉強しても国際人にはなれない。その証拠に、自分の知り合いの外資系企業の社長(日本人)は、欧米のエリート社長達と飲み会で会話する時、話題は政治、時事問題、世界遺産、文学作品(特に男性社長の間ではドストエフスキーが人気)だと言っていた。これらの話題で面白いトークができないと「ダメな奴」と烙印を押されるそうである。

「英語の教師のくせに、TOEICを批判するなんて、気でも狂ったか!」と非難されるだろうが、私は本気で大問題だと思っている。
 本書が言う「アート・サイエンス・クラフト」の三要素のうち、語学はサイエンスに当たり、主部のアートではない。語学だけ磨いても意味がなく、「語学を使ってどんな人生を送り、何がしたいか?」のビジョンを、自分を含め一人一人が持つことが不可欠である。
 自分は英語教師として、生徒に「ビジョンを持ちなさい」と教えねばならない、と改めて感じた。

投稿者 Mukagogohan 日時 2018年10月28日


 恥ずかしい話ですが、私はこれまで美意識は個人が趣味的に「磨く」ものだと思っていました。子供の頃は親が美術館や音楽会などによく連れて行ってくれましたが、大人になってからも受け身の姿勢のままで、美意識を高めようと努力したことはありませんでした。
しかし本書をきっかけに、大人は自発的に美意識を「鍛える」必要があるのだと改めて考えなおしました。趣味的に「磨く」のではなく、自らの意思で人生を拓いていくために必要な力を「鍛える」のだという意識の転換にショックを受けました。
本書はタイトルに「エリート」と出てくるので、一見、エリートやエリート予備軍を対象にしているように見えますが、読み進めるにつれ、一般人も無関係でいられない話だと身につまされました。商品開発やマーケティングだけでなく、組織内部における個人の行為にまで、美意識、「真・善・美」の基準が関わってくる…特に、「真・善・美」の内部基準が低い人は組織や周囲に流され、少し考えれば分かりそうな善悪の判断さえもできず犯罪者になる可能性がある…誰にでも当てはまる話だと思います。

 ところで、西欧の貴族は高い美意識・教養に加え、自分たちが社会・一般人を引っ張っていく責任と自負を持っていると聞きますが、これは本書で説かれているエリートの美意識と根底は同じだと思います。日本は表向き「身分制」も「貴族」もなく、社会を引っ張る立場にいる「エリート」が美意識・責任を自覚しているかどうか不明です。さらに一般社会には「恥の文化」が根付いており絶対的な倫理観が薄いように感じます。
こういう社会では「エリート」頼みでは心細く、個々の一般人が少しでも高い「美意識」を持たなければ、価値観がしょっちゅう大きく変わる今の時代では(昨今のデータ改竄や不正などの問題も例として本書に出ていますが)ますます社会が崩れていくように感じます。

 また、西欧のエリート貴族は「目に見えるものしか分からない人間を馬鹿にする」という話を聞いたことがあります。「目に見えるものが分かるのは当たり前、それは庶民でもできる。目に見えないものを感じ取れるのはエリートだけであり、その力でもって社会を引っ張っていく使命がある」のだそうです。昔この話を聴いた時は、原始社会のシャーマンの話かと思ったのですが、本書を読み、美意識・直観は超論理を把握する力であり、目に見えるものでしか判断できないのでは不十分、目に見えないものを感じ取り、本質を見抜く力が鋭くなければ社会を引っ張っていけない、という事だと理解しました。美意識を鍛えて直観を鋭くしていくことは、個人にとっても主体的によりよい人生を送るのに絶対に必要な事だと確信しています。

 最後に、目に見えないもので思い出したことがあります。
学生時代、好きな画家であるジョルジオ・デ・キリコの展覧会に行って、期待以下でがっかりした思い出があります。画集で見た絵は迫力があったのに生で見た絵は今一つだったのです。後で知ったところによると展覧会は晩年の絵が中心で、晩年は若い頃よりも画力は上がっている一方、自分の絵の二番煎じばかりで形骸化しているとのこと。若い頃と晩年とで絵の構図や書かれている物はほぼ同じなのに、「何かが違う」という感覚があったのです。不思議なのですが、何が違うかと言われたら「魂がこもっているかどうか?」というような比喩でしか表せません。
本書では美意識を鍛えるために詩を読むことを薦めていますが、詩を読むことは著者の言うような、リーダーに必要なコミュニケーション力や人の心をつかむレトリックを学べるという実利的な効果だけを得るものではないように思います。レトリックやメタファーは、言葉では直接表現しがたいものを表現する手段の一つであって、言葉にできないものを言葉にするギリギリの線上にあるものではないかと思うのです。「言葉というのは、概念でありパターン」であり、パターン認識から自由になる必要があると本書にありますが、目に見えないパターン認識化できない世界を自己の内部で耕していくためにも、詩に代表されるようなメタファーやレトリックが有効なのではないかと想像しています。
また、「何か」を感じ取るのに障害となるものは、パターン認識だけではないと思います。一度名声や評価を得た者の作品は、その後の作品の良し悪しに関係なく高評価される傾向があると思いますが、世間の評価自体も鑑賞者にとって障害になることが多々あると思います(まさに他者基準でものを見ている状態)。
 今後は様々な芸術作品の鑑賞や読書の「量」をもっと増やし、パターン認識や社会の評価に左右されない自分の「直観」(美意識)を鍛えて「質」(物事の本質)を見抜けるように、そして養った直観力を社会生活の様々な状況判断にも生かしていけるようになりたいと思っています。

投稿者 mmnn 日時 2018年10月28日


著者の言う「美意識」は
内在的に「真・善・美」を判断するための感覚、基準
だと定義して、論が進められている。

著書の後半では、この美意識が欠如した例として、
ライブドアやDeNAなどの企業不祥事を具体例として挙げている。

著書を一読した最初の感想は、
「自分の中で直感的基準を持っている人間て格好いいなあ」
というものであった。

そこで、今回は直感的に感じたこの感想を深掘りしてみたいと思う。

著者の言う美意識の「美」とは何であろうか。

著者は、経営を引き合いに出して、
アートとサイエンスを比較しながら
両者の違いを説明している。

サイエンスは、言葉で論理的に説明できるもの。

アートは、言葉で説明するのは難しく、論理的でなく
抽象的、直感的なもの。

著者のいう「美」は言葉で説明し難い感覚的なもの
ではなかろうか。

マッキンゼーなどのコンサルティングでも
一昔前は、サイエンスをきっちりとやっていれば
どんどん成果を出せていたが、現在は違う。

経済市場の複雑化、システム変化が早すぎること、
などが要因だと述べている。

このような現在においては、
サイエンスだけでは問題解決できず、
アートが重要になってくる。

市場を分析して、論理的に仮説を立てて、検証を繰り返す。
サイエンス的なアプローチは確かに必要あり、有効である。

しかし、肥大した自己実現要求市場では、
サイエンス的なアプローチだけでは限界があるので、
現在においてはアートも重要になってきている、という訳だ。

言葉で説明できるサイエンスは
他の誰でもコピーにより同じ結果を出せるので
誰もが似たり寄ったりの結果を出し続けると
コモディティー化が進む。

どの会社も似たり寄ったりになってしまった商品を
消費者が選ぶ基準は、最終的にはアートにならざるを得ない。

どうしてその製品を選ぶのですか、という問いには
なんとなく良さそうだと思ったから、
自分はこの〇〇社の製品が気に入っているから、
商品が選ばれる理由にアートが入り込んでくるのだ。

パッと見だけでも選んでもらえる商品を
産み出せる能力をアートは持っているようで、
この点でも私は自分もこのようなアート感覚を
身に付けたいと思う次第だ。

さらにアートは犯罪抑制の機能もあるようである。

アートを上手く扱えない企業がサイエンスを重視しすぎるあまりに
陥いった例として、粉飾決済などが述べられていた。

私が冒頭で述べた、
「自分の中で直感的基準を持っている人間て格好いいなあ」
で述べる「基準」とは、他者からの規制でなく、自らが自己を
抑制する規範である。

筆者は、自然法と実定法を引き合いに出して、
グレーゾーンでの振る舞いで、ブラックにならないためにも
アートが有効であると述べている。

自分が犯罪者にならないためにも、
他人がどうであろうと、他社がするからといっても
自分はやらない、自社はやらない、こう毅然とした態度をとれる
スタイルが、私には格好良く思えた。

「自分の中で直感的基準を持っている人間て格好いいなあ」

自らを自らの基準で律することができるためには
意志の強さが必要であろう。

自分は継続に関して絶対の自信があるが、
今後は意志の強さにも絶対の自信を持てるように
自分を磨いていこうと思う。

そして、日々感じる「直感」もまた、改めて
大事にしなければならないと思う。

セミナーやメルマガで体感覚の重要性に気付かされているが、
本書でも改めて気付かされたからである。

昔の自分は、セミナーで教わったことを
とにかく頭で(自分勝手に解釈し変えて)何が何でも
セミナーの話の内容を全部理解しようとしていた。

当たり前だが、こうしようと思って
曲解していたわけではない。

自分では、これが「正しい」と思っていたのである。

しかし、いつの頃からか、自然に力が抜けるようになり
ふとした瞬間に、今まで理解できなかった内容が腑に落ちる
体験をしてから、何かが変わった。

これって、著者が言う「アート」なのではないか。

具体例を一つだけ述べると、塾生FBに
「人生において何が何でも「困って」はいけない」について
コメントした内容がそうであった。

言葉で説明するのは難しいし、恐らく全てを即座に理解はできない。

理解するには、肌感覚、体感覚が必要なのではないか
つまり「直感」が大事なのだ。

ダラダラと言葉で説明しなくても、
直感的に全てを理解できる感覚というのは
自分にとっては超能力のようなものであり、
素晴らしい能力だと私は思う。

というわけで、今回は今後も大事にしたい「直感」を
テーマに筆を進めてみたが、言葉にすることの
難しさを改めて感じた次第である。

やはり、アートとは非言語なものである・・・。

投稿者 charonao 日時 2018年10月28日


この本を読み終えて、エリートではない自分も「美意識」を身につけなければならないと感じた。
その理由として、自分が不幸にならない為には、世の中の様々な出来事に対し正しく対処していかなければならず、自分の中での正しい判断基準を身につける事が必要である。そしてそれを身につけることは自分だけではなく、自分に関わる他の人をも不幸から遠ざける事ができるのではないかと気付かされた。

そしてこの本は美意識を鍛える為の様々な方法も記載している。
一番印象に残っている方法としては、マインドフルネスの記載だ。自分も含め、人はその時、その瞬間の感情や、自分が本当はどうしたいのかがわかっていない人が多いように感じる。
本書の『ビジョンと美意識』の項で、現在の日本企業の苦境の原因を『ビジョンが足りない』との記載をしていたが、それは個人にも言える事ではないかと考える。自分をどのように変えたいのか、自分をどのようにしたいのか、自分の回りのどんな問題を解決したいのか。自分はこれらの質問にすべてにはうまく回答できない。特に自分をどのようにしたいのか、という問に対しては常日頃からいつも考えているが、未だにどうしたいのかがわからない。それを自分の内側から気づく為にマインドフルネスが自分にとって今一番必要だと感じた。

また会社で働く上で、最近部下を抱えることになった自分にとって、多くの人に影響を与えることもあり、美意識は必要不可欠であると考えている。
本書でアイヒマンの記載があるが、ただ、真面目に働いているだけなのに、上司から言われた事をこなしていただけなのに、「悪」を犯してしまう危険性は自分自身にもあると思っている。「悪」を犯すまでは行かずとも、上司から指示されたことを、何の疑問もなくこなしている事が多々ある。もしかしたら、自分の職場とは全く関係のない人がその行為を聞くと、もしかしたらそれが「悪」に近い行為で、何でそのようなことをしているのかが、理解できない事もあるのかもしれない。けれども、今まで当たり前にやって来たことだから、それをやらないと評価されないから、ただの作業としてこなしているのだ。でもたまたま現在「悪」を犯しているわけではないが(と自分では思っているが)、このままこの流れで「悪」を犯してしまう可能性がないとは言えない。
「悪」から遠ざかるというと大げさかもしれないが、この本に記載されているように「システムを相対化」する為に、美意識を保つ必要があるのだろう。

仕事つながりで言うと、昇進や評価のシステムについての記述も印象的であった。現在自分が勤めている会社は、極端な階層制ではないが、昇給や評価のシステムについて社内規定として明文化されている。ただ、その基準だけではなく、明文化されていない人格の成熟という要素も必要だと思うので、この判断は上司の美意識に委ねられているのではないかと考える。上司は美意識を身に着けている人であれば、自ずと人格的にも問題ない人が昇格しているように感じる。美意識を身に着けていない上司は、なんでこんな人を昇格させたんだろうという人を、「〇〇ができるから。」(〇〇は社内規定に記載されている昇格基準の内容)といった理由で昇格させている。そして、そういう人が昇格させた人も同じよう美意識がない人が多いように思える。そしてそれは本当に残念なことである。

そして本書で印象に残っている項として『「会社を「作品」と考えてみる」』
現在自分は営業系のコールセンターの部署に配属されているが、ある人はお客様よりより多くの情報を引き出す事ができ、獲得に至っているのに対し、ある人は一つ質問しただけで結構ですとお断りをされる。同じスクリプトで同じ教え方をしているのに不思議だと感じていた。その理由について理屈でも説明できる点はあるが、ただそれだけではなく、成績上位者はトークに美しさがある。お客様とお話している一連の流れ、自己紹介から、お礼を伝え電話を切るまで、芸術的なトークをする。当該のオペレータは羽生氏のように『美しい手を指す、美しさを目指す』事を、意識的に行っているわけではないと思うが、結果そのようになっている。そしてそれが成績上位者に見られる事は、もはや偶然ではないだろう。
自分の働く業界は、すでに飽和状態になっている。それ故、クライアントから他社と比較されることを免れることはできない。では、他社と差別化する為に自分は何ができるか。それは仕事に美しさを目指す事が一つなのだと思う。

最後に自分が、確かにそのとおりだと感じたのと、戒めとして印象に残っている言葉。
『ただ単に感情に任せてしまうと、バカ。そこには理論も必要』
その場の感情のみで物事を決めずに、まずはきちんと理論立てる事ができる様、知識の習得は継続する。

最後まで読んで頂き、ありがとうございました。

投稿者 takahashi.takeshi 日時 2018年10月29日


まず、筆者の根本の主張には全面的に賛成です。「サイエンスだけを根拠にビジネスの判断を行うのではなく、アートも用いるべきである。」というのは全くその通りだと思います。そこに疑問の余地はありません。

ではこの本を読んで、疑問に思った点を挙げます。
それは、「ある人間が他者を『倫理的では無い』と批判することは不可能ではないのか?」ということです。

本書では、「何が倫理的なのかは外部に依存せず、自分の中に規範を持つべきであり、そのために哲学を学ぶべきである」と述べられています。

そうなった場合に、Aさんが「自分は倫理に従って判断した」と心の底から思っている事象について、Bさんが「それは倫理的ではない」と批判することは不可能なのではないかと思うのです。自分の中の規範に従い、さらにそれが法律に触れていない場合、他人から批判される筋合いは無いと思うのです。

現行の法律に触れているか否かのみで判断することの弊害として、後付けで法律が整備されて違法となる可能性があるから、という理由を挙げていますが、では後付けでも違法となっていない場合はどうなのか?という疑問が残ります。本書で「倫理的でない例」として挙げられているホリエモンの日本放送株のグレーな方法での取得は、その後も違法であるとは判断されていません。ホリエモンが実刑判決を受けたのは、別の粉飾決算によるものです。
とすると、筆者は一体ホリエモンの行為を、どういう理由で「倫理的では無い」と言うことが可能なのでしょうか?

ここで一旦、倫理的であるとはどういうことか、調べてみることにしました。

Wikipediaで『倫理学』の項目を読んだところ、いくつかのことがわかりました。

・道徳とは理性によりもたらされるものであるのか、感情によってもたらされるものであるかについては議論が分かれている

・どのような道徳や判断が善いのか(あるいは正しいのか)を探求する「規範倫理学」という学問があり、その中にもいくつかの考え方がある。それぞれの立場によって、主張は異なる(快楽主義、幸福主義、非快楽主義、利己主義、利他主義、功利主義など)

ここまでを知り思ったことは、「やはり結局のところ何が倫理的かどうかは相対主義にならざるを得ないのだな」ということです。
これは、倫理的に正しいかどうか、という判断は、どのような立場、主義、考え方をするかによって個々人それぞれ異なるので、唯一の解は存在しない、ということです。

思えば先月の課題図書を読み、「モノを貰ったらありがとうとお礼を言うこと」が倫理的に正しいかどうかは、文化によって異なる、ということを学んだばかりです。

この辺りから、徐々に「相対主義」とは何か?「絶対主義」との対立がどのように展開されてきたか?「文化的相対主義」とは?・・・といった問題にはまっていってしまい、考えをまとめることができず、どうしたものかなと思っていました。

考えがまとまらないままダラダラとネット閲覧を続けたところ、絶対ではないが、多くの人がそうであると認識する倫理的な規範は存在するという意見がありました。
それは例えば、
・実の親子で性交してはいけない
・他人を殺してはいけない
などです。

これらをなぜ多くの人が「それはいけないことだ」と認識するのかについても議論が分かれるそうですが、一つの考え方として、「環境への適応における進化としてそのようにDNAに刻まれている」という論があるそうです。

これは一つ、面白い観点だと思いました。

「倫理的にどちらが正しいか?」という問いは、究極的には相対主義に陥ってしまうため唯一の答えは無いですが、「人類が繁栄するうえではどちらが合理的か」という問いであれば、多数が納得する解を持つことが可能になります。
つまり、「なぜ他人を殺してはいけないのか?」という問いには、「人類が繁栄するうえではそれを禁止した方が合理的だから」という解が得られ、そのような行為全般を「倫理的な行為」と呼んでいるということです。

本書においては、「企業が成長(ないし存続)するうえで、何が倫理的な判断か」という範囲に限定する形で、その解が得られるという立て付けです。これならば議論が可能です。「Googleは倫理的な企業である」という時、それは「Googleは成長するための合理的な判断をしている」ということになります。

つまり、冒頭の疑問への回答として、「何が倫理的かは前提による」ということであり、「ある他人の行為を『倫理的では無い』と批判することは前提を明確にすれば可能である」という結論に至りました。

・・・どうにもしっくりこないですね。この結論はまさにサイエンス的であり、本書の主張と相容れないように思います。

ここで本書を再読し、「論理だけで結論を出そうとせず、『この判断は人として正しいのか?』を心も使って問い続けられる人間でいることが重要である」という理解を得ました。
ホリエモンの行為が倫理的かどうかは、ある人のある時点の判断ではNGであったとしても、それが変わることもあるし、人によっても異なります。
要は「客観的な答え」に縛られず、「自分がどう思うのかを問い続けること」にこそ価値があり、重要である。ということなのですね。
そうするとつまり、「ある人間が他者を『倫理的では無い』と批判することは不可能ではないのか?」という問いは、そもそも筆者の主張を理解していればナンセンスである、という結論でしょうか。うーん、まだモヤモヤしますね。。

今月はここまで書いて、「自分の思考パターンはまだサイエンス的なのだな」と気づいたことが一番の収穫です。また、「倫理的であるとはどういうことか」を考えたことそれ自体に価値があると思うので、これからも探求し続けていきたいと思います。結論はありませんが、以上です。

投稿者 audreym0304 日時 2018年10月30日


感想―世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?
経営におけるアートとサイエンス

 もしかしたら、美意識のかけらすらない行為かもしれないけど、普段本を読むときは、気になる言葉があるページの上の部分を折るようにしている。
あとで読み返した時に初めに読んだときに自分がなにを気にしたのか、ぐっと胸にきたのかがよくわかるからだ。本書を読みおわってみると、3分の1に近いページが折られていた。
これが意味することは、今まで自分が社会や会社の一部であっても、その役割を担うにあたり「美意識」を気にしていなかったということだと思う。

 本書を読んでいる期間、Twitterでフォローしている欧州在住出羽守の応酬がちょうど本書のテーマに合うものだった。

・欧州ではクラシック、絵画、バレエなど芸術を誰でも気軽に楽しめると主張する出羽守。

・クラシックや絵画という芸術はそもそも上流階級のもの。欧州でも庶民であるいわゆる中流~労働者階級はその人生で触れる機会はないと主張する出羽守。

この2つの立場が激論を交わしていた。
欧州といえども広いので、一概にどちらが正しいとは言えないとは思うが、世界のエリートと言う人たちの多くはそもそもその国の上流階級出身者が多いんじゃないか、本書と照らし合わせてと思った。
 上流階級ほど子どものころから芸術を古典から現代まで日常的に触れる機会があるだろうし、機会が増えるほど美意識は高まるし、庶民が一朝一夕の付け焼刃では太刀打ちのできないほどの感覚を常日頃意識することなく養っているんじゃないだろうか。

 この欧州出羽守が面白いのは、日本の特異な点を指摘したことだった。
欧州と比べて日本では公立の小学校から音楽や美術の時間に様々な芸術に触れることができると言っていた。そして、ヤマハ音楽教室をはじめとした芸術を学ぶ機会が日本では広く中流層や庶民に浸透しているということだった。
欧州出羽守の発言を考えると、日本の中流や庶民に根付いたヤマハや公立の学校で授業の一環として触れる音楽や美術は日本人の美意識を自然に形成する役割を持っているんじゃないだろうか。
土台を形成した後どう美意識を高めるかっていう点はたぶん個人の人生の選択や裁量に任されているのだろうが。

 個人的にこの美意識を形成する場所は家庭でもあるんじゃないかと本書と出羽守の発言を聞いて思った。
それは日本の料理やお弁当に対する意識だ。
出汁は素材からとる、出来合いではなく素材を買う、栄養バランスを考えて色とりどりにきれいに盛り付けて、しかも手作りで、キャラ弁がはやったこともあったし、日本人の独特の美意識がいかんなく発揮されているように思えてならない。
フルタイムで働く女性が増えたことで過重労働となってしまって社会問題化している側面もあるけれど、家庭でも美意識を形成する土台になっているのではないだろうか?
 
 本書でも別視点からだが日本の特異な点を指摘していて、それは世界最高水準の競争力を持っていること、日本人にとって大きな機会になり、世界が巨大な「自己実現欲求の市場になるときに大きな武器になるとも明言している。

 しかし、この美意識に対して日本人がアドバンテージを持っていることに気づいていない日本人が多くいるということは、日本文化の罪と恥がかかわっているのではないか。
例として日本の会社の常識が世間の常識とは異なるということに気づかないとしている。これは会社を日本、世間を世界としてしまえばそのまま成り立ってしまうからだ。
  日本人は周りに「恥」と思われないために日本のルールに盲目的に従っているため、世界に対して恐縮して客観的に自分の環境や美意識を見られなくなっているんじゃないだろうか。
 視野を広げるために外の世界を見たほうがいいとは思うが、見境なく、世界のものだけに触れてしまって、日本人の性質で盲目的に従ってしまうと、自分たちが持つことのできる独特な美意識すら失いかねない。
 幸い、日本は芸術の面で見れば古くから特異な状況があるようだし、今はバランスよく日本のものも外国のものも触れていく機会もあるから大きな武器となる美意識を形成し、育てていくことができるんじゃないだろうか。この美意識を育てるというのはできるだけ早いうちから意識的に芸術に触れることが重要だと思う。
 しっかりした美意識が確立することができるとしたら、世界に数多ある未知な芸術や前衛的で革新的な芸術に出会ってもその価値を理解でき、同時に偽物や贋作やなんとなくヤバい雰囲気を見破る力になるのだとおもう。

 美意識を高めるのは芸術以外にも文学作品との出会いも大きいと思う。日本国内で生まれた文学作品だけでなく、世界の名作は古典から現代作家に至るまで、庶民が簡単に手に取って母国語で読めることは非常にありがたいことだが、これまた世界でも結構珍しいことらしい。
当たり前すぎてこの特異な環境がどれだけ恵まれているのかということを改めて認識する必要があるし、世界でも特異な環境が与えられたということに感謝したい。
今からでも美意識に基づいた行動を心がけるとともに、その美意識はまだまだフワッとしていて伝わらないだろうから、できるだけ論理的に周囲に伝える努力をしたいと思う。

投稿者 motsu44 日時 2018年10月30日


本書の中にある「真・善・美」は、カント哲学派のヴィンデルバルトが提唱している言葉であるが、哲学を学んだ作者らしい引用であると思う。そしてビジネスにおいて不可欠な行動規範と言われている。しかし私は、新渡戸稲造氏とも親交のあった牧口常三郎氏が出版された創価教育学体系の中で述べられている「美・利・善」の方が優れた判断基準であると思う。また「人生の目的は価値創造にある」という理念、またここで言う価値とは、「真理は認識の対象であり価値の当体ではない。主体と客体の関係の中にこそ価値は存在する」のことである。これは牧口氏が第二巻「価値論」の中からの引用であるが、どちらに優劣であるかを論じる場ではないのだが、「美」を判断基準の一番最初にもってきていることからも、読後の感想で一番最初にきたことは、牧口氏の慧眼に感銘をうけたことだった。
さて本書の中で筆者は、エリートがなぜ「美意識」を鍛える必要があるかの問いをアートとサイエンスについて述べながら論を展開されている。また経営とは前述の2つに加えてクラフト、両者をつなぐ役割の必要性を述べている。またサイエンスは、論理と言い換えることできるだろう。確かにこれで堅実な経営はできると思われる。しかし、競争に打ち勝っていくために必要なイノベーションをおこすことは絶対にできないし、最後は淘汰されていってしまうだろう。クリステンセン教授のイノベーションのジレンマや野中郁次郎氏の失敗の本質等の良書リストにのっている本を読めばこれは納得できることである。もちろんアートだけでは、芸術の域をでることはないため経営はできない。しかし、アートなしでは、特にこのモノあまりの時代における販売戦略は成り立たない。アート=美意識の構図もできあがり、経営において不可欠な要素であることが、ここで証明されている。そして、2つをつなぐ役割のクラフトの役割、この潤滑油的な役割が経営に必要なことも再認識させられた。起業したてのアップルがうまくやっていけてたのは、この三位一体がうまくいっていたからであるとの説明には、本当に納得できる。
次に納得させられた部分では、「イノベーションにはストーリーが必要」との部分である。これはマーケティングの最前線でよく言われていることであるが、その最前線の理論であるサービス・ドミンナント・ロジックの中でもValue in contextとの理論として紹介されている。どんな文脈、つまりどのようなストーリーの中にあれば価値がでてくるかということである。そのストーリーをつくりだすことが大切なことである。すぐれた戦略には人々を納得させる文脈があり、その中に自社や自身のスキルやナレッジを他のアクターと交換していく仕組みをつくりだすことが独自の価値をうみだすことになるからだ。
 そして「受験エリートと美意識」の章で一番感じた部分は、「悪とはシステムを無批判に受け入れること」である。システムに潜む悪はなかなか自分では見つけることは、確かに難しい。常識を疑う勇気との本などで述べられていることであるが、一度決められたルールは、無意識に受け入れてしまう。これを見抜く武器は美意識であり、哲学であることは疑いないことである。またこれは西欧貴族の行動指針としているRule of Lawの精神とも共通する部分でもあり、やはり個人の宗教感、信条によってしか打開できないことであろう。そのため、美意識とは宗教感や哲学と言い換えることができることになる。
もともと美意識について、その行動が美しいかと考えてはいたが、本書はすべてに納得ができる内容となっている。直感を研ぎ澄ますためにもまたビジネスに成功するためにも芸術を趣味する必要があることなど今後の課題として取り組んでいきたい。

投稿者 tsan01 日時 2018年10月30日


現代社会において、サイエンスとクラフトによる論理的な解釈や思考が行きついており、コモディティ化が起きている。美意識と呼ばれる言葉では中々再現出来ない要素を持った力はいつの時代にも人の心を掴んで離さなかった様に思える。美術品、骨董品など以前の私の考えでは何故この様な「物」に興味をそそられるのか?また起業家や社長の自宅には決まって絵画や芸術品が置いてあるのか疑問に思っていた。しかし、科学では証明できないアートから得られる感性が自らを最適な場所へ誘導する1つのテクニックだと解釈した。筆者は美意識から見える「真・善・美」をどのように解釈し、身につけ、実践していくか?を伝えたいのだと思う。人は目に見えるサイエンスやクラフトにどうしてもいきついてしまうので差別化を図り難い。そうすると皆が2つの要素の最終形態に行き着くので素晴らしい技術を持っていても追いつかれ、結果的に美的センスのあるブランドに消費者は判断基準を取り入れる。

私の会社でも売り上げや新規利用など数値的な観点を追い求め過ぎている傾向にあり、ミーティングを実施しても数値や理論では何故か解決しない問題が出ていた。それこそがサイエンスやクラフトでは見えてこないアート(美意識)において結論や舵を委ねてみても良いのではないか?とヒントを得る事が出来た。もちろん会社を維持していくには数値的な目標や考察は必要である。物事には理由やパターンが存在しているから。しかし著者も言っている通り、過去のパターンである固定概念的要素だけに振り回されていては解決しないものも出てくる為、直感や感性に頼って経営目標やこれからのコンセプトに取り入れてみようと思う。

まさに美意識における「真・善・美」は現代のビジネスにおいて重要な要素だと気付いた訳だが、私はこの要素を多く持ち合わせているのは女性だと思う。何故ならば、男性の企業のトップやエリートは理論的な思考を持ち合わせて物事を判断しがちである。政治家なんてまさにそうで、昨今の日本でなかなか支持されない理由も頷ける。しかし、女性は可愛い・綺麗などといった感情や感覚で企画や物を作り出し、アイデアを思いつくように思える。女性社長やフリーランス、大衆に支持される方が多く輩出されているのは女性特有の美意識や感性を若い内からファッション、美容、女性同士の会話など日常生活の中で気付かぬ内にそれも楽しみながら身につけているからでは?と思う。高度経済成長期での男性社会から女性社会へシフトしている要因の1つとして、多くの女性が持ち合わせている美意識や感性が今の時代に沿っているからだと私は判断した。

私は子供の頃から親に美術館、映画、アート作品、木造建築、自然といった「美」に関する要素に触れさせられていた。自分自身でもそれを楽しんでいた。その為なのか日頃から感覚的に物事を考える性格で直感を大事にしている。いざ説明する際に言葉で言い表す事が出来ないので再現性が低く、周囲に中々理解してもらえない事例が多かったが、利用者からのリピートや信頼は周囲よりも多くて強い。周りと比較してしまいがちで自分でも感覚に頼っているのでは?と腑に落ちない事があったが仕事においてリピートや信頼といった大きな結果が次々と発生してからは自然と自分が行なっている事や大事にしている感覚が理解出来るようになってきた。何となくこう感じたから相手に提供し、提案をする。理論ではなかなか説明出来ないが確かに結果として返ってきている。これが筆者が重要視するアートなのではないかと自分に直接実感している出来事を本書を読んで実感した。

今までぼんやりと感じ、言葉でも説明出来ない出来事であった美意識に関してようやくはっきりと気づき、理解し、それを鍛える重要性と鍛え方を知る事が出来た。メルマガでも瞑想の事について何度か書かれている事もあり、自己を理解してその瞬間を最適な判断基準で物事を進めていく為にも瞑想を実践していく。美意識や瞑想は感覚的な要素である為、繰り返し身体全体で感じ取りパターン認識に囚われすぎないように生きていきたい。そして美意識を鍛える事がいかに大切な事なのか?を自分の経験を持って相手に伝えて少しでも相手のマインドを刺激するキッカケを作れると尚良いと考える。

投稿者 iwantail28 日時 2018年10月30日


私が本書を読んで心に刺さったのは以下の3点です。

1.私たち全員が「社会彫刻」に携わるアーティストであるということ
2.優れた意思決定の本質は「思い切って捨てること」
3.サイエンスとアートとクラフトのバランスを図ること

1.
 本書を最初に読んだ時、世の中の動き、世界のトップの人の動向を知ることが具体的に私の人生にどんな影響を与えるのかがわからず、どこか他人事のように感じられました。このことがすでにヤバいなぁと思ったので、理解を深めるために「イノベーション・オブ・ライフ」を読んで正遠さんの読書会の音声も聞きました。そうすると、自身の世界を狭く捉えていること、人生におけるビジョンが描けていないことが今の成長課題なのだということに気付きました。そしてこの現状を打開するのに「美意識を鍛えること」が生かせるのだなということがわかりました。また本書にも「全ての人がアーティストである」というフレーズがあり、自身の世界を半径5mに限定せず、「このような世界にしたい」と思うことで美意識や哲学を伝えたり、身につけようという自分ごとに置き換える意識が芽生えるのだなということを本書を通して知ることができました。

 ではどのように人生に生かすかを考えるにあたって、著者の意図をもう少し知りたかったので著者のインタビュー記事を調べるとエリートに教養が必要な理由に、「エリートの仕事はアジェンダの設定であり、そのアジェンダを設定するためにはあるべき姿というものを規定しないといけなくて、あるべき姿というものを規定する力が教養であるから、というロジックが成り立つかと思う」と答えておられました。エリートの仕事を人生の取り組みとあてはめても同じロジックが考えられるなと思ったので、自分自身のあるべき姿、自分の周囲、地域、日本、世界のあるべき姿を描き、アジェンダを設定できるようになろうと思いました。

2.
 読了後、美意識を養うために日常でできることを考え実践しました。本書で書かれていたことに加え、身体感覚を磨くことが良いと考えたので、以下各五感覚に照らし合わせて記載します。

【嗅覚】・お香を立てる、入浴剤を入れてリラックスする
    ・体臭、衣類のフレグランスの見直しをする

【視覚】・整理整頓をして部屋に雑然としたスペースを作らない
    ・美術館に行ってアートを見る
    ・自然の多い場所に行って木々、草花、光、空を見る
    ・バラエティ番組を見ない

【聴覚】・クラシックを聴く
    ・自然の音を聴く
    ・バラエティを見ない(音がうるさい)
    ・ノイズキャンセライヤフォンを購入する

【触覚】・ファブリックはできるだけ上質なもの、もしくは新品を使う
    ・埃や水垢で手触りを損なわせない

【味覚】・食べたことのないメニューにもチャレンジする
    ・好きな味に偏らせない
    ・とびきりおいしいものを時々食べる

【身体】・ストレッチ、ヨガ、筋トレを行う
    ・睡眠の質を上げる
    (耳栓をする、部屋をできるだけ暗くする、寝室の掃除をこまめにする、寝具にこだわる、     洗濯をこまめに行う) 

 上記項目に注力した結果、単純に運気が上がりました。そのこと以上に注目すべき点は、ささいなことでも行動に注意を払うようになりました。「これってかっこいいかな?」と自分自身に問いかけることでちょっとしたズルや甘える心が消え、それによって自分で納得しながら行動が取れるようになりました。
 
3.
 本書にはアートで培った美意識をサイエンスとクラフトが支える形が良いとあったので、良いひらめきがあっても論理がなければ実現できないのではと思うと危機感を覚えました。
 今まで数字への苦手意識が強かったので思考停止状態で過ごしてきましたが、本書を機にできることから「具体的に考えを詰める」ように数字を含めて考えるようにしました。その際、自分自身では論理的なアイデアは浮かばなかったので正遠さんのメルマガで書かれていることを参考にして業務のスケールダウンや、担当件数、作業時間などをプライベートの時間も含めて把握するようにしました。
 具体的に物事を考える癖は仕事においても役立ちましたが、自分にとっての大きな変化としては良書リスト内のサイエンス系の本への耐性(?)ができたことです。「もしも月がなかったら」など以前は内容が理解できず読み進めるのに1週間以上かかってやっと読み終えていたのですが、今ではサイエンスの本でも3日ほどで読めるようになりました。理系の方の習熟度には程遠いですが、私にとっては抵抗感が軽減されたことは非常に喜ばしいことでした。
 
 最後に、正遠さんのメルマガでは初期の頃から同じアイデアを繰り返し伝えて下さっていることに気付きました。サイエンス、アート、クラフトのバランスの大切さをビジネスにもプライベートにも絡めてアドバイス下さっているので本書はその内容の復習だったので、やはり日々のメルマガはありがたいなと思いました。

投稿者 sikakaka2005 日時 2018年10月31日


「ありのまま描くことが芸術なんだ」

これは速読編のワークの最中に感じたことだ。
テキストの写真を逆さまにして、写真と同じ大きさの枠線をノートに描き、写真に基準点を打って基準点と被写体の差をノートに点として打ってくれと言われたのでその通りにやってみた。

「よーく写真を見るように!」と繰り返しアドバイスをもらい1時間ほど無心で無数の点をノートに書き、線でつなげた。

そうして反転してできた線は、自分が書いたとは思えないほど美しい絵になっていたのだ。
絵を書くことにコンプレックスのあった私がこんなにも上手に書けるのか?とビックリした。
そのとき自分の可能性とこの手法にワクワクした。

「ありのままを描いた絵は美しい」

絵が下手クソだったのは思い込みで書いていたのだと痛感したことを覚えている。

この本でも著者は終始、思い込みではなく、事象をありのまま見る重要性を説いている。
思い込みとは目に見えること(アカウンタビリティー)のみで意志を決める考え方のだ。

ありのままとは、目に見えること(アカウンタビリティー)だけでなく、目に見えないこと(感情、感覚)も含めたことである。
目に見えることばりを重んじたせいで不幸が起こった事例はどれもうなづけた。

では思い込みを排してありのまま見ることは、なぜ難しいのか?

「P227 高度なパターン認識能力が本当の意味で「見る」という能力をものすごくスポイルしている」

まさにその通りだと思う。
私に絵心がなかったのは、自分が当てはめたパターン認識を描いただけなんだと納得した。

ありのままを見ているつもりになっていただけあり、やはり思い込みで書いていたのだ。

パターン認識と聞いて痛烈に思い出す話しがある。きっと基本編での話しだっと思う。

「分かったと言うな!」

突然なんの話しかと思っていると、「これがりんごである。で、何が分かったの?何も分かってないじゃん」という。
先の話を待っていると、りんごの産地も品種も糖度も分からないのに分かったといって思考停止してはいけないという話しだった。
つまり、分かったと言っているのは、単に自分が知っていることを合致しただけ。
もっとその先を見るべきだと言っているのだ。

(この感想がパターン認識のみに終始しないように気をつけねば!)

ではなぜ思考停止するのか?
パターン認識の枠から逃れることはなぜ難しいのか?

「P228 エネルギーを省力化して効率的に過ごすには大きな武器でも、変化を捉える、起こすには大きな足かせになる」

なるほどと思った。

人は本能的にエネルギーを残そうとすることで自らの首をしてめているのだ。
これには胸がざわついた。

意識しなくてはパターン認識の枠から逃れられない。
思い込みから外れるには、意識して未知の知識や感覚に触れなければならない。

基本編のコンセプトそのものである。

だからこそ本に紹介されているレーニングを意識してやろうと強く思った。


少し別の観点から。
この本を読んで悲しくなった。

今職場でやっている品質管理や進捗管理は、過去と同じ定量情報を取得し結果を見て良い悪いを判断している。
私を含めて誰もがこの方法を疑っていない。それに違和感を感じてきたのだ。

数値をどんなに見ても予期せぬことは起きる。
過去に事故は起きている。
なのに誰も変えようとしない。

このままでいいのか?もどかしさを感じてきた。

さらに本書では世界のトップレベルのビジネスでは感覚を重んじるべき、とある。
つまり、感覚を重んじずともなんとかなるビジネスは問題解決のレベルが低いと言えるのではないか。
今の職場のビジネスを考えると・・・だんだんと背中がムズムズしてきた。
このままではちょっとヤバそう。。

読後には、プライベートでのスキルアップにはやる気がみなぎっているのに、
自分のビジネスでは適用先が思い浮かばないことに悲しくなる。
上司へ提案したところで却下されるし、そもそも問題解決のレベルとして相応しくないと思っていることも。
イケてないことを痛感してしまった。ふー。学ぼう!

基本編の復習には最適であり、美しさとは何か?を言語化できたが、ビジネスマンとしては凹まされる一冊となった。

今月も学びの多い本を紹介していただき、ありがとうございました。

投稿者 kawa5emon 日時 2018年10月31日


書評 世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか? 山口 周 著

 何と完成度の高い本だ。これが最初の素直な読後感で、何度も読み返す。
なるほど、そういうフレームで成功している会社は動いていたのね。
 更には心(本書では美意識)の磨き方まで書いていて、千円以下は安すぎ。
思わず内容にウンチクしたくなるも、グッと押さえて内省へ。


 数度反芻しながら、本書解説のビジネスフレーム理解がより深化されると共に、
自身のビジネス仮説を確信レベルまで引き上げることが出来た。
 前者を別の言葉で言うと、アート、サイエンス、クラフトの三角関係とバランス理解。
また昨今の成功ビジネスモデルを、言語化できる領域に整理することが出来た。
 後者は端的に言うと、世界観でビジネスを主導すべきという仮説である。

 ちなみに自身の今後の方向性は明白である。P29~「会社を作品と考えてみる」の件である。
しかも「会社」を別の名詞に変えれば、あらゆる人為的取組みにも応用出来る。
 この一文には自己実現、責任感(物事を自分事として捉える)、社会貢献、社会的責任感など、
この世に生を受けた一人の人間としてのあるべき姿、方向性が見事にメタファー化されている。
 前に確信と書いたのも、後述する思考を経て既存プロジェクト運営を行っているためで、
本書に依る論理的裏付けにより、更に強化、加速せねばの念を強くした。


 さて、どこを内省し、何を得たのか?まず蘇った情景は自身の欧州駐在経験。
当時は五里霧中だったが、帰国後の国内環境もスパイスとなり、ここで活きてきた。
その前の東南アジア駐在経験も外せない。それらで何が言いたいのか?
 
 各地域経験から言えるのは、製造業に於ける欧州市場対アジア(日本含む)市場比で、
サプライヤーの市場(顧客)への訴求の仕方が全然違うということである。
完結に言うと、欧州サプライヤーはブランド、アジアサプライヤーは商品を売っている。
更に砕くと前者はイメージ(世界観)、後者は機能、性能など数値化できるモノを売っている。
本書に即して言えば、前者がアート、後者がサイエンスである。

 グローバル市場(特に欧米)でプレゼンスが上がらない日系企業。
その問題の一つがここにある。欧米ではもう誰もサイエンス(機能、性能など)で買わない。
理由は単純で、既にサプライヤーが溢れてるから。これが解らず自身も当時は五里霧中。
 しかし未だに、商品が良ければ自然と売れると思っている社員が居るから困ったもの。
市場が右肩上がり、高度経済成長期はとっくに終わりましたよでは通じず、
解説を付けて、その商品企画では欧米では売れません!とサクッと回答している。

 もちろん全ての日系が失敗している訳ではなく。本書登場のマツダは成功事例である。
駐在前に日本ではほとんどテレビを見なかった自身が、欧州のテレビでマツダのCMを見て、
目を疑った。え?これはあのマツダ?今でこそ日本でも各社イメージ戦略のCMだが、
当時欧州テレビでのマツダは、完全に欧州メーカーバージョンのテレビCMが流れていた。
 そこに「魂動:Soul of Motion」が嵌ったんですね。マツダのローカル評価も髙かった。
独自性のある世界観(本書での美意識)が無いとお客は振り向かない、共感も生まれない。


 次に得たモノについて。冒頭で言及の、世界観でビジネスを主導する仮説について。
本書解説のフレーム理解及び各種成長企業の例で、その仮説に確信を持ったのは既述の通り。

 ここでは別の事例としてあのAirbnbを取り上げたい。
その理由は、その世界観の深さに驚き、共感し、自身も応援したいと思ったため。
尚、先にお断りしておきますが、以下の世界観表現及び解説は、有名コンサルタント、
石原明さんの音声解説を通じ、自身独自に意訳した内容です。

「民泊サービスを通じて、旅行者(宿泊者)とホスト(宿提供者)のつなぎ役を担い、
垣根の無い人と人との直接交流を促進し、世界平和に貢献します。」

 Airbnbの事業内容は割愛し、その他を解説します。取り上げたいのは、
旅行者もホストも民間人である点、また直接交流がどう世界平和に繋がるのか?という点です。
 Airbnbはそのシステムに相互評価システムを使用しており、宿泊者もホストも
相互に360°評価されます。つまり評判が悪い場合、宿泊者は宿泊拒否の可能性もありますし、
ホスト側は宿泊者が来ない可能性も発生しえます。

 つまりお互いの善意が大前提で成り立っており、それらの人々が直接交流することが、
無知、無理解等から発生する不毛な文化衝突回避や各種の問題解決に繋がり、
そして点の繫がりが線に、そして面になるような交流が増えれば増える程、
最終的に相互理解を持つ、世界平和へ繋がるインフラが出来るとの崇高な使命です。

 ここまでなら他社でもありそうですが、驚きはその後です。それは、
その理念に賛同できない人は、Airbnbのサービスを使ってほしくないと名言している点。
つまりAirbnbが最終的に創ろうとしている人的ネットワークは、必ず、
善のネットワークになるということです。宿泊者側も選ばれてしまいます。
ここで一旦想像してほしいのですが、善のネットワークに属すって、心地良くないですか?
これが私が驚いた、Airbnbが世界に発信している世界観です。そして実際支持も得ている。

そういう世界観(気付けば智の道)を常に意識し、公私共に今後も邁進します。


今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 sunao929 日時 2018年10月31日


『なぜ世界のエリートは「美意識」を鍛えるのか』を読んで

10年ほど前から、グローバル企業がアートスクールや美術系大学のエグゼクティブトレーニングに幹部候補を送り込む動きが顕在化しているとのこと。
今日のように複雑で不安定な世の中では、理論・理性的な判断だけでは会社の経営の舵取りができなくなってきており、直感的・感性的なスキルの獲得が求められ、究極的な判断力につながる「美意識」を鍛えようとしている。
筆者は、この動きが、物質主義や経済至上主義からの転換として、「新しいルネサンス」の兆しの一つ「美意識の復権」への取り組みの最もわかりやすいものであると捉えていることがわかる。
 日常生活ではなかなか感じることのできない時代の転換期に存在できるかもしれないという気づきを与えてもらい大変刺激になる。

1.エリートの闇
筆者がオウム真理教と、戦略系コンサルティング業界や新興ベンチャー業界が似ていると指摘しているところが、非常に印象に残った。
偏差値70のエリートが、不条理と不合理に満ちた実社会に適応できなかったため、結果を残せば、ステップアップできるというわかりやすいシステムにはまって、そのシステム自体の是非を問うことなく、愚かで邪悪の道に走ってしまった。
最近問題となっているKYB社の制震ダンパー検査不正事件では、公官庁や病院などで不適切な製品が使用されていたと影響は広がり続けている。
さらに驚くのは、何年にもわたり不正が行われ続けていたということ。
「納期を守るためにやってしまった。」との会見での説明を聞いたが、会社の中で、なぜそれで良いとされてしまっていたのか?製品の性格から、そのようなことをやってしまえば、会社として持たないことは自明ではなかったか?
本書で紹介される日本軍の数々の作戦失敗のように、その場の空気に流されて、なんとなく決めてしまうことがあったのではないか?
それとも高い達成動機が犯罪的行為に手を染めてしまったのだろうか?
傍から見ると、おかしさに気付くところは多々あるが、その組織に所属すると「誠実さ」を発揮してしまいそうで怖くなった。
自分の勤める会社でも、KPIという計測可能な指標に着目して、それらを改善していくために現場の尻を叩くようなことをやっている気がする。業務多忙や予算的な制約を理由にやるべきことの優先順位を間違っているようなことがないか、足元を見つめ直す必要を感じた。

また、日本企業に足りないものとして、ビジョンのことが言われていた。一番響いたのが、「人をワクワクさせ、自分もぜひ参加したいと思うような『真善美』があるか?」との部分で、自分の会社のビジョンにはそういった自分も参加したくなるようなワクワク感が感じられないのかなと思った。はたして、ワクワク感のあるビジョンとはどんなものだろう?自分なりに突き詰めて考えてみたい。「美意識」を鍛えることにつながる第一歩になる気がする。

2.これから行動すること
筆者が紹介していた本は、ジャンルも数も多岐にわたって知識量のすごさを感じる。そのなかでも、選択と捨象が経営の本質、直感こそがエキスパートの重要な要件といったところに関連する、羽生善治「捨てる力」、中西輝政「本質を見抜く考え方」を読みたいと思った。「菊と刀」も再読したい。
また、「芸術的な趣味を実践しているという人ほど、知的パフォーマンスが高い」という統計結果があるので、子供にピアノを教えてもらおう。
それから、近隣の国立西洋美術館や東京国立博物館でギャラリートークを実施しているそうなので、早速行ってみたい。
それらを踏まえて、自分の中に評価基準・美学を持つよう心掛けたい。他のみんながしていても、自分はしないと決め、人に流されないようになる。
それから、同僚にこの本を紹介し気づきを与えたい。道徳や倫理に基づき、自分たちの行動を律するような行動規範を持てるように、より良い空気が社内に醸成されるようしていく。美意識を持つのはエリートだけではだめだと思った。

3.凡事徹底
P215『21世紀が「新しいルネサンス」とされるのかは、私たち自身の選択にかかっている。』とのことから、日々の仕事が100年後、200年後の社会を作ることにつながっていくので、日常的な日々の営みに対して、真摯に取り組んでいきたい。

今月も良書を紹介していただきありがとうございました。

投稿者 masa3843 日時 2018年10月31日


本書を読んで最初に思い浮かべたのは、私が敬愛する経営者、京セラ創業者の稲盛和夫氏です。
稲盛氏は自身の著書の中で、「人間として正しいものは何なのか」ということを基準としてあらゆる判断をしなければならない、と述べています。
これを「原理原則にしたがって判断する」とも換言していますが、その判断基準は本書で説明されている「経営の美意識」に非常に近いと感じました。

さらに稲盛氏は、「手の切れるような製品」を作れと部下に命じ、必要な特性は全て満たしているが薄汚い製品に対し、美しくないことを理由にダメ出しをしたと言います。
ビジネスの世界で「美しさ」を判断基準にしているという点で、マツダの前田育男氏のスタンスに非常に近いと言えるでしょう。

また、本書のメインテーマである「アートとサイエンスの融合」という面では、経営哲学というアートだけでなく、アメーバ経営というサイエンス面での経営管理手法も突出していました。
アメーバという小集団による独立採算制を敷くことで、管理部門も含めたあらゆる部門の利益を見える化するこの手法は、アートとしての経営哲学を補完するロジカルな経営ツールだったと言えるでしょう。

稲盛氏は、創業した京セラと第二電電を大企業に成長させ、経営破たんしたJALの再生も成功させるなど輝かしい実績を残しました。
これは、稲盛氏が1人二役で「論理と直感」、「理性と完成」のバランスを取っており、完成されたマネジメントを行っていたからではないでしょうか。
稲盛氏成功の根源的な理由が、本書で改めて明快に説明されたように思いました。


さて、本書の中で著者は、「美意識」を高めることの必要性について様々なアプローチで説明しています。
加えて、美意識と経営の問題は、端的にはリーダーシップの問題だと述べています。
「客観的な外部のモノサシ」に捉われず、「主観的な内部のモノサシ」によって判断することは、強力なリーダーシップを必要とするからです。

ここで私が強く感じた疑問は、
「『主観的な内部のモノサシ』による判断を、どうやって実行すればよいのか」
という点です。

本書の前半でも述べられている通り、「美意識」による主観的な判断はアカウンタビリティを持てません。
アカウンタビリティを持てないということは、他者を論理的に説得することが限りなく不可能であるということです。

ある程度の立場にいる人であれば、その地位や職階を楯にして、主観的な判断を押し通してもよいでしょう。
しかしながら、私のような部下を持たない平社員の立場では、そのようなことはできません。

私が考えた解決策は3つです。

 ●美意識を共有できる上司を探すこと
 ●失敗しない理由、もしくは失敗しても問題ない理由を論理的に説明すること
 ●成果を出し続けること

1点目は、自分と感覚が似ている上司や先輩を探し出し、その人の協力を得ることです。
重要なのは、間違いなく自分の感覚を理解してくれる人を選ぶことであり、その「見る力」が鍵になります。
適切な人を選ぶことさえできれば、その人自身が主観的に納得できる施策であるはずなので、全面的な協力者になってくれるはずです。

2点目は、勝てる理由を説明できなくとも、負けない理由については完璧に理論武装しておくことです。
本書の中で、『勝ちに不思議の勝ちあり。負けに不思議の負けなし』という松浦静山の言葉が紹介されています。
負けないことや負けた際のリスクについて事前に説明することができれば、サイエンス型・クラフト型の上司を説得する好材料になります。

最後は、自らの提案をやり抜くことで、成果を出し続けることです。
その提案に根拠がなくても、成果を出し続けてさえいれば、その人自身への信頼が生まれ、提案が通りやすくなります。
『あいつのやることは、なぜかいつも上手くいくんだよな』
こんな風に思わせることができれば、全てが好循環になって回っていくのではないでしょうか。

特に重要なのは、やはり共通の美意識を持てる仲間や上司を適切に見極めることだと考えます。
そしてその仲間たちの中で、「審美眼」や「直観力」を高いレベルで切磋琢磨し向上させていくことこそが、これからの時代に必要なことだと思います。

本書の中で、「すぐに役立つ知識はすぐに役立たなくなる」という小泉信三氏の言葉が紹介されていますが、逆に言うと、「じっくりと身に着けた感覚は、いつまでも有用である」と言えます。

幸いなことに、本書の7章で述べられている鍛え方以外にも、しょ~おん塾では呼吸法や瞑想法など身体感覚や価値観を鍛えるメニューが数多くあります。
これらの修行メニューの重要性を再実感した課題図書でした。

今月も素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございました。

投稿者 wasyoi 日時 2018年10月31日


#世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか を読んで
この本はタイトル通り、「なぜ美意識を鍛えるのか」というところが本題なのですが、『p14 合理的な目的のために「美意識」を鍛えている。なぜなら、これまでのような「分析」「論理」「理性」に軸足をおいた経営、いわば「サイエンス重視の意思決定」では、今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない、ということをよくわかっているから』という事で、仕事は論理だけでは完成せず、「真・善・美」といった美意識が大切だと常々思っていたので、とても共感できた本でした。

今回私が学んだところは、
『必死に「論理的かつ理性的」に意思決定する組織能力を高めた結果、皆が同じ戦場に集まって消耗戦を戦っているという、まるで囚人のジレンマのような状況に陥っているわけです。』(p49)というところです。

どうして美意識を鍛えることが合意的なのか?の答えとなると思われる箇所ですが、皆が寄ってたかって同じような論理的思考を用いて経営の舵取りをしたとしても、著者のいう『正解のコモディティ化』(p49)にしかならない、と言っております。
ここを読んで、企業に勤める自分自身がどう振る舞うべきか、ということについて考えさせられます。

現在私は、会社の売上を上げるための部門を任されております。
やるべき目標は当然売上を上げる、という所であります。
それには往々にして、「こう来たらこう返す」というような論理的な取組方法をすることになります。
たしかに理詰めで上手くいこともありますが、本書にも出てくる『p81 新しいビジョンや戦略も与えないままに、マジメで実直な人たちに高い目標値を課して達成し続けることを強く求めれば、行き着く先は一つしかありません。イカサマです。』という箇所が強く引っかかっています。

新しいビジョンはトップが担うべきところであるとして、その後の戦略を担い、いかにして経営者のビジョンを早く具現化させるかが、サラリーマンとしてこれからも意識して取り組み続ける必要があるなと改めて感じます。

改めて、というのはなぜかと言うと、以前に熊本で行われたしょうおんさんのオムニバス形式の特別セミナーに参加させていただいた際に美意識の話が出ていて印象に強く残っていたからです。

仕事をする上で、論理的思考と合わせて「真善美」を、美意識を磨くべし、どちらかだけではいけないよ、という話を聞いて以後、より意識して行動しています。

実際、経営者のビジョンに合わせて担当部署のゲームのルールを戦略的に描き変えたことで、上手く結果が出たという例も出てきております。

ただ目標を定めて猪突猛進に取り組むだけでは本書の通り厳しいことは明白なので、取り組みやすくする「仕組み」作りが大切なのだな、と強く感じます。そういったものを考案する際、まずは「真善美」なるものを意識して、それから理詰めで考えると上手くいくな、というのが実感としてあります。

『p87 山の片側から緻密な思考を積み重ねながら、山の反対側からは直感に導かれたアイデアの正しさを検証するという、トンネルを山の両側から掘り進めて一つの道筋にするような知的作業をやっている』
という箇所がありますが、こういうイメージは常に持ちながら仕事の仕組みづくりを行なっています。

最後に、
『p120 イノベーションが重要だという指摘は、イノベーションの後に発生する「パクリ合戦」における、デザインとテクノロジーの陳腐化という問題を見落としていることが多い。』
という言葉が強く印象に残りました。
イノベーションがどうこうと言うより、まずは経営者のビジョンがしっかりとあり、それが他社には真似できないものであることが大切だと感じます。今ある経営者のビジョンを最大化できるよう日々の仕事に取り組んで行かなければと意を新たにいたしました。
本書を読んで、大変大きな刺激をいただきました。
良い本に出会わせていただき、ありがとうございます。

投稿者 ishiaki 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?

私は「美」について全く無頓着ですが
企業のエリートが美術館に足を運ぶことが増えているらしいですが
そこまで美を意識することが重要なことだとは思わずこれからは意識的に美術館とかに
足を運ぶようにしたいと思いました。

論理によって導かれる正解が均一化してしまっているからこそ、
自らの美意識による直感が差別化を図る上で大切になってくるという考えはとても新鮮で
周りの空気に流されないためにも自らの美意識に従った判断基準を持つことの重要性を学ばないと
この先、成長は出来ないと感じました

どんなに戦略的で論理的なプランであっても、人をワクワクさせることができなければ本気で動かない、ということ。
サイエンス(論理・理性)や経験たるクラフトに振れ過ぎず、アート(直観・感性)が寧ろこれらを主導していくべきだ
ということも学びました。

美意識を鍛えるという事は、社会の基準を内部化し、主観的な自分のモノサシを持つ事に繋がるので、
仕事での単なるスキルではなく、人間として生きていくうえで非常に有益であると感じ、
自分の美意識を保持し、体制に順応しながらもシステムの改変を試みるのがエリートのあるべき態度と思います。

今現在は多くの人が分析的・論理的な情報処理スキルを身につけた結果、「正解のコモディティ化」が発生しており
個人の知的戦闘能力という点で大きな問題になっているようです。

現在では人とはみ出した正解を出すとどことなく異端児扱いをされますが
本当はそういう正解が出てこなければいけないような気がしました

「論理的思考」では差がつかなくなった社会では、いかに自分の内面を磨くかが大事になってきている、
ということがわかりました。
世界のエリートが必死になって美意識を高めるための取り組みを行っているのは、このような世界において「より高品質の意思決定」を行うために、「主観的な内部のモノサシ」を持つためだというのようでありますがエリートだけではなく一般の人たちにもこの力を付けなければいけないと感じました。
特に、「美意識」を身につけるために有用なのは絵画や彫刻といったいものだけではなく。小説や詩などの文学作品、哲学などもその中には含まれているとのことなのでこれからも読書を続けていればある程度の美意識は磨かれるのでそれは続けていこうと思います。

投稿者 satoyuji 日時 2018年10月31日


世界のエリートではない私は「何」を鍛えるのか?


ビジネスと無関係のように思われるアートを世界のエリートが学んでいる。本書はその理由とビジネスの現況を紹介した本である。私の感想は以下の通り。

エリートではない私はサイエンスから始めよう。
美意識より身体意識を鍛える方がいい。

以下理由。


エリートではない私はサイエンスから始めよう。

筆者の理由を読み解けば、現代は今までのような論理、分析、理性に軸足を置いた所謂「サイエンス重視の意思決定」では経営は難しいとのこと。そこで解決策として「真善美」の感覚つまり美意識によって判断していく方向にシフトしている。美意識を鍛えることで現代の急速な変化に対応しようとしているとのこと。ここで書かれているのは意思を決定する要因をサイエンスからアートへ移行させればいいと書かれているわけではない。サイエンスを超えてアートの文法を用いることで論理に外れない超論理的に意思決定をすることが必要とされていると書かれているのである。つまり美意識を求められるようになった状態でも依然としてサイエンスは必要ということだ。逆に言えばサイエンスから外れるアートはビジネス上価値がないとも言える。そしてアートが求められているのはどのような人たちか。書名に従えば世界のエリートたちである。世界のエリートとはどんな人たちかと言えば社会を動かす仕組みを作っていたり、直接動かしていたりする人たちのことだ。そうした人たちが急速に変化する時代に合わせて社会を動かしていくために、サイエンス一辺倒だった思考にアート的感性も備える必要があるということである。

では私は何者なのか。事実としてエリートではない。社会の仕組みを作るどころか、社会の仕組みに則って動くことを求められている。つまり仕組みが実際に稼働し、それに則った行動を求められる側であり、その時に示される選択は誰にでもわかりやすい尺度で表される。それはわかりやすい科学に依る。

時代や人の目まぐるしい変化に対応するには今までのサイエンスに基づく決定では追いつかなくなってしまった。だからエリートたちはアートを通じて美意識を磨くことで時代の変化に対応しようとしている。つまりサイエンスの重要性は依然として存在し続ける。そして私の立ち位置では物事をサイエンスから理解することが生きやすさに繋がっていると考えているのでサイエンスからの見方を身に付けることから始めたいと思う。


美意識より身体意識を鍛える方がいい。

世界のエリートがアートを通じて美意識を鍛える理由は二つ。急速な社会の変化に対応するため。美意識に含まれる真善美を通じてより質の高い判断を可能にするため。私はエリートではないのでまずはサイエンス的観方を獲得することが大切だと考えた。そしてアートを学ぶ理由に、真善美のための美意識と書かれているところで、とてつもない違和感を感じた。真善美を鍛えるためにアートを学ぶという姿勢がなんともおかしく思えた。論理で説明できないところで成立しているアートは確かに世界を広げてくれる。一つのことを見つめる行為は思索を深める。間違いなく(真)・倫理に反せず(善)・人に受け入れられる(美)決定力を養うことに寄与するのかもしれない。本書の中で書かれている絵画鑑賞、VTS、哲学、文学、詩に親しむことで期待される効果は得られるのかもしれない。しかし人が本当の意味で真善美を獲得するための最も効果的な行為であるかと言えば疑問を拭えない。なぜならこれら全ては既存物を観る行為に過ぎないからである。あくまでも観客としての立場から抜け出せない。本当に真善美の価値観に則って選択、行動できるようになるためには観客になるだけでは不十分である。自分がそれを作る側にならなければならない。つまり自分で絵を描き、思想を作り、詩や文学を創作してみるべきである。もちろん優れた作品と接する機会がなければ何かを作り出すことは難しいだろう。だが作品を作る行為こそが人間の総合的成長を促す。結果として偏りのない優れた決断を迅速にすることを可能にしてくれる。これは間違いなく正論である。しかし実際にたち返れば言うは易し、行うは難しである。時間も道具も必要でその環境を作ること自体が難しい。そしてそれは問題の根本的解決には不十分である。そこで私は先人の遺した身体的叡智、伝統芸能や武芸、舞踊に親しむことの方がより簡単で根本的なアプーチであると考える。この考えは筋違いではない。なぜなら優れたアートは優れた観察と表現を可能とする優れた身体から生み出されるからである。サイエンスとアートという観点ではなく、人が優れた決断を可能にするにはどうしたらいいのか。そう問いを立てるとき、現代希薄になっている身体意識を取り戻すことが必要であるとの結論に至った。そのため美意識ではなく、身体意識を鍛えるべきであり、身体意識を鍛えた先に美意識は養われるのである。

投稿者 shinwa511 日時 2018年10月31日


“今ビジネスの現場では、これまでのような「分析」、「論理」、「理性」に重きをおいた「サイエンス重視の意思決定」では今日のように複雑で不安定な世界においてビジネスの舵取りをすることはできない”

本課題図書“世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?”では「エリート」と呼ばれる人には、論理的・理性的なスキルに加えて、直感的・感性的な「美意識」という、判断基準を持つことが期待されています。

具体的に本書では第1章から第3章でその理由が述べられています。

第1章 論理的・理性的な情報処理のスキルの限界
「サイエンス」で導き出された答えは万人が行き着くものであり、差別化はできません。一方の「アート」で導き出される、ストーリーや世界観はコピーされないものです。

第2章 巨大な「自己実現欲求の市場」の登場
世界の市場は「自己実現的消費」へとシフトしています。人は機能ではなく自己実現欲求を求めています。そのような環境では「美意識」が大きな役割を果たします。

第3章 システムの変化が早すぎる世界
システムの変化に現行のルールは追いついていません。明文化された法律だけを拠り所にしていると、論理を大きく踏み外す危険性があります。確固たる「美意識」という価値の判断基準が必要になります。

つまり、論理的判断とは逆の意味になる非論理的な「直感」と、理性的判断とは逆の感情に依拠している「感性」を学ぶことで、万人向けのコモディティ化を起こさないようにし、他者との差別化を維持しながら、常に変化する現行のシステムでは倫理だけではなく、自分自身の主観的な判断意識を持つことが重要になっています。それがビジネスのトップを行く「エリート」に「美意識」が求められる理由です。

この「美意識」を鍛えるためにはどうすれば良いかを著者は、2つ上げています。

・見る力を鍛える VTS(Visual Thinking Strategy)
・哲学から学ぶ

まず、「見る力を鍛える VTS(Visual Thinking Strategy)」では、見て、感じて、言葉にすることを行います。
何が描かれているかを観察し、絵の中で何が起きていて、これから何が起こるのか現状から未来を予測し、自身はどのように感じたのか。ビジネスでも現状を理解した上で、未来の結果に対して、今どのような手段を行うべきかを考える事がこれに当たると考えます。

次の「哲学から学ぶ」では、その作品の中身や背景を解説者の意図、目的、時代背景から読み取り学ぶことを行います。

ビジネスでは、「本当にそうだろうか。」と相手の話していることが「理」に適っていることなのか、見極める判断をする力をつけることに繋がります。

これらの「美意識」を鍛えるためには、長年アートと携わり続けるために、自身の「好き」という感情が必要になります。

「マネジメントの父」と賞賛されたピーター・F・ドラッカーは、室町時代の水墨画や文人画、禅画、仏画などの日本美術コレクターであり、「日本美術へのラブレター」と題された文章の中で、「西洋美術では、私が信じるところでは、芸術は眺められるもの、見られるもの(展覧会でするように)であるが、室町水墨画では、芸術は共に生きるためのものであり、芸術は人の精神的な環境になるのだ。」

この「共に生きるためのもの」を実践するために絵画を入手し、真に語りかけてくるもの、家の中で共に暮らしたいと感じたものを選んでいたと書いています。
さらに作品について勉強し、日本やアメリカの専門家と議論し、絵や画家について理解を深め、技術的な強みを理解する一方で、美的に心地よいことを確かめていたとしています。
ピーター・F・ドラッカーも日々の生活の中で「美意識」を鍛えていたことが分かります。

今の日本人は自分も含めてどうかと考えると、他人の注釈を重視し過ぎてしまっているように思います。

ほとんどの美術館や博物館などでは、先に解説があり次に品物があります。これでは先入観が強すぎて、自分で良し悪しを見る目が失われてしまいます。まず良い物を多く見て、本質の良い部分を理解すること、それから解説文や他人の意見を聞きながら勉強をする。その修練を多く積んでいくことが、自分の「美意識」を鍛えて「直感」に従った意思決定をしていけることに繋がっていきます。

数多くの選択肢の中から、心に残る物をすばやく選び分ける技術を身に着けることこそが、もっとも大切なことだとわかりました。

投稿者 iD2130 日時 2018年10月31日


私が感じたことを大きく分けると、以下の通りです。





エリートと呼ばれる人達がなぜ美意識を学ぼうとするのか?



①極端な偏差値尊重の弊害から脱却するため



確かに、自分の属する組織の中では適応能力の高さ、生産性の高さで他より抜きん出ているかもしれない。そのために、組織の中で階層を駆け上がるのも早いだろう。

しかし、いつしか、組織の中で高得点を上げることにしか興味がなくなってしまう、ということがよく言われる。



これなどは、高ければ高いほど良いとされる、偏差値教育の弊害ではないかと思う。

よいり高い点数を取ることが良いこととされる教育を受けてくれば、そんな考えになるのは当たり前かもしれない。



著者も書かれていたが、オウム真理教に入信し、悪事に手を染めてしまった者は高学歴が多かった。医学部、工学部を出たエリート達が、なぜあのような宗教に身を投じたのか?

それは、階層を上がるシステムが明快だったからではないか。



一例だが、空手の昇級、昇段審査は、課題の型があり、他に体力テスト、組手の勝敗、内容が吟味されて昇級昇段する。この型がマスターできれば何級…と決まっている。

これは、級、段という階層を駆け上がる明快なシステムであり、、宗教教団内での階層社会に似ているかもしれない。



偏差値教育で上位に位置していたエリートにとっては、そのようなシステムは居心地が良かっただろう。そして、論理と理性に重きを置きがちで、論理的に他を論破することにも長けていることが多い。

(しかし、宗教というのは感性や直観力も研ぎ澄まされるはずだから、それらを入信者が体得できなかったからこそ、一般的な善悪の判断さえもできず悪事を続けていったとも言えるので、オウムは宗教ではなかったかもしれない。)



そんな偏差値尊重、生産性のみ追及のエリート達が、果たして組織内で的確な判断を下すことが出来るのだろうか、という疑問も出てくる。



②誠実という名の悪からの脱却

自分の属する組織のルールに従うのが「誠実」と私も思ってしまう。

しかし、ルール、システムを無批判に受け入れることは悪だと著者は言う。自社の常識は他社の非常識。会社組織の中という狭い世界でしか通用しない。



自動車メーカーによる、相次ぐ隠蔽や改ざん問題、電器メーカーの粉飾決算などなど、自社のシステムのみに誠実であるが故の、醜い事件は多い。

そして、目の前のシステムが間違っているかどうか判断するには、相対化できる知性を持つことだとも著者は説いている。自然や人間の本性に合致する考え、直感力や感性が必要になってくる。



最近の企業が、人間らしい温かみを感じず、なぜか表面的で無機質で薄っぺらい印象を受けるのは、こんな偏差値尊重と自社のみの発展しか考えていないのも原因なのでは…と思えてくる。

合理的、生産的というものばかりを追及し、直感力や感性による判断を古いものとして遠ざけてきたのも、日本企業が輝きを失っている原因かもしれません。





某電器メーカーでは、創業者の時代には国内の拠点の敷地内に屋敷神を祀っていたのを、代替わりを機に無くしてしまい、社名さえも変えてしまった。会社は創業者時代よりも衰退。これなども、合理的、生産性のみを求め、感性や直感力を蔑ろにした結果なのでは…と思えます。





③人生を生きいく上でも必要なことである



クオリティの高い意思決定を継続させていくには、明文化されたルール、法律だけでなく、内的に判断する美意識が求められる、とも著者は言われてます。





美意識を身に付けるには、

絵画を見て観察眼を養ったり、哲学に親しみ人生の意味を考え、文学に親しむこと(特に詩を読み、人の心を動かす表現の比喩力を養う)が良いとのことですが、これは人生を生きていくうえでの大切なことと同じではないか!と気付きました。



世界を動かすようなエリートと言われる人達が美意識を鍛えてるのに、凡人のあなたは何もしないのですか?

著者にそう問いかけられてる気がしてなりません。





幸い日本には、昔から培われた独特の美意識があります。絵画なら水墨画や浮世絵などの日本画、仏像などの美術品も豊富にあります。

文学なら古典から現代文学まで膨大な量があり、短歌、俳句もあります。

感性や直感力を養うには、十分過ぎるほどのものに囲まれてます。



私もそれらに少しずつでも親しんでいこうと思います。

有難うございました。

投稿者 kenhon 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?を読んで

 この本は、今まで原因がわからずもやもやしていた感情を解消してくれました。
 私がサラリーマンのとき、組織における意思決定で、自分の考えとしてはAの方向に進みたいのに、他の人の意見としてBの方向に進む案が出て、最終的にはBの案に落ち着くということがしばしばありました。
 そのようなケースの中には、Aの方向に進む方が「感覚的に」よいと思われるが、いろいろなデータを見てみると、どうもBの方向に行った方がよいという結論になるものもありました。
 このようなとき、自分としては、Bの方向に行く流れに何とか対抗しようとするものの、結局は押し切られるということが多かったと思います。
 この本では、組織の意思決定に際して、「アート」「サイエンス」「クラフト」の三者が争ったときは、アカウンタビリティの面でどうしても「アート」の分が悪いということを明らかにしてくれました。
 自己の意見の主張という面では、自分としてはスキルがある方だと思っており、なぜ他の意見に押し込まれてしまうのかが今ひとつ理解できなかったのですが、この本によって、自分の主張が「アート」に属する部分が多く、「アート」に関係する意見の主張は通りにくいということが明らかになり、少し納得できました。
 また、現在では、私は経営者としての立場にあるため、意思決定の場面で、最終的に自己の意見を通すことができるのですが、一度、ある事項の意思決定を行うときに反対意見が出て、理由を聞けばもっともだということもありました。
 その際も、責任者権限で最終的には自分の意見を通したのですが、何となくすっきりしませんでした。しかし、その際も、自分の意見は「アート」的なところがあり、「サイエンス」の面から見たら不合理だったような案件だったと思います。
 今後は、意思決定の際に、「アート」「サイエンス」「クラフト」の3つの視点から物事を考え、「アート」の重み付けを高くした上で決定するというプロセスを従業員と共有し、意思決定に関わる多くの人が納得できるような意思決定をしていきたいと考えます。
 ところで、この本によって、マッキンゼー等を筆頭に、世界(主に外国)の一流どころはこの「アート」重視の考え方を取り入れ、デザイン会社を吸収合併したり、英国のロイヤルカレッジオブアートを含むアートの分野で研修をさせるという活動をしているとのことを知りました。
 ということは、これらの一流企業は、「アート」「サイエンス」「クラフト」の内の「アート」を重視すべきと言うことを理解しているということになります。日本でもマツダ等の一部の企業がこのような流れに乗っているようですが、あまり主流であるとは思えません。
 このあたりも、近年での日本の国際競争力が下がってきている原因があるのではないかと感じます。
 ではなぜ、世界の一流企業は、「アート」を重視すべしという結論に至ったのでしょうか。
 一つの理由としては、海外では「哲学」を学ぶことを重視しており、経済偏重主義の中にあっても、人として如何に生きるかという哲学的な考え方が根本にあったために、「サイエンス」や「クラフト」に対して「アート」が劣勢にならずに今日を迎えたのではないかと考えます。
 これに対して、日本企業の多くは、戦後から高度成長期にかけての「アメリカに追いつけ追い越せ」というスローガンで突っ走ったために、経済偏重主義にどっぷりと漬かり、「アート」の部分がおろそかになったのではないかと思われます。
 このような状況を見て、日本は世界の一流どころに比べて劣っているように感じ、少し残念な気持ちになりました。
 それでも、この本の後半で、日本人が持つ「美的感覚」が世界に対して誇れるレベルにあること、その美的感覚を磨いていけば、今後ますます発展するであろう「自己実現欲求の市場」で優位的立場を取ることができるという意見を見て少し希望が持てました。
 日本人である自分も、世界に対して劣等感を持ったりあきらめたりするのではなく、日本人の持つ「美的感覚」を生かし、さらにその美的感覚を育てて行くことで、世界に対して誇れるプロダクツやサービスを提供できるのではないかという自信を持つことができました。
 そういった意味で、この本は、過去の「もやもや」を払拭してくれただけでなく、未来に対しても希望を持たせてくれたありがたい本だったと思います。
 また、この本が翻訳本ではなく、日本人の作者により書かれたものであることも、とてもうれしく思います。

投稿者 BruceLee 日時 2018年10月31日


Don't think ! Feeeeel(考えるな!感じろ)

本書を読み終え、ふと浮かんだのがこの有名なセリフだ。自分も「エジソン」と「実験工房」の所で、「フィラメントとか、竹とか?」と考えてしまい、「やっぱ人って自然と考えちゃうものなのね~」と納得したのだ。自然と考えちゃう、という事は習性になっているという事だ。

「論理」と「直感」

この2者が拮抗する時、論理が勝るのはアカウンタビリティを持つからだ、と本書にある。その通りだが、ではそもそも何故アカウンタビリティが必要なのか?と言えば、人が一人で出来る事は限られており、仲間が必要だからだろう。その仲間の集合体が企業であり、そこで初めて一人では出来ない製品やサービスが提供できる。が、その為には「それが何故良いのか?」を説明し、仲間に共感して貰う必要がある。そのためには言葉で説明する必要がある訳だが、本書には「言語化できることは全てコピーできる」と元も子もない記述もある。だからエリートたちは美意識を鍛えていると言う。殆どの事がAIが奪う近い将来、「人間相手」のビジネスを成功させるには、このエリートたちのような準備が必要だろう。という事は一般のビジネスパーソンも「自然と考えちゃう」習性を「感じる」へと修正しておかないと、人間相手のビジネスどころか、そのエリートたちからも取り残されてしまうかもしれない。それはつまり仕事が出来る奴と出来ない奴の格差が広まるって事で、それは嫌だよね?

では我々一般のビジネスパーソンはどうすべきか?アカウンタビリティもそうだが、他者に共感を得るには何にせよ発信が必要だ。発信とはOutputである。そしてOutputはInputで養成される。ではまずInputを変える必要があるという事だ。だからエリートたちは美術学校でInputしてる訳だが、個人的に感じたのは美術学校で学ぶ以前に直感を磨くためにやるべき事がある、という事だ。それを以下に述べたい。

1)スマホをしまおう!
現代、人は暇さえあればスマホを見入り、まるで取り付かれた中毒患者のようだ。スマホに取り付かれてる人は自分の全身系をスマホに集中させてる訳で、自身の感度を落としていると思う。なんと勿体無い時間の過ごし方だろうか。もっと周囲を見渡して感じよう。空の色、建物の形、人々の顔や服、道端の草木を見て何を感じるか?また夜空の星を見てイマジネーションを膨らませる。感じるとはそういう事ではなかろうか?本書にある通り多くの仕事は論理先行で進む。つまり、もしあなたが仕事が出来、結果を出している優秀な人だとしても、単に論理に長けているだけかもしれない。理路整然と説明し、周囲を納得させるアカウンタビィリティの能力がある代わりに、知らぬ間に感性を磨く能力を日々落としているのとイコールなのかもしれない。

2)恋をしよう!
本書に書かれている事は「恋心」に近いのでは?と感じた。恋愛経験がある人は分かるだろう。恋に落ちてしまった時の愛しい気持ち、会えない時の切ない気持ち、恋が実った時の喜び、失った時の悲しみ。その感覚こそ説明できない、アカウンタビリティ云々ではない感情ではないか。何故その人に恋してしまったのか?を説明しろと言われ説明出来るだろうか?その人の良い面は挙げられるだろう。では同じ良い面を持つ他の人で代替がきくか?と問われたらそうではないだろう。何故なら好きなった当事者だけが分かる主観的な感情があり、それはまさに「個人のモノサシ」だからだ。つまり理屈じゃない。そして理屈じゃないから説明できないのだ。また、恋した人の気持ちは恋した事がある人にしか分からない。それが同じ感覚を持ってる人だけが理解し合える、という事ではないか。半面、恋した事の無い人にそれは永遠に理解出来ない。

自分がイマイチ理解できない言葉に「婚活」というのがある。何故なら結婚とは恋した相手と共に時間を過ごしたいという「気持ち」を起点に築かれる関係だと思うから。恋心ファースト、で結婚は後なのだ。故に最初の行動として結婚相手を捜すのは逆な気がするのだ。よく「いい人がいない」と聞く。だが、例え職場にいい人がいなくても、日々の生活の中で好意を抱く人がホントに皆無なのか?SNSで知り合い、打ち解けた後に出会うケースもある。それらさえ全く無いのだとしたら、それはその人の周りに「いい人がいない」のではなく、その人の「いい人を見分けるの感度」が錆付いて機能してないのが根本原因かもしれない。

美意識を鍛える。恋をする。共に自分の中で扱いきれない感情を体験すると言う共通点があると思うのだが、どうだろうか?

。。。え?
もう結婚ん十年で今更パートナーに恋なんて出来ない?そ、そ、そういう人は仕方がない。最終手段だが、ふり・・・じゃなく恋しちゃうような趣味に走ろうよ(笑)

投稿者 H.J 日時 2018年10月31日


本書で学んだ事を結論から書くと
①正解無き問いに対して考える事を止めるな
②両端の距離を知り、フラットな目線を手に入れよう。
である。

まず、前提として、「客観的な外部のモノサシ」は自分の力で変えることは出来ないが、「主観的な内部のモノサシ」は自分の力でアップデート出来る。
なぜなら、外部のモノサシとは客観的に見えるもの、つまり目に見えてるものを基準にしており、それは結果からの分析だったり、科学や多数決で決めた数値だからだ。
更に言えば、目で見えるものとは、目で見えてると思いこんでるものである。
それが真実だろうと虚偽だろうと、目で見えてるものが外部のモノサシとしては正になる。

逆に内部のモノサシは自分の中にある目には見えないもの、つまり外部からの論理や数字に影響されない自分の領域である。
こちらも真実だろうと虚偽だろうと自分の信じていることが正になる。
ただし、今まで真実や虚偽だったものが自分の意思でアップデート出来る。
知らない事を知るたびに、間違ってる事を、昨日までの価値観を上書き出来るのだ。
それが勉強であり、成長の一環であると考える。
なぜなら、私自身、先生のセミナーを受けて、今までの価値観を上書き出来たからだ。
価値観が変わりアップデートした事で日常の何気ない事の変化に気付け、楽しく感じる事も増えたからだ。

であるならば、内部のモノサシをどう鍛えるか。
そこに焦点が当たる。

本書では7章で美意識の鍛え方を詳しく書かれてるわけだが、私の出した答えは

「正解無き問いに対して考える事を止めるな」
である。

第7章で度々「見る」という言葉が使われているが、読み進めると全て同じ事を言っている様に感じた。
目に見えてるものを見るのではなく、見えてるものを通して、表に出てない部分を”見る”と。
観察眼もVTSも正にこの例である。
見えてるものを見えてる通りに受け取るな、正解が無くても考え続けよう、というメッセージに感じた。
そう考えれば、世に言う正解とは、正解と定められた答えでしかない。
目に見えてる正解を正解だと錯覚させられていたのではないか。
そもそも正解は誰が決めたの?って話になる。

だから、私は正解という言葉を

”私にとっての”正解

だと受け取った。

これが私にとっての内部のモノサシの鍛え方だ。

他方でこの主観的な内部のモノサシは自分の中の柱とも言える。
外部要因に流されないという意味で捉えたからだ。
柱が強ければ外部からの衝撃を与えても滅多に崩れない。
逆に言えば、この柱が弱いということは思考が弱く、流されるだけの人生になり、人に迷惑掛けることになる。

これは、先日の渋谷で起きたハロウィンイベントの事件に例えてみる。
日本で行われているハロウィンイベントは本来ならば「皆が楽しむイベント」のはずだ。
ならば、参加者全員が「皆が楽しむにはどうすればいいか」を考えることが求められるのに、参加者の一部が思考停止し、「楽しければ良い」になってしまい、挙げ句の果てには「自分が楽しければ良い」になった結果だろう。
こう考えると思考停止が生んだとも言える事件だ。

本書内の言葉を用いて言い換えれば、ハロウィンイベントというシステムを無批判に受け入れた結果だろう。
正に「悪とは、システムを無批判に受け入れること(P181)」である。
外部のモノサシを基準にし続けた結果、つまり目に見えてるものを頼り、流された結果である。
少なくとも思考していれば、無批判に受け入れる事をしないはずだ。

では、本書に書かれている様な悪にならない為にもシステムを批判的に相対化するとはどうすればいいのか?

私の答えは、

論理や理性と直感や感性。
右と左。
科学と非科学。

対となるもの同士を両側から見ることだ。

一見、逆に思える事を相対的に見る事でシステムを相対化した思考に繋がる。
なぜならば、対のものを知るという事は、物事の両端の距離を測れる様になるからだ。
「右はこの距離までなら行けるな。左はこのぐらいまでしか行けないな。」
と、なんとなくではあるが、両端の目安がわかる。
その目安の中で相対的に考えれば良いのだ。
その対となる両端の距離を広げるために知識を付けて鍛えるのだ。
その幅の大きさが大きければ大きいほど、結果的に自分の柱が強くなる。

ここまで内部のモノサシを考えたわけだが、外部のモノサシが不必要なわけではない。
内部のモノサシだけでは、自分の視点でしか物事を見れないからだ。
外部のモノサシを基準に見る事で見えてくる部分もある。
それを自分に落とし込んで、自分の中でアップデートする事が大切だと感じた。

要は何事もバランスが大事であり、フラットな目線、公平な目線で見れるかがポイントとなる。

更に言うと、この”対となる両側を見て鍛える”というのは、しょ〜おん先生がアップデートする場を用意してくれている事に気付いた。
この課題図書で文章力や思考力と言った論理を鍛え、セミナーで直感や感性を鍛える。
この様に両側を鍛えるシステムを作ってらっしゃる事、チャンスを与えて頂いてる事に驚きと感謝が込み上げる。

そんな事にも気付けた最高の一冊だった。

投稿者 diego 日時 2018年10月31日


夢が大切で、どんな夢をみるかについて

古くからある「クールな日本文化」に触れる機会が、どれぐらいあるだろうか。美術館や博物館に行き、浮世絵や着物、歴史資料の展示を観ること、奈良や京都など、古い建造物や空間を感じること、伝統芸能を鑑賞すること、華を愛でたり古くからある食物を味わってみること、普段から和食器に触れること、古い詩歌、古典を読むこと。

こういったことは、幼いころからやってきた。学校でも学んだ。今もやっている。では、それらを継承して昇華させたかと尋ねられると、何もしていない。ただの鑑賞者だ。本書を読み、深く感動し反省したのが、この点だ。

日本の美しいものを観て触れて聴いて感じてきたのに、何も表現できていない。ただ、この蓄積が、いかに自分を支えてきてくれたのか、それをこの本書で思い知らさせた。なぜそう思ったか。理由は、本書にある。

「全体を直覚的に捉える感性が求められる」、この「直覚」という言葉が何度か出てきた。はじめはスルーしてしまったのだが、再読の時に気付き驚愕した。つまり、物事の本質を知覚するという感性だ。私はよく「勘がよい」「なんでそんなことまで気付くのか?」と言われるが、実は、両親が幼い私に、日本の芸術、しかもリアルなものを体験させてくれたからだったのか。それだけでなく、海外の来たもの、文明展や絵画展にも連れて行き、相対化もできるようにしてくれた。しかもいつも、VTSのような質問を投げかけ、私は自由に想像し答えさせてもらった。

だが、少々本質を見抜けるとしてもだめだということが、この本で痛いほどわかった。鑑賞者でいる間は、ただの受容者だ。それを継承し、表現をする必要があるのだ。確かにこれは、「なまなかなことではない。」

必要なのは認識モード・アートだけでなく、サイエンスつまり高度な理性・論理思考も必要。耳が痛い。直感だけでわかってしまった感じになり、理性を磨いてこなかったことに気付く。分かったつもりになり、やるべきことをやってこなかった。分析して組み立てなおし、弱さを検証し、答えを支えてくれる証拠を探す態度を身に着けなかった。その結果、まともな自己表現ができなかった、他の人を説得することができなかった、教養を使いこなすことなどもちろんできなかったと、今にして痛い。

そうなのだ。教養は、持っているだけではだめだったのだ。「高い視座」という言い方で本書で表現されてたのだが、自分が日常の些事に煩わされながらも、その「高い視座」を持つために、教養を自分で実際に使うことをちゃんと念頭に置いて、その精神を受け取り、アウフヘーベン、つまり批判し、相対化し、継承するために「教養を身につける」という言い方をするのだと痛感した。バカロレアの問題がいい例だ。自分がただの鑑賞者だったことが痛かった。教養を使わなければ本当には生きていけないのだと、もっと積極的にたくさんの知に触れ、吸収し、精神を受け継いでいくべきだった。本書のおかげで、教養についての見方ががらっと変わった。「いい表現を覚えておいて、引き出しにいれておく」「これぐらいのこと教養として知っておかないと」という、セミナーや読書会でのメッセージは、そういうことも示していたのかと、つながっていく(ありがとうございます)。

そしてクラフト。実際にやって経験し、身体感覚をもつかみとる。身体・内臓感覚(!この言い方は本書で知った)を精密にキャッチすればするど、ひとつの体験でつかみとることが豊富になり、それがまた更なる鋭い直覚に結びつく。それを教養が支える、何て美しい循環。

だが、私は、何を表現するというのだろう?どんなビジョンがあるのだろう?

日本企業のビジョンと、現在の閉塞感の指摘の段は、本当に腑に落ちた。共感するビジョンがなければ、つまり、ソマティック・マーカー仮説に紹介されていたような、情動、感受性が動かない状態になる。この状態だと、意思決定障害に陥るとすれば、何も決められなくなり、「やりたいことがみつかんない」と自分探しに出るしかなくなってしまう。

そこで、今月のジャズフェスでの演奏の機会を生かし、立ち止まらずにとにかく、大好きな楽器で実践。教養はコード理論、スケールやメトロノームの練習、鏡を見ながらの練習という基礎を取り入れた。直覚のために、自分の音をしっかり聴いて、より適切なリズム、音色を試し、レジェンドと言われる人たちの演奏をできるだけ聴いた。

当日の演奏自体はあまり出来がよくなかったが、初めて、高度な技術を持つ人からも「よかった」と言われた。素直に嬉しかった。もっとたくさんのいいものに触れて体験し、かっこいいになりたい、音になりたい、感動になりたいと、心の底から湧き出た。
そして今月ようやく、週に2回ほどのペースで、夢を見るようになった。

セミナーの総復習になりました。ありがとうございました。

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投稿者 Devichgng 日時 2018年10月31日


『人間自身が生み出した「物質主義・経済市場主義」という社会システムによって、人間性=ヒューマニズムが失われる疎外という現象が発生している。』
しかし、エリートが「美意識」を鍛え始めたことから、その潮目が変わりつつある、そうあって欲しいというのが、著者が言いたいことの1つではないかと推測しました。

その潮目の変更に対応するために必要なことは、外部のモノサシではなく内部のモノサシに照らし合わせて、自身の有り様を変えること、とありましたので、その内容を中心に今月の感想とします。

外部のモノサシを使うことに頼りすぎることで、疎外という人間喪失の状態に陥っているのは、人間の醜い一面です。しょ~おん塾の言葉で言えば、悪の道に進んだ結果と言えるのかもしれません。
一方で、同じ人間が、美しさ、優しさを芸術という素晴らしいモノとして残してくれています。
人間には本来、美しいものを愛でる能力が備わっているんだと思います。もし素晴らしいものでなければ、淘汰され、何世紀もの時間を経てもこの世に残っていないはずだからです。

ここで、外部のモノサシを自分の外側にある世界、つまり、外的世界とすると、内部のモノサシに照らし合わせるとは、内的世界に浸る、と解釈できるのではないかと思いました。
その内的世界が優しいもの、美しいものであれば、外的世界でイヤなことがあっても、それに浸ることで幸せを実感できるのだと思います。
内的世界は外部世界と異なり、自分の思い通りにできるのですから。
それが現代社会では喪失しているから、本書中の内容とは別の切り口で、外的世界を満たすために犯罪を犯してしまうとも言えると思います。

その内的世界を美しく優しくするためには、普段から何にフォーカスするかが大事だと思いました。同じ人間の行動でも、良いところもあれば、悪いところもあります。悪い、汚い、というところで思考を停止するのではなく、その中から良いところを見つけ出すために、美意識を高めることが役立つのだと感じました。結局、自分がどう考えているのか、どう見ているのかは、過去のパターン認識によっていることは、本書に記載されている通りだからです。
また、生活の中から美が失われると、感性が鈍麻され、鈍麻した人が論理を頼りに美しさのないモノを生み出すという、負のスパイラルに陥っていまうとも記載されていましたからです。

もう1点、深く印象に残ったのが、美と脳科学の章です。
ソマティック・マーカー仮説の項目を読んで、身体感覚に従うことの納得感が更に高まりました。基本編で教わったことと芸術に触れることを行っていけば、より高度な意思決定ができるようになるまでの時間軸が短くなるのだと思いました。
また、高度な意思決定する脳の活動領域と「美しさ」を感じる領域が同じという内容も記載されていて、
美意識を高めていくと高度な意思決定に役立つ、という記載がありました。これを逆に考えれば、論理に従わずに高度な意思決定ができるようになってくると、世の中の美しさを感じやすくなる、とも言えるのかもしれません。

ここから、美意識が高まるから高度な意思決定ができ、
高度な意思決定ができるから、さらに美意識が高まる、
といった好循環が生み出されるのだと感じました。

循環繋がりで言えば、智の道は美しいモデルであることを再認識することができました。
自分にとって良いことが、相手にとっての良いこととが因果関係で結ばれる

本書の内容に従えば、アート、サイエンス、クラフトのバランスが良い経営の条件とありました。
人生も人間自身の経営と考えれば、サイエンスとアートを兼ね備えた美しいモデルである智の道を意識して進むことで、良い人生を全うできるのだと改めて感られます。
クラフトの要素は?というと、それは、しょ~おん先生や塾生のみなさまが証明してくれていますから。

投稿者 kzid9 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ、「美意識」を鍛えるのか? 経営における「アート」と「サイエンス」を読んで

ビジネスというのが人と人とのコミニュケーションによって成立しているのにもかかわらず、コンサルティング会社が主導して流布させた「全てを数値化して管理する」という一種の幻想が浸透した結果、忘れ去られてしまった感がある。
 また、ビジネスの世界では理論だけでは成果が出せない、他者との差別化ができないことによるストレスで不祥事が多発している。
「正解のコモディティー化が進み、方法論としての限界」が来ている。
 このことが、実定法でのグレーゾーンでの商売や、早さや安さだけでの競争に制度疲労を起こしているといえる。
 これは先にも述べたように企業活動の「良さ」が様々な評価指標=KPIによって計量されているからである。しかし、それができるのは、企業活動の中でもごく一部の「測定可能な側面」に限定される。
 企業活動というものはきわめて多岐にわたる複雑な要素によって構成される全体的なシステムであり、必ずしも「計測可能な指標」だけで計れるわけではない。との論に、私も仕事でKPIやドラッカーの「測定できないものは管理できない」などを学んだことがある。
 このことについて、盲目的に信じ込んでいたのでこのことが間違って使われているということに非常に驚いた。
 これは、有名コンサル会社がいうことだからとか、権威のある学者が言ったことだからといった定説を鵜呑みに信じ込むことの危うさを感じたし、無意識に無批判に受け入れている自分に気づいた。

 これらの問題に加えて、現代は、世界中が「自己実現的消費」へと向かいつつある。このような市場で戦うためには精密なマーケティングスキルを用いて論理的に機械的優位性や価格競争力を形成する能力よりも、人の承認欲求や自己実現欲求を刺激するような感性や美意識が重要となってくる。
 全てのビジネスがファッション化しつつある世界においては、企業のリーダーの「美意識」の水準が企業の競争力を大きく左右することになる。
 確かにMacBookをもって、スタバで仕事をしている私って素敵でしょうという消費スタイルがもてはやさせているなあと感じた。

 しかし、実情は企業経営では、上場企業を中心としアカウンタビリティーが求められている。美意識というよりも、とにかく何かあったときにいかに、自分に責任がないのかを証明することに労力が向けれていると感じる。
 当然、経営者は自らの経営判断に瑕疵がないことを証明するためには、合理的な説明可能を求めるのは自然の流れである。そのために、すばらしいビジョンを掲げることに対する意思決定のプロセスとして、リーダーの直感など入り込む余地はないのではないか。

「善」「悪」でいうと、「悪」とはシステムを無批判に受け入れることはないか。
 システムを相対比すること。自分なりの「美意識」を持ち、それに照らしてシステムを批判的に観ることでしか、私たちは「悪」から遠ざかることが出来ない。
 しかし、システムから排除されてしまえば、社会的な成功を収めることは難しいうえに、システムにフィットしている人にシステムを変更する便益はない。
 ここに私たちが向き合っている大変難しい問題がある。 
 私たちは、今後の社会をよりよいものにしていくために、文化的退行の時代に陥らないためにも、日常的に日々の営みに対して「真・善・美」を内在的に判断する美意識という内部規範に照らして自らを顧みるという気概が必要でないか。
 特に、経済的便益を受けているエリートは組織内の同調圧力に屈することなく、高い視座を持ち、判断の基準を外部に置くのではなく、自らの中に持つことが大事である。私も立場こそは違うがそうなりたいと感じた。 

投稿者 LifeCanBeRich 日時 2018年10月31日


『疑う力を養う』


 ● 日本人の偏向性

 江戸の終わりに西洋科学が海を渡って来たのを機に、それまでの精神世界を放棄してしまったと言われる日本人。また、著者が指摘するように太平洋戦争の辛い体験以来、論理と理性を偏重し直感と感性を軽視しているように映る日本人。この日本人の偏向性は、現代の日本にも溢れている。例えば、ハロウィンシーズン真っ只中の今、渋谷にゴミを投げ捨てていく人々。普段は路上にゴミを捨てない人までもが、周囲がしているのを見て、流され同じことをしてしまう。
 著者が言うように、周囲と同じく行動するのが賢明で優秀という日本社会に古くから根ざす「恥の文化」そのままに生きているのがこれらの人たちだろう。
 対して、内在化された「真・善・美」をバランス良く持っている人たちは路上にゴミを捨てることなどは決してしない。なぜなら自分自身という内部に恥じることはしないから。

 社会の通念や周囲で起きていることに流されないために、一方向に偏らず均衡を取るために、

 “美意識を鍛え、周囲を疑う力を養う”

それが、私が本書から得た最も大きな学びである。


 ● 「真・善・美」の「善」が疎かになりかけている社会

 著者は、現代人は「自己実現的便益」を求めていると述べている。そう言われてネットやSNSまたは書籍、雑誌などを見ると、確かに自分らしい生き方を実現するための心構え、考え方、振る舞いについての記事やコメントの多さに気づく。そして、試しに本書名をAmazonの検索エンジンに入れれば、“今、エリートはアートから学ぶ”的なタイトルのビジネス本が参考として画面下方に列挙される。これは、著者のように、複雑性、不安定性、不確実性、曖昧性がさらに増していくこの世の中で美意識の重要性が増してきていることを感知、認識している人たちが多くいることを示唆しているのだと思う。
 
 しかし、ネット媒体にも本媒体にも、「真・善・美」の「善」にあたる倫理・道徳の重要性を説くものは、その他2つ「真」と「美」に比べると少ないようだ。この状況が、とにかく直感重視で倫理・道徳を無視した行動主義、そして本書にも書かれる新興ベンチャーや著名インフルサーなどに見られる「実定法主義」が日本社会で蔓延しつつある事と繋がりがあるのではないだろうか。

 日本は、人間性や人格を養う「善」である倫理・道徳が疎かにされる社会になりつつあるのかもしれない。


 ● 課題図書で美意識を鍛える

 本書で紹介されている「美意識の鍛え方」の1つに「VST」(P.218~)がある。絵画の鑑賞力教育としてグループで作品を「見て、感じて、言葉にする」ことで、まず「自分にとって自明と思われることが、必ずしも他人にとっては自明ではない」ことを知り、最終的に「見えてなかったことが見える」のだという。 
 では、この「VST」の「見て、感じて、言葉にする」の「見て」の部分を“読んで”に替えるとどうなるかというと、“読んで、感じて(考えて)、言葉にする”という課題図書の命題になると言うのは論理の飛躍になってしまうのか。

 そもそも課題図書の歴代リストを見てみれば、「真・善・美」の「客観的な外部のモノサシ」である論理的思考法も学べるが、それよりも「主観的な内部のモノサシ」である直感、倫理・道徳、美的センスに重しおいて学べるようになっていることがわかる。特に、自叙伝や人物評伝は、全てが内部のモノサシをしっかりと持ち、世の中や周囲に流されずに生きている人たちが選ばれている。
 そして、日本社会で疎かになりつつある「善」の部分も、本書でも紹介されている“イノベーション・オブ・ライフ”などの書籍から多くを学ぶことができるのは、世の中に溢れる自己実現ものとは一線を画する点であろう。

 さらに、他の投稿を読む、読書会に参加することでVSTと同じく、“自分には自明なことが、必ずしも他人には自明ではないことが知れ、そして見えてなかったことが見えてくる”のである。

 課題図書は美意識をバランス良く鍛えることができる絶好の機会なのだと本書を読んで気づいた(←遅いですか!?)。


 ● 均衡を取る

 “被害者をケアすると同時に加害者をケアする必要がある。ものごとは常に対になる両方を見る必要があるのだよ”

とは、つい先日に受講した”怪しい系オムニバス・セミナー”で先生がアーミッシュの価値観に触れた時のコメントである。

 “対となる両方を見る”

これは、物質と精神、左脳と右脳、演繹と帰納、具体と抽象、左思想と右思想、そして科学と怪しい系などと、対になる両方を知ることや、または両方を使うことで均衡を取り成果を得るという、S塾の1つの要諦であると思っている。

 そして、本書の主旨である「正しい『論理と直感』『理性と感性』のバランスを取り戻すことが必要」(P.98)とは本質的には、上記したS塾の要諦と同じである。ことさら、複雑さ、不安定さ、不確実さが増していく世界で、周りからの同調圧力が強い日本社会で生き抜く上で重要となる「主観的な内部のモノサシ」の内の「善=道徳・倫理」という人間性や人格を上げるというのも、S塾の要諦にある。

 同調圧力が強い社会、恥の文化、そのような環境や状況の中で生きる宿命にある日本人だからこそ、そこで生まれる価値観、起こる事象に対して、それらを無批判で受け入れるのではなく、それらを疑い批判できるようになる。そのために

 “美意識を鍛え、周囲を疑う力を養う”

ことは、この日本で気持ち良く、胸を張って生きるために必要不可欠なのだと思う。


~終わり~

投稿者 soji0329 日時 2018年10月31日


「世界のエリートはなぜ『美意識』を鍛えるのか 経営における『アート』と『サイエンス』」を読んで


難解である。この本に書かれた『アート』や『美意識』の意味がなかなか理解できないのだ。

私は30年来、ある企業の中で企画やデザインの仕事に携わってきた。顧客から「今までにない斬新な提案をしてください」とよく言われたものだ。そして提案をすると驚くべき質問が飛び出す。「このような企画やデザインで、他社の成功事例はありませんか」と。今までにない、はどこに行ったのか。

担当者が上を説得するためには経験則と数値データが必要なのだ。そんな状況を見てきたので、経営に『クラフト』や『サイエンス』が重視されることは肌感覚で理解していたつもりだ。特に『サイエンス』。市場調査のデータはまさに失敗の言い訳。無責任なアカウンタビリティの論拠とされた現場に立ち会った経験もある。ではそこに必要な『アート』や『美意識』とはどのようなものか。

担当者から「弊社の社長に(提案した)デザインのどこがいいのか説明をして欲しい」と言って来た。『フワッと浮かんだアイデアが優れたものであるかの判断をするための』指標が欲しいのはよく分かる。しかしそれがデザインに対する説明能力とは違う気もする。私は色彩についての学術的な解説や、見た後における心理状態など、とにかく論理的に説明を試みたのだが、昔は若かった。「結局やってみないと分かりません」と正直にゲロってしまったものだ。

本の中では、美意識とは『道徳』や『世界観』『スタイル』『エスプリ』『教養』と様々な記述があるが、どれも腹に落ちてこない。

たまたま先日、家人とファミレスに入った時、この本の話をした。そして本に書かれていたそのままに、美意識の鍛え方をテーブル近くに飾られていた写真で家人に試してみた。「そこには何が描かれていますか」と。その写真には、洋風の無人の室内が写っていた。階段に吹き抜けの天井。そして窓。テーブルにはグラスが並んでいる。家人はしばらくじっと見ていたが、やがてこう答えた。

「うーん、エプロン姿の若い奥さんが見えます」
「えっ?人の姿なんてどこにも写っていないじゃない」
家人はちょっと笑いながらこう言ったのだ。
「男の貴方には見えないかもしれないけれど、私には『見える』のよ」

その言葉を聞いて、私はようやく理解した。美意識とは、ズバリ「見える」ことなのだと。部屋は自分でキレイになったのはない。ピカピカに磨いた誰かによってである。その誰かによる物語が、この写真だったのだ。そのことに気づくためには自分を相対化し、自己意識を高めて写真の中に入り込まなければならない。家人はまさに『非論理的』ではない『超論理的』な話をしたのだ。

「美意識とは、見えること」。そう置き換えてあらためて本を読んでみると、内容がスラスラと頭に入ってきた。悪いことをして逮捕されたとする。もしニュースで報道される自分の姿が相対的に見えたとしたら、そうなるまいと『道徳心』や自分にとっての『真・善・美』が生まれる。さらに自分の規範、モノサシが見えれば『世界観』まで見えてくるのだ。

「見える」ことは「見せる」ことにもつながっていく。自分をどう見せるかで『スタイル』が決まり、そして『エスプリ』や『教養』が身に付いてくる。見せたいものを選び、見せたくないものは隠すか捨てる。『選択と捨象』は、自分を見せる作法に他ならない。

「男の貴方には見えない」と断言されたが、ここで必要なのが自分以外の様々な人間になり切る『メタファーの力』だ。絵を見る。「そこに何が描かれているか」「何が起きていて、これから何が起こるか」「自分の中でどのような感情や感覚が生まれているか」。描かれているものによって自分を自在に変え、絵の中に入っていければ、今までの自分では見えなかったものが見えてくる。それが美意識を鍛えるということなのだ。

巨大な自己実現市場の登場は、日本人にとっての好機だと言う。百人一首にもあるように、日本人は古来より花鳥風月を愛で自分の心情を表現するのに長けていた。天皇が農民に、法師が恋に悩む女性に成り変わって詠んだ歌も散見される。現在のコスプレブームは、『メタファーの力』が日本人の強みだと示しているようだ。しかし昨今のハロウィンに見られる恥知らずな行動は、せっかくの美意識を失わせてしまっているかもしれないが。

提案の席で、社長に本音を話してしまった後のことを思い出した。私はこう言ったのだ。
「でももし、この企画で商品化されたら、私はすぐに買いますね」
その後提案は、無事採用された。今にして思えば、社長は私の話でターゲットとなる購買者が喜んで商品を買う姿が「見えた」に違いない。この本を読んでそんな昔のことを思い出した。

混迷を続けている現代。未来が「見える」能力として、美意識を鍛える大切さを教えてもらった一冊であった。

投稿者 str 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?

先ずは“美意識”というものの間違った認識を改めさせられた。
恥ずかしながら、美意識というのは自らの体形の維持やヘアスタイル、スキンケアやファッションに気を遣ったり。そういった方々が持ち合わせる“外見”に対する強いこだわりの様なものだと思っていたが、私も含め殆どの人が程度の差はあれど、自身の見た目ぐらいは誰だって気に掛ける。本書で言うところの“美意識”とは全く別モノだ。

本書が今月の課題本に選ばれた最中、まるで見本にでもなってくれたかのように、日本の最高峰でもある某大学の“ミスター〇〇候補“でもあったという学生から立て続けに2人も逮捕者が。勉強が出来るか否か。お金の有無。加えて外見の良し悪し。それらだけで判断するならば十分にエリートと呼ばれてもおかしくない部類に属する彼らも、一転して犯罪者の仲間入り。エリートと犯罪の関係性についても本書で触れられていたので、美意識と単なる自己顕示欲を履き違えた一例のように思えた。

美意識を私なりに解釈すると外見的なセンスというより、直感や感性といった内面に強く働き掛けるもの。『真・善・美』とも表現されているように、ルールやモラルの枠から外れてはならない。善きモノを見るのではなく感じる。見せるのではなく魅せる。周囲の空気に流されるのではなく自身の感性を強く持ち、異を唱え・押し通すといった良い意味で“空気の読めないヤツ“であることが必要なのだろう。機械での大量生産品と職人が創り上げた逸品。性能や品質に大差がないにも関わらず、後者の方が高い評価を得る事もある。多くがブランド力や高級志向による影響で「良いモノである」と錯覚しているのかもしれないが、一部の人にとっては作り手の想いや魂を感じ取り、それらに価値を見出すのだろう。冷凍食品や加工食品も手軽さと美味しさは進化を続けている。それでも一流の料理人が提供する料理ばかりか、家庭料理の方に軍配が上がるのも、提供する側と受け取る側の双方が、想いを込めたか・それを感じ取れたかどうか。という部分に左右されるのかもしれない。

美意識の欠如は大袈裟に言えば人間性を失くしていく事に近い。「これは良いモノなのだろう」「皆がやっているのだから正しい事なのだろう」という思い込みの行きつく先は、周囲と同じ行動・思考の繰り返になりかねない。人の代わりとして機械を作りあげてきた人間が、今度は自ら機械的な存在に近づこうとしてしまっているのではないだろうか?では人間味を保つために感覚だけに頼っていくのか?という訳でもない。趣味の世界でならともかく、ビジネスの世界に於いて生産性や効率化などの問題を度外視し続けていく事は、まず不可能だ。

本書が教えてくれているのは『アート』『クラフト』『サイエンス』に対する優劣ではなく、どちらかに対しての偏り。とりわけ現代において『アート』部分の割合が小さい事を危惧しているように思う。全てはバランスであり、自らの持つ感覚に委ねるべきシーンがある事をエリート達は感じているからこそ、日頃から美意識を磨いているのだろう。

では「自分も美意識を鍛えよう」などとおこがましい事は言えないし、そこに思考を挟んでしまっては感覚とは異なってしまう。芸術・音楽・映画・料理などなんでもいい。何がその時の自分の感性に刺さるかは分からないので、”説明出来ないけれど理屈無しに心に響く“という感覚に先ずは気付き、大切にする事から始めていこう。
「理屈ではそうなんだけど・・」「頭では分かっているんだけど・・」という引っ掛かりが生まれたのなら、留めておくのではなく、周囲に発信してみる事も必要だろう。理論的・論理的な説明は難しいけれど、同じ様に“何か“を感じているのが自分ひとりだとは限らないからだ。

投稿者 collie445 日時 2018年10月31日


 本書を読んで、まず感じたこと、それは、本書で言う「サイエンス」が科学原理主義で、「アート」がある意味「怪しい系」にあたり、「真・善・美」とは「智の道」に通じるのではないかということです。その認識から考えると日々実践している呼吸法などの修行も美意識を鍛える方法のひとつであるから、しっかり続けようと気持ちを新たにしました。

 一方で、芸術に親しむという取り組みはまだまだ不十分です。振り返ると、中学時代は、美術部に所属していました。特に絵が好きであったり、得意であったりした訳ではありません。美術部にした理由は、忘れてしまいましたが、活動時間が短くて、楽であったからとかそんな理由であったように思います。今、振り返ると、芸術に親しむというのは良い経験であったのだと改めて思いました。しかし、その後は、ほとんど芸術に触れる機会はなくなってしまいました。どのように親しんでいけばよいのか分かりませんでしたし、芸術に親しむことで知的パフォーマンスが向上するとは思ってもみませんでした。。本書には、芸術を学ぶために何をすべきか書いてあったので、これから取り組んで行こうと思います。出かけた先で、美術品があったとしても、なんとなく眺めるだけでしたが、これからは美術展などに出かけて見ようと思います。VTSというものも初めて知りました。作品について想像を巡らすことで「見る力」が養われるとは思いもしませんでした。哲学や文学、詩などにももっと触れる機会を増やして行こうと思います。

 こうして自分の今後の取り組みを考えている過程で、子供たちのことが浮かびました。そして、子供たちの将来に不安を覚えました。私の子供たちは、高校生なので、高校の進路説明会などで高校の先生方の話を聞く機会があります。そこでの話は、仕事や進路に直結した話ばかりです。これからは多くの仕事がAIに置き換えられるから、AIに使われる側ではなく、AIを使う側にならなくてはならない。しっかり自分の力で考えられるようにならないといけない。色々と考える授業をやっていますから、本校の生徒は、入試改革後の記述問題にも対応できます。こうした話を聞いて、違和感を感じていました。科学や理屈の話がほとんどなのです。人間的成長につながる余白のようなものが希薄だと感じ、漠然とした不安を感じていました。その漠然とした不安がなんなのかが、本書を読んで、わかった気がしました。それは、受験エリートがオウム真理教にハマってしまったような怖さです。

 今の子供たちは、スマートフォンに振り回されています。SNSを通じた広く浅いコミュニーケーションやネットサーフィンやオンラインゲームに多くの時間を費やし、自分と向き合う時間がありません。


 大正から昭和初期にかけての、情操を養ったり、道徳心を身に着けさせたり、国際的視野を広げるような教育なら、本書にある美意識を鍛えることができたのではないでしょうか。戦後の日本の教育システムは、労働者を育てるものとなってしまっているので、それは仕方のないことなのかもしれませんが、戦前の教育をまた取り戻したいと感じました。

 我が家も幼い頃は図書館に毎週のように連れて行って本に親しんでいたのに、今は本をほとんど読んでいません。課題で本を読むくらいです。音楽については、ピアノやギターの演奏をしたり、合唱に取り組んだりとある程度親しめているのがせめてもの救いです。

 これからは、自分自身の取り組みと合わせて、子供たちを巻き込んで、アートに親しむ生活を心がけて、家族で美意識を鍛えていこうと思います。

 新たな気づきを与えてくれた本との出会いに心から感謝いたします。

投稿者 kayopom 日時 2018年10月31日


『全世界の文系人間の皆様 おめでとう、やっとあなた方の時代がきました』ではないのだ」

AIの登場、VUCAな世界情勢により、「人間とはなんぞや?」と考える必要性から、俄かに脚光を浴びるようになった文学や哲学、アートなどの文系学問分野たち。

本書によると、従来型の分析的、論理的かつ理性的思考に基づく解決法では、現代社会の複雑化する諸問題には対処できなくなっており、逆に今までは非論理的と切り捨てられていた直感的かつ感性的な思考が課題解決のためには必要となっているとのこと。
そのために西欧のビジネスエリートは、哲学、倫理、美術を学び、真善美の領域で美意識を養うようになってきているというのだ。

文学少年少女やアートやサブカルおたくは、自分たちが文学や芸術を学んできたのは間違いなかった!とガッツポーズしたくなる。
が、著者のメッセージは「社会を変えるのはあなたたちです!」との意識改革である。
以下紐解いてみたい。

○社会彫刻へ全員参加せよ(p29〜30)
アーティストのボイスは世界を「社会彫刻」とみたてた。日常的な「仕事」という営みが世界の姿を作り上げる以上、私たち全員が「社会彫刻」に携わるアーティストであり、全ての人は自覚と美意識を持って、世界をより良いものに変えていけるか諦めずに考え続け、希望を失わないことが大切と提言する。
「世界は誰かの仕事でできている」という缶コーヒーの名コピーを思い出した。

○停滞する日本企業及び日本国民への叱咤激励(p112〜122)
日本企業の優位性=機能性が次々とコモディティ化していく一方、消費社会が「自己実現欲求」と向かう今、日本人は世界的にみても高水準の美意識という武器がある。
日本国の世界観とストーリーは使い方次第でブランド戦略の競争優位に立てると語られる。
リンドバーグ夫人、タウト、クローデルと日本の芸術を手放しに称賛した人々がたくさんいることで激励する一方、アラン・ケイの辛辣なコメントともに、美意識は容易に失われる危険性も注意喚起されている。

○世界のルールメーカーたる欧米のエリートと同じ思想を蓄えよ、そして変革せよ(第6、7章)
高価値な決断をするために学ぶ、つまり高次元で物事を捉え、現実に落とし込むための絵画の見方、哲学や文学から学ぶ視点が示される。
例えば哲学であればその哲学者が生きた時代において支配的だった考え方に対し、どのように批判し考えていったか、そのプロセスを見つめることが重要とされる。
ビジネスエリートが実践する、美意識の学び方と視座を得ることで、新たなリーダーになりうることが語られる。

○システムの変革者たれ(p238)
最も強烈と思ったメッセージは、「社会を変えるためには、システムの内部にいて、これを最適化しながらも、システムそのものへの懐疑は失わない。
そして、システムの有り様に対して発言力や影響力を発揮出来るだけの権力を獲得するためにしたたかに動き回りながら、理想的な社会の実現に向けて、システムの改変を試みる。」p257「システムから大きなメリットを得ているエリートが、システムそのものの改変を目指して、美意識を鍛えている」

以上まとめると、この世界に生きる以上、全員が日々をより良いものとして考えることは必須、そのために美意識を高めて向上し続けよ。
日本人は本来は美意識が高いのであるから、欧米エリートの手法を学べば十分競争は可能である。システムの内部からシステムそのものを変革せよ。

柔らかい語り口ながら反逆的とも言える考え方と、さらにはハンナ・アーレントの「悪とはシステムを無批判に受け入れること」まで並べられると正直たじろぐ。
特にシステム内部からの改変については至極納得がいくことなのだが、そこまで高邁な理想の持ち主が内部で偉くなるまで悠長に構えていられるだろうか。
高い理想と行動力を持つ人物ならば、もはやシステム内に留まるのではなく、例えばキンコンの西野さんごとく、新たなシステムを外部に形成するのではないかと感じた。
また、論理的かつ理性的な考え方が支配するシステムと対峙していくには、MBAで教わる数々のフレームワークしかりマーケティングや経営学など「支配的な考え方」についても学ばなければならない。実用文系分野もカバーするのかと思うと、時間も気力も相当なものだ。
筆者の経歴から察するに、彼にはやれた芸当だろうが、一般的には高いハードルと言える。

○凡人なりの戦い方
だが、直感と感性系分野の学問というのは、存外親しみやすいものだ。実用分野の学問より日々楽しんで学び続けることができる。そこが要諦である。
曲がりなりにもアートなどに興味があり、ここを自身の優位性とするならば、本書をヒントに知識や見識を蓄え、いざというときに発揮できるよう準備することは可能だ。
組織内部の有力者にコメントを求められるような、美のセンスと表現力を日々磨く。
第一歩は美意識高い系のイメージ作りのためにファッションでアピール。今やファッションならばセンスを買うことはできる。
日々の自己アピールを着眼している時点で、美意識は磨かれ続けるはずである。
大事なのは、楽しみながらも戦略的な活用視点と実用への落とし込みを忘れないことだろう。

○「美意識」をさらに磨くには
本書には「美意識」という言葉はあるが、具体的に「美」に対する定義は出てこない。
p88 「美しさを目指すことが、結果として正しい手を指すことにつながると思う」と羽生さんの話が引用されているが、「将棋における美しさ」がどのようなものかが述べられていない。語られないのは本論から外れることもあるが、「美しさ」は経験者にしかわからない主観だからと考えられる。

個人的に最も美的なセンスを伸ばす有効な方法は、当人が興味がある芸術的な活動を実際にやることと思う。
鑑賞だけでもいいが、音楽や絵画は自分でやってみることで、より名演奏だったり名作と言われているものの凄さがわかる。
また、いい芸術は鑑賞する方にもインスピレーションを与える。かっこいいバンドがいたら私もやりたい!ってなる。
芸術的伝播力があるものこそが、芸術的な価値(サブカルにおいても)があると自分は思う。
パンクロックみたいに、楽器弾けないけど、バンドやっちゃいましたでいいのである。
アマチュアだろうが下手だろうが「アーティスト」活動をすることが、21世紀の「社会彫刻家」には必須と思う。

投稿者 2345678 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?を読んで。

なぜ筆者がこの問いを発したのであろうか?

もちろん筆者が大学院でキュレーションを先行し、長年、組織開発や人材育成の
コンサルティングを専門とする仕事を行いグローバル企業の幹部トレーニングが
美術系大学院で行われているトレンドをつかみ取っていることが土台にある。

自分たちの飯の種であったフレームワークではなく、本質は美意識だよ。と宣言されている。

本書P19の筆者が個人的に「直感的に正しい」と考えたものについては、必ずしも
科学的根拠が明確でない場合においてもそれを「正しい」(と思う)とする前提で論をすすめている。

ここに賛同し、かつ美意識の大切さを感じました。

鍛える目的は、(グローバル企業のエリートなら)功利的。ではこの本の読者が鍛える目的は?智の道を行くためではないか。本書を通じて、覇の道では「疎外」が蔓延していることを伝えているから。

鍛える理由は、次の3つ。

1)論理的・理性的な情報処理スキルの限界が露呈しつつある (バランスが必要)

2)世界中の市場が「自己実現的消費」へと向かいつつある (日本企業への賛歌)

3)システムの変化にルールの制定が追い付かない状況が発生している (邪悪にならない)

従前の論理的・理性的スキルに加えて、直感的・感性的スキルの獲得が必要とされている。
それは、優れた意思決定には理性と感性、論理と直感の両方が求めれらているから。
また、適切な意思決定には、自分なりの「真・善・美」に関する基準・・美意識を高める必要がある。

上記のことに気が付いているのがグローバル企業のエリート。

社会システムを改変できるのは、そのシステム内部にいて影響力と発言力をもつエリート。

システムから大きなメリットを得ているのもエリート。

しかし、そのエリートがシステムそのものの改変を目指して、美意識を鍛えている。

この兆しが感じられるからこそ、筆者は、主観的な内部のモノサシ「直感」「倫理・道徳」「審美感性」を磨くこと。を強調し筆者は、エリートだけでなく一人でも多くの本書の読者もそうなってほしいと願っている。(本書P251のおわりにから)

投稿者 u013 日時 2018年10月31日


すべての日本人が、世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?を読まなければ、日本という国は終わるのかもしれないーーそう思わずにはいられなかった。


多くのビジネスパーソンが、「世界のエリート」を目指すためのスキルアップの一環として、「美意識」を鍛えようと本書を手に取るのだろう。


そして、著者が推奨する文学や詩の世界に親しむべく、書店へと向かう。または千利休の世界を知ろうと茶道・華道といった日本の伝統文化を体験する機会を設ける。


きっと、それは間違いではない。むしろ、積極的に行動するのは素晴らしい上に、その経験は無駄ではない。


ただ、本当にそれで良いのだろうか?という疑問がぬぐえない。今のままの姿勢で日本文化を学ぶことは「美意識」を偏差値教育に引きずり込み、上手下手の尺度で点数評価してしまう可能性が高いのではないだろうか、と。


山口氏が提起しているのは、その程度で解決される問題ではないような危機感が募る。


『センスのいい商品の流通がグローバルにならなければ問題はないが、センスの悪い国にセンスのいい国の商品が入ってきた場合、センスの悪い国の人々は入ってきた商品に触発されて目覚め、よそから来た商品に欲望を抱くだろう。しかしこの逆は起こらない』


この一文を読むかぎり、彼が見澄ます未来は、もっと絶望的な状況ではないかと思わざるをえない。商品として表現されているものが、お金となり、人間となったら。対峙しているのが企業同士ではなく、国家となったら・・・。


かつての日本は、訪れる者を魅了してやまなかったという。今、世界のエリートが美意識を鍛えているのは、当時の日本に触発されてのことかもしれない。


では、日本人は一体どのように美意識、つまり自身の内的規範を生み育てたのか。一度それを失い、退行期にある我々は何をどう考え、どう行動すれば良いのか。


『全ての人はアーティストとしての自覚と美意識を持って社会に関わるべきだ。(中略)この世界をどのようにしたいかというビジョンを持って、毎日の生活を送るべきだ』


このヨーゼフ・ボイルからの引用と、山口氏が紹介してくれた世界のエリートの哲学の学び方『コンテンツではなく、プロセス、モードを学ぶ』というのがヒントになった。


キーワードは、思考・行動の抽象度と時間軸ではないだろうか。


まずは、抽象度だ。山口氏が、エリートが犯す過ちとして挙げたオウム事件とITベンチャー事件。どちらも考えられているのは、自分が儲かるか、自分が称賛されるか、自分が正しいかどうか、ということ。


その思考と行動の背景にあるのは、自分自身のみなのだ。(そうすることにより、責任転嫁と自己保身の必要性が生じ、さらに悪循環に陥るのだろう)


ボイル氏のように、世界とまではいかずとも、もう一段階外へ視野を広げられれば・・・自分以外の他者が現れ、関係性が生じ、因果関係の存在に気がつかされる。


次に、時間軸。これは、着地点・完成形をイメージする力と言える。猛毒を撒くことで、どのような世界が創造されるのか。ガチャガチャで搾取される人間が増えることで、日本がどうなっていくのか。


そう考えると、未来は現在であり、現在は未来と同じであるという不思議な感覚に陥る。その感覚があるからこそ、法律が整備されていない未知の世界でも、自ずと道徳・規範と呼ばれるものを感じられる人間でいられるのではないだろうか。


「美意識」と聞くと、芸術の教養やファッションセンスを連想する。そして、それが無い自分自身を安易に許容してしまう。


しかし、山口氏が指摘するとおり、美意識とは内的な規範そのものであり、人間として生きる指針、自分が生きる世界に対する姿勢なのだ。つまり、誰にとっても無関係なものではない。


以上を踏まえ、まずは今日自分が考えたこと、行ったことについて、抽象度をあげ、時間軸を伸ばしてみること。その訓練から始めることとする。

投稿者 dandandaniel 日時 2018年10月31日


 本書は「サイエンス」偏重のビジネスへの捉え方に対して、「アート」という説明しづらく、
およそ直接的な実益がないと思われるものを、様々な事例を紹介しながら見事な
「アカウンタビリティ」を発揮している点が特筆すべきところだと思います。

そんな本書の中でも特に印象に残ったのは、以下の2点です。
 ・スキルの限界、感覚を磨く重要性
 ・システムのルールを理解した上でシステム自体を疑う

◆スキルの限界、感覚を磨く重要性
 改めて言うまでもなく、現代のビジネスマンには各職務に応じたスキルが求められ、
その量及び質によって市場価値が測られ報酬が決まります。確かにスキル自体は
ビジネスの重要な要素ですが、一流を目指すにあたってはスキルだけでは限界があることを
本書は説いています。その一例として、チェスの一流と二流以下のプレーヤーで読みの手数に
大差はないことがP.86で説明されていました。そして一流のプレイヤーとそれ以外を分ける
要素として、一流は良い手が読みのごく初期から含まれていたと書かれています。
 この部分を読んで改めて思い起こしたのは、「日本の弓術」の中でオイゲン・へリゲルが
スキルで弓術の上達を試みたけれども、阿波師範に諫められたシーンでした。阿波師範は
スキルを超えた感覚を磨くことの重要性を身をもって証明しました。
暗闇の中で先に放った矢の中心を正確に射るという人間離れした技によって!!!
より複雑かつ困難な状況下において、優れた手を打つには感覚を鍛えることが大事なのだと
いうことを痛感しました。

◆システムのルールを理解した上でシステム自体を疑う
 第5章において、「オウム真理教」の教義がコンサルティング会社のシンプルな階層構造と
類似しているという指摘がされています。私自身も昇進条件が明確であることが望ましいと
考えていただけに、この指摘には衝撃を受けました。さらに以降のページで、コンサルティング
業界出身者と新興ベンチャーの関連性が説かれており、説明会で事業の収益性のみが判断の
基準であることに筆者が危うさを感じた記述があります。
特にP.175において、「社会というシステムの是非を問わず、そのシステムの中で高い得点を
取ることだけでにしか興味がない」という表現が衝撃的でした。そして、システムを無批判に
受け入れることこそが「悪」であると言っています。
 この部分を読んで、2018年8月の課題図書「昭和16年の敗戦」の東条英機を思い出しました。
昭和陸軍という官僚組織のトップに運良く(?)登り詰め、戦争に突き進まざるを得ない様子が
描かれていました。この部分を読んだ当時は不愉快な感覚をもったのみだったのですが、
その理由が改めて腑に落ちました。
トップに立つものは、組織のルールを理解し最適化した人間であるけれども、システム自体の
存在を疑わなければならないと。特に現代のように変化のスピードが速く、法整備が技術に
追い付かない状況ではグレーゾーンが多く存在します。
そんな頼るべき基準がない中で、人々が共通して良いと共感できる「アート」を味方に
つける価値は計り知れないと思いました。

今月も良書の紹介をありがとうございました。

投稿者 kokchamp 日時 2018年10月31日


私の中で、美というものが身近な問題として現れたのは約10年ほど前のMBAの学びの中からでした。美というよりはアートやデザインというものと経営との関連という意味で、それは常に頭の片隅にあって解決できない問題でした。卒業して10年頭の中に残ったままです。
一つは、経営戦略学の授業で教授が「経営はアートだと言い切る経営者もいる」という話をしていて、当時は「こっちは経営学の知識を得て社会人としてより良い生活をしていこうと意気込んでいるのにこの人は何を言っているのか、だったら何のために入学して来たのか?」と憤りながらその授業を聞いていたこと。
もう一つは、ゼミで修士論文の作成に取り掛かっている際、同級生のテーマがデザインによる競争優位性について、ダイソンの製品は値崩れせずに売れ続けている。その強さの要因は何か?という問題意識から論文を作成しているのを見ていたこと。
この2つの記憶が、美的感覚と論理性との繋がりを意識するきっかけとなっていました。ただ、そこから何か深く調べたり、追求したということはなくたまにデザインシンキングとか組織デザインといったキーワードとして様々な場面で登場してくる際に思い出すと言ったものでした。
MBAを卒業して、実際の仕事でいざ活用しようにもなかなか活用できる場面もなく考えて意見したとしても、その価値観を共有出来るメンバーが周りにはおらず、却って孤立を深めることになってしまいました。今から振り返ると、フレームワークなどの道具を闇雲に使ってみたかっただけのような気もします。
とにかく武器を得たつもりでもそれをうまく活用できず、また、実践するにはその知識を使いこなせるだけの実務的な知識や経験が必要だと思い知らされていました。
この本を読んで、問題意識を突き詰めて、こうなんだと人に説明して納得出来るようになるには、その背景に膨大な異なる分野の知識を単に知っているだけのレベルではなく、自分の言葉で使いこなせるまでに腹落ちさせ、実際の経験と合わせて融合させるレベルにまで高めていく必要を感じました。
著者の経歴を見ると、大学、大学院時代に美術史や哲学を学び自分のものとして使いこなせる道具としています。高校時代は映画ばかり見て出席日数が足りなくなると先生から注意されるくらいで、あまり勉強熱心ではなかったようです。
大学時代に哲学や美術史を学んでいた著者はそのあとコンサル会社で働き、様々な会社を経て今の地位を築いたわけですが、その時代の学びがコンサル会社で武器となってのような本ができたということになります。
このような一見関連がないような自身のキャリアが強みを発揮するのだなという部分は、過去の課題図書の「自分が信じていることを疑う勇気」の著者のことを思い出しました。
今回、美意識の必要性を様々な事例を紹介しながら説明してくれているが、私の気づきは2つあります。
1つは、哲学を学ぶことの必要性と本質です。哲学的思考は、日本人が海外に出て言った時に相対するもので、正解のない問題について自分の頭で考える能力を高めると言います。考えても正解がない世界というには仕事の中では当たり前といえば当たり前ですが、自分が正しいと思ったことを相手に説明する際、違うかもしれないけれどもと思えるかどうかは、コミュニケーションの前提として非常に大事で、そう言った意味で正解のない問題に自分なりの考えをまとめ、相手に伝えることができるスキルは中々得られるものではありませんし、いざ必要だと思った際にすぐ手に入るものでもありません。この能力を高めるには哲学を学ぶ必要があり、哲学を学ぶということは、結論ではなくその結論に至るまでの考えた過程の中に学ぶべきものがるというのは、私にとってありがたいと発見でした。
2つ目は、美術を知ることは、単に感性を磨くことだけではなく、美術の背景には各時代の歴史や価値観、文化、経済状況が現れており、美術を通じて世界的な教養を学ぶことができるということの発見です。以前、現代美術のキュレーターの方の話を聞いた際に、美術史を通じてその時代の経済がわかるという話を聞いたことがあります。その話とこの本が繋がりました。最近、仕事上でもリベラルアーツの重要性が高まっているという話をよく聞きます。
仕事柄ヨーロッパに添乗に言った際に、美術館や教会にいくとその価値がわかるには前提となる知識が必要だなと感じたことを思い出しました。
このような気づきから冒頭の経営はアートであるという言葉の意味がおぼろげながらわかるような気がしてきました。
自分の下した決断が、自分自身の目から見て、「美しい」と思えるかどうか、美意識に照らして考えた時に、納得できれば、それは良い意思決定なのだということではないか。「美しいと人が感じる時、それはなにがしかの合理的な目的に適っている」カントの言葉で繋がりました。
この本を読んで、今までモヤモヤしていたものがつながり、美意識を高めなければと思った次第です。
今月も良い本をありがとうございました。

投稿者 toshi121 日時 2018年10月31日


「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」を読んで

 本書を読んで、自分はつくづく論理的、理性的な情報スキルに依存し、「美意識」とほど遠い生活を送っていることを痛感した。「美意識」などは、余裕がある人だけが楽しむ、無駄なものと感じていたのである。
しかし、本書に紹介されている様々な例から、世界のエリートが「美意識」を大事にし、鍛えているということを知った。「美意識」を大事にしているからこそ成功しているとも言える事実を知り、深く反省するのみである。
特に強く印象に残っているのは二点である。一つ目は「デザイン」と「経営」に本質的な共通点があり、その共通する本質とは、「エッセンスをすくいとって、後は切り捨てる」という点である。「選択と集中」はよく言われることであり、「捨てる」ことの大事さが強調されることが多いが、それが「デザイン」に通じるものであるというのは、まったく考えたことがなかったことであった。
もう一つは、グーグルが社是に「邪悪にならない」を掲げていて、それが「グーグルの美意識の表出」だという主張である。情報通信や人工知能などの極めて変化が激しい世界における判断の軸を「正邪の側面から考えよう」というのは、とても意外に感じたが、またそうあるべき、そうあって欲しいと思ったのも事実である。
最終章に『どう「美意識」を鍛えるか?』があるが、これを読んで暗澹たる気持ちになった。絵画を見ることで「見る力」を鍛える、哲学に親しむ、文学を読む、詩を読むとあり、感受性が衰えた50歳代となっている自分にとって、これからどのように取り組めばよいのかと、途方に暮れているのである。
まあ手遅れだと諦めるだけでは脳がないし、「美意識」を鍛えることの重要性を遅ればせながら知ることができたので、自分にとって比較的取り組みやすい絵画を見る、文学を読むから、少しずつでも取り組んでいくこととしたい。哲学と詩は、ずっと苦手としてきたものであり、相当ハードルが高いのだが、毛嫌いするのではなく、簡単なものから触れる機会を作ることにもチャレンジしていきたい。いずれも、自らの生活を彩り、豊かにしてくれることがあることを信じてやり続ければ、きっと楽しむことができるようになるであろう。
この毎月の課題図書は、自らの選択だけではまずは手に取ることがない本に触れる貴重な機会となっている。今月のように取り組みにくい月も少なくないが、これも諦めずに続けていく所存である。

投稿者 Rainbowpot 日時 2018年10月31日


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』を読んで

最初にこの本を読み進めるに連れて、正直、私の中には焦燥感が湧き立ち、落胆と反省で暗い気持ちになってしまった。
あとがきで作者の『21世紀という時代が、「新しいルネサンス」になればいいのになぁ』という一文を読むまでは。その視座の高さに、心に涼しい風が吹き込み、心の黒い物が一気に飛ばされてしまった。

【暗い気持ち】
先ず最初に、昔から芸術作品が好きで、美術館にも頻繁に出掛けているし、詩も哲学書も文学も好き。でも私の中の判断基準や行動指針に、作者の言うような「美意識」が醸成されてこなかったことに気付かされたこと。

私は全く「エリート」ではないけれど、不条理な現実社会に傷付き、「わかりやすさ」「見通しの良さ」に惹かれたオウム信者が他人事では無かったし、ナチス・ドイツの残虐なシステムで主導的な役割を果たした、アイヒマンのように、組織の命令に「達成動機」の強さで盲目的に従って、「悪」に手を染める可能性があったのだと、この本を読んで過去の心の暗部を抉り出されたような気すらした。
過去と書いたのは、私は美術館に行く事ではなく、しょ~おん先生の提唱されている考え方に触れて、自分の中に作者が言うところの「真・善・美」のような行動規範、判断基準をきちんと持たなくてはなら無い事に、気付かされていたから。
でも、行動に主体性を発揮出来るようにするには、まだまだ遠いと感じるほど、流されて生きる事が染み付いてしまっている。

そして、その主体性の無さこそが、美術作品を眺めていても「美意識」が鍛えられなかった一番の原因だったのだ。

作者が「美意識」を鍛える方法として、挙げていたVTS。①何が描かれているか、だけではなく、②絵の中で何が起きていて、これから何が起きるのか、そして③自身の中で湧き起こる感情や感覚、それらを言葉にし、更にグループセッションをするという。
今まで、私の絵画鑑賞は全く、その作品の内側へ触れようというものではなかったのだと、このVTSでの作品の鑑賞方法を知って、愕然とした。なぜなら、私は「何が描かれているのか」を認識して、ラベルを貼って安心し、また、作者や作品の時代背景や人生がどのように反映されているのか程度しか、その作品から読み取ろうとしていなかったから。
私自身の中で湧き起こる感情や感覚に、一切耳を済ませていなかった。私は、私の心や感情をこんなに粗末に扱っていたのかということにも、気が付かされました。
また、その他の「美意識」を鍛える方法として筆者が挙げていた、哲学に親しむ事。
これも恥ずかしながら、私は著名な哲学者のコンテンツを暗記する事で、哲学を学んだ気になり、まさに「虚仮威しの教養」で学びのレベルを止めていました。コンテンツではなく、「その哲学者がどのように疑いの目を差し向け、考えたかというプロセスや態度」が真に重要だとの指摘に、初めて、哲学がエリート養成の土台になるという意味が理解出来たのです。
このように本編では、沢山のダメ出しをされているように感じ、ただひたすら、気持ちが落ち込んでいきました。

【涼しい風】
あとがきになって、ようやく作者はこの21世紀を変革する為に、「美意識」を通して読者に「人間性」を回復し、一人一人が自分で「真・善・美」を判断する社会、しかも社会の外側からの変革ではなく、エリートとして社会に適合しながら内側から変革を起こす、そのような革命の種を読者達に植え付けたかったんだと気が付きました。
ただの社会に適合していない革命家では、素晴らしい社会を目指したとしても、結局は無力で、社会全体に変革の波を起こすには至らない。だから、作者はエリートに焦点を絞り、パワーを持つ立場を推奨した。そして、エリートになって年収とか地位とか、派手な生活を送ることに目標を置くのではなく、31世紀(ドラえもんより更に先!!!)から振り返って、誇れる21世紀を作る為の社会変革を起こしたい、そういう作者の野望がとても心地が良く感じたのです。
本編を読んでいる際の視座低い自分から、急に空から俯瞰する視線に変わったかのような気持ちの良い瞬間でした。

【革命の種】
この作者に植え付けてもらった、革命の種。パワーを持った時のこそ、大きな花を開かせられるのだから、本編で問題視されていた「達成動機」も捨て去らずに、大事に付き合って、社会的に成功も引き寄せていきたい。
本書を読んで、自身の主体性の無さに端を発する、数々の問題点にも気付かされた。少しづつ自身の課題を克服し、「美意識」を鍛えながら、会社生活を邁進して行こうと、強く思いました。

今回も素晴らしい気付きに満ちた本をご紹介頂き、有難うございました。

投稿者 akiko3 日時 2018年10月31日


「今夜22時から明日にかけ(本州と島を結ぶ)橋は安全点検の為通行止めとなります」無情にも防災無線はそう告げただけで終わった。
   すでに20時近かったが広報誌を探し役場に電話した(携帯はネットが繋がらなかった)。なにか代替手段があるか聞くも、申し訳なさそうに
「我々も急に県から連絡を受け、今は何もお伝えできる情報がなくて…」
「じゃ、個人で船を手配するとかしかないんですね…」と電話を切った。橋を歩道を歩いて渡るか?いやいや全面通行止めだって。釣りが好きな親戚、船もってたっけ?釣り船って海ならどこへでも自由に行き来できるのかな?思考がぐるぐる空回りしていたら電話がなった。先ほどの役場の方が着信履歴を見て、“島の先端の港からフェリーが午前と夜1本ずつ本州にいくのがある”と調べてかけ直して下さった!
そのフェリーに確実に乗れるよう早めに行こうと決め、準備をしていたら、23時頃再び防災無線で町が臨時船を6時20分に出すと。こんな時間まで役場の人達は徹夜かね…電話応対をされた方も残業時間にもかかわらず、清々しい第一声だったし、しゃべり方も感じがよかったなと、今日も明日もまだまだ続く混乱の中、誠実に対応される姿が想像できてちょっと心が穏やかになった。

貨物船が橋に衝突した影響で約9千世帯(約1万5千人)で断水し、ケーブルも一部の地域で不通の状態だった。田舎なので井戸水があるところもあったが、高齢者も多く水汲みも大仕事だ。でも、できることをやろうという地域の助け合いでなんとか日常生活を送っていた。
連日、地方ニュースで状況は伝えられるが、橋の復旧には時間がかかりそうで、いろいろな影響も浮き彫りになってきていた事故から1週間を過ぎた頃、町のFBで“こんなときですが…”と減多に見ることのないナベヅル3羽の飛来を知らせる投稿があった。
町が手配した無料の臨時船を利用した時、船の揺れが苦手なのでギリギリまで陸で待っていたが、波の音、潮風、青い空、秋らしい薄い雲、山の稜線、なんてきれいなんだろうとぼーと眺めてたら20分があっという間にすぎた。(船着き場の役場の職員さんはわざわざ陸に呼びに来てくれた。)
一番前で降りる人の列の切れ目を待っていたら、中学生ぐらいの男子学生が「どうぞ」と譲ってくれた。おばちゃん、男の子の優しさに弱いのよ♪じゃなくって、自然が人を作ってくれているのかもしれないと思った。貨物船が橋に衝突したせいで、日常生活がままならなくなったのに、(おそらく事故前と変わらぬ)優しさをいたるところで感じた。そんな優しさはこの島の自然が育んだ、自然の一部のようにも思えたのだ。
今回の著書を読んで、自分は何か大きな仕組みを変えるような影響力など持ち合わせていないが、日常生活の中でちょっと違う風を吹き込んだり、何かが起こっても柔軟な心で受け入れたいと思った。
コミュニケーション力は生活の円滑な人間関係に欠かせないし、自然災害の多い昨今、いつ、どんなところで人をまとめて動かす力が必要となるかもわからない、一人一人が『真・善・美』を鍛えておくことはよりよい社会、幸せな日常をおくる上でも大切な能力だ。

著者のクイズを真似て、今回のニュースになった島は何県のなんという島か知っちょる?
<ヒント>
・著者名と同じものが3つ
・今年の新年早々、寒波で橋の下にある本州からの水道管が破裂し3日間の断水があり、ローカルニュースに
・スーパーおじさんが遠方からかけつけ迷子救出、全国ニュースに
・わけありもんが島に紛れ込み9日も滞在したことがわかり、またまた全国ニュースに

貨物船がアタック、ナベヅル飛来。次はなに?と構えてしまいますが、現在は橋も通れます。ミカン狩り、釣り、海…観光も盛んな島です。ぜひ次は観光客の皆様をお待ちしております。ネットも繋がっていますので、島の通販もございます。

 (私自身はこの夏、ムカデ騒動で田舎暮らしはムリ~という…矛盾していますが)島の方達、頑張っています!

投稿者 eiyouhokyu 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?を読んで

 本著でいう「アート」と、私の目指す生き方「私も幸せ、あなたも(周りの人も)幸せ」には共通することがある。以下の3点が共通している点だと思う。
①アート作品は、自分だけでなく人を楽しませる、喜ばせる
②観察力が必要
③争いをしない
 
 1つ目、アートは自分の体と心をつかって、感じて、楽しむことができる。誰かと競い合って体現するのではなくて、自己と向き合って表現されたものがアートである。作品に触れるということは、時代も場所も超えた「私も、あなたも」の世界に触れることなのだと感じた。
 
 2つ目、その世界を感じるには、作品からのメッセージを受け取れる土台が必要となる。些細な変化や感覚の違和感を見つけ、思考を膨らませる力。アートも私の目指す生き方も状況をじっくりと見て、気づく力が必要である。加えて、感覚を高めるためには、右脳と左脳の両方を鍛えることが重要だと感じている。思考が偏らず、既成概念にとらわれずに柔軟な発想をすることが、私だけではない、他者への幸せにつながっていると思う。
 
 3つ目、のキーワードはこれまでの流れから感じたことである。8月の課題図書では、戦争に耐え得る貯蔵量が戦争判断の鍵となっていた。9月の課題図書では、プナンという貯蓄をしない民族の話だった。貯蓄をしないということは、争わないことを意味すると考えられる。そして、今月は世の中のメジャーに身を置くのではなく、マイナー側にいることで熾烈な競争の深遠を目指すのではなく、新しい価値を作って差別化していこうと指摘している。この流れはつながっているように思う。差別という言葉にネガティブイメージを持っていたが、差別化とは自己実現欲求市場を生きる上で必要なポジティブ要素であることが分かった。
 
 先月私の勤め先では、コンプライアンス違反による処罰があった。大なり小なりその手のことは、予算を持っている人はしていることだったので、なぜ処罰されたのか不思議だった。今月この本を読んだことで、そんな社内の状況に疑問を感じたし、コンプライアンス違反が蔓延している会社や業界に違和感を感じた。みんなしているから良いという問題ではなくて、問題に気づいて避ける、できれば関わらないようにするにはどうすればいいか。私はどのような働き方をしたいのか。今まで“仕事は自己表現”という仕事観を持っていたが、目指す生き方とベクトルが合っていないことに気づいていなかったので、反省している。

 まず、働き方の見直しとして、営業を観察した。見えたことは、億単位のお金を動かすことので、自分の力がすごいと勘違いしてしまうが、それは持続可能な力ではないということだ。長続きしない「私も、あなたも」の世界は、お金だけでつながっている世界である。お金と人を動かすことを自分の力だと錯覚してしまわないように、「アート」、働き方の美学があるのだと思う。だから、「美意識」を鍛えるのか。成功したいのならば、自分の働き方や生き方の美学を得るには、きちんとアートの脳の学習が必要なのだ。

 今まで当社では営業分析をしたことがないと言うので、サイエンスとクラフト視点で、訪問回数と受注件数、受注額の相関関係を調べた。次に、アート的要素として訪問リストを作成し、1施設ずつホームページを確認した。すると、同じ業務をやっている法人50件を見て、ここは儲かっている、活気がある、ここは人が集まらないなどといった感覚がつかめた。

 人とのつながりで受注がとれていた営業にとって、私の作業は意味がないのかもしれないが、新しいやり方で新しい発見をしたかった。レポートサービスという新しいサービスを考え“お客様に喜ばれる仕事がしたい”というビジョンを示した。これをすることで、私は新しいことを社内に浸透させるという能力が身につくし、お客様はお困りごとを改善してもらって満足度が高まり、喜んでいただけるだろう。それが実現すると、嬉しい。

 自分だけが幸せは、長続きしない。一見「私も、あなたも幸せ」な甘い蜜関係も長続きしない。なぜならきっとそれは、応援される生き方ではないから。私は、子どもに働いている背中を見てもらいたい。家族に応援してもらえる仕事をしたい。そのような人物になるために、思考停止せず、現状維持ではなく現状打破を目指して頑張りたい。

 今月も心に浸透する良書をありがとうございました。

投稿者 jawakuma 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか ―経営における「アート」と「サイエンス」― を読んで

先日、日本におけるUXの第一人者である山崎和彦氏の「ユーザーエクスペリエンスとデザイン思考」の研修を受ける機会がありました。山崎氏はIBMの出身ですが1993年の中途入社当初は株価が1円まで下落し転職や起業を勧められた過去があったそうです。当時のIBMは技術に寄り過ぎるあまあり、お客様の声を聴けておらず、独りよがりの状態となっていたそうです。プロダクトアウトで失敗する企業の典型ですね。苦境に立たされたIBMは方向転換を余儀なくされ、技術のことは一切わからないがお客様のことだけを誰よりも考える、元AMEX社長のガートナーを社長に招き、人間中心設計(Human Centered Design)を標榜に掲げ、業績を改善することができたそうです。山崎氏はそこからUX・UI、デザイン思考の基礎となる考え方を学び研究していったそうです。
デザイン思考が求められる背景としては本書にも出ていたVUCAの社会・経済の情勢があるといえるでしょう。今までは既存の商品・サービスの改善思考の積み重ねでCSは向上でき、既定路線のPDCAで会社は上手く運営できていました。しかし、AI、IOTをはじめとする社会の変化が押し寄せてくるとそうはいきません。昨今ではHuman Centered Designから業績改善を続けてきたIBMに対する市場の反応も、GAFAと言われる世界の時価総額上位に君臨する企業と比較すると冷ややかな態度だということができるでしょう。そこで近年IBMでも‟エンジニア8人につきデザイナー1人を付ける“人事制度を採り入れ重要なプロジェクトにはデザイナーが参画するようにしているそうです。それでも業績や株価は思うようには伸びていないようです。一体何がGAFAと違うのでしょう。その違いは‟ストーリーづくりから始まるデザイン経営の差”だということができると思います。プロダクトと異なりストーリーはパクることができず、他社との完全なる差別化=ブランディングとして機能することになるのです。
リーマンショック以降MBAをとるためにビジネススクールに応募する学生が減っているそうです。代わりに増加しているのが企業からアートスクールに送りこまれる幹部候補の社員数だそうです。変化の激しいVUCAの時代において経営に求められるものがサイエンスからアートへと変わってきているのです。理論・理性から感性・情緒へ、左脳から右脳へのバランス転換が起きていると言えると思います。サイエンスから導かれる解は1つにまとまることになります。つまり同じスキルを持つ人間が論理的に解を求めると同じ答えになってしまうわけです。学校などのテストならそれでもよいのかもしれませんが、企業では正解の陳腐化現象が起きてしまい差別化の手段を失ってしまうわけです。他方アートスクールで教えられる美術などの教養から導かれる答えは、完成や美意識の数だけ、いわば人の数だけ答えが存在するといっても過言ではないでしょう。それが企業にとっての差別化戦略につながるというわけです。
デザイン経営を推奨する米国の非営利団体のDesign Management Instituteの調査によると、デザイン経営を実践する企業はそのほかのインデックス企業全体と比べ、2015年までの10年間で2倍強の株価上昇を果たしているそうです。日本の企業でもデザイナーのアドバイスを経営に取り入れている、無印良品やユニクロは現在グローバル市場でも高い競争力をキープできています。世界に誇る(誇ると思われている)日本の美意識を活かして今後のイノベーションを推し進めていくにはアカウンタビリティーの格差を埋めアート主導での経営戦略が肝になってくることでしょう。
本書ではマツダの魂動デザインが前田氏の強いリーダーシップの元、強力に押し進められWorld Car Awards を受賞した経緯が成功事例として書かれていましたが、ホンダとGM、トヨタとソフトバンクなど技術革新の流れの中、業界再編が進む自動車業界の株価を見るとどうでしょうか。世界のトップ3のうち、日本には仏ルノー&日産とトヨタの2社があります。技術力はなお世界一の水準にあるといえると思いますが、市場の評価は芳しくありません。純資産と株式時価総額を比較した株価純資産倍率でみるとトヨタが1倍、日産とホンダは0.7倍程度と解散価値を割り込んでいる状態となっています。投資家の評価が伸びない要因の一つが本書でも言われている‟ビジョン“の不透明さがあるのではないでしょうか。経営者の言葉や戦略に車の未来を引っ張るだけのものを感じさせるものが不足しているのだと思います。電気自動車や自動運転の登場が意味するものとはアナログ→デジタルの置き換わりだけではなく、車に乗ること、移動することの意味が根本的に変わるということになるわけです。日本の自動車メーカーにはその未来のカーライフを投資家や消費者に上手く伝えることができていない状況に陥っているのではないでしょうか。時代の波に飲み込まれていったコダックやノキアのように波乱の歴史が待っているかもしれません。日本の経済産業の明るい未来のためにもデザイン経営を採り入れ国際的な競争力を取り戻してほしいと思います。

今月も良書をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 ktera1123 日時 2018年10月31日


自己実現の追求、承認欲求、自己実現欲求としての感性、美意識を考察してみると、SNS上での情報発信があげられる。最近巷で話題(炎上)していたように、バカッターと呼ばれる事象が多々発生している。(先週末およびいま現在、都心の繁華街の渋谷等でのハロウィンの馬鹿騒ぎも同様でしょうか。)役にたつ情報を発信されていてなかなか参考になる情報もあるが、なぜこのような二極化が起こっているか。その原因の1つとしてあげられるのが「美意識」の不足なのではないのだろうか。
そのためにも「日本人が持っていた研ぎ澄まされた美的感覚の領域」をとりもどすにはどうしたらよいのか。本書では「詩」がとりあげられていたが、以前よく読んでいた海外文学では冒頭に謎のように、詩の一説が書かれておりなぜなのだろうかと不思議に思っていたことがあった。本文を最後まで読んでみると、なるほど導入部として作者の言いたかったことを端的に言い表すには最適だった気にはなりましたが、日本と海外では前提条件が異なるので腑に落ちないところがありました。
日本国内ではさてどうなのだろうかと思っていたところ、以前からお誘い頂いていた「落語発表会」があり、上記の課題を頭の片隅におきながら内容に没頭することしかり、なんとなく見えてきたのは、教養としての古典文学がありその土台の上に話が展開している。また、題材は異なりますが、能楽は源氏物語など作成当時に誰もが知っていた題材をもとに作成しているので、作品名と作者を暗記することで終わっている状態ではわけわからない状態とのことです。
教育がペーパー試験(数学的に判定が可能)対策な現状では、当書籍内に書かれているエリートのように「科学や理屈で割り切れる物差し」による下品で自利的な科学原理主義になってしまうのは致し方ないところなのかもしれませんが、実生活では「科学や理屈では割り切れない」ことがほぼ大半です。
サイエンスの中で生きているように思われている技術者としてもどのような能力と資質が必要か、技術者サイドからまとめた報告によると、基本的な資質として「高い職業倫理」「柔軟で創造性に富む思考力」「生涯にわたって新しい知識を獲得し、それを統合していく能力」、技術的な能力として「自らの専門領域に関する知識とその応用力」「技術分野全般を見渡す広い視野や幅広い知識」「的確な問題設定力/洞察力を持ち、必要とする技術を組み合わせ統合して問題を解決する能力」とともに「経営管理能力」「説明力」「コミュニュケーション能力」等とあった。個々において、それぞれの能力のピークは異なるが各自、各能力の強化・向上を図るよう研鑽に務めることが重要であると報告にあるように、決して「サイエンス」一辺倒なわけではないのです。
 いろいろな周辺知識や経験が積み重なって、今があるようにこれからもいろいろな心を揺さぶられる経験をバランスよく積み重ねていければと思いました。

投稿者 vastos2000 日時 2018年10月31日


私自身はエリートではないが、チームのリーダーである。
エリートとリーダーであることが多く、本書で書かれていることがリーダーに求めれらることも多い。本書に出てくるエリートをリーダーに置き換えて読み進め、私の仕事に生かせる点を見つけることができた。

●仕事について
リーダーは判断材料が出揃わない宙ぶらりんな状況下で判断を下していかなくてはならない
サイエンスに偏ると、情報が揃わない状況では意思決定ができない。現実のビジネスの場では、ほしい情報が集まるとは限らない。そのような時でもいくつかの選択肢から直感で選ぶことが求められる。ヒト・モノ・カネ・情報・時間が利益を生む源泉であるので、いたずらに決定を遅らせることは利益の逸失となる。
その際の「エイやっ」での選択を行う際、頼れるのは個人の「美意識」ということになるので、美意識を鍛える必要がある。本質的に美しいものは真なるものであることが多いのだろう。
最近はいわゆるビジネス書を読むことが多く、歴史や生物学、文化人類学に関するようなものは毎月の課題図書に関連したものぐらいしか手にとっていなかったので、著者が他の書作で紹介している7分野(哲学や歴史、医学や心理学、文化人類学など)も意識して読むようにしたい。本書を読んでから今日までに、学生時代に学んだ西洋美術史やプラトンをもう一度復習した。これはいつ役に立つがわからないが、こうしたことの積み重ねがいつか実を結ぶと信じて。

●子どもを良い方向へ導くために
私は仕事においてはリーダーではあってもコーチではないが、自分の子どもに対してはコーチであることが求められる。子どもはまだ小学生であるからか、親である私の言うことを比較的素直に聞いてくれる。
子どもは少年団でサッカーをやっているが、熱心に取り組んでいる。スポーツにおいて勝利するためには理論は必要だが、それだけでは勝てない。伴一憲氏が言うには「科学というものは、ただの法則に過ぎない。スポーツは人間の行動ですから、そこにモラルという問題と美の要素が加わる」。理論(サイエンス)と道徳と美。三者が一体となって人間の行動を決する。どれ一つ「判断」から取り除くことはできない。
やはり日本人には、審判の影で反則まがいの行為を行うという意味でのマリーシアはなじまないのではないかと思う。ルールの中で相手の裏をかくことも求められるが、まずは子どもにはフェアプレイを身に付けるよう、教えていきたい。
本書でスポーツについて触れられる箇所はほとんどないが、通じるところは大いにあると感じたので、ここに記した。

●生き方について
「美意識」、「美学」、「モラル」、「真善美」と呼ばれ方はいろいろあるが、そういうものを大事にして、天に対して、世間に対して、自分に対して恥じることない、お天道様の下を堂々と歩ける生き方をしたい。
過去のメルマガでも何度か触れられているが、「誰も見ていなくても、自分自身は見ている」ので、天や世間と言った他者に対してだけでなく、自分自身に対してやましいことがない行動をしなくてはならない。第5章に『わかりやすいシステムを一種のゲームとして与えられ、それを上手にこなせばどんどん年収も地位も上がっていくというとき、システムに適応し、言うなればハムスターのようにカラカラとシステムの歯車を回している自分を、より高い次元から俯瞰的に眺める。そのようなメタ認知の能力を獲得し、自分の「有り様」について、システム内の表とは別のモノサシで評価するためにも「美意識」が求められる』とある。
美や善が真につながるのであれば、善なる生き方をすることで、この世界から祝福されるのではないか。

投稿者 chaccha64 日時 2018年10月31日


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』を読んで

「サイエンス」一辺倒でなく、経営には適度の「アート」が必要だ。それは、サイエンスによる正解のコモディティ化しているため、複雑化し、自己実現的消費に向かう市場に論理的な思考だけでは合わなくなってきたため、世の中の変化が早くルール、法律の制定が追い付かなくなってきたため、今までのサイエンス一辺倒では対応できない。「真・善・美」を判断する美意識が経営に必要となって来た。美意識を磨くためにアートを学ぶ必要がある。左脳だけでなく右脳も鍛えないといけない。

その通り。しかし、これは何も経営に限ったことではない。
この本で取り上げられたエンロン、ライブドアのような直接経営層が関わった不祥事の事例だけでなく、最近の免振装置の試験データ改竄、自動車メーカーの燃費データ改竄のように現場で発生しているものもある。(経営層からの数字の締め付けや指示が原因かもしれないが) 身近なところでは、山や川へごみの不法投棄する人、ごみをあちこちに捨てる人、違法駐車する人、交通ルールを守らない人等々。
我々の身近なところにも「真・善・美」の美意識の欠如がある。つまり、我々一人一人が美意識を磨く必要がある。美意識は、エリート、トップの人々には必須でしょうが、世の中を良くしていくためには庶民にも必要なものだ。エリートだけで世の中はできていないので。

投稿者 haruharu 日時 2018年10月31日


世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?を読んで
・論理的。理性的な情報処理スキルの限界が露呈しつつある。
「正解のコモディティ化」=他の人と同じ答えが出せる。ということだが、私は極端に他の人と同じ答えを探し求めてきた。勉強のために、美術館や歌舞伎を観に行っても解説のイヤホンが必須であったし、茶道のお稽古でもこれは何のためにやるのか考えてばかりだった。
身体で目の前の絵や舞台を観て感じることを久しく忘れていたようだった。
羽生さんの最後の局面をイメージする、美しい手を指す、美しさを目指すことが結果として正しい手を指すことにつながると思う、は凄い。美しい姿勢、美しい手を目指しながら自身のお稽古をやっていこうと思った。
マツダの「日本の伝統的な美意識を生かす」は気に入った。
凛とした佇まいや品の良い艶やかさをパクって一生のテーマとしたいと思った。

・巨大な自己実現欲求の市場
全ての日本人には芸術家の素質がある。
思い出したのは、高校生の頃、国語が大の苦手であったにも関わらず国語の教科書に出てきた「ボッティチェリ-ヴィーナスの誕生」や森鴎外の「舞姫」、教科書外の俵万智の「サラダ記念日」の授業だけは、国語の先生が話す一言一言が身体の中の奥の何かにビンビン反応し、魂が揺さぶれる様な感覚だったことです。
魂レベルで感動というとなかなかパット思い出せないのは鍛えてこなかったから鈍ってしまい錆がついてしまったか・・・と思うところがあるが、セミナーで教えていただいた易を声に出していると何と表現していいのかわからないが何かが違う。ああ、昔の人は幼少の頃から寺小屋などで皆が声に出して易経や儒教や論語などを詠んできたんだよなぁ。それも美意識を鍛えることに繋がっていたのかなぁと思う。

・ユニット 双方に高い水準の美意識を求める
秀吉―千利休―秀長という危険なほど絶妙かつ微妙なほどのバランスが取れているということ。
秀長の病死後は、利休も切腹、秀吉も朝鮮出兵失敗などバランスを崩したらあっという間に崩壊した。
柳井会長とジョン・ジェイ氏、無印良品の金井政明会長と深澤直人の例が取り上げられていたのを見て、本田宗一郎と藤沢専務、松下幸之助と三洋電機の井植社長たちを思い出す。
それを個人レベルに落とし込み、私は仕事上で、夫婦上でやはりバランス崩さないように心がけたいと思った。

・現在の日本の苦境の大きな要因はビジョンが足りない。
世界をどのように変えたいか
日本をどのような国にしたいか
世の中のどんな問題を解決したいか
少し前に私は私自身の苦境に立ち会った時、自分の家族レベルに落とし込んで考えたことがあるが、どんなふうになりたいかなんて本当に答えを出すまでにかなりの時間を要した。
仕事や業界や地域のこと、意識を上に向けて自分に何が出来るか美意識を高めていかないと狭い考えになっていってしまう。

どう美意識を鍛えるか?
「VTS(Visual Thinking Strategy) 見る力を鍛える」では、見て、感じて、言葉にすること。
1.何が描かれているか?
2.絵ではなく数字の中で何が起きていて、これから何が起こるのか?
3.どのような感覚や感情が、自分の中に生まれたか?
これは決算書を読むことに似ているので現代の中でも鍛えている部分だと思う。

・なぜエリートは「美意識」を鍛えるのか?それは犯罪を犯さないため
人生を評価する自分なりのモノサシを持つ
多様性を鍛えていきたい。

今回の課題図書により、忘れかけていた魂の感動が思い出し、美意識を鍛えていこうと思いました。有難うございました。

投稿者 gizumo 日時 2018年10月31日


『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?』を読んで

タイトルから言って、「エリートは美的センスも教養として必要」といった内容だとばかり思っていたが、多くの事例が紹介され、その内容にはぐいぐい引き寄せられた。今までの圧倒的な正解だと信じていた「分析的で論理的な情報処理」(もっともこれが自分に出来ているか?という問題は別にあるが・・・)が、限界に達しつつあるという事実。事実、最高レベルの頭脳をもってしても解決しない事象が多く見受けられることにも納得が得られた。

本書を読んで思い出したのが、自分が最初に入社した会社のことです。小説のモデルにもなったカリスマ創業者が現役の時代で、幸いなことにその仕事ぶりを目の前で見聞きする経験がありました。
その創業者が時々、「仕事が美しくない!」といって部下を叱責していたのです。会社で一番偉い人とはいえ、自分の上司が「美しくない」と仕事を否定されている姿をみて、「???」はてなマークをいっぱい頭に浮かべていたものです。
その創業者は、建築を学んだ基礎があり、着るものや身だしなみにはうるさく、もちろん「5S」の徹底にも厳しかったので、その延長で本来の意味の「美しい=美」を連想して、仕事を美しくするって何?どういうことだ?と思っておりました。
今回、本書を読むことであの時の言葉が腑に落ちた。「スマートでない、情緒がない、センスがない、月並みな・・・」といった感じだったのではなかったか・・・。尊敬できることと仕事ができた自分は大変幸運だと。

そんな中でも、日本という「美意識」に恵まれた環境に生まれたことに感謝しつつ、この本を読んだきっかけに自分自身に「ルネサンス」を起こしたいと思える読了後でした。

投稿者 rarara 日時 2018年11月1日


『美意識』の正解は、どこにあるのだろうか?

『美』に点数があるとするなら、何点まで取れれば合格なのだろうか。
日々、そんなギリギリの状態、限られた時間、こなさなければならない仕事量の中で、妥協点を探していた。
そんな日々の中でも、美しく仕上がった日はとても嬉しい。心の中でガッツポーズです。

『リーダーの美意識』を基準とするならば、今いる職場は、かなり美の点数が高い方だと思う。お客様がどんな場所でも、どんな方に会う場合でも、自信を持って出掛けられる仕上がりにしなさい。また、身だしなみ、姿勢、言葉遣い、口角をあげて、床もきれいに。お客様と接する時は、猫を3匹くらいかぶる。

と、けっこうなプレッシャーのなかで働いているからか、従業員同士は 時にギスギス、ミスの指摘しあい。美には、到底ほど遠いです。

こういうことは、接客業にはよくある話かもしれません。やはり、猫をかぶるようにして一時的に『美』を表現していると、ひずみが出るのでしょうか。ただ、時間的に余裕がないからかもしれませんが。

限られた時間のなかで『スピード』と『コスト』は、必然で。さらに『美』となると、自分がもう1人いたらなあと思うこともしばしばです。

いい感じで、これくらいのさじ加減で、時間の合間みてこれをやって。
できれば、それとあれもやっときたい。
状況次第で優先順位の変わることを、説明せずに『意識』を共有できたらいいのに。

と、日常では、『美意識』なのか、ただの『意識』なのか、かなり低いレベルでしのぎあってますが、やはり、おっ、これぞ美意識かも。ってものに出会うと感動します。
先日、買い物をしたのですが、店員さんに思わず「感動!これ買います!」と。
商品も良かったのですが、自分では想像のつかない使い方を教えていただけて。頭の中が、キラキラしたのです。なかなかないWINWINな瞬間でした。

『美意識』の正解は、『感動』して売れるもの。なのかもしれない。
もし、すべての人が、手持ちのもので過ごせるとして。たまには、なにかお金を使いたいなあ。と考えた場合。
やはり、なにかキラキラした感動を求めると思います。
それは、商品だけでもダメで、接客がよいだけでもダメ。どちらか一方では片手落ち。
商品と接客の合わせ技は、最強です。
そしてその『感動』が顧客となっていく。

そこを、しっかり頭に置いて、様々な『美』を追求していきたいです。

投稿者 guntank 日時 2018年11月1日


まず、私なりに筆者が述べたかったことを纏めた。

経営における、リーダーシップについて美意識(真善美)が必要、なぜならば
1.理論的情報処理スキルの限界
2.自己実現欲求市場の登場
3.システムの変化にルールが追い付かない世界
という変化に対応するためであり、いわゆるエリートと呼ばれる人たちは、功利的な目的で、学んでるんだよ。

本書のサブタイトルには『経営における「アート」と「サイエンス」』とある。
経営というと範囲が広く感じられるが、筆者は具体的に経営のどの領域の事であるかについて
明確に強調している点があると私は、感じた。

第6章 美のモノサシ
P188 『これは端的にリーダーシップの問題だ。』
P207 『端的に言えば、これはリーダーシップの問題と言えます。』

と繰り返している。なので、私にとっての身近なリーダーシップについてと、本書で書かれていることと
照らし合わせてみた。また、最近メルマガで取り上げられた、産業革命による分業化によって
部分と全体の関係性が失われやすくなっている事(なってはいけないこと)の指摘と重なる部分を感じた。
のでそのことについても併せて考えてみた。

私のリーダーのリーダーシップについて(社長編)
毎年度、社長がスローガンという形で、経営方針を示すのが常になっている。
ちなみに今年のスローガンの一つが、アカウンタビリティーだった。(笑い泣きするところ)
本書に書かれていることをフォローするわけでもなく、社長をdisるわけでもなくだが
結果的にはこのスローガンは完全に失敗した。
アカウンタビリティーだと、理解しにくいかもしれないという事で、サブタイトルに
和訳として“説明責任”と付け加えたことが、余計に悪さした。
具体的には、果たすべき説明責任が言い訳弁明化してしまい、問題の所存が明確化するだけで
解決に至らない、もっと悪く言うと、問題の多くが、誰が悪いのかという犯人探しに
突っ走る形になってしまった。本書にある『分析麻痺』にも陥った。
本書では、リーダーシップは判断基準を内部に転換しなければならないとあるが、
判断基準だけでなく、問題解決のプロセスそのものが、外に帰属させようとする結果になったのだ。

私のリーダーのリーダーシップについて(部長編)
トップダウンなので、社長のスローガンをフォローした部長も同じ結果をたどった。(残念)
別視点でも見てみたいのだが、私の部長はスキル、管理能力、経験値など、どれをとっても
優位性があり、管理職としてふさわしい人ではある。そんな部長を私は信頼しているが、何故か
部内の人間にやたらと嫌われる。本書では経営(リーダーシップ)をアートを中心に、それをサイエンスと
クラフトが支える体系にしていくべきとしているが、考えてみると、部長にはこのアートが足りないのである。
やはり、内的な判断基準が数少ないことがあげられるが、そのうえに、その基準が賛同されないケースがよく見受けられるのである。
これは、端的に、美意識の欠落によってリーダーシップを失っているという事だけではなくて、部下側がアート的な判断基準によって
リーダーを評価するようになってきているという事も起こっているのだと考えた。そして申し訳ないが、なんかダサいのである。

私のリーダーのリーダーシップについて(部下編+私編)
リーダーシップのアート(美意識)は経営者や管理者のようなエリートが発揮するもので、部下や一般社員には無関係だろうか。
本書では触れていないかもしれないが、答えとしては否であろう。部分と全体を持ち出すと、全体がアート化すべきなら
部分もアート化すべきであるし、全体にも部分にも内在化された判断基準が必要で、当事者意識も必要という事になると考える。
また、全体(会社)が示すアート(ビジョン)をアートな視点から読み取る力が必要になると考える。
それが読み取れない間はずっと平だという事を、受け入れる事になるのである。
会社(仕事)も含めた私自身のリーダーシップは、当然私自身が発揮すべきである。結局のところ、そこに内在化された判断基準が必要で
当事者意識が必要であるという事になる。

まとめとして
このように、本書で書かれている諸問題が私の身の回りの現実としても起こっていて、美意識(判断基準の内在化)と当事者意識の重要性について
改めて省みる必要があるのと、美意識(真善美)がいいのか怪しい系がいいのか、それ以外にお笑い系もいいのかはわからないが
科学のもたらした数々の文明の利器をリスペクトしつつも、科学原理主義に陥らないようにバランスの取れた教養を養う必要性があると思った。
どのように養うかについては最終章にも書かれているし、基本編や速読編、メルマガの情報でカバーされることも多い。いずれにしても
そのまま受けいれながらも、咀嚼し、自分の価値基準に内在できるようにしていきたい。