ログイン | 新規登録

第89回目(2018年9月)の課題本

9月課題図書

 

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと


たぶん今年一番書きにくい本だと思うんですよね。例えば私なら、日本人や西洋人との違

いにフォーカスするとか、彼らの思考や文化がどういう土壌や環境で作られたのかを推測

するとか、森の民が近代化する社会(それも本書に記述があります)と接することで、ど

う変化し、そこでの葛藤みたいなものは無かったのかなという視点で読んでみると、この

本で述べられていることのインパクトを、正面から受け止められると思うんですよ。

そして今回、9月30日までに1500文字以上、2000文字以下で投稿された全員に、この本を

読み解いた読書会の音声ファイルを無料で差し上げようと思っています。ちなみに、この

読書会も、投稿された方だけにひっそりとご案内しようかと思っています。

これからはヤル気のある人、実際に行動した人にエコヒイキをするというスタンスを強め

ていく予定です。その結果、成長する人とそうでない人との差がドンドン開いていくとい

う、ホントにリアルの社会で起こっていることと同じことが起こるように、設計図を書き

換えようと思っています。

 【しょ~おんコメント】


9月優秀賞


今回は書き方のヒントまで差し上げたのに惨憺たるありさまで、辛うじて一次審査を通過したのが、

Devichgngさん、BluceLeeさん、soji0329さんの3名です。しかし、この方々であっても、

書かれた内容というよりは、日本語としてスッと意味が通っていたという点で、他の人より秀でて

いたということで選んだだけです。

非常に厳しい話ですが、先月は読み方のヒントまで差し上げたのにこの状態では、優秀賞

は出せません。よって今回は該当者無しとします。

【頂いたコメント】

投稿者 jorryjorry55 日時 2018年9月23日


「ありがとうごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

最初の「はじめに」から考えさせられた。現代日本に住んでいると当たり前にあるものがない世界とはどんな生活なのだろう。それこそ逆カルチャーショックを感じると思うが、想像が出来ない。お互いに無理に合わせる必要もないし、共存共栄出来るのであれば、そうしていけば良いのではないだろうか。こういう世界もあって、良い部分は取り入れていけばより良い生活が出来るのでは、位に考えれば良いと思いました。

冒頭で学校の話がでてきたが、私は日本人として学校に行くのは当たり前と思っている。なぜ人は存在するのだろうか?私はなんのために生きているのだろうか?というのは思った事はあるが、何故勉強するのか、何故学校に行くのか、と思った事は無かった。普通に学校に行き、大学卒業後は当たり前のように会社に就職して今に至っています。
「数学の勉強って必要?」というのをよく聞くが、生活するのに数字を使うからもちろん必要だと思っている。正しくは「思い込んでいる」かもしれないが。買い物する時に必ずお金の計算するし、それぐらい出来なくてどうやって生活して行くの?最近のレジは優秀で、自動でお釣りの計算してくれるけど、そうじゃないでしょう、出来ない人が信じられない、とさえ思っている。
数学の必要性以外でも、税金の支払い等その他色々と今生活する上での決められたルールは当然、と思って生活しているので「懐疑主義」では無いと思う。寧ろとうに捨てた気がする。マニュアル人間と化し、与えられた事を淡々とこなす日々を過ごし、仕事振られてもそれは私のやる事ではないよね、とばかり誰かがやってくれる、とそのまま過して後で大事になる、という事が多々あります。土日もただ家の中にいて、いつの間にか時間だけが過ぎて行く。おなかが空いたと思えばいつでも気軽に食べる事が出来るし。

日本ではとにかく今の生活が当たり前、海外では原住民と言われている人たちも含め、海外は独自の文化で生活しているのが当たり前、としか思っていなかった。海外に旅行や仕事で行ったことはあるが、全て1週間程度であり1ヶ月以上の長期滞在はなく、とにかく今の日本での生活が全てで、これが当たり前。裸で生活出来ないし、トイレ無しに大便なんて出来ない。ましてや木の枝でお尻を拭くことも、犬にお尻を舐めさせる事も考えられない。全てにおいて衝撃的でした。

この本を読みながらふと思った事は、何も考えずに生きられたらどんなに楽だろう、往復3時間かけて通勤する必要もない生活はどんなに楽だろう、こころの病がない世界とはなんと魅了的だろうか、だった。私自身人間関係等で3ヶ月ほど療養休暇を取得したので、より一層強くそう思いました。
もちろん、プナンの人たちが何も考えていないわけでもないし、生きて行くためには寧ろ森の中での生活の方が大変だろう。
生きるために食べる、反省しないで生きる、欲を持たないで生きる、学校に行かないでよい生活とは一体どんな世界なのだろうか。活字として見る分には大変だな位にしか思わず、自分がそこで生活するというのは全く想像も出来ません。では、もしそういう生活が出来たとしたらどんなに楽なのだろうか。試しにそういう生活をしてみたいと思いますが、キャンプレベルで、数日だったら我慢出来ると思いますが、それ以上は一人でならいざ知らず、複数人で行ったら衝突しそうで、耐えられないのではないか、と思います。耐えたとして、果たしてどの位耐えられるか、試してみる価値はあるのかな。

もう一つ驚きだったのが、プナン人は欲がない、というか欲をなくしていること。私の周りには自己中心的な人たちが多く、欲も満載だし、他人とシェアしている姿を想像できない。
分け与えることによって、財とお金がますます集まるようになっているという事であるが、その分責任も重くなる。プレッシャーというものは無いのでしょうか。全くもって想像が出来ません。私だったら、速攻で潰れそうです。

一番興味深かったのは同じプナン族であっても、東と西で考え方が異なっているため、ちょっとした環境でこうも変わるのかと。それならば、私も環境を変えれば変わる事が出来るのだろうか?勿論環境をよく選ばなければ、どちらにも転ぶと思うので、十分吟味する必要はありますが、このままだと今の環境を選びそうで怖いです。年齢的に今後のことを考える上でよい読書になったと思います。

ありがとうございました。

投稿者 audreym0304 日時 2018年9月24日


感想-ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

 現代に生きる狩猟採集民といわれると私たちはどんな想像をするだろう。
ほぼ半裸で、木で作られた粗末な家に住み、森や海にその日の食料を調達しに行き、石や木を使って火を起こし、文明社会に住む我々の文明的に優れた社会と一線を画す原始的な、そして、時には危険なくらい野蛮な姿ではないだろうか。
 現代に生きる狩猟採集民の多くは、少なからず文明社会の影響を受けていて、まるっきり原始的な生活をしていることは少ないだろう。
 とはいえ、長い年月を森で原始的な暮らしてきた人たちと文明を発展させてきた人たちとは、あらゆる事象に対して根源的な部分で考え方やとらえ方が異なるのは当然だろう。
だけど、ほとんどの人たちにとって、社会的な規範や生きていくうえでの基準や常識というのは自分が生きている社会の規範や基準、常識であるから、そこから少しでも外れてしまうと奇異な目をむけ、興味を持って研究対象にし、さらには嫌悪し、排斥する。自分たちの規範や基準、常識から外れていることなど、文明間にある社会でも良くあることだし、文明社会にあろうと、原始的な社会にあろうと、自分たちの規範や基準、常識が全ての人たちが新しい存在に接触したときの判断基準になるにすぎない。
それにもかかわらず、奇異な目をむけ研究対象にしたり、嫌悪して排斥したり、というのは一体どういう所業なのだろう。
自分たちの規範や基準、常識に当てはめて、比べるのではなく、

ただ、あるがまま、受け入れる

ことをなぜしないのだろう、と思う。

本書はそのタイトルが示すとおり、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉は類似表現も含めて必ず存在する、ということが前提になっているのだろう。
個人的な経験を踏まえていえば、「ありがとう」や「感謝する」という言葉は多くあるように思うが、「ごめんなさい」はどちらかというとある事実が発生したことに対する「残念なきもち」や「謝罪」を伝える言葉として存在し、「反省の弁を述べる」言葉としてはあまり多く存在しないのではないかと思う。
今まで対応してきた仕事の経験でも悪い事象が起こったときには精神的な反省点を話し合うのではなく、悪い事実への対応策と次回同様な事象が起こらないようにするための具体的な方策を話し合う人のほうが世界には多い。いつまでもグチグチと起こったことに対する精神的な反省を求めて、反省を口にすることで、具体的な対策はなくとも満足する人は日本人に多い。なので、反省の意味を含む「ごめんなさい」がないことに不思議に感じるのは日本人ならではの感覚じゃないだろうか。
私がどんなに怒り狂っても反省を知らないし、したことのない夫側にはプナンのような無償の提供、シェアや共有する社会やコミュニティが歴然と存在する。しかも、そのコミュニティの中では誰かが口ぞえや声をかけてくれるわけではなく、空気を読んで自発的に行うことが当たり前のこととされている。それはコミュニティの中で他に影響を与え、なおかつ影響される一員ということだろう。当たり前とされていると考えると、提供される側から提供する側には感謝を述べることはあるだろうが、得がたいものという認識はコミュニティにはないのだろう、だってそれが当たり前だから。
シェアや共有に関しては夫が子供の頃にはコミュニティの大人がコミュニティに属する子供を面倒みるスタイルがあったという。私たちの子供が生まれたら「世話をしたい」という女性もいるので、今も継続しているようだ。

 本書を読んで考えたのは、プナンのような森の民が稀有なのではなく、日本のような社会のほうが稀有なんじゃないか、ということだ。
もしくは人は当たり前とされるコミュニティとの接触が減ったり、そこから離れてしまうことで、今まで当たり前だった得がたいものを得る経験を積み重ねながら新たな価値観をつくりあげていくのではないのか。そして、人との接触が極端に減って個としてのみ生きることでだんだんと「性」も「生」も困難になってしまうのではないのだろうか。
 確かに排泄物や吐しゃ物を品評される社会はわずらわしいことこの上ないし、集団で生きるよりも個で生きることを大人としてみる風潮だってある。
自分の判断基準で受け入れがたいことも、他方から見ればそれも同様である。狩猟採集民的生き方も文明的生き方も使われる言葉の概念や成り立ちがそれぞれにある人間の営みにすぎないのだから、本書のような異なる社会を知ることは他を知り、己を改めて知り、知識や感情の揺らぎを含めて全て受け入れるそんな機会としたい。

投稿者 Nat 日時 2018年9月25日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えた事」を読んで
現在の日本国で共有されているいわゆる「常識」とはかけ離れたプナンの人々の生き方。そんな社会を本書では「アナキズム以前の国家無き自律的共同体」と評している。今回のこの本から、現代日本人の生き方とプナン人の生き方を比較し、その差分から「如何に幸福に生きることができるか」を発見できるのではないかと感じ、そのようにして読み進めた。

まずは社会との関わり方。
現在日本ではひきこもり、不登校、うつ病になってしまう人たちがいるが、これは学校、会社等、ひとつの集団にのみ属しているからではないかと考える。その集団で否定されてしまうと自分のすべてが否定されたような気がしてしまい、精神的に病んでしまう。著者が出会ったプナンの人々の中には精神的に病んだ人は一人もいなかったそうだ。これはプナンの人々がプナン人社会という閉じた世界で生きておらず、人間社会をさらに拡大した「自然環境」という大きな枠組みで生きているからであろうと著者は説明している。
現代の日本ではこのようなプナンの生き方はなかなか難しいが様々な集団のなかで過ごしたいという人々は着実に増えている気がする。最近「オンラインサロン」と呼ばれるクローズドなコミュニティが増えている。このコミュニティに入る大きな目的はもちろん「スキル」「知識」「人脈」を得ることだと思う。しかし学校、会社以外の第二の居場所を得たいという側面もあると思う。
ひとつの集団のみに属す生き方、対してプナンの人々のような生き方。その間の良い塩梅を自分で見つけ生きることが幸福につながると思う。

次に生き方の時間軸の考え方
現代の日本人は「直線的な時間」生きているのに対してプナンの人々は「円環的な時間」生きていると本書には書かれている。直線的な時間を生きるとは今現在行っている行動が未来のある目標を達成するために生きることであり、今日多くの自己啓発本に書かれていることである。いわゆる逆算思考である。それにたいして円環的な時間を生きるとは、今その瞬間を生きることでありそこに過去も未来もない。今日起こったことが明日も起こり、それが永遠と続いていく。そのような生き方からプナンの人々は向上心、反省心をもたない生き方の技法だと著者は推察している。
この2つの時間の考え方を上手く取り入れ、起こった物事に対して考え方をスイッチできるようになれば幸福につながるのではないだろうか。幸運なことが起こったときは円環的な時間の捉え方をし、不運なことが起こったときは直線的な時間の捉え方をするのである。

最後に何気ない日常を疑ってみること
最終章のこの一文が考えることの全てのことに関して出発点になるだろうなと思った。
「過去に対して一切ごめんなさいと言わないことを不思議がるのと同じように、ごめんなさいと次から次へと公的な場で謝る自分を私たちはもっと不思議がってもいいだろう。」
私たちの社会では悪いことをしたらごめんなさいと謝り、人に何かをしてもらったらありがとうと言う。しかしプナンの人々の間でそれらの言葉が取り交わされることはない。言葉が無くても社会が成り立っている。
今の日本社会は成熟した社会であり、あらゆることが常識という名の法則に従い、システマチックに動いていく。そんな中で新しい何かを始めようと考えたら、このようなDNAレベルで染み付いている常識さえも疑い考えないとブレイクスルーは起こらないのだろうなと思う。これからの世の中で幸福になるには、人と同じことをせず逆張りで生きていかなければならない。その行動に移す前にこのような思考をすることは非常に大事だと感じた。

今回初めて「文化人類学」というジャンルの本を読んだが自分の思考の幅が広がった気がする。やはり新たな知見を仕入れるには触れたことのないジャンルに対しても本を読んでいかなければならないなと感じた。本書より得た上記3つの事を意識して思考/行動していきたい。

投稿者 taki6511 日時 2018年9月26日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えた事」を読んで
本書を読んで考えたことは以下3点である。

1)森の民の社会における犯罪とは
最初に疑問に思ったことが、プナンの人々の社会では犯罪は起こらないのか?起きたらどういう対応をとるのか?ということ。
結論から言えば、犯罪の概念がないため、森の民の社会の中では犯罪は起こらないようだ。
 森の民の価値観とは一言でいうと、「今、ここ」をいきるためのものである。今、ここをより多くの人が生き抜くためのものである。
そのために個人の所有欲は幼いころから否定され、自分が得たものであっても共同体の皆でシェアすることが善しとされる。
盗難やお金の着服は森の民の生活でも発生するらしい。その際の対応は、共同体として、どうしたら犯罪が発生しないかを
考えることであって、個人の責任を追及することではない。
この対応は個人に優しすぎる対応だと思うが、それでも彼らの社会が機能していることを考えると、もともとそんなに悪い人が
いない、ストレスのない社会なんだろうと思う。個人の所有欲を幼いころから否定すること、なんでもみんなでシェアする文化
であることが大きいのではないだろうか。

2)森の民が資本主義社会に接することで葛藤はなかったのか
 働いて貨幣を得る社会に接したことで個人の所有欲に対する葛藤があったと思われる。
食べ物をシェアすることで生活していた森の民が、貨幣を中心とする資本主義社会に組み込まれるわけであるから、
個人の所有欲を否定することは難しい。個人の所有欲を肯定すれば、所得格差の問題に直面する。
森の民の価値観で暮らしたら、いわゆる「その日暮らし」になる。一番想像しやすいのが、日雇い労働者になって、賃金をもらって、
その日の食べ物を買って食べて終わりというものだ。
資本主義社会では貧困層の生き方である。そのような状況になれば、貨幣を個人所有して貯蓄することを考えるのは普通ではないか。
しかし、その価値観は「いま、ここ」を生きることを重視するものではなく、未来に向けて備える資本主義社会の価値観である。
そのため、どちらの価値観を選ぶのか常に葛藤みたいなものがあったのではなかろうか。
本書に記載があったが、お金を個人所有して、シェアせずに貯蓄する価値観を選ぶ森の民もいる。そのようなものに対して、森の民が
とる態度は、黙って彼のもとから離れるということだ。これは共同体から徐々に外されることを意味すると思われる。

3)個人的に学んだこと
一言でいえば、相手の価値観を尊重することで、人間関係が円滑になり、新たな選択肢が得られるということ。
 彼らの社会には近代国家の社会と比べて、「ない」ものが多い。例えば、薬指を示す言葉であったり、精神病を示す言葉だったりだ。
それらがないことを含めて彼らの価値観と考えることは衝撃的であった。
ふつうは、ないものを見ると、埋めたくなる。ありがとうがないのであれば、ありがとうを教えたくなるし、ごめんなさいとはなんなのかを
教えたくなる。しかし、ないことをひとつの価値観とみることで、逆にそれがある社会を客観的にとらえることができるようになる。
なぜないか?という疑問はなぜあるのか?という疑問と表裏一体である。
それは、当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではなかったという気づきにつながる。
 例えば、新人と10年目社員、新婚夫婦など、当たり前が違う人間との衝突は日常でもあり得るが、その時に自分の当たり前を客観視
できるかどうかは人間関係を円滑にするうえで一つのキーになる。
おそらく最初はイライラしたりすると思うが、それでも自分の価値観と同様に相手の価値観を丸ごと尊重することができれば、
そこから新たな選択肢を得ることができるのではなかろうか。例えば、森の民の社会では精神病が発生しないらしい。その原因を探れば、
精神病にならない考え方や生活の仕方が選択肢として見えてきそうだ。

投稿者 dandandaniel 日時 2018年9月26日


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読んで

 ありがとうもごめんなさいも言わない森の民であるプナンは、表層的にはひどく不遜な、もっと
言ってしまえば常識がない未開の人たちとして私たち日本人には写るだろう。ただ『おわりに』
での著者の書名へのこだわりにもあるように、「言わない」のではなく「いらない」という文化の
背景を知ることができた。そして自分が生きてきた社会の前提条件に基づいて狭い視野で物事を
判断したことに気づいた。普段読むことのないジャンルの本書を読むことで、自分の視界が一気に
広がった感覚があった。

◆なぜ「ありがとう」と言わないのか。
 プナンは現代でも狩猟を主な生業とする民族であり、獲物を獲得できるかは不確定な要素に
満ちている。天候が良好で野生動物が繁殖しているか、野生動物に遭遇できるか、飼っている犬や
他のメンバーと上手く連携して獲物を追い込めるかなどなど。どれほどの狩猟の名人でも100%獲物を
捕まえることはできない。このような状況下で生存する確率を上げるためには、農耕以上に協力する
ことが不可欠である。協力の度合を上げ、さらには個人としての認識範囲を家族よりも大きな
共同体へと拡大することで、自分が獲物を取れない時でも共同体の誰かが獲物を取れれば、
生きていくことができる。それゆえプナンの子供たちは物心つく前から「欲を捨てよ」と
躾けられ(7章)、この主義に沿っていきる人はビッグマンとして賞賛されている。

◆なぜごめんなさいと言わないのか。
 プナンが反省や謝罪しないことの説明の一つとしては、先に記したように個人の範囲が共同体
全体に拡大しているために、責任を個人に帰することがない生き方の影響を受けていると言える。
別の興味深い見方としては、「今を生きる」という状況主義の生き方である(3章)。状況はその時々で
変わるものだから過去の失敗にとらわれず、柔軟に対応していこうというものだ。こういった生き方の
結果、プナンの人々はうつなどの精神病にかかることがないという。
 この部分を読んだ時に、ストレスに満ちた現代日本に大きな影響を与える考え方だと思い、
目から鱗が落ちた。なるほど人間は今現在の苦痛・不安も嫌うが、それよりも過去の過ちや悲しみに
とらわれたり、将来に対しての不安の方が精神に大きな影響を与えているのではないかと!自殺者が
交通事故死亡者数の10倍近い日本にとっては、まさに画期的な考え方となるのではないか。
 また推測であるが、誰かが亡くなる度に名前を変える「デス・ネーム」(8章)の習慣について
(読み落としていなければ)本書内に明確な記述はなかったものの、「今を生きる」という生き方の
影響を受けており、今生きている共同体の人物にフォーカスするためにこのような慣習ができたのでは
と考えた。

◆今をいきるべきか、未来に向かって生きるべきか
 本書を読んで、現代社会とは相反する生き方のプナン民族について知ることができた。同じ人類
ながらも現代文明に生きる私たちとは、かなり異なる考え方をしており、なおかつ今現在を楽しんで
生きているように思える。
一方現代社会には自殺や、いじめ、うつなど多くの問題があるけれども、著者は現在社会=悪で、
プナン=善という二元論で語ることを推奨しているわけではないだろう。
 現代社会がこれほど発展した要因として、過去の失敗を分析し、未来を予測・計画しようとした
人間たちの努力があった。現代文明を支えている技術・学問とは、まさに未来を知ろうする人間の
飽くなき探求心が生み出してきたものと言える。この恩恵を受けることで、100年前、10年前よりも
我々が快適に生活できているのは紛れもない事実である。
 プナンの人たちの生き方を知ることで、私たちは未来を見て生きながらも、今いる場所(現在)が
既に幸福であることを知覚できるようになることこそが、大事なのではないかと考えた。

人類学という普段接することのない学問の中にも、自分の視野を広げる考え方を見つけることができ、
教養の大切を感じた一冊でした。

投稿者 akiko3 日時 2018年9月27日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで
    
タイトルの意味がわからない思考停止の世界、あまりに違うライフスタイル、異文化以上のギャップを感じていた。なぜ著者はこの世界に魅せられ留まっているのか?不思議でしょうがなかったが、プナンの個人でなく全体で考える仕組みの中で、もたない心地よさ以外にもプナンの世界観の温もりに気づくと(そこで自分が暮らせるか否かはおいておいて)、現代の“絆”が薄れ“個”色が強まっている日本の病みが心配になってきた。
しかし、プナンにも東と西で別の生き方を選択しているように、森はどんどん切り開かれ、対価交換の仕組みが否応なく入ってくると、学がなければ搾取されたり、少数は多数に追われ、孤立して生き伸びられたとしても限界がくるのではないか?(それも自然のサイクルの一部でプナンの心を憂えさせはしないのかもしれないが…)
共同生活の中で見えてきた『大いなる正午』の心地よさ、何一つこうであるといえるものがない世界、考えてみれば“もたない人が最強”をプナンの一人一人がそうであるってこと。

高望みの30代で訪れたネパール・インドで、カーストの上から下まで現地の生活に触れ、2週間でもあまりに違う価値観に脳みそぐらぐらになったことがあった。日本の暮らしがいいわ~と思う一方で、何か“生”に対するエネルギーの違いに圧倒されつつ、魅せられた。“こうでなければ”“成長せねば”とかガチガチにまとっていたものがいつの間にかこそげ落とされ、執着がなく“生”を楽しめるとはこんなにも心地よいのかとびっくりした。(月日を経て執着がまたこびりつき、纏わりついていることは言わずもがな)
インドで輪廻転生の価値観を目にし、それまでの直線的な生死の価値観が壊され、頭では輪廻を思っているが、自分の今の生は直線的な価値観の上のものでしかない。『永遠回帰』ただ生を、恵みを受け取る(贈与交換なく)プナンの生き方を知ると、頭でっかちな自分には永遠回帰的な生き方はできないのかもしれない。(できた、できない関係なく、永遠回帰の一部なのだろうけど)

著者によって根源的な人間の姿が、自然が生み出した絶妙なバランスで保たれている“生”だと気付かされると、プナンは絶滅してしまうかもしれないと危惧するのは浅はかさだと思った。勝手に森に侵入し、自分達の都合で“生”を奪い、バランスお構いなしに欲を満たす仕組みを作り、その為に必要以上に崩壊させていく。自らの首を絞めていることも知らずに…。このままいくと、近代文明人の方が先に滅びてしまうかもしれないが、手つかずのまま残された森があれば、そこで生き延びる“生”がいるはずだ。

プナンの生き方の心地よさもわかったが、学校に行かせるとお金がもらえるとかプナンの世界に貨幣が、自然が生み出したものでなく、人間が生み出したものが浸透していくのは懸念される。車とかライフルは道具として使うけど、貨幣はそれ自体が道具じゃないし。
そう考えると貨幣に対する価値観が薄れた。
自分はやっぱりありがとうやごめんなさいが言える世界が心地よくて好きだ。今回の読書もかなりカルチャーショックを受けたが、“今を生きる”ことの理解が深まったし、こういう世界があると知り、学びは楽しいと改めて思った。何も持たない強みにも改めて気づかされたので、先延ばしにしていた押し入れの片づけも進む。
表紙のイラストを見て、世界は1つという概念も、まだまだ地球を背負って一体化してるだけの自分だと気付かされ、プナンのように生の中に包まれてくつろいでいられるようになりたいと思った。

課題本のおかげで生き方を良い方へと舵とりできているように思う。もっと読書すればいいのだろうけど…。ありがとうございました。

投稿者 ishiaki 日時 2018年9月28日


ありがとうごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

読み始めからいろいろと自分の固く凝り固まった常識で世の中を見ていて勉強になりました。というよりは最初のうちはプナンの人たちの行動を聞いているとかなりイラツイていました。私自身が著者のように現地に行っていたら1時間ぐらいでホームシックになっていたと思います。今の日本の生活はかなり便利になっていてそれに慣れすぎていますが逆に時代の流れが早すぎて若干疲れも出てきています。なので、プナンの人たちのように自分の気持が赴くままに行動することが羨ましく感じました。
「はじめに」から考えさせられた。現代日本に住んでいると当たり前にあるものがない世界とはどんな生活なのだろう。それこそ逆カルチャーショックを感じると思うが、想像が出来ない。お互いに無理に合わせる必要もないし、共存共栄出来るのであれば、そうしていけば良いのではないだろうか。こういう世界もあって、良い部分は取り入れていけばより良い生活が出来るのでは、位に考えれば良いと思いました。

プナンの人たちは獲物が取れたらすぐにお腹がいっぱいになるまで食べ尽くしてしまいますが私だったら次にいつ、獲物がとれるか不安なのである程度食べたら2,3日分は保存するとか何かちょっとした蓄えをしてしまいますが今が良ければそれでいいという気持ちを大人(成人)になっても持ちづづけるのは本当に羨ましいく思います。プナンの人たちはなんでもかんでもシェアをする精神と今の現代人はとりあえず、自分の物は自分で抱え込むという違いなのだろうと感じました。
ただ、プナンだから成り立つこともやはりあると思い、今現在の日本でプナンと同じようになんでもシェアをしていたらプライバシーの侵害等で訴えられることが多く発生してしまいます。そこが難しいとこです。
ただ、死者への向き合い方が日本人は決して忘れないようにするのに対していろいろな人にシェアをするような行為をするのに対してプナンの人たちは死者が出たら極力、思わないようにするため、墓は作らず、生前していた時に暮らしていた場所さえも引っ越していまいその地で人が死んだことを忘れてしまうようにしているようです。
日本人とプナン人は今現在の状況では相反する状態なのですが本を読む進めていくとちょっと前までの日本では同じようなことがあったなとか、テレビでよく見た時代劇や戦前、戦後の時代を移した情景ではプナン人と同じような状態だったのだろうなと思うフシが多々あり、日本が常に何か新しいものを取り入れ過ぎているような気がしてきました。
ただ、プナンの社会では生活をよくしようとか、不具合なところを改善しようとかの考えが全くと行っていい程ないのでそこは是非、改善してもらいたいなと思いますが、先日、あるTV番組を見ていたら今まで発見されていなかった部族をブラジルの奥地でドローンを使って発見したらしいですが、1人の解説者が、そこに現代人が興味本位で足を踏み入れたりすると今までそこの民族に発生していなかった病原菌が入ることになるので見つけてもソッとしておくのが1番ですと言っていましたが本来ならプナンの集落も、我々が興味本位で覗いてはいけないような気がしてきましたし、このまま時代の流れに取り残されないように現代の文化もちょっとずつ取り入れられるよう、我々が支援しなくてはいけないのかと思うといろいろと難しいことがあります。
ただ、プナンの人たちから狩猟を奪ってしまったら今の凄い能力は完全に無くなってしまうのでこのまま現代人と付かず離れずの関係を保っていったほうがいいのだろうと思います。

今回も自分で選ばないであろう本に出会えてありがとうございました。

投稿者 Devichgng 日時 2018年9月29日


本書を読んで最初に感じたのは、現代資本主義社会に生きる人間は、自分たちが人工的に作り出した概念をこの世界のルールであるかのように誤認してしまっている、ということでした。その人為的に創出した概念の中で、正しいとか間違っているとか、優れているとか劣っているとか、自分が持っている目線で判断を下してしまっていることに気づきます。文化人類学というメガネを掛けることで、当然と思い込んでいる概念がすべてではないとうことに気づき、驚かされ、モノの見方、考え方が広がりました。

特に大きなインパクトがあったのは、所有欲求の徹底的な否定がシェア社会につながる、という内容です。それは、数年前の課題図書『物欲なき社会』で成熟した資本主義が迎える次のステージがシェア社会であり、所有に対する対極的な考え方が同じ世界に行き着くように感じたからです。

私たちが属する資本主義社会の根底には、自分の身の回りに物理的な欲しいモノを揃えれば、人生の「幸せ」を得られるはずだという考えがあります。元々はモノが不足している時代、モノを手に入れることは必要であり、そして憧れでもあり、そして所有が「価値」であるはずだったからです。しかしモノが溢れ、自分達の身の回りに必要十分のモノが揃い始めて以来、所有という幸せが実は幻想で、自分たちが求める「幸せ」はその延長上にはないことに気づきつつあります。その結果、熟成した資本主義社会はシェアリング社会に向かっていっています。つまり、西欧側は個人所有を徹底的に高めまくった結果、次のフェーズとしてシェアリングに行き着いたことがわかります。

一方で、プナン社会では、人間が本来持っている所有慾を殺ぐことで、物質だけでなくまでシェアし、みなで一緒に生き残るというやり方を発展させてきたと著者は主張しています。そして、ここが著者の言いたいことの1つだと感じました。「慾」という字を分解すると、欲に心がついている字を用い、それを削ぐではなく殺ぐという字を使っていることからも、プナン社会における所有慾の初期教育の強調が見てとれたからです。物質以外のものまでシェアしているということは、私はあなたで、あなたは私という状態なのだと思います。そういう状態だとすると、ありがとうもごめんなさいも必要なく、精神病もない社会が存在することがわかります。というのは、自分自身には、ありがとう、ごめんなさいと声をかけることが少なく、それらの言葉は自分以外の人間に対して用いることが多いと気づいたからです。逆を考えれば、資本主義社会に属しているのであれば、自分自身にこそ、ありがとうやごめんなさいと声をかけることが本書の1つの活か仕方なのかなと思いました。

そんな共有主義であるプナンが発展させてきたシェア社会に、所有欲を糧に発展した資本主義社会が到達しつつあることに驚かされたのです。所有欲分岐というスタート地点で別れ、資本主義側は先頭を走っているつもりで、実は置き去りにしたはずのプナン社会に1週回ってようやく追いついたように感じます。

また、著者の奥野氏はこうも言っていました。日本を含む西欧の個人所有を押し進める資本主義と、その否認であるプナンの共有主義は、一概にどちらが善いとか悪いとかを言うことはできない、と。後書きにあるパースペクティヴィニズムの言葉を考えれば、「西欧の資本主義とプナン社会の構図は、同じ人類の営みをどの目線から見ているかの違いなだけで、どちらが良くてどちらが悪いというものではなく、真実はない」と言えると思います。そして、この構造はそのまま、しょ~おん先生のセミナー、メルマガの一部と同じだと感じました。前者の構図が科学原理主義で、後者が怪しい世界と考えると、そこには目線が異なる2つの世界があるというだけで、両者のどちらが良くて、どちらが悪いということはないと言えます。とすれば、プナン社会が熱帯のニーチェであるように、しょ~おん先生も塾生にとってのニーチェだと言っても過言ではないと思います。少なくとも、しょ~おん先生のメルマガとセミナーを通して、私は科学原理主義から怪しい世界に興味を持ったのですから。

投稿者 Mukagogohan 日時 2018年9月29日


「大いなる正午」と「より自由に考え、力強く、愉しく生きる」ことがどうつながるのか自分なりに考えてみました。

〇価値観が消滅した世界を想像してみる
 まずこの世に絶対的な指標(価値観・常識)などない、ということを想像してみる。身の回りにあるモノだけでなく、日常生活で起こる様々なハプニングに対しても、何の意味づけも行わないでみる。しかし、始めてみると口で言うほど簡単ではない。持続しても数分もつかどうかである。それほど自分は無意識のうちに、身の回りのあらゆることに意味づけしており、常に何らかの価値判断をしている事に気づかされる。けれども、ほんのわずかの間でも、ただあるがままに、自分の存在そのものも忘れるがごとく、世界にぽんとただあるだけ、のような感覚を味わってみることはできる。変に力んだり考えたりせずにいるのは最初は難しいが、やってみると開放感がある。いつの間にか毎日何かをしていないといけない、という強迫観念・恐怖感のようなものが自分の体の中に知らず知らずのうちに染み込んでいることにも気づく。

〇自分の暮らす世界を眺め直すと
 いったんリセットした状態で、自分の常識や価値観を改めて眺めてみる。随分と小さいことでびくびくしているように感じる。本書に出てきたプナンの人たちのように、反省せず、謝罪も感謝の言葉も述べず、自分の身体に関することさえも隠さない、という生き方もあるのだ。プナンの人たちの、おおらかで、精神病患者がうまれない社会と自分の社会とを比べてみると、自分を律しているもろもろの常識には何の絶対的価値もないと思う。そして自分の常日頃の慣習・常識は、「こうあらねばならない」と自分で自分を勝手に縛り付けているだけかもしれないと感じる。

 いったん価値観をリセットした世界を想像したうえで自分の社会を眺め直してみることは、自分の社会とプナンの社会とを直接比較すること(それは、自分の社会を基準にして他の社会文化との善し悪しを価値判断することでもある)よりも、より根本から自分の社会を見直すきっかけを与えてくれるように思える。

〇「価値観」とは何か
 結局のところ価値観とは何なのか、またどんな風に産まれてくるのだろうか。
 
 プナンの人たちのような森の奥で顔見知りだけで暮らし、一人では食べ物が得られない生活をしている場合、共同体と個々人とが一体化してくるのだろうか。「個」にこだわりすぎないことで共同体全体の生存率を上げ、絆を強固にしているように見える。
 一方、自分のいる社会は、「個」の頑張りが「個」に還元され、その結果共同体も「発展」することによって、全体の生存率を上げていると言えるのかもしれない。
 同時に、プナンは変化に乏しく同じ失敗を繰り返しがちであり、私たちの社会は「個」に過剰な自己責任を負わせすぎて様々な社会問題を産むという裏の側面もある。どの共同体が一番だとは一概には言えない。

 本書を読み進めていく中で感じたのは、共同体の成員同士が普段の生活の中で少しずつ無意識に、法律のような明確な言語化をせずに長年かけて築きあげてきたものが、ある共同体の「価値観」となるのではないか、ということである。そう考えると「価値観」とはそれぞれの社会が無意識のうちに作り上げてきた共同体維持のためのひとつの現れ、一つの選択肢の結果にすぎないのではないだろうか。

 その上で、なぜ自分たちの社会は今の生活のこの価値観(選択肢)を選んだのか、その理由を考えてみることそれ自体が、一歩離れて自分の世界を眺める余裕をもつことにつながり、愉しく生きるヒントになるように思える。
「自分を無意識に縛っている価値観」から自由になり、「異なる価値観」の長所短所を知って自分の人生や社会に活かすことも可能になるのではないか。

 例えば、個人の「慾を捨てよ」と言うプナンの言葉からは、個人で取り込まなくても生きていけるという共同体と個人との間の信頼感が前提にあるような気がしてならない。共同体とは本来、集団で暮らすことで個々人が守られるのであって、「人は一人では生きていけない」という大前提がそのまま現れた社会だと思う。

 しかし、私たちの社会は、普段の生活では一人で暮らしていても不自由ないためにこの大前提を忘れてしまい、逆に少ない資源をめぐって共同体の「個」同士が潜在的に「敵」になってしまっている。こういった環境要因等で私たちの社会は大前提が分かりにくく、より複雑になってしまっていると思う。だからこそ、いったんあらゆる価値観をリセットした上で自分たちの社会を客観的に眺めてみることが大きな意味を持つように感じます。

投稿者 MKENOB 日時 2018年9月29日


ありがとうごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

文化人類学としてプナンの人々を調査することの意義について著者は多自然主義である「人」や人の営みだけではなく、動植物との関わりを含めた自然との在り方を研究する必要性を伝えていると感じた。「私たちにとってあるべきものがない」中で成り立つ社会が存在していることの意味するものを彼らの生活の中での行動様式の報告はそれだけを聞いても、ともすると未開発な社会(直線的に私たちとつながっていて、その途中の段階)なのではと考えてしまう自分に新たな見方を教えてくれた。        

自然的な共同体を生きているのに近代的な自我の確立を持たないという方向性は、永遠回帰を生きる人々、プナンの人々であったからこそ成り立っていた。私たちは日ごろ常に目的をもち、そのために向上心や反省心を持ち、またはそれを糧として直線的な時間を直線的な、または上向きベクトルの先にある目標を設定して生きている。「反省無くて発展は無いとも言ってきた私たちの社会通念や概念の異なる人々がなぜ存在しうるのか?」という視点で考えたときに、永遠回帰という丸いサークルの営みであるからこそ成り立ち、多自然主義のフィールドワークをすることで、成り立つ理由を考えさせられた。自我のとらえ方一つとっても、私たちはモノサシとしている抽象的な概念であったりするものの量的な比較ではなく、人物そのものの評価であったが、調査による例を挙げられなければなかなか想像できないことであった。例えば糞尿や放屁を含めた換喩的にその人そのものをとらえて、言葉として発せられるものを含めて全てがプナンでは人格とされることである。ただし、評価はされるのに秘密主義ではないことにも驚いたが、人を含めて多自然的な考えでは「カミ」からみられているとも考えられるわけで、隠すことには無意味であることを心の深くでは理解しているのかもしれないと思った。このことは直線的な社会の中で、セミナーやメルマガで反省し、自分の行動が回って還ってくるのだという(分かっていてもできていない)考えと共通していて、それをすでに彼らは目的無く実現しているのではないか、という驚きも後から湧いてきた。それは、彼らの中には量的なものの所有を含めた我々が考える自我が存在せず、所有するものであり、人格を評価しないことによって個人的な所有をしないという行動につながっていた。それが自分の産んだ子でさえ共有して育てるという、私には理解しがたい生活様式につながっていた。私たちの社会においては少子化が進むことで生じている問題が自然な形で解決されていることも、回帰的な社会の在り方を一考する必要さえあるのではと感じてしまった。子供は社会の未来の財産であるということを私たちは十分理解して生活していたように思ったが、このような形でまさに共有化がなされ、本当の意味で循環されているのであるから。
 個人的に所有するという独占欲に忠実な我々の社会では成長を遂げてきており、社会を作り上げてきた。成長のためには振り返る・省みる心も必要であり、そのような中で精神病理を持つ世の中にもなった。このことがどちらの社会が正しいかということではなく、別の見方・成り立ち方があるということを教えてくれていると感じた。しかし、似た種類の精神病理に罹患している自分は、そのような病気のない世の中に飛んでいけるのなら…とも思ってみたが、あるべきものをもってしまった自分は、持ってしまったが上にもうプナンの人々のくらしは手に入れることができないものであることにも気づかされた。

また、のメディアでの謝罪報道に違和感を持つことが、プナンの人々の生き方とも通じるところがあるともいえることも気づかせてくれた。ニーチェの「大いなる正午」を、身をもって証明する経験が一緒に暮らしてプナンを知ることで「大いなる正午」は私たちの在り方を見直すことにつながっているし、まだ「生きてみなければわからないこと」の意味・解釈に納得させられた。自由な考えとは日々の直線的な生活から、離れて見直してみることに意義があるのだということを教えてくれたように感じた。
著者もプナンは人と自然を含む動物との関係の中で人間の条件というものを生活そのものにより、まさに示している。このことは著者らがプナンをそれ以外の文化人類学を研究することの目的の一つと意味づけているのではないかと考えた。文字どおりの文化人類学の文化を研究するのではなく、まさに「人」について問うた研究が文化人類学なのだということを認識し直し、私にとっても新しい意味が出てきた。

投稿者 toshi121 日時 2018年9月29日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」を読んで

著者がボルネオ島の狩猟採集民「プナン」とのフィールドワークでの交流を通して知りえたこと、感じたことを書き表した一冊であるが、読んでみて、大いなる驚きと不思議さ、興味を感じるとともに、色々と考えさせられた。
まず、現代においても、狩猟採集に頼り、その日暮らしとも言える生活をしている人々が存在し続けているということ自体が驚きだった。計画的な耕作や生産活動により、生活を豊かにしていくことが人生の方向性と信じていたからである。温暖な気候、残されている自然などが条件になっているのだろうが、狩猟採集で生活が成り立ち続ける場所があること、そして狩猟採集生活から離れようとしない人々の存在は驚嘆に値する。
次に、狩猟採集したものや持っているものを分け合い、ありがとうもごめんなさいもなく、共同生活が成り立つということに、更なる驚きを感じた。人間には様々欲があり、その欲があるからこそ、それぞれの人間が成長し、経済が発展し、社会が成り立っているものだと思っていたからである。
文中に、幼児が他の子どもに分け与えないことを、大人が強くたしなめることが紹介されている。人間の本質としては、やはり欲は存在している訳で、それを教育や規範などにより抑え込み、どうして共同体が成り立つのか、不思議と感じざるを得ない。
一方、著者のおみやげを、みんがいる前で渡さないで欲しい、なぜならみんなにみられると、分け与えなければならなくなるから、という記述もある。これから考えると、やはり「プナン」にも、自分のものにしておきたい(他の人に渡したくない)という欲があることがうかがえる。そうした欲がありながらも、どのようにしてそれを抑えて共同生活を成り立たせているのか、どこに幸せを感じているのかなどの疑問はつきない。
更に不思議なのは、若者が成長しても、親元から離れず、熱心に狩猟を覚えるなどもせず、漫然と暮らしていることだ。学校に通うことが少ないとのことで、生まれ育った共同体の価値観、慣習以外に触れることが少ないことが一因であるとは考えるにせよ、なぜ新たな外の世界に触れてみようという意欲が生まれないのだろうか。若者が、一見馬鹿げた新たなチャレンジをするからこそ、そこに大きな発展や改善が起こることが多いというのは万国共通のことだと信じていたのだが。
また生年月日を知っている人がおらず、ファッションとして腕時計を欲しがるものの、単に針が動いていることだけが大事で、時間を合わせることがないというのには、驚きを通り越し、あきれてしまった。季節性のない熱帯雨林で狩猟採集により生活できるので、時間を考える必要がないからとはいえ、日々時間を管理し、時間に追われる身にとって、まったくもって理解不能である。
そして、最大の驚きはやはり「反省しないで生きる」ということだろう。人間は反省し、そこから学び、成長し、幸せを目指して生きるものだという観念からすると、これまた全くもって理解できない。『「反省しないで生きる」を日本人はどう捉えたか』という所で、何人かの学生の意見が紹介されているが、同様に感じるものが多かった。
「プナン」がこれから、どのように生きていくのか、特に現代社会との接点を少しずつでも持たざるを得ない状況において、いかに従来のような生活を維持していくのかはとても興味がある。ただ、考え方や生き様がこれだけ異なるので、すぐに大きく変わることはないのであろうと想像している。
最後に「プナン」の生き方から何を学んだかであるが、自らを含めた多くの現代人は、凝り固まった観念、価値観に縛られすぎていることを強く感じた。反省しなくても、時間に追われなくても、生きている人達がいると知ったことで、もっと肩の力を抜いて、自分の気持ちに正直に生きてもよいのだと思いを強くした。

投稿者 2345678 日時 2018年9月29日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」を読んで

私の最初の疑問。
「はじめに」で語らている赴任してきていた先生たちと昵懇になった。プナンの娘たちが子供を産んだ。娘たちは都市部に戻らず森の周辺で暮らすことを選択した。自己充足し自己完結する暮らしがあり、当初、私には彼らは幸せそうに見えたのだった。見えたという表現をなぜ筆者は使ったのか?

油ヤシのプランテーションが今後も広がり、森の生活がしにくくなる可能性があるためなのか?

森の生活を送る限りは、狩猟採集の民として親元でじっくりそこでの生活のやり方を学び、親たちの近くで暮らすことが可能。そうなれば今まで通り自己完結の暮らしができる。

しかし、子どものころは、一心に森の中での暮らしを楽しんでいたが青年期になると生業である狩猟に興味を示さない、狩猟もしない若者がいる。

生業の狩猟をおこなわない世代が増えてくると、森の生活自体が出来なくなる可能性があり、自己完結の生活ができなるなるからか?
しかしプナンは将来に備えることはないという。そうなったときには、その都度の状況に合わせてなんとかなると考える傾向が強いとも筆者は言う。時間軸が直線的ではなく、縦横無尽に行き来するプナンにとっての感じ方を筆者が体験したからあえて当初としたのかもしれない。

そうすると次の疑問が出てくる。何のために生きるのか?
プナンは明確に回答している。それは生きるために食べる。生きるためには食べなければならないというテーマがあるのみ。日常実践とともに学び生きている。

生きるために狩猟をする。自分が行わなくとも誰かが行えばその恩恵を受けることができる
短絡的すぎるかもしれないが、若者が狩猟に興味を示さない理由のひとつかもしれない。

狩猟採集生活集団として石器時代ではなく現在もその特徴が残ったまま、同一行動をとるプナン。
同一行動取ることで食べることができる。生きることが出来る。

日本の福祉行政では、団塊の世代が75歳以上となる2025年を目途に、重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支援が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築を目ざしています。

地域包括ケアシステムは、高齢者だけでなく子育て世帯、障害者などを含むその地域に暮らすすべての人にとっての総合的、包括的な地域ケアのしくみとして大切とも言われている。

地域包括ケアシステムには全国共通のモデルはなく、行政と住民が共に「わが事」として、自分たちが住む「まちづくり」に取り組む姿勢をもてるかどうかにかかっている。

これをプナン流の考え方を取るとどうなるか?

時間に縛られず、悲観的ではなく、その都度の状況に合わせて生き、自然を畏敬し、個の差異を否定することで集団の中で共同所有が保たれ皆で一緒に生き残る。わかちあう。子どももみなで育てる。日常生活の実践が学びになる。小集団の中で皆で育てることで監視が行き届く。管理することが少なくなるので自律性が高まる。

多様な価値観を前提に競争原理を排した共有主義。経済合理性もありながら多世代多文化のコミュニテーづくりが実現可能ではないか。
すぐに答えはでないかもしませんが考え方をまとめる良い機会を頂きました。ありがとうございます。

投稿者 mmnn 日時 2018年9月29日


この本全体を通して、著者は、資本主義世界に染まっている
日本での生き方、価値観を考え直してみて欲しい、と伝えたかった
のではないかと私は思った。


生活する環境によって、価値観は形成される。

だから、世界には自分には想像もつかない世界(アマゾンの奥地)で
電気も水道も下水道もない世界で生活する人々は、
私達には想像もつかない価値観を持っているようである。

プナンのような狩猟民族と資本主義世界に生きる私達では
こんなにも価値観が違って、行動用様式も変わるものだと
痛感した。

朝の屁祭り、子供の勃起、死者が出たら生存者が名前を変える、
等々、自分の常識や普通の行動がひっくり返されてばかり
であった。

どちらの価値観が良いの、悪いのというのは
判断が難しい。

そもそも価値観を絶対的に比べる基準など存在しないから
良い悪いの判断自体が間違っていると思う。


ヒトは、自分が知っている範囲でしか現実化出来ない。

なぜなら、この世で自分の目の前で起こっていることは、
自分の頭の中で想像できる範囲を超えることはないからだ。

周りの環境を変えれば、自分が今持っている価値観なんて
簡単に変えてしまえるんじゃないか。

だからこそ、自分が生活している今の環境は大変重要であろう。

現にプナンの人々は、私達から見て過酷そうな世界に身を置いても
幸せそうだ。


価値観を変えるひとつのきっかけが
「周囲の環境を変える」にあるのではないか。

自分が望む生活を叶え、維持していくためにも
自分の周りの環境は大事にしていきたい、と感じた。

特に住む場所、関わり合うヒトは大きな影響を自分に及ぼすで
あろうから、気をつけないといけない。


今。ツイッターなどのSNS上では、様々なコミュニティーが
できている。

家を捨てて生きるヒト、無職を仕事にするヒト、
ツイッターで風変わりな人々の生活環境のツィートを
読んでいると驚くことが多い。

どうやってお金を稼ぐのか、どうやって生活していけるのか。

今もってしても疑問である。


しかし、本書はこの疑問を解決するヒントを与えてくれた気がする。


資本主義世界では、多かれ少なかれ「お金」に縛れてしまう。


お金を稼がないと生きてけない、生活できない。
このような価値観が強すぎれば、
家を捨てて生きるヒト、無職を仕事にするヒトの
価値観はなかなか理解しがたいであろう。

プナンの人々は、ヒゲイノシシの狩猟で
糧を得て、生きている。

例え獲物を獲れなくても、獲れた隣人に分けてもらえば
飢えることはない。

逆に自分が獲物を獲って、隣人が飢えていれば
隣人と一緒に糧を共有するのだ。

プナンの人々が生きるための糧を得るのに
「お金」はあまり関係ない。

だから、彼らは「お金」にあまり関心を持たない。

ヒゲイノシシというご馳走を食べた後は、
次にお腹が空くまではのんびり寝たりして過ごす。

ご馳走がなくなった時のことなど考えない。

彼らは将来のことよりも今を重要視するからだ。

「将来飢えたらどうしよう」といった悲観的な思考も
しないだろうし、「将来に備えて何かしないといけない」
というストレスも生じない。


先程も述べたように、
資本主義社会におけるお金の影響について、
善いとか悪いとかの判断基準も実は間違っているのでは
ないかと気づいた。

資本主義社会で生きる自分の価値観に基づいて
判断してしまっているからである。

「僕はお金を使わずに生きることにした」の感想と
似てきてしまったが、資本主義社会の日本で
生きていくなら、やはり「お金」との付き合いを
完全に切ることは難しい。

・・・と思っているから「資本主義社会のお金の呪縛」
価値観から抜けられないのであろう。


今を楽しめて、幸せを感じることができる環境に
身を置ければ(環境を変えれば)、この価値観も少しは
変えていけるのではないだろうか。

最近のメルマガで述べられている計画的偶発性理論を
今実践しています。

新しいことを毎日少しづつ始めていき、
環境を変えてみようと思っている。

すると何かのきっかけで価値観は変わっていくであろう。

行動を毎日毎日、新しいことに変えるのは難しいかもしれないので
少なくとも考え方だけは1日1個、新しい考え方を思いついてみようと
試みています。

こう考えると、将来どんな価値観に変わっているのか
楽しみになってきた次第である。

投稿者 maruchan 日時 2018年9月29日


プナンのように『余暇の多い「豊かな社会(affluent society)」』が成立するのは、狩猟で成り立つだけの食料が豊富だからではないか。また、自分たちを襲ってくる外敵がさほどいないからではないか。気候的には温暖なので、暖をとる目的での衣服はいらない。体の一部を隠すために衣服が必要となる。しかもプナンの子供たちは裸で過ごすという。大きな災害も少なければ、寒い地域の建物のような頑丈な住居を必要とせず、組み立てや取り壊しが容易である。

 現在でも「人数が500人くらいとかなり少ない」のもプナンの民のような生活が成立した要因なのではないか。

「プナンでは、同じ狩猟を行った単位で平等に獲物を分ける。」とあるが分けても大丈夫な量が取れるからだろう。

また森の民なので、森を切り拓くということをせずに、森の中で生きてきたので、西欧のように文明が起きなかったのも、プナンのような民が存在する要因かもしれない。

 

西欧でも、狩猟から生活の糧を得ていたが、西欧では土地を切り拓き、人がたくさん集まる場所ができて、文明が起きてきた。よって人の数がますます増える、という流れになっていく。人が増えると、得た獲物を平等に分けるという発想からはますます遠のいていき、格差ができやすかったのではないだろうか。また、部族という集まりもできてきて、他の部族や獰猛な動物などの外敵から身を守るためには自分たちの力をつけなければいけなかったので、自分たちの数を増やすということが、とても大切な行動だったのではないだろうか。

 

 今後、食料を供給してくれる森が減ってくれば、また変化せざるを得ない。また、今の狩猟にいく年代は40代が中心で、若者たちは狩猟に行かない。

しかし、プナンの民はその都度の状況に合わせて、何とかなるだろう、と考える。この何とかなるだろうという考え方はプナンでなくとも、現代社会で願望実現するためにとても大事である。将来を悲観するのではなく、無防備ではいけないが、楽観視するのはとても大切だと。また、このことは、変化への対応の心構えとしては、正しいであろう。

現代文明での教育とは、人が今まで培ってきた知識・技能・教養などを教えることなのだが、蓄積されてくると、教えてもらうのに、多大な時間が年々必要になってきてしまう。つまりこれは人が社会に出て生活できるようになるのが年々遅くなってくることを意味する。変化の激しい現代社会ではこれはかえって無駄なのかもしれない。プナンの親たちが子供達を学校に生かせず、ゆっくりと生活の仕方を子供に教えることは、子供たちの好奇心を生かし、人間として根本にあるものを尊重しながら生きていくことが可能なのかもしれない。

 

この本の帯を、関野吉晴さんが書いてらっしゃる。グレートジャーニーで活躍されてた頃、関野氏は訪れる地で自分は医師として何か役立てるのではないか、と始める前は思っていたが実際は全くそんなことはなかった、と語っている。村人は病になると、村の祈祷師や呪術師の元を訪れ、治してもらっていると信じている。たとえそれが医師から見たら全く効用のないことだとしても、村人たちは信じて満足しており、自分の出番は全くなかった、と。現代の知識の最高峰の医術が、知らない人々にとっては何の役にも立たないというもどかしさを、とつとつと語っていました。

となると、現代社会の医学は無駄なことになってしまう。古今東西、人の命を少しでも助けるため、または病気を治すための努力が役に立たないのである。

 プナンの民は病気になった時はどうしているのでしょうか。病気は病気として受け入れ、病気を治すという欲はないのかもしれない。身近な人が亡くなると、自分たちの名前をデスネームに変えて、猛烈に死を悲しむけれども、命に限りがあることを現代社会よりも素直に受け止めているのではないだろうか。そもそも、命を助けるなどという尊大な考えはないのかもしれない。平均寿命が伸びる現代人たちは命にしがみつき過ぎるのかもしれない。

多くを求めないプナンの民たち。そこに入り込んでしまえば、とても幸せな気がする。しかし、近隣のマレーシアの現代社会の人たちからは、理解されているとは言い難い。プナンの価値観をも容認する、多様性を受け入れる社会を構築していくことがこれからの世の中では大事なのではないでしょうか。

投稿者 matsuhiro 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

本書は、人類学者がニーチェ哲学を引用し「価値観をめぐる根源的な問いに気づくことの大切さ」を体現した良書でした。プナンの生き方は、私たちの考え方と根源的なものが異なっている以上、評価することはできない。しかし評価することができなくても、ありのままを理解し、我々と対比し、俯瞰することで得た気づきを述べたい。

欲求についての考え方
経営学、心理学で有名な「マズローの欲求5段階説」が当てはまらない、次元の異なる欲求の世界がプナンにあることに驚いた。「マズローの欲求5段階説」は「人間は自己実現に向かって絶えず成長する」という仮説をもとに作られた理論だが、プナンの前提条件が異なるため、この理論が全く当てはまらないのである。人間だからこそ、欲求をコントロールできるのかもしれないが、プナンでは「「本能」としての個人的な所有慾は、徹底的に殺がれる(P.121)」のだから驚きである。世界がグローバル化し、同質化してきている中、競争原理を取り入れず、慾を捨ててきたプナンの特異性の価値観に恐怖すら感じた。単純に語ることができない、周りに影響されない、ブレない軸がそこにはあるのだ。
現代社会は、生きづらさを感じたり、将来に不安を感じる人がいたりして、生きがいについて考える、といったことをよく耳にする。私たちの今は、自分のために、自己実現のために、目標にむかってすすんでいたはずが、いつの間にか、なにか大きなものに所有され、奴隷のように働かされている危険性が潜んでいる。そういったジレンマから解放されるためのヒントが、「慾を捨てよ」なのかもしれない。

食物連鎖と人間の関わり
はじめて食物連鎖を学校で習ったとき、いろいろ疑問をもっていた記憶が蘇ってきた。人間は食物連鎖の頂点に君臨するのか、はたまた食物連鎖の構図に入らないのか、なぜ食物連鎖はピラミッドなのか、弱肉強食という言葉が適切なのか、など。しかしながら、先生も納得いく説明をしてくれず、こうした疑問は「下らないこと」として忘れ、テストで正解になるように覚えたことが蘇ってきた。ニーチェのいう「永遠回帰」の思想なのか、「「円環的な時間」を無意識のうちに生きているのか(P.319)」、森のなかに住むものとして「16.リーフモンキー鳥と、リーフモンキーと、人間と」で書かれている三者関係から成る森の思想が身にしみ込んでいるプナンは、実は無駄がなく、合理的なのかもしれない。

これまで常識として捉え、思考プロセスの前提条件としていたものが全て当てはまらない、ということがいまだ存在することに衝撃を受けた。大なれ小なれ、私たちは科学的思考、論理的思考に慣れて生活している。目標設定、問題解決的発想を多く使っている。これら思考は標準プロセスとして広く認識されているため、当たり前になっているが、それが全てでないことに気づかせてくれた。絶対というものはないのだ、といいうことを著者は最後にこう述べている。「プナンと暮らして考えたもろもろのことは、ニーチェ的に言えば、何ひとつこうであるというこができない、あらゆる価値観が消去した世界の発見へとつながっている。だがそれでもやはり、いやだからこそ、それらには、ストレスをためこんで将来に対する言いようのない不安を抱えながらも、自らのうちに閉じ籠ってしまう社会状況を生きていると薄々感じている私たちに届いて、より自由になって考え、力強く、愉しく生きてみるための手がかりが埋もれているのだと感じられてならないのである。(P.328)」
人はなにか不安を感じたり、迷ったりしたとき心の拠り所を求める。だが、実は正解などなく、価値観そのものが否定される可能性があるのだと理解すれば、心の拠り所自体、無意味なものになる。ああ、無意味なのだ、それだけで凝り固まったものが解れ、生きる力となりえるのだ。深く考えすぎず、シンプルに考えよう、といってもいいかもしれないが、ストレスのスイッチをおさず、積極的に考えようという“こころ”の癖がつけられれば、人生は豊かになるのかもしれない。最後は宗教のようなところにも近づいた感じがするが、題名からは想像もつかない感想を得られることができ、こうした良書に出会えたことに感謝です。

投稿者 masa3843 日時 2018年9月30日


本書を読んで一番に感じたことは、価値観というものがどこまでも主観的だという当たり前の事実です。
価値観は物事を考える上での「物差し」であり、善悪の判断基準となるものです。
そこには、「良い」「悪い」「正しい」「間違っている」という判断が存在します。

現代日本を生きている中では、多様な考え方があり、多様な価値観があるといいながらも、ある程度普遍的な「正しいこと」も存在します。

・人を傷つけてはいけない
・思いやりを持って、人には優しくしよう
・嘘をついてはいけない
などなど。

●悪いことをしたら謝る
●何か施しを受けたら感謝する
●失敗をしたら反省する

こういったことも全て、普遍的な「正しいこと」だと信じていました。
しかし、プナンの中では、それは「正しいこと」ではありませんでした。

プナンは、個人で生きることをしていません。
所有も集団で行い、反省も集団で行います。
それが故に、個人では謝ることも感謝することも必要ないし、反省することもない。

そんなプナンでは、自死や精神的なストレスがないと著者は言います。
それも当然でしょう。
何をしても個人が責められることはなく、その原因を集団として考えるのですから。
「罪を憎んで人を憎まず」を100%実践していると言えます。

客観的で絶対的な価値観というものは存在しない。
そのことを改めて実感し、普遍的な「正しさ」はあり得ないということを、腹落ちすることができました。

その上で考えてみたいことがあります。

間違いなく、価値観の違いというものは存在します。
そして、その違いを認め合うことは、とても難しいことです。
価値観が、それまでの生き方そのものである以上、相手の異なる価値観を認めることは、自分の人生を否定することにつながるからです。

世界から全て価値観がなくなる、『大いなる正午』は存在しないのです。

それでは、異なる価値観に遭遇した時、私達はどうすればよいのでしょうか。

本書の第10章『学校に行かない子どもたち』の中では、プナンが異なる価値観に遭遇する姿が描かれています。
本章は、学校教育のあり方に対する問題提起が要旨です。
そのため、学校に行かずその必要性を感じていないプナンに対し、お金を与えてまで教育を受けさせようとするサラワク州政府の姿勢に、著者は疑問を投げかけています。

私は、これこそが価値観の対立そのものであると感じました。
学校に行かないプナンを批判することができないのと同様に、教育を受けさせようとするサラワク州政府を批判することもできないのです。
双方とも、自分達の価値観のもとに「正しい」ことをしているだけなのですから。
どちらの肩を持つこともできないのではないでしょうか。

では、どうするべきか。
その答えも本書の中にありました。

『何ひとつこうだと言えるものがないということに気づき、そのニヒリズムを受け入れたとしても、ニーチェ流に考えるならば、無意味だからどうでもいいというのではなく、何の意味もないのだからむしろ力強く積極的に考え、そして生きてみなければならないことになるのでないだろうか。』P328

私は、結婚を機に28歳の時に民間企業から地方公務員に転職し、生まれ育った東京から東北の地方都市に移住しました。

移住後、「何で?」と思うような場面に数多く遭遇しました。
例えば、地方の役所では仕事をやり過ぎることについてあまり好ましく思われません。
誤解がないように言っておきますが、仕事をサボった方が良いということではありません。
与えられた仕事をより高い質でやることは、当然求められます。

そうではなく、与えられていないプラスαの、特に自部門を超えるような仕事をしようとすると、白い眼で見られることがあるのです。

最初は、なぜより良く仕事をすることが否定されるのか分かりませんでした。
しかしながら、よくよく周りの考えを聞いてみると、そこにはちゃんとした理由があることも分かりました。

それは、3~4年の周期で異動を繰り返す公務員の職場では、与えられた以上の仕事をしてしまうと、後任の担当者に迷惑をかけることになる、というものです。
特に、他部門の仕事にまで手を出すと最悪です。
その担当者のせいで、仕事がその部門に移されてしまうことにもなると言うのです。

私個人的には、そんな後ろ向きの理由で、より良い仕事をしようとする人を否定する価値観を理解することはできません。
しかし、その理由自体は説得力のあるものでした。

このように、価値観の違いに憤慨し納得できないながらも、その違いについて真剣に考え、その上で自分の考えを通していけるよう行動し続ける。
決して思考停止に陥らないことの大事さを、改めて気付かせてもらいました。

今月も素晴らしい本をご紹介いただき、ありがとうございました。

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2018年9月30日


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を読んで

1.文明の意味
 現代この地球で、いまだに狩猟をして暮らしている森の民・プナン族のルポを読み、文明の意味を考えさせられた。
 通常私達は、プナン族のような民族を「未開人、原始人」と呼ぶ。当然この呼び方には「自分達は優れた文明を持ち、彼らよりステイタスは上」という優越感が含まれる。しかし、本当に私達文明人が優れていて、プナン族が劣っているのだろうか。

 そもそも人類がなぜ文明を発展させてきたかというと、「楽で快適な生活をしたい」からである。昨今話題のIoTなどその最たるもので、これが発達しすぎると人が思考しなくても機械が何でもやってくれるようになり「人はいつしか呆けてしまうのでは?」と危惧の念を抱く。ここまで文明が発達するまで、偉大なる科学者達の多大な努力と苦労があり、私達はその恩恵を享受しているわけだが、優れた文明の出現により人の思考の機会が奪われるとは、笑えないパラドックスだ。

 そう考えると、原始的な狩猟民族は機械の助けを借りることなく、毎朝起きたら「さあ、狩りに行かなきゃ!」と、生きるために食べ物を探しに行っているわけで、目の前の状況を見ながら自分の頭と体を使って行動している。同様に、プナン族の子供達が義務教育の学校に通っていなくとも、両親の狩りについて行って狩りの仕方を学んでいることは、生き抜くための実践力を学んでいるわけで、彼らを「学校に行っていない=教育を受けていない」とは定義できない。学校制度というのも、ある意味、多くの子供たちを一度にお手軽に教育するための、大量生産的なシステムだからだ。

 こう考えると、便利な文明生活を享受するあまり、私達が流れに任せて思考の機会を奪われていることに気づく。自分と異なる生活様式を持つプナン族の考え方を垣間見ることにより、文明生活の一挙手一投足に、意味とありがたみを感じることが要求されているのだろうと感じた。

2.ありがとう、ごめんなさいの言葉の意味

 プナン族には「ありがとう」「ごめんなさい」の言葉が存在しない。それは、彼らが狩猟民族であり、集団の中に序列のない平等な社会が実現しており、何でも分け合う文化のため、物を借りて「ありがとう」と言う必要がないし、個人として反省をしない社会で「ごめんなさい」の言葉も必要としないからでは、と著者は分析する。

 だが、言葉が存在しないからといって、その概念がないとは限らないと思う。似たような言葉は日本語にも存在する。例えば日本人は「愛しています」という表現を日常会話で人に対してあまり使わないが、英語圏の人は夫婦や家族間で毎日頻繁にI love you.と言い合っている。じゃあ日本人には愛がないのか?と考えるとそういうわけではなく、ただ単に「愛」の存在が空気のように当たり前すぎて、口にする必要がないのである。(あるいは、シャイな国民性のため言葉にしないだけ、という解釈もある。)
生活の中に確かに存在するが、私達現代人がオープンに話さないことは、他にもある。例えば性の問題。死にまつわること。排泄物などもそうだろう。逆にプナン人は、その3つとの距離の置き方が、非常に密接だと感じた。

 ところで、社会学者の宮台真司氏の文に興味深い記述があったので、引用する。

「ヒトにあってチンパンジーにない能力は、「不在のものに反応する力」です。サルもヒトも嫉妬します。でもサルは眼前の展開にしか嫉妬しないのに、ヒトは「お前は10年前に俺を裏切った」などと粘着し続ける暗い存在です。ヒトはそうした意味で粘着質です。だから過去に懲りると、過去の失敗を反復しないよう、未来に向けて現在の工夫をしようとします。そこから[過去、現在、未来]という時間概念が分化したと考えられます」
(『日本の大問題「10年後」を考える―「本と新聞の大学」講義録』)

 この一節はヒトとチンパンジーを比較する社会学的な見地から書かれたものだが、私はこれを読んで「過去を反省しない」「時間の概念を持たない」チンパンジーが、プナン族に似ていると思った。もちろん、ある部族をチンパンジーに例えるのは失礼だが、「反省の行為」が「時間の概念」と密接に結びついていることは大きな気づきだった。

3.なぜ列強に侵略されなかったの?

 なぜプナン族はヨーロッパ諸国に侵略されなかったのだろう?主題とやや外れるが、本書を読んで、この疑問の答えがまだ自分の中で出ていない。
 歴史上、ネイティブアメリカン、アボリジニ、アイヌ族、南米の先住民族を始め、西洋社会と異なる高度な哲学を持った民族が西洋人に侵略され、滅ぼされてきた。マレーシアはオランダやイギリスの植民地になった歴史もあり、森で暮らす少数民族もヨーロッパ人の被害にあったのでは?と考えたが、現代でも数千年前と変わらない狩猟生活を続けられているのは奇跡だと思う。

 日本人とプナン族を比較して気づいたのは、明治維新以降、日本が西洋社会に追いつこうと必死に努力したのは、根底に「劣等感」があったからでは?という点である。これは、歴史の浅い新しい国家アメリカも同様で、ヨーロッパのような歴史がないことに「劣等感」を感じたからこそ、あれほど経済を発展させたのでは、と思う。「反省や後悔をしない」プナン族は、他の民族に対する劣等感を、日本人ほど感じないのではないだろうか。もちろん、「劣等感を感じると発展するから、劣等感は感じた方が良い」と短絡的なことは思わない。強すぎる劣等感は人を不幸や自殺に追い込む。劣等感はほどほどに持てば良い方に発展することもあるし、持たなければ幸福感が増す。バランスが大事だろう。

 この感想文はここで書き終えるが、本書については今後も考えを深めることになりそうである。
ありがとうございました。

投稿者 kwbtakr 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

 プナンの環境は現代人の環境と比較した際、より単純な環境である。しかし、彼らの社会生活のなかから再認識、再考察させられることは多い。
 現代人のそれと比較すると単純ではあるが家族、生活集団として社会を構成している訳で、ヒトは一人では生きていくこと難しく、複数人が集まり、協力していくことで生活することが可能となり、またそれがヒトを形成しているのではないかと思う。本書で紹介されている「放屁」、「勃起」、「贈り物」などは彼らの社会でのコミュニケーション方法である。そして集団生活を営むなかで我欲を禁じ、狩猟で得た食べ物は皆に均等に配分することはかれらのコミュニティーを存続する上でのかれらの知恵ではないか。
 まず、彼らの社会は数家族で構成され、その人数で基本的に衣食住を賄っている。対して、現代人はすでに数家族での集団では衣食住を満足することが出来ない複雑な社会構成になっていることに再認識させられた。現代人の社会では大半は誰かが生産し、提供してくれる食べ物を、お金を媒体として入手する生活となっている。時折、全てのものを自分で賄っているというヒトをメディアで紹介されたりするが、彼らも衣服、電気等、何かしらは他人が生産したものを入手している訳で、そのことを無視して自給自足と謳っていることは欺瞞ではないかと感じてしまう。プナンの人たちは「生きるために食べる」ために森に狩猟にでかけ、狩猟がかれらの生産活動である。単純ではあるが主体性のある行動を取っているとも言えるのではないか。かたや現代人は細分化された複雑な社会環境のなかで知らず知らずのうちに生かされている状況に陥ってしまうことを認識する必要がある。
 「放屁」、「勃起」等の話題は現代人社会では一般的に恥ずかしい内容となるだろうが、例えば、家庭内では結構平然と家族の前で「放屁」している方も多いのではないだろうか。そう思うとプナンが構成している社会集団は家族レベルの身近な繋がりと認識できる。「勃起」については家庭内では話題にならないだろうが、(男性なら)会社、学校等の集団のなかでは一種のコミュニケーションツールとして話題となると想像する。これはプナンの集団が家族とはことなる集団の場も構成していると思う。少人数で単純な社会構成と見受けられるが、その中でもいろいろな意味合いを構成している社会ではないかと思う。そして、このような環境であるがゆえに後悔することはあっても反省しない、「ありがとう」も「ごめんあさい」も言わないことは、かれらの社会では必要のないことだからだと思う。逆に考えると、現代人社会では反省することも「ありがとう」も「ごめんなさい」も必要なこと、必要とされたことと言える。「ありがとう」、「ごめんなさい」を言えないヒトは嫌われる傾向のある現代では、他人に対しての気持ちの表れとして、「ありがとう」、「ごめんなさい」もコミュニケーションツールと言えるであろう。
 我欲を捨てること、食べ物を均等に配分するということから「個」と「他」を区分けしない、皆が平等であるという価値観が根付いている社会かと感じた。現代人は「個」を確立し、尊重し、「他」と区別する社会を構築してきた。「個」と「他」と区別する社会環境では「他」との交わるための適切な方法を形成してきたのではないか。そのため「ありがとう」、「ごめんなさい」が必要なコミュニケーションと発展したのではないかと考察する。
 プナンの生活は現代の日本では驚かされる内容ばかりだが、例えば中国農村の生活でも似たようなことがあると思い出されることもある。原始的な生活・社会から現代人の社会と風習、習慣と異なることは多いが、根底にあるその集団に属する自分以外のヒトとのコミュニケーション方法は重要であり、基本的なところは通じるものがあると感じる。改めて他人との繋がり方、接し方を再考察したい。

投稿者 188choco 日時 2018年9月30日


ありがとうもごめんなさいもいらいない森の民と暮らして人類学者が考えたこと を読んで

我々は、この社会の中で、いろいろな人や環境の中で、ともに生活し、その差を感じてきたが、この本を読んだことで、日頃疑いようもなかった、もっと考え方が違う人々がおり、多用な考え方があるのだと感じた。その多用な考えを借りることで、今の自分の視野が狭くなっていることに気づき、また客観的になれる。それがゆとりや余裕を生みだし新たな生き方を造り出す機会となれば良いと期待する。

以下に感想を纏める。

1 ありがとうがない。
感謝の念を表す言葉がないといことは、どういうことなのか。私の生活で想像することがとても難しい。プナンの人々は、獲得したモノは、他の人に譲渡するのだそうだ。それがプナンの社会通念となっている。
一方、我々は個人個人で所有の観念がある。時にはその所有量の差が格差となり、社会問題の引き金ともなる。分けあえば、余る。奪えあえば、足らず。という、言葉にあるようにプナンの人々は前者の平和な心の持ちようをしているのではないか。後者の競争社会の中では、磨きあがるものもあれば、淘汰されるものもあり、それらを享受できる側にいるときは、有り難いが、享受する側にあるときは、逆に自らが篩にかけられる。これにより、時にこの社会でギスギスする感覚を覚えるのではないだろうか。

おもしろいと感じたのが、プナンの集落の中で何も所有していない人が一番、敬われてビッグマンと呼ばれる。それは、自分が得たものをほぼ全て、他の人に与えるためである。彼が尊敬されるということは、やはり徳を持つ者が感謝されるという構図なのであろう。
ビッグマンになると、さらにその人にモノが集まるいうのもおもしろい。自分が出せば出すほど、さらにそれが加速し集まるということで、どんどん流れが良くなり、より尊敬されるということである。この部分においては全く違う文化と思っていたプナン生活の中で、我々の社会でも共通する部分ではないだろうか。私の回りでも、情報をたくさん発信する人にはさらに情報が集まるという循環が成立している。佐藤先生の金運関連の解説でもあるように、お金を自分のもとから出すことで、それが大きくなって帰ってくるという原理がこの世に根元的な存在を実証しているように感じた。
ただやはり、プナン人の中にも感謝に相当する概念はある。なのでこの日本に、ありがとうという言葉があり、表すことができることに感謝したいと気づいた。

2 ごめんなさいもいらない。
これは反省しないということで、反省に値する言葉がなく、そもそもその概念自体が無いのだそうだ。反省をしたくなくても、それをしてしまう私からすれば、少し羨ましくも感じる。
では反省が無いとどうなるのか。私なりに考えてみた。反省をすることで次から同じ事柄に対しては、より良く対処するためと思われる。そして、その一回りのサイクルの反省で終わりならよいが、我々はそれで満足することなく、更に突き詰めて反省を繰り返していることもあるのではないか。これによって何を期待しているか。未来が今より良い状態を期待しているのではないか。一方、プナンの人々の考えにあるのは、今である。(つまり時間概念がない。) この今しかないという考え方は、今以外は無いので、必然的に今に集中できる。そのため我々よりも密度の濃い、今を過ごしているのではないか。そう考えると、より良い未来のために反省してきた私は、不確実性を含む未来のために、より確実性が高い、今という時間を無駄に過ごしてはいないだろうかと疑いたくなる。(不確実性を含むので、逆に思惑通りに、今よりも発展することもあるが。)また将来のために反省しているはずが、ああすれば良かった、こうすれば良かったと今の時間を増大する過去のことに時間を費やしてはいないだろうか。であれば、今だけをより良く生きるプナンの今という時間は、私の今とはまた異なる良さがあるのではないか。過去や未来のことを気にしないのも、時には悪くないと考えさせられた。

さて、では、プナン人のような考えを持って、この日本で生活することは、出来るのだろうか。他の推薦図書で、お金を使わず生きる人の記録がありました。世界中どこに行っても、存在するお金、価値の尺度にもなるお金が、自分だけ無いという、大きな環境差が自分の肌のすぐ外側にあるにも関わらず、多少の摩擦を受けながら、順応していった経緯からすれば、意外と可能なのかもしれない。

最後に、今回始めて読書感想文を出させていただきました。普段であれば読まないようなジャンルの本に触れることができ感謝しております。また、感想文を書くということで、物事を改めて深く考えるということの重要性にも気付くことが出来ました。ありがとうございます。

投稿者 natur 日時 2018年9月30日


 とてもこんな社会には住めない―はじめにこの本を開いた時に抱いた気持ちだ。明日の食べ物も保証されていないし、プライバシーはないし、向上心も謝罪も反省もなく自分のものは皆のもの?とんでもない!しかし一方で考える。何がこんなに自分たちの社会と違うのか。
 プナンの人々の世界へのかかわり方には、自己と他者を明確に区別することのない、境界の曖昧な態度、というのが根底にあるようだ。個の意識が薄い社会。モノだけでなく知識や技能、時間や空間までも共有するという態度は、自分は全体の一部、流れの一部という意識につながり、「ありがとうもごめんなさいもいらない」状態に通じているのではないか。
 これはとても脆いシステムのように見える。惜しみなく分け与え合うことが、無条件の信頼という社会の大前提となっているわけだが、この関係性は逸脱者が何人も出てくれば成り立たなくなってしまう。だからこそ、プナンはこどもの頃から独り占めは悪だと徹底的に仕込まれ、ケチな指導者は決して認められない。平等な精神こそを尊ぶ。
 とは言え、それで現実に社会が機能しているのだから、善い悪いの話ではないのだろう。実際、プナンの社会では個人のストレスが少なく、子どもはコミュニティ全体で育てられるし、将来の不安といったものも薄いように感じられる。こういった点を羨ましく思う気持ちもわかる。では具体的に学べることは何か。
 第一に、何か問題が起きたとき、個人の責任を追及せず、集団のプログラムの問題として処理するという、現代の自己責任論とは対立する態度である。個人の責任とすることは、時としてその人の社会への敵対心を高めたり、共同体内部での相互の疑心を生んだりする可能性があるが、プナンではゆるく社会全体で受け止め、単に皆でできる対応策を考える。それ故、個人で反省はしない。反省とは、自分と向き合うことで成り立つが、個の意識が薄い文化の中ではそこになかなか至らず、過度に自分を責めたり、他人と切り離されているかのように感じたりせず、ひいては精神病理的なものが存在しない、ということになるのではないだろうか。
 第二に、すべてをシェアすることからくる安心感と、執着心の小ささだ。勿論分け与えたくないという気持ちがないわけでないと著者も述べているが、それでも獲物が獲れなくても誰かに分けてもらえる、ということの意味は大きいのではないか。また、子どもは社会の皆で育て、ウチの子オタクの子という認識が小さく、一人で背負いこまない。これは現代社会でも大いに学ぶべき点だ。そして自と他をはっきり区別しない姿勢は、人に対して寛容になれるという働きもすると思われる。また、人と較べるということが少ないから、嫉妬や羨望もあまり生じないのではないか。
 一方、少し飛躍しすぎかもしれないが、淡々と日々を生きる姿からは、物事に重要度を付したり過度に意味を持たせすぎたりしない、という姿勢が見て取れた。人は、自分の価値観に重要性を持たせすぎれば、人は自分を尊重すべきだとか、正しいことを守れないヤツは悪だ、などと人と軋轢を生みうる。人の言動に意味を持たせすぎると、自分を馬鹿にしたとか、あの反応はきっと自分の不能さに呆れたのだろうかとか、勝手に想像が膨らんでいく。おそらく、こんな状態では「ありがとうもごめんなさいもいらない」社会にはなり得ない。反省しないというところと共通するが、重要度を判断しない態度は、「今を生きる」につながっており、それを欲する現代人のヒントにもなると思うのである。
 ところで、「所有」のもたらす弊害なぞこれまで殆ど考えたことがなかったが、現代社会の問題の根本に、この概念が少なからず存在するのではないか、と今回思うに至った。近代資本主義社会は、個人が資産を所有することを基盤に成り立つ。所有とは排他性であり、境界線を引くこと。この意識が拡大すればするほど、競争を煽り、格差を生む、という結果になっても不思議ではない。うまく回れば社会は素晴らしく発展を遂げる。しかし負の側面として、ここから過度な自己責任論や権利意識のぶつかり合い、人を責め合ったりして、ひいては精神的不健康につながる、ということも想像に難くない。
 このように見てくると、プナンの社会ははじめに思っていたよりも、ずっと生きやすい社会なのかもしれない。特に、自身の興味分野である精神的健康の観点から、その一助となる要素が様々見て取れた。とは言え、自我が肥大化し、エゴイズムがぶつかり合う現代においては、プナン化するというのは非現実的だし、そもそもそれがすべての人に心地よいとも思えない。しかし具体的な結論はなくてよいと思う。著者は「大いなる正午」の態度で生きることを見直してみてほしいと問う。私自身の強すぎる自意識、排他性を弛めて、他社に寛容になる、その助けとしてこの本の内容を活用していきたい。

投稿者 H.J 日時 2018年9月30日


「ありがとう」も「ごめんなさい」もいらないなんて・・・
「とんでもない人達だ!」

本書のタイトルを初めて見た時の感想だ。
しかし、そんな感想は横に置いといて本書を読み進める、この感想が浅はかである事を思い知らされる。

むしろ、逆に私たちの住む社会の方がどうかしてるのではないかという錯覚にさえ陥る。
よくよく考えてみれば、我々日本人の「ありがとう」も「ごめんなさい」も、礼儀でしかないのだ。
感情と言葉が比例していない。
「おわりに」に書いてある様に、謝罪会見で『不行跡を国民の前で謝罪するのはなんかヘンだ(P.326)』
こう思ってしまうのは、謝ってる本人も先人達のルールに則って、表面上で行っているからだろう。

言い換えれば、先人達が作った礼儀というルールを忠実に守ってるだけであり、どう思ってるかとは別だ。
表面を取り繕わなければ、日本の同調圧力の中では生き辛くなるという事もあるだろう。

もちろん、感謝や謝罪を言葉で表面に出す事は大切だ。
しかし、感情が付いていかなければ、それは言葉の一人歩きである。
日本人にとって身近な礼儀だからこそ、言葉≠感情ではなく、言葉=感情である必要がある。
改めて、胸を突き刺された様な気分だ。

本書を読んだ事で、この様に言葉が持つ本来の”意味”に向かい合えた。
例えば、私たちが何気なく使う「共有」という言葉。
現代の日本人の感覚だと、クラウドだったり、シェアだったり、同じ認識を持っている事をイメージをするのではないだろうか。
それも間違いではないが、表面だけである。
本来は文字通り「共に有る」ことをさすのではないか。
「共に有る」とは、本書で言い換えれば「共に生きる」である。
まさにプナンの人々の考え方である共同所有だったり、子育て方法を見るとそう思ってしまう。
『みなで一緒に生き残るというアイデアとやり方を発達させてきたプナンの社会(P.127)』こそ、本当の意味の「共有」であるように感じた。
特にプナンの養子システムは、日本でも取り入れれば、孤独死防止や虐待死防止になりそうな気がする。
まぁ、その実現のためには、越えなければならない壁が沢山あるけども。
そして、この「みなで一緒に生き残る」考え方は、智の道に通ずるものがあると感じた。
これを社会のシステムに組み入れてしまうのだから、頭が上がらない。

そう考えると良い意味で

「とんでもない人達だ!」

と思ってしまう。

他方で、この「共に生きる」という考え方が現代日本人には欠けてる気がする。
例えば、夫婦関係でも不倫や金銭トラブルや喧嘩等で離婚したりする夫婦もいる。
責任の所在を擦りつけて、尻尾切りをする組織もある。
外から見ると表面上の繋がりはあるが、その繋がりが細い故にすぐに切れてしまう。
生きる事に不自由がない現代の日本だからといえば、それまでなのだが・・・
この時代だからこそもう一度「共有」という言葉を再認識して、考え方に取り入れていきたい。
表面的ではなく、その意味を理解していきたい。

この様に私たちが普段使ってる言葉も、いつの間にか表面上のものになっていった。
その言葉を表面的に使う便利さに染まっている。
そして、いつの間にか言葉の本来の意味すら考えなくなってしまう。
これは言葉だけではなく、我々日本人の生活にも現れている。
先人たちのルールの上部だけを切り取り、ただ従っているだけだったりする(謝罪会見の様に)。
科学が発展した日本で、科学の便利さに染まっている。
便利なものに染まりすぎて、合理的な生き方を求めてしまう。
すると、目に見えるものだけを信じる世の中になってしまう。
しかし、非合理的だったり、まだ見てないものにこそ、新たな発見がある。(これは怪しい系にも言える)

私の例でいうと、洗濯物は洗濯機で洗うのが当たり前であった。
そんな中、先日娘の排出物が付いた洋服を手洗いした時、
その手洗いの大変さを感じると共に、自分の手で汚れが落ちていく事に楽しさを感じた。
洗濯機では味わえない感動だ。
後日、私の手でキレイになったその洋服を着る娘を見て、小さな幸せを感じた。
一見、古いやり方だったり、非効率的なことに新たな発見が潜んでいる。

本書を読んでもプナンの人々の生き方は日本人にとっては、古いやり方にも思える。
ただ、こう言ったプナンの人々の生き方を知った事で、私にとって新しい発見が生まれた。

この考え方によって、再認識した事がもう一つ。
今はネットで情報が気軽に入る時代だ。
それも大事だが、ネットしてるだけでは手に入らない情報は沢山ある。
今回の様にプナン民族の生活という私たちの知らない世界を深く掘り下げてくれる読書。
科学時代の象徴とも言えるネットの情報と科学発展以前からある読書で得られる情報。
この双方の使い分け方も改めて考えさせられた。

投稿者 shinwa511 日時 2018年9月30日


自分が人から助けてもらったら「ありがとう」と言い、間違いや失敗をしたら、「ごめんなさい」と謝る。子供の頃から当たり前に周囲の人達と付き合う際には、当たり前に言っている言葉です。幼少の頃から、大人になるまでどこでも当然のように使われています。


今月の課題図書「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」に出てくるボルネオ島の狩猟民プナンの社会では、感謝も謝罪の言葉も必要は無いのです。


なぜ、感謝も謝罪の言葉が必要無いのか。それはプナンの人々が狩猟採集民特有の、個人所有を嫌い、時間の感覚も無い事に起因しています。


プナンの社会では、物も知識も能力も個人の持ち物ではなく、プナンという集団にすべて属します。狩猟で獲た成果も均等に分配されます。熱心に働こうが、集団に対して大きな貢献をしょうが得られる分配は、均等になってしまいます。
そうなると、生活に対する向上心が無くなるので、生活をより良くしようという意思が無くなってしまいます。プナンの人々にとって重要なのは、一日一日を生き抜くことです。


また、謝罪について著者が大いに戸惑ったと書いているのが、プナンの人々は自分の過失や失敗について謝罪も反省もしない事だった、と書いています。先に書いた向上心が欠如しているため、自分や他人のダメなところを改善しようという考えも無く、自分の間違いや失敗について、謝罪や反省がありません。周囲の人々も失敗をした本人の責任を追及することもありません。反省が無ければ向上心も、より良い発展性も育ちません。一日の、今を生き抜いていく事が重要なプナンの人々にとって、「この先の未来」という時間的な感覚は無いのです。


一方の我々日本人のような農耕民族はどうだったか、ということも考えてみます。


弥生時代の稲作の発展と共に、その収納のための専用施設 ( 稲倉や高床式校倉 ) を確保することが必要不可欠になります。湿気や水害に耐え、食害獣に備えるため、当時の最先端の技術が注がれました。そのため備蓄をすることができるようになり、努力して多くの成果を上げて、物を蓄えることも可能になっていきました。個人所有という概念も、備蓄や蓄えという空間的、時間的なことを考えることで、生産性や経済は発展していきました。


しかし、個人所有や蓄えという概念が、現代の先進国を苦しめているのも確かです。


森岡孝二氏の著書「働きすぎの時代」でも書かれている通り、“生産性の上昇につれて労働時間は短くなるという専門家の予測は誤りであった。”と書いている通り、他社との生存競争は激化し、 ” パソコン、携帯電話、 E メールなどの情報端末の発達が、ストレスを増大させ、私生活への仕事の侵入をもたらしてきた。 ” と書いているように、働き方だけではなく、生き方そのものを見直すことが求められています。


最近、網野義彦氏の著書「古文書返却の旅」を読んで、その中で江戸初期の能登では、水呑百姓の中には田畑を持つことができないのではなく、土地を持つ必要がまったく無い程、商人、職人、廻船人等の「海商」に関わって、多様な生業を営む人達が居たことを知りました。「百姓=農民」ではなく、地域によっては様々な選択肢も存在したのです。


学校で教わるような。「広く一般的に」とか、「普通は」というような固定された見方で判断することが、如何に考え方を一辺倒名なものにしてしまうかを改めて感じました。
自分から「本当にそうだったのか」という問いかけをして、調べなければ分からないことが多くあります。


今回の課題図書で、日本で当たり前と考えている個人所有という概念も、実は当たり前ではなかったということ、そして一括りで考えて判断してはいけないという事を認識しました。
まだまだ、自分の常識を打ち破るような、知らなければいけないことがあると知り、今後も積極的に知ろうと思い、自分の考え方を変えていきたいと思いました。

投稿者 sunao929 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

なぜ人類学者は、現地に行き、ともに生活するにするの?人類学とは何のための学問なのだろう?といった疑問は、読み進めるうちに、それは、対象とする集団に入ってみないと、ものの考えや捉え方が、フィールドワークを通じてしかつかめないからだとわかっていく。

①分かち合いの社会
「プナンの人々は、勝手に人のものを持って行って使い、壊れてしまっても謝りもせずにそのまま返す。食べ物や持ち物を持って行ってしまう。」と聞いて、最初は驚きを越えて嫌悪感を持った。
彼らは、狩猟生活を営むため、集団で助け合って生き長らえるため、皆で分かち合うことを当たり前のこととしている。モノや人でさえも。
このような手法は、近い将来、超高齢化社会を迎える日本でも参考になると思った。
ただし、個人所有が基本の日本においては、「価値観の近い人と皆でシェアし生きていこう」という考え方になるのであろう。

②今この瞬間を生きる
著者は、「直線的な時間」生きている私たちに対して、プナンの人々は「円環的な時間」生きていると言っている。直線的な時間を生きるとは、過去を反省心をもって見直し、今現在において向上心を持って行動することで、未来において何かしら目標を達成するために生きることである。
それに対して、円環的な時間を生きるとは、今この瞬間を生きることであり、過去や未来はない。今日起こったことが明日も起こり、それが永続していく。
この生き方の根底にある考え方は、状況は刻一刻と変わるものだから過去の失敗に囚われず、柔軟に対応していこうというものだ。
このような生き方のため、プナンの人々はうつなどの精神病にかかることがないという。
 ストレスに満ちた現代日本に生きる我々にとって、今現在の苦痛・不安よりも、過去の出来事の悲しみに囚われすぎていたり、将来に対しての漠然とした不安の方が精神に悪影響を与えているのではないか?
私たちは、プナンの人々の「円環的な時間」の生き方を取り入れ、今この瞬間に生ききることを考えることで、よりよい人生が送れるのではないかと感じた。

③生きることの意味
一番考えさせられたのは、人間であれば当たり前と思い込んできた、「一生をかけて何かを実現すること、今日の働きで何かが達成されたりすること、暮らしの水準を維持するために働くこと。」といった、日本人がこれまで立ち入って考えてこなかった事柄を立ち止まって考えてみることというところで、プナンの人々の考えやものの捉え方に触れることで、生きることの中に意味を見出す必要は必ずしもないのではないかということ。
最初のうちに感じたプナンの人々への嫌悪感も単にモノの見方が違うだけで、どちらが正しくてどちらかが間違っていることではなく、真実はないということなのだ。
価値観をめぐる根源的な問いである「大いなる正午」のいう(真上からの強烈な光によって物事が隅々まで照らされて影が極端に短くなり、影そのものが消えてしまった状態」)善悪がなくなる状態を心の片隅に置いて、自分の価値観を他人に押し付けていないか?自分がいつも必ず正しいと思いこまないようにしよう。他人がどのような価値観を持っているのか推察する努力しようと考えた。

④人類学とは?
なぜ人類学者は、現地に行き、ともに生活するにするの?人類学とは何のための学問なのだろう?といった疑問に対する答えは、「プナンの人々と一緒に暮らして、彼らの考えや物事に捉え方を知ることで、世界には固定された絶対的な価値観(神、常識、事実)が存在しないことを体験を通して、理解することである。人類学とは、別の生の可能性を私たちの日常の前にもたらすことで、私たちの当たり前を問い直したり、物事の本源的な在り方に気づくという知的な営為なのかもしれない。」

⑤最後に
ニーチェの言葉を踏まえた「無意味だからどうでもよい。何の意味もないのだから、むしろ力強く、積極的に考え生きてみる。」ということには、好奇心・探求心を持ちつつ行動していくことの大切さを教えられたように感じた。
より自由になって考え、力強く、愉しく生きてみようという言葉に勇気づけられた。
50歳を前にして、必要以上に肩ひじ張って凝り固まらずに、生き方は一つじゃないよ、別の道も可能性があるよ、自分の人生だから楽しく生きよう!というメッセージをもらったような気がした。

今回も良書をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 wasyoi 日時 2018年9月30日


#ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと を読んで

この本は、『ありがとうもごめんなさいもいらない』ボルネオ島の森の民、狩猟採集民プナンの生き方、文化を調べることで見えてきたことが語られます。

まず、タイトルに驚きました。
『ありがとうもごめんなさいもいらない』とは、いったいどういう世界なのか?
現代社会では生きていく上で「当たり前」とされるこの二つの行為がいらない、とはどういうことだろう?と思って読み進めました。

でも、本書を読み終えたときには、このプナンの社会で一生を暮らすのもあり、だなぁ…と心変わりしている自分に気がつき、驚きました。

「ありがとう」を言わない事については、プナンの社会ではあるものはシェアをするのが当たり前、だから感謝する必要すらない。何もかもシェアしてくれて、何も持たない人が、人として一番尊敬されるという例が出てきます。感謝すら必要ない、あるものは蓄えずにシェアするのが当たり前の世界。もちろん、子供の本能はそういう風には考えないようなので、大人からの矯正が徹底されるようです。ということは、プナンの社会はシステムとしてそのように仕向けている、という事。

そして「ごめんなさい」を言わない事については、プナンの社会では基本的に反省するという事がないという、何とも衝撃的な考察が出てきます。少しばかりの後悔はあるにせよ、反省し次に生かすという態度は出てこない。だから「ごめんなさい」という言葉も出てこない。


最近、いろいろなモノをシェアする、という文化が世の中を席巻していますが、これは決して新しい概念というわけではなく、本当に昔から人間が持っていた考え方だったんだな、ある意味で、原点回帰。人間が昔からしてきたことを、思い出して来ているんだなぁ、ということを強く感じました。
また、本なども出ていますが、必要最低限しかモノを持たない「ミニマリズム」という考え方も最近流行っておりますが、詰まる所モノを持たない生き方というのは、同じように原初の生き方への憧れ、のようなものなんじゃ無いのかな、と感じました。


日々、仕事にやりがいは感じているけれど、なんとなく、なんとなく苦しい気がする。
というのは分かってはいるけれど、生まれる前から当たり前に存在している国家、そして資本主義という社会に取って代わるものは無いようだから、どうしようもないよな、、、と心の中でポジティブに処理しよう、と思っていた節がこれまでありました。
しかし、ここで描かれるプナンの暮らしというものを知ると、もともと、ヒトはこういう暮らしをしていたのであろう事や、モノが無いが故にモノに所有されない暮らし、ご飯も、子育ても、さまざまなモノもとことんシェアする暮らし、その結果として、見事に精神を病む人がいない暮らし。

これはすごい社会システムだ!と感じざるを得ません。

もちろんプナンの暮らしには病院があるわけはないでしょうから、平均寿命は現代社会と比べても、圧倒的に短いのでしょう。
しかしながら命が短くても、少なくとも皆が幸も不幸も考えずに生きていけるのは、幸せな社会システムなのではないでしょうか。仕事の量も少ないですし。

そういう問いを真正面から考えたことは、初めての経験です。読んでいて、とても興奮しました。
(もちろん、性の所も興奮しましたが。)

こういう社会システムがあることが知れたことが、本書を読んで一番学びになった所でした。サラリーマンとして現代社会の歯車のほんの小さな一つとして動いている身としては、心底羨ましいなあ、豊かな社会なんだろうなあ、と思ってしまいました。

この本を読んで、『p327 私にとって、ボルネオ島の森でプナンと一緒に暮らすことは、「大いなる正午」を垣間見る経験だった。それは、「すべての価値観、すべての意味付け、すべての常識が消え去り、何ひとつ「こうである」と言えるものがない世界」に触れることへの入り口だったのではあるまいか。』というフレーズが一番印象に残りました。価値観を揺さぶられる体験は、読書の醍醐味。新しい視点を持たせていただいたこの本に感謝です。
今回も素敵な本に出会わせてくれて、本当にありがとうございました。

投稿者 kayopom 日時 2018年9月30日


「プナンでは、私たちの『ワザ』は使えない。」

「挨拶」は言葉の基礎。外国語を学ぶときもまずそこから。コミュニケーションにはまず必要だから。
ところが、「ありがとう」「ごめんなさい」はおろか、通常の「こんにちは」などの挨拶すら存在しないというプナン族。
プナン人の生活(放屁や性的なことへの態度etc)のエピソードを読むとその奔放さに困惑する。
プナンがどうやって社会を形成しているのかは、私たちの社会とは違いがありすぎて、実際は想像しがたい。
また、狩猟を主とする民族なのならば、獲物を授けてくれるいわゆる「神」のような、大いなる存在を信じないのだろうか?
獲物を今日も捉えらてたことを感謝します、とか供物を捧げたりしないのだろうか。

●プナン社会の想像しがたい世界観
13章でこの回答がようやく得られる。私たちとは異なるプナンの世界観の全体像は、「大いなる存在」への態度にあった。
「儀礼や祭礼の機会を設けて超越的な存在と折衝しようとはしない」(p236)
また、捕らえた動物に対しては、正しい処置と「忌み名」を使うことが必須とされる。動物を嘲ったり、名前を間違って呼ぶことなど、間違った振る舞いをすると、雷や天候の異変などで天罰が下るというのだ。

プナンでは「神」とは取引するような行為は存在せず、著者は「動物に対する禁忌とその実践は、<倫理>ではなく、人間と動物が「魂」を持つ同党の存在としてあるということのひとつの表現だったのではないか」(p244)と考える。さらに「カミは、人間が、それと対等な存在である動物に無礼を働くと、怒りを爆発させるような、『人間的な、あまりに人間的な』存在者なのである」(p244)。

プナン社会の共有と共同は、動物や自然も内包しているのだろう。
彼らが感謝しないということではなく、感謝は「正しい行い」を実行する中に、プナン社会に仕組化されているのではないか。
挨拶や感謝、謝意の表現も吹っ飛ばして、「正しい行い」は循環していく。
「神」的な存在との取引ではなく、明文化されてもいない「正しい行い」こそが、生きる糧を得る自然との交信手段と考えているところに高潔さを感じた。

●「ありがとう」とは何ぞや?
こうなると、別に良い悪いではないのだが、「ありがとう」って割と安易に使っている自分に恥入りたくなる。
「ありがとう」は言われて嫌な思いをする人はいないし、感謝している気持ちを表現するには手っ取り早いし。
いわばこの社会において人間関係の潤滑油であるのは間違いない。
「ありがとう」がない世界というのは、もはや考えられない。
さらには、ありがとうと発する意図には「見返り」もかなり要求してしまっているのかな、と気付いた。
例えば教えていただいた怪しい系のワザの数々で、人間関係上即効性があるあの「ワザ」。
もちろん効果を期待してやっているわけで(その効果が絶大であるからこそ)、感謝してるよ、またヨロシク!みたいなところもなきにしもあらず。これは「超越的な存在と取引」しているようなものだ。
まるで「ありがとう」は純粋じゃないみたい。もっとピュアな感謝ができるとしたら何だろう?と考えてしまった。
「あなたも幸せ、私も幸せ」に通じる行いを自分なりに、言葉ではなく自らを律する態度や行動で示すこと、宇宙に恥じなく生きることなのではなかろうか。

●西プナンの未来
このようにある種ユートピア的な存在であるプナン社会は、輪が閉じていれば、循環はうまく回る。
しかし一度輪を乱す存在が入ってくれば、どうなるのだろうか。
すでに20世紀から恐るべき事態は起こっていて、彼らが住む熱帯雨林の違法伐採で環境が脅かされている。
同じプナン族の中でも、東プナン族はバリケードを築いたり林道を占拠したり、識字率を高めて有利に交渉しようと行動している。東プナン族はすでに「循環の輪」から逸脱してしまったように思う。
対するこの書で扱われた西プナン族は、移住を余儀なくされつつも、そこでの生活を受け入れ以前と同じように暮らしているという。

とかく二元論を排除して考えねばならない本書。
どちらが正解かではないが、人間として自然と調和することを選び続ける西プナン族の暮らしが、いつまで永続できるのか興味深い。
案外「彼らはそうっとしておいてあげよう」と考えを持つ人々が、周囲に増えて保護される存在になっていくかもしれない。プナン周囲の世界の寛容性も試されるものとなろう。

●プナン社会への疑問
最後に結構気になったことを備忘録的に示しておきたい。
この本のプナン文化はあまりにも「男性的」な立場で書かれているので、女性にとってのプナン社会がどのようなものかがいまいち捉えきれない。
女性側の社会がもう少し書かれていると、より全体的なプナンの暮らしぶりがわかるのだが。
フィールドワーカーが男性である以上、なかなか踏み込めそうもないけれども。

投稿者 si197766 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで
プナン社会は「狩猟を主な生業とする人々」「生きるために食べる」「永遠回帰を生きる人々」
プナンの人々は、朝、太陽が昇と狩猟に行き、捕ってきた食料を食べ、寝る。次の日もまた、その繰り返しを生きています。
私は学生時代、テニスの合宿で、一日中練習をして、夜、床につく時に疲れているから直ぐに寝られるはずなのに、寝て起きたら、又、地獄が、始まる。寝るのが、怖い。寝るのはよそうと思った事があります。
肩をしっかり痛めてしまった事があります。それでも治療をしながらテニスをやっていたのですが、朝起きると、先ずは、肩を回します。何故、こんなにも痛いのと悲しくなります。起きたくない。
42年間組織という枠の中で生活していて、枠の外に少しでも出れば叩かれます。そのうちにこんな私にも知恵がついて、どうしたら、要領よく生きて行けるか考えます。パワハラとか、色々ありました。精神的に追い詰められて、命を落しても不思議ではない状態でした。人間は、追い詰められたらもう、どうでも良いのです。私の場合、友人が、私の襟を引っ張ったので、今、生きています。
プナンの人々と、私が過去に所属していた組織を比較した時、精神的に異常をきたす人の割合を考えた場合、プナンの人々が、精神的に異常をきたす人は、少ないと思います。私が上司からパワハラを受けていた時、確かに、上司は悪い。しかし、貴方も悪いと言われた事があります。プナンの人々は、人の車を盗んで運転しても謝らない盗まれた人も怒らない。財産も、食料も、社会共通のもの。日本で人の車を盗むと言う事は悪い事。日本は、二重帳簿、データ改ざん、汚職、不倫報道、ごめんなさい。申し訳ありませんでした。のオンパレードです。しかし、日本には、プナンには無いトイレがあります。私がプナンに行ったらどうするのでしょう。あるはずのトイレ、お風呂、洗濯機、雨・風がしのげる家が無い。組織の中に入って、こんなにわけのわからない上司の下にいたくない。しっかり大学へ通って、しっかり勉強して、私は、こういう上司になるのだと、いきり立っていたのに、プナンに行ったら、大学に行った意味が無くなってしまうではないか。日本人とて、プナンの人々が、今持っているもの、遠い昔は持っていたのではないでしょうか。遠い昔の日本。となり近所のお付き合い。上司が言っていたことがあります。家の娘、三人は他に行っていて、昨日はとなり近所の子供三人が、家にやってきて、お昼を食べさせて、遊んであげた。と言っていました。今の日本のどこにこの様な光景があるのでしょうか。しかし、この様な光景は、日本の何処かにあるかもしれません。トイレが無い。お風呂が無い。と言う話ではありません。私達一人一人の心の問題です。私が、もう少し、人に対して優しくなれたら。今の日本は、人との接触が、極端に減ってしまっています。以前、一緒にテニスをやっていた先輩の義理のお母さんが亡くなった時、お手伝いに行きました。両隣の家の方は知らん顔です。神奈川県横浜市での出来事です。先輩の家族はごく普通の家族です。性格が悪いわけでもありません。近所に迷惑をかけているわけでもありません。私達日本人はプナン社会の素敵な所、取り入れて生きて行っても良いのではないでしょうか。
私の母は、67年間、生きるために、ただ、ひたすら働き続けました。親戚の叔母が、お葬式の時、母の遺影を見て、母が叔母に私は本当に苦労しました。本当に大変でした。と言っているように見えました。と言っていました。私と弟が、社会人になって働き始めた時、私は母、弟に給料日前になると、お金を借りていました。母には返していましたが、弟には返していない時がありました。それを見た母は、弟に、しっかりと、取立なさいと怒っていました。その時弟曰く、家族なのだからどうでも良いのではないかと言っていました。姉の面目丸つぶれです。弟にはプナンの人の血が流れているのか。
私が今、考えることは、朝がやってきたら、ただひたすらに淡々と起きます。朝起きたら、眠い、かったるいと言う感情をもたずに、様々な仕事をやって、夜が来たら、しっかりと寝ようと思います。そうして、プナンの人々のように、もう少し、人に優しくなります。
ありがとうございました。

投稿者 yrishida41 日時 2018年9月30日


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして
人類学者が考えたこと』 著者:奥野克巳

1.著者:奥野克巳氏について感じたこと
 まず文化人類学という学問、初めて出会ったのは大学の時です。何か言葉の響きが良く
理系でありながら一般教養が必要と感じ授業登録しました。
周りからは変わった授業取る奴だなぁ、という先輩および同級生の冷たい視点。 
一般的に言われることは、やはり合っているのか、結局文化人類学とは何ぞや??で終了。
当時は、未開の地の文化を求めて旅に出るような気がいもなく、ちょっと変わった大学生でした。
それに比べて、著者の奥野克巳氏の思考と行動は凄すぎます。
我々が常に考えている習慣や一般常識に対して、早いうちから疑問を持ち、そこから抜け出ることを
既に考えているだけでなく行動に移していること。現代社会の様々な縛りから離れた無関係な位置に
立つことができないかを真剣に考え、人間の根源的なやり方や考え方について掘り下げる・・・
文化人類学者とはかくあるべき、なのでしょうか? 
ニーチェにも造詣が深く、私はまだまだニーチェの思考には及びませんが、理解できるよう自己研鑽は
続けます。 思考力・思索力と行動力がバランス良く身についているというのは、成功への条件の
必須項目だと言えるのではないでしょうか?

2.『平等』について
プナンの民は、“ケチはダメ”を根本的な道徳観念としている。だから獲物が手に入ると周りの人たちに
等しく分け与える。だからより多く分け与える人物・よりたくさんの“気前”を有する人物が、いわゆるビッグマンとなる。一見、これは我々の観念や道徳観からしても良いことだと思われるが、読み進む
うちに違和感が沸き上がってきました。
弱者(一般的に女・子供・高齢者・身体障碍者等)を守るという意味では納得出来ます。
しかし、狩猟に行ったプナンの人たち(ほとんど男性と思われる)の中にも、一生懸命狩猟に参加した
ものもいれば、要領よく頑張っている“フリ”をしているものもいるのではないか? 
小学生の頃、真面目に掃除をやった者としては、先生が見ているときだけ掃除をしている奴が許せなくてよくケンカした経験が強すぎるからこのように感じるのかもしれません。
そこはプナンの民には、怒りや憤りという概念は生じないのでしょうか? 
全体を通じて、プナンの民通しが争うようなことはほとんど記述されていなかったと思います。 
平和を愛する民?“怒り” という言葉はないのかもしれません。“ありがとう”という言葉と同じで。
学校にきちんと通った人とそうでない人とで、援助金配布を傾斜配分する話がありましたが、
ここでは何と学校に来なかった人も同様に扱うべきだと主張している。資本主義社会では想定外すぎる
展開です。こうなると“えこひいき”は絶対に出来ないですね。適切かどうかはわかりませんが、
“悪しき平等” という言葉が頭に浮かんできました。
自分がもし、プナンの社会でホームステイしたら、これは本当の意味での平等かどうか、思い悩んで
メンタルヘルス不調になるかもしれません。
 
3.感謝なし・反省なし で生きること
 『ありがとう』という言葉がいらないこと、『ごめんなさい』が不要の社会、この2つは感想文から
絶対に外せないこの本のテーマです。 2.平等について で記述したことを理解するためには、
『ありがとう』と『ごめんなさい』という概念?観念?思考?が不要の社会に答えがあるのかも
しれません。まだまだ我々の現代社会常識にとらわれた思考でいる限りプナンの民は理解できないの
かもしれません。現代社会で生きていくためには、『ありがとう』と『ごめんなさい』は必須の言葉
だと考えています。本音と建前の両方を含んだ使い方が可能であるという意味においても。道徳と
しても『ありがとう』『ごめんなさい』は必ず教えに入っています。 
プナンの民は、現代社会では必ずありがとうとなる事柄でも、空気のように “当たり前” 
の世界なのでしょう。だから感謝することはなく、その必要もないということなのでしょう。
このように考えると我々現代社会の人間は、なんと卑しい精神性なのか?と思わず唸りました。
ありがとうと言われて、いいよいいよ当然のことをしたまでです、と言いながら心の奥底では
感謝されて気持ち良い・心地よいと感じているのではないのでしょうか?
これは相手に感謝を要求していることになります。 プナンの民、おそるべし精神性の高さです。 
しかしながら、私はプナンの民の世界にはとてもとても馴染めそうにないです。

4.最後に・・・
読み終えて、大いなるカルチャーショックを受けましたし、考え方の視点を根底から
覆されました。 自分の好きな分野だけではなく異なる分野にもっと積極的に手を
出して行こうと強く決意しました。更なる成長のために。
次の課題はニーチェです。今回も素晴らしい課題図書を取り上げて頂き感謝致します。

投稿者 ktera1123 日時 2018年9月30日


表題の「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」から、鍵となる「ありがとう」「ごめんなさい」について考察してみた。

1.ありがとう
「ありがとう」の語源を調べて見ると「『めったにない』『めずらしい』を意味する『有り難し』という言葉が語源である。」とあった。滅多にない、珍しくて貴重だ、貴重で得難いものを自分は得ているという自負から、感謝のために捧げる「お供え物」、おすそ分けとしての「贈答品」「ギフト」となったり、「ハレの日」のご馳走になったりする。

森の民の「プナン」の食料事情は「1.生きるために食べる」に書いてあるように、ザコデンプン、魚、狩猟で得た獣肉(主にヒゲイノシシ)とある。
ザコデンプンについて調べて見ると、ザコヤシの幹の髄の部分を削り取り、水を加えて絞り、濾してから、水で晒して沈殿させて採るとのこととあり、ザコヤシ自体は自生しているので(一部地域では栽培されており、日本では輸入品が「糖化でん粉」としてうどん、そば、ラーメンなどの麺類やシュウマイ、餃子のうち粉として利用されているとあり、未利用のでん粉で現在流通している他のでん粉(わらび、くず、とうもろこし、ばれいしょ)の代替利用に活用しようとの動きもある。農業産業振興機構の情報より)で容易に手に入り、有り難い品物ではない。
魚については、本文中にあるように河川の水量さえ問題なければ朝飯前に「投網」をすればいくらでも採れるようです。(自宅の近所の多摩川でも種類さえ問わなければある程度は採れますし、周囲が原生林のボルネオ島では、食用に値する魚が豊富に採れそうです。)
最後にヒゲイノシシについて調べて見ると、ボルネ朝オ島を旅していてもっともよく会う大型哺乳類で、1983年の記録によると100万頭近くはいるとのことでした。さすがに35年近く前の記録で、他の情報によると個体数は減少が進んでおり保護を検討する必要があるかもしれないとの記述もありましたが、現在でもビーチリゾートに数等程度は毎晩出没することもあるとのことなので、どう考えても、めったになく、珍しくて貴重なものにはならないので「ありがとう」は発生しないのではないでしょうか。日本で100万かそれ以上の個体数を有するものを考えてみると、「蚊」「蝿」「ゴキブリ」「ねずみ」等どう考えても害虫や駆除対象となるレベルになってしまいます。ヒゲイノシシにも一分の魂はあるので原始生活では容易には仕留めることはできないでしょうが、仕留めた経験が豊富で確率が高い長老が「ビックマン」と尊重されますし、種の保存(上記の個体数の減少は近代の銃器の影響が大きいとのことです)を自然と考慮した関係が長年続いて来たのでしょう。

2.ごめんなさい
「ごめんなさい」の語源も同様に調べてみると「『御免』が相手から正式な許可や認可を下すこと敬ったいい方、『なさい』はしてくださいを合わせた言葉」とあり鎌倉時代の文書から見られるとあった。原始社会では相手から正式な許可や認可は必要ないし(車を運転するための免許証については本文に書かれているように、信号も見ず知らずのところまで出かける必要はなさそうなので、名義借での対応でとりあえず問題なし)、必要以上に上下関係を作る必要はなく、外部の人からはある意味「人間扱いされていなかった(員数に含まれていない)」のではなかったのでしょうか。

最後に、ボルネオ島が「南国」にあるからこそ、貯蔵の概念がなく(日本でも夏場に冷蔵庫がなかったら、食料はすぐ腐ってしまうので必要に応じて調達した方が理にかなっている。ただし、冬場のことを考えると貯蔵する必要がある。)、また必要以上に財産があっても、「大雨」「雷」等の自然災害で失う機会も多いのでしょう。このことは、曲がりなりにも最後の正当な共産主義の国がキューバになったように、南国には人をのんびりさせる気象的な条件があるのでしょう。暑い中動き回るのも今年の日本の猛暑や、最近の猛烈な台風を考えるとなんとなく理解できてくるのかな、また、猛烈な台風が接近しているなか「祈る」しかないのは、文明が進化しても変化していない共通点が見出されて共感しました。

投稿者 kzid9 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」を読んで

 この本を読み終えて、表表紙、裏表紙をよく見てみるとイラストが描かれていることに気づいた。
大きめの帯に隠されて気づかなかったのだが、イラストがこの本をわかりやすく表現してくれている。
 現代人である、私たちが日常で「あたりまえ」と共有している価値観とプナンの人の価値観がまるで違うことに驚いた。
 タイトルにある「ありがとうもごめんなさいもいらない」
とはどういうことか。言葉がないということは、そこには実態が存在しないということです。
「ありがとう」といったあいさつをすることは、私たちが、子供のことから言われ、躾けられてきた価値観であり、これとは全く価値観を異にするわけです。
 人に親切にされても「ありがとう」も言わないコミュニティーでの生活とは一体どういうものなのか、まったく想像できなかったということです。
 また、「ごめんなさい」もなければ反省したり、叱られたことから学ぶということもなく成長もないのでないかと思ったのです。

同じ時代に生きながら、西プナン500人の人々が私たちと大きく異なる価値観をもつ背景を考えると、大自然の中で共同体としての生活で自己完結していること。徹底的に個の差異を否定するといった土壌が影響しているのではないか。

「熱帯の大いなる正午」ではないが、私たちは一切の価値観を取り払って、価値判断することなく対象を見ることができない。
何かしらのフィルターを被せて物事を見ている。
 これを自分の職場でのことに置き換えると、それぞれに与えられたポジションがあり、その中でのそれぞれの役割が違うことから、同じ景色を見ても感じ方が違うということを考えなければならない。
 相手には、相手の価値観をベースとした考えがあるのだということを前提としたコミニュケーションのとり方を思考しなければとならないと感じた。

 個人の所有について、プナンではこのことについては、現代人の躾に似た厳しさを感じた。なぜ、これほどまでに幼少期の子どもの所有慾の発芽を殺ぐのか。
 それは、自己の範囲が集団のレベルまでに拡張されているかれではないかという。自己の捉え方が、現代人と違い、共同体の中の一員としての自己であり、共同体から切り離された自己は存在しないとの価値観からではないか。
 そのため、現代人とは違い、慾を徹底的に排除させ、個人的な独占欲を後天的な躾によって削ぎ落としてみんなで所有することにこだわるのである。
 表表紙のイラストを見ると理解が促進されるが、個人慾を認め自己責任で自分の努力によって幸福を追求する社会に生きている私にはピンとこないのである。

 時間に対する感覚の違いについて。
 現代人である私たちは、時間は直線的に流れていくもので、線で表すと左が過去で右が未来というように左から右への時系列で流れていくものだとの認識があるのではないか。
 そして、時の経過とともに人間的に成長していなければならない。
 そんな刷り込みがある。目標を持って、がんばるのが善。
 なぜなら、サンダルを履いて近所を散歩して気がついたら富士山に登ってたという人はいない。富士山に登ろうと思わなければ登ることはできない。だから目標を持つことが大事だといった有形、無形の様々な外部からの圧力、刷り込みがある。
 これに対して、生きることに意味を見出さないプナンの生き方は時間の流れがぐるぐると同じことが繰り返す「円環的な時間」を生き、それゆえに、反省しないという技法が生きるために必要だったとある。
 どのような価値観を持つかによって、時間の流れの感じ方まで変わってしまうことに驚いた。

 最後に、プナンの人を思い、開発を進める人とプナンの人の価値観のズレ。
このズレこそが、私たちが考えなければならない問題であり、このことに気づくことによって、私たちは自らの価値観から開放されるチャンスを得るのではないでしょうか。
 自分の価値観は外部からの圧力によって刷り込まれたものなのかそれとも脳みそで汗をかいて自らの考えによるものなのか。
現代に生きる私たちがなにか息苦しさを感じているとすれば、プナンの価値観を通じて、考え直してみる良い機会ではないか。

 私たちは普段、自分の見たいものしか見ないようにフィルターがかけられているので、このような課題図書に巡り会えたことに感謝したい。

投稿者 BruceLee 日時 2018年9月30日


海外に行くと日本を外から見る事ができ、新たに気付く事があるが、本書を読みながらそれに近い感触を覚えた。我々の常識が常識でない民を知る事で、

「自らの問題として考えてみることで、揺さぶりをかけられている」

或いは

「これまであまり立ち入ってこなかった事柄を立ち止まって考えてみる事を促す」

の通り、我々自身を振り返る事が出来る。まぁこう振り返る事自体、反省しないプナンの民とは違う点とも言えるのだが(笑)

まず「ありがとうもごめんなさいもいらない」が本書のインパクトあるタイトルであり「プナンは、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない人たち」として詳述されるが、例えば日本や先進国では、生まれた子供に最初に教えるのが「他の人に何かして貰ったら『ありがとう』とお礼を言いなさい」ではなかろうか。端的に言えば「他者とうまくやる事」が社会で求められるから、公園デビュー前に社交術を教える訳だ。が、プナンの民の力点は異なる。彼らが子供に教えるのは所有慾を持たない事、ケチであってはならない事。その意味では「ありがとうもごめんなさいもいらない」とは、自分の事しか考えない、のではなく、端から他者が念頭にあるとも解釈できる訳で、それが彼らの常識なのだ。つまり他者に重きを置いてる点では大きく違わない気もする。個人的にインパクトが大きかったのは、

「私たち現代人は、食べ物だけでなく、あらゆる必要なものを外蔵する世界に生きている」

という一文であった。確かに農業に従事していない私は「農耕革命をつうじて、安定的に手に入れることができるようになった」事で、食物を直接育成・獲得する代わりに、共通価値を持つ貨幣と交換する事で日々得ている。一方、狩猟民族であるプナンは安定的な食料供給源を持たず、ある意味その日暮らしだ。単純比較すれば、安定的な供給源がある方が安心ではある。が、本書はその後、我々が「所有」したが故に「所有を喪失することの恐れもまた生み出した」、「所有者は、やがて、『所有』の奴隷になるという危険」もあり、「所有慾を認めることによって、私たちの社会は、必然的に個人間の格差を生み出す」と鋭く指摘する。こう考えると我々が食物を安定的に手にする副作用的に、我々を息苦しくする要因も生んだとも解釈できる。反対に所有慾を持たないプナンは我欲から開放されているとも解釈でき、個人的にはある意味仏陀の教えに通じる気もする。ではプナンの生き方が我々より優れているのか?「格差がない代わりに、個人の持つ向上心や努力などもない」とあり、個人的にはNOである。この著者自身が実例だが、自分と異なる生き方を知り、考察できるのは、我々に向上心や努力があるからだろう。プナンが彼らと異なる日本の風習の一つ(死者の戒名)を聞いて「?」と変に思うに留まるのはそれがないからではないか。

つまり、どちらが良い悪いではない。「プナン流の生き方が、私たちの生き方を照らし出してくれる」のだ。本書を読まなければ持たなかったであろう視点にて、我々自身が我々の生き方を見つめ直す機会。「死者をこの世からフェイドアウトさせることに意を注ぐプナン」に、我々はプナンの死者との対峙の仕方が我々と真逆と知る。そして子供の育て方の差異を知り「養子を所有することによって、逆説的に個人的な所有への本能を緩める力なのではないだろうか」という推察も我々の思考をくすぐる。個人的にはプナンの民は非常に現実的な(ある意味即物的な)民である気もするのだが、何れにせよそれは「プナンの見方が私たちの見方と異なる」だけでしかない。

そして著者は「何の意味もないのだからむしろ力強く、積極的に考え、そして生きてみなければならないことになるのではないだろうか」と提示するが、個人的には「違う民の存在を認める」事こそ非常に重要であると思う。プナンという、我々一般的日本人の生き方、考え方っとは大きく異なる民を扱っているが、一度でも外国へ行った事がある人なら、大かれ少なかれ「日本と違うな~」と感じた事があるのではないか。そして、その差は日本国内でも地域や年齢や性別等でも存在するのではないか。そう考えると異国のペナンの民との差を見る事がマクロ視点だとすれば、同じ日本人でも一人一人違うんだよね、とミクロ視点で物事を見る事が出来ると思う。

だから生き方、考え方に絶対は無い、というのが私が本書から得た結論だ。自分とは違う人々との交流の中で、つまり多様性の中で我々は生きている。だからこそ生き方、考え方が異なる人もいれば、近い人(=気が合う人)もいて、その存在がより貴重に感じる事も出来るのではないか。その存在は今までと何ら変わらないのだが、自分の視点を変えるだけで、その受け取り方が変わってくる。これも読書の醍醐味であると改めて感じた次第である。

投稿者 iD2130 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで


文化人類学という、何とも仰々しく取っつきにくい本書を読んで感じたこと、それは、文明社会に生きる私たちは時には原始的な生活に戻ることがあってもいい、ということだ。

ストレス社会を生きている私たちは、毎日何かしらのストレスを抱えている。それは、人間関係であったり、仕事関係、金銭関係、そして将来の生活へと多岐に渡っている。
本書を読んで特に感じたことは、以下の2つです。


1.ストレスは環境に左右される

両親、兄弟などの自分が育った家庭に始まり、妻、夫、子供など自分の現在の家庭、隣近所との付き合い、会社の上旬、同僚、後輩…。
毎日いろいろな人と触れ合い、そこには様々な感情が生まれる。
嫉妬であったり感謝であったり、後悔や謝罪であったり。人間である以上、感情があるのは当然だが、私たちはその時の感情に余りにも振り回されていないだろうか?
感謝はいくらしてもいいが、嫉妬、後悔などの悪感情は、なるべくなら絶ちきりたい。そんな感情に降り回されるのは、環境が多いに関係あると思う。

緑の少ないコンクリートジャングルに生きる現代人からすれば、本当の緑のジャングルに住むプナンの人の生活は、原始的である。今日からここで暮らせと言われても、私たちには無理だろう。
原始的であるがゆえに、人間関係も原始的なのではないか?と思える。

つまり、ありがとう、ごめんなさい、を言うのは私たちには当たり前の常識だが、原始人(あえてそう言います)であるプナンの人たちには、そんな文明社会の常識など必要ないのではないか。
狩猟で食べ物を手に入れる彼らにとって、例え1人獲物が取れなくても、他人が捕まえた獲物を分けてくれることで、食べ物にありつくことが出来るのは当たり前。
だから、特別にありがとう、と言う必要がない。
ごめんなさい、に関しても、私たちから見て本能のままに生きてる彼らにとって、迷惑はお互いにかけたり被ったりが当然なので、あえて言葉にする必要がない、そう思えるのです。
日本人的に言うならば、プナンの人たちは、あうんの呼吸でストレスフリーで生きているのかもしれない。


2.将来の問題

原始的生活をしているプナンの人たちも、決して文明社会を拒絶してはいない。未開のジャングル奥地の裸族ではなく、みなシャツなどの衣服を纏っているし、狩猟用のライフル銃も持っているし、マレーシア国民の一人でもあるし、何より著者を受け入れたように文明社会との繋がりを保っている。

しかし、プナンの娘が外部の男と結婚すると煩わしい生活になるので、それが嫌で、結局プナンの男と結婚して集団生活を続ける、と書かれてるように、プナンの人たちが文明社会に積極的に溶け込もうとする姿勢は見られないようだ。
現代社会に溶け込こと=森を捨てプナンの生活をも捨てること、そうわかっているからだろう。外部で現金収入を手にしたところで、森の中では買うものも売るものもないし、紙幣もただの紙くず同然。何よりも、外部に出ることでストレスを感じるのではないか。


しかし、世界的に開発という名の森林伐採は増える一方であり、プナンの森も、遠くない将来には消えてしまうだろう。

森を壊し緑を無くし、地球を壊す。
欲望のために生き、ストレスを抱えて病んでいる現代人。

時には原始人のように、ジャングルで気ままに生きるのもいい。それが出来ないなら、東南アジア放浪の旅に出かけるでもいい、常識の外れたところに生きることで、ストレスを超越した、生きたい!という原始的パワーを蓄えられるのでは、と思う。



以上2つを簡単にまとめるならば、

森は全ての生命の源であるから、文明に奢ることなく大切にしなさい。

文明に生きるからこそ森(自然)を大切にしなさい、そう感じました。

最後に、
今回、初めて課題図書の感想文を提出するには難しく感じましたが、良い経験をさせて頂き、有難うございました。

投稿者 vastos2000 日時 2018年9月30日


当たり前だけど忘れがちなこと、「今の自分の価値観が絶対ではない」ということを、本書を読み思い出した。
同じ日本人、同じ職場の人間の間でさえも、価値観の違いをハッキリと感じるのだから、価値観や文化は多種多様なものであることを再認識できた。そしてそれらはその文化圏の中で生き残りやすいかそうではないかという違いはあっても、どれが良い悪いとラベルを貼れるものではない。

多くの日本人の一般的な価値観からするとプナンの人たちは貧しいけれど、決して不幸ではない。(幸福とも言い切れないけど)

もしも自分の子どもが、学校生活が合わず不登校になり、引きこもりになりそうになったら海外に行くことを薦めたい。日本の価値観にマッチしないだけで、世界には様々な価値観があるのだから。

さて、本書を読んで、感じたこと・思ったことは上記のようなものだが、疑問に思ったのは、「なぜプナンの人たちはこのような文化や考え方をもつようになったのか?」ということ。
以下に私がこの疑問に関して考えたことを記す。

●プナンと日本(現代人)の考え方
まず考えたのはプナンと日本人の共通点はどこかという点。
一つは豊かな自然があること。プナンも部族500人くらいが食っていけるくらいの食料を(会社勤めのような)労働をしなくとも狩猟採集で確保できている。
日本も水が豊富で森林も多い土地であったから、食糧の確保や生産(稲作)が可能だった。
二つ目に、個人主義ではなく、集団主義であるところ。
プナンは本書で見る通り、個人の独占的所有を遠ざけ、みんなで平等に分けることを重視している。
日本においても個人プレーよりも、「空気を読む」ことや「和を以て貴しとなす」ことが重要視されることが多い。

●では、異なる点は?
いわばどちらも森林の民であるが、こうも考え方に違いがでた。

プナンの思考は、“今”自分がいる場所から見える範囲のことに限定されるので、「将来のために~」とか「飢えに備える」といった発想がない。将来のことを心配したり、過去のことをくよくよと引きずらないので、鬱や自死といったものが無いのだろうか。原始仏教の言う、「今ここ」に通じるものがあるのかもしれない。
それに対して、日本人(現代人)の思考は、過去や知識を思い起こし、現状を見て、将来に備えるべく、自分の頭の中で観念を組み立てる。日本人は悲観的でネガティブな面が強いのかもしれない。日本では自然から多くの恵みを受け取る一方、台風や地震といった災害にも度々見舞われる。したがって、災害に対する備えをしないと死ぬ可能性が高い(備えてきた人間の子孫が生き残った)ので、そのような思考が身についた一因だと考える。
先の事を予測して、謝罪をしなかった場合や感謝の念を伝えなかった場合の悪い未来を想像して、そうならないよう、謝罪や感謝が日常化したのか。


●そもそもプナンには謝罪の念がないのか?
「(あなた使っていたものを勝手にもちだして)ごめんなさい。」や、借りた空気入れを壊して「ごめんなさい。」は必要ないけれど、「獲物がとれなくてすまない」はあるようだ。
仲間や家族に対して申し訳ないと思う感情はある一方、モノもコトも個人の所有を認めていないので、それらを勝手に使うことに対して申し訳ないと思う感情はない。

日本では言うまでもなく、どちらの場合も「ごめんなさい」だ。個人の所有を認めているし、相手に残念な思いをさせたり悲しい思いをさせたり、道を尋ねる時ですら「すみません」と言う国だ。この点は大きく異なる。

●逆になぜ、日本(現代人)には「ありがとうもごめんなさいも要る」のか?
当たり前で今まで考えたことがなかった。感謝の感情やエネルギーを相互にやりとりすることが正のフィードバックになるし、「ごめんなさい」とこちらの非を認めることで、迷惑をこうむった相手の負の感情が軽減されるのではないか。
しかし、これは感謝と謝罪の概念を維持している理由であって、そうなった理由ではない。
今となってはハッキリしないが、社会が形成される初期段階で、感謝の念を表すことで、両者がハッピーな気分になったことや、謝罪することで過ちを許してもらったことが広まっていったからではないか。
プナンの社会では、初期の段階で「お前のものは俺のものでもあるし、俺のものもまたお前のものでもある」という考えが立ち上がり、この点で、感謝を表す場面や謝罪する場面が訪れなかったのではないかと考える。自分の持ち物を壊したからと言って自分に謝ることはない。



日本人から見て(おそらく西洋人も)その違いが大きいプナンの人たち。なぜこのようになったのかを、私は以上のように考えたが、皆さんはいかがですか?

投稿者 LifeCanBeRich 日時 2018年9月30日


 本書を読み終えて、“ちょっと「直線的な時間」の上を真面目に生き過ぎているのだろう”と自然と反省する私がいた。対して、プナンの世界には反省などないのだという。それどころか、私が日々意識的に口にする数を増やしている「ありがとう」という言葉もないのだという。
 反省も感謝もいらない世界ってどういう世界⁉日々、失敗を反省し学びの種を見つけ、外からの頂きや恵みに対して感謝することを正とし、また幸せに生きるためにするべき事と信じている私の価値観をプナンの世界が強烈に揺さぶった。これは、あの『ニートになって、世界を終わらせよう!』と言い放ったゴータマ・ブッタの思想を知った時、私が自身の目の前にある現実、生きている世界、信じている事との隔たりに強烈な違和感や居心地の悪さに似ている。

 まず、プナンの世界には、我々が生きている世界に「ある」ものが無さすぎる。私的な「ある」べきものが「ない」という体験の1つが、米国留学した時に年上、目上の人への尊称を省く、あるいは、あるべき尊敬語が無いという事態に置かれたことだ。ただ、この程度の「ない」ならば無いなら無いでよいかもしれないが、プナンの世界の場合の「ない」は交感言語、時間の観念や暦、方位・方角などなどと、現代社会に生きる上で無かったらどうなってしまうのかと想像もし難い「ない」なのだ。
 ただ、著者が述べるように「ある」べきものが「ない」という事態との遭遇は、それがなぜ「ある」のかというそれまでに考えることもなかった意味や背景を考え新しい発見をする機会になりえる。上述の米国留学時の「ない」も、そのように問いを立てることで日本文化と儒教の関係など新しい発見があったことを覚えている。

 さて、「ない」ものだらけで私を混乱に陥らせたプナンの世界の中でも、最も衝撃が大きかった「ない」が、反省するという精神も言葉も「ない」という事実である。ここで重要なのが問いの立て方だろう。何故なら著者が指摘するように、“プナンはなぜ反省しないのか”ではなく、“私たち現代人こそ、なぜそんなに反省するのか”という問いが、自分自身の現状を見つめ直す良い機会になるだと思うからだ。

 著者によれば、“反省をする”という背景には、1つに“善悪の観念”、2つに“社会的な仕組み(罰則の有無)”、3つに“発展や向上の概念”があるのだろうという。この3つがプナンの世界には「ない」。一方、反省が動機づけられ奨励される現代人の世界には勿論「ある」。
 そして、今回気づいたのは、私はこの3つを日々家庭において子どもたちに教え込み、理解させようとしていることだ。また、彼女たちは家庭の外でも幼稚園と小学校で同じ状況に置かれている。現代人とプナンの世界を隔ててるものが、そのまま大人と子どもの世界を隔ててるものにあてはまる。そう考えるとプナンと子どもの似ている部分が多々見えてくるのは何とも不思議な感じがする。
 子どもたちもプナンのようにかなり狩猟・採集的であり、状況主義であり、また時間の観念も、方位・方角も、感謝の気持ちも、交感言語も元々は「ない」。それらを一生懸命、農耕牧畜的な民である大人たちや社会が教え込んでいる。勿論、現代社会を生きる上で必要なコトである。ただ、その大人たちの大多数は、私がそうであったように「ある」ことが当たり前すぎるが故に、その「ある」ことの本当の意味や必要な理由を知りもせず、考えもせずに子どもたちに教えているのではないか。私は、本書から時間や感謝の起源や成り立ち、狩猟採集から農耕牧畜への移行の経緯、贈与の霊、大いなる正午など目から鱗ポロリ的なことを沢山知ることが出来た。これらのことを知ること、また、知った上で子供たちに教えるのとそうでないのでは大きな違いがあるのではないか。

 最後に、感想文を書き終える私の心境の変化について。
 “もっと肩の力を抜いてゆるく生きてもいいんじゃないか”という爽やかな気分の私がいる。確かに、現代に生きる日本人は未来をよりよくするために過去を反省することを求められる世界に生きている。別に、そのことを悪い事だとは思わないし、ましてこの世界を出てプナンの世界に行くなんてことは現実的ではない。ただ、自分の外側からの圧力や視線を過度に気にすることで自分を追い込んでしまうことが危険であることは、プナンの世界と違って心療内科にお世話になる人の数が激増する日本社会の現状を見れば明らかだろう。
 全ての思考と行動を直線的に最短で利得に結びつけようとはせずに、好奇心に素直に従って一見ムダに見えるコトでも楽しければやってみる、または著者の言うように“反省しない、または反省したフリ”をたまにはしてみるのも良いかもしれない。もっとゆるく生きてもいい!そう思えるようになった。
 
 ゴータマ・ブッタの時もそうであったように、あの読了後すぐに訪れる強烈な違和感や居心地の悪さが、この爽快さに変わる。その課題図書という機会を頂いている事に精一杯の感謝をしております。

~終わり~

投稿者 nishimikado 日時 2018年9月30日


「はい、ごはんだよ」「ありあと(←ありがとう)!」
「ミッキーマウスの動画観よう」「ありあと!」

ごく最近の2歳息子との会話です。まだ幼く教育が難しい2歳児でさえ、現代日本社会で生活するうちに謝意の概念を覚え、謝意を伝える言葉を話すようになりました。それとほぼ同時期に、本書で「ありがとう」の言葉を持たないプナンの存在を知り、自分が当たり前のように感じていた「ありがとう」の習慣とは、「ありがとう」がある文化圏の中で後天的に備わったものであることを知りました。

それから、プナンが贈り手に対して「ありがとう」ではなく「よい心がけ」である、とその精神性を褒める旨を読み、自分が感じていた「ありがとう」は単に恩義ばかりでなく、かなり強迫的に「返礼せねば」という気持ちが強く入り混じっていたことを初めて自覚しました。

果たして2歳児の感じる「ありがとう」は、どのくらいの純度の謝意で「ありがとう」なのか……?と思いながら彼を見やったところ、ちょうど勝手に再生されたYouTubeの幼児プログラムが "Please and Thank you. These are the nice words you can say." と歌っており、英語圏でもかようにして「ありがとう」の文化が形成されるのね、とタイムリーに感じたのでした。

これまでで過去に一人だけ、明確に強迫的な返礼精神を持っていない女性に出会ったことがあります。Yさんといいます。
全国に数百人規模で組織している合唱団を運営するスタッフとして、わたしとYさんは出会いました。Yさんは関西の地元では割と知られたシンガーで、彼女は歌のベテラン指導者のうちの一人、わたしはピアノ伴奏者のうちの一人でした。合唱団の中にもYさんの力強い歌とキャラクターのファンは多く、彼女はいつも合唱団のメンバーから多くのプレゼントを受け取り、またごはんをご馳走になり、「ええもん、もろたわー」とニコニコしていました。
彼女もまたプナン同様「借りる」「返す」の概念が希薄で、懇意の同僚スタッフの洋服が気に入ったとあらば、いつの間にかちゃっかり着用していたり、また逆に「これ nishimikado に似合うと思ってんー!」といきなり洋服を買ってきたりするような人でした。

同じ合唱団コミュニティで同じスタッフという立場だったので、わたしもメンバーからたくさんの贈り物をいただいたのですが、新人である自分の組織への貢献度の低さを考えると、ただただ恐縮するばかりでした。
自分の存在を気にしてもらえることを嬉しく感じる一方で、いつまでも居心地の悪さが消えないので、Yさんに「いつも贈り物を貰ってばかりで申し訳ない気持ちにならないですか?」と尋ねた記憶があります。
そのときの彼女らしい言い回しを思い出すことができないのですが、趣意としては「歌でみんなに返せてるからええんや」というようなことを言っていました。何を申し訳なく思うことがあるのか、と笑顔で言うYさんの顔を見ながら、「どうやって育ったらこんな風に考えられるのかなぁ」と羨ましく思ったことを憶えています。
実際、メンバーたちは異口同音に「Yちゃんの歌を聴くと元気が出るの」「いつもYちゃんからエネルギーを貰ってるの」と言っていたので、Yさんの言い分は正しかったのです。うまく言えないですが、当時のわたしでも「ああ、Yさんはメンバーとうまく"循環"しているんだなぁ」と感じたものでした。

本書を読みながら常に頭の片隅にあったものは、ビッグ・マンの財の循環に代表される"循環"のイメージでした。特に所有慾について語られる第7章は、本業で"特許"という所有慾の極みのような仕事に携わっている者としては、プナンの考え方に素直に同意することは難しかったですが、自分の中にはなかった新たな知見として、また幼子を育てる母親として、興味深く何度も読み返しました。「私」のレベルが集団の範囲にまで拡張されているということが、さらに他の集団まで範囲を拡張すると排他性が際立つのが面白いなと思いました。

過去の課題図書『異文化理解力』は、自国の文化と相手国の文化を比較して違いを知覚し、戦略的に良好なコミュニケーションを築くという趣旨の本でした。しかし本書で扱われるプナンの文化は、世界(どころかマレーシア都市部と比較しても)では相当なマイノリティーで実生活に活かすのは難しそうです。
著者はプナンの文化に対して『一概に善いとか悪いとかを言うことはできない。』(128ページ)と述べていますが、こういった「何もかも知らなかったことばかりで面白い!」という本を読むことの醍醐味は、第12章で言及されているように、自分が「あるべき」と考えていた物の不在を追体験し、なぜ「ある」んだろう、「あるべき」だと思っていたんだろうと根源を探ることにあるのではないかと思いました。

投稿者 collie445 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで


◆時間軸の違いから感じたこと
 以前、ライフシフトと言う本から人生100年時代を考えて行きていくという視点を得ました。長期的な視点を持って、戦略的に行きていくことが必要と学びました。生きている時間軸が100年です。一方、本書「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」に登場するプナンにある時間軸は、今、このときのみであるように感じます。朝が来たから、目を覚まし、お腹が空いたら、獲物を探しに行きます。獲物が捕れたら、お腹がいっぱいになるまで食べます。食欲の限り食べすぎて下痢をするまで食べることもあります。獲物がない時は、何日も食べられないこともあります。「そりゃ、食べ過ぎでしょう。」と突っ込みたくなります。でも、きっと誰もそんなことは言わないのでしょう。食べられないときのために食料を保存しておくなんてこともしないようです。もし、保存しようと考えた人がいても、個人での所有という概念がない社会なので、他の人に取られてしまう可能性もあります。だから、そもそも保存もしないのかもしれません。自由です。実に自由です。時間軸が100年と今。生きている社会が違うとこうも違うものなのかと衝撃をうけました。


◆人間関係の違いから感じたこと
 最近、人間関係のストレスを考える機会がありました。現代の日本の人づきあいは複雑です。特に子どもたちの人間関係はなかなか難しいようです。プナン人には、ありがとうもごめんなさいもないということは、人付き合いにおいて、ストレスを感じることはあまりないのでしょう。私達は、人間関係においても複雑に考えすぎて、ストレスを感じていることがよくあります。もっと気楽に考えていけば、もっと生きやすくなるのかもしれないと感じました。


◆所有の概念の違いから感じたこと
 プナンでは、個人での所有という概念がありません。個人所有がなければ、貧富の差も生まれません。貧富の差から生じる軋轢から生まれるストレスも生まれません。西洋で生じたような階級差も生まれません。プナンでは、共同体があたかも一つの生命体のように生きているように感じました。個人所有という概念がなければ、お金持ちになりたいという考えも生まれません。こんな世界があるとは思いもしませんでした。


◆子育ての違いから感じたこと
 プナンの子育ては、多数の大人が関わっています。昔の日本の子育てでは、祖父母や隣近所の人々との助け合いがありました。プナンでは、養子と実子、それぞれの家族も入り混じって、共同体で子育てが行われています。一人で主に子育てをする私達の子育てを経験した私には羨ましく思いました。


◆学校に対する考え方の違いから感じたこと
 プナンでは学校が必要とされていません。プナンで生きていくために必要なことは、親と一緒に日々過ごすことで学べるからです。日本では、不登校が問題になっています。なんで学校に行かなければならないのか?学校へ行く意味は何?こうした質問の答えはひとつではありません。学校に行く意味を説明するのは意外と難しいと感じています。プナンと異なり、親と一緒に日々を過ごすだけで日本で生きていくために必要なことを学ぶことは難しいです。会社などに子供をずっと連れて行くことも難しいでしょう。しかし、プナンの学校に対する考え方は、私たちが抱えている学校に関する問題を解決するヒントは与えてくれるように感じました。


◆まとめ
 自然災害の多い日本で、プナンのような暮らしが成立するとは思えません。プナンの暮らしが成立しているのは、自然災害の少なさや、暮らしやすい気候、豊富な自然があるからであると考えます。しかしながら、こうあるべき、こうしないといけない。あーしないといけない。とがんじがらめになっている私には、今まで考えもしなかった世界がありました。自分の中で常識として、当たり前に存在している考え方は、あくまで、ある一つの社会の枠の中での考え方に過ぎないということを知りました。もっと違う見方はないだろうか。枠の外に答えはないのだろうか。自分の枠を広げて、時には枠を取り払って考えることで、未来は開けてくるかもしれません。新しい世界を教えてくれた本書と、今このとき本書に出会えたことに心より感謝いたします。

投稿者 vastos2000 日時 2018年9月30日


当たり前だけど忘れがちなこと、「今の自分の価値観が絶対ではない」ということを、本書を読み思い出した。
同じ日本人、同じ職場の人間の間でさえも、価値観の違いをハッキリと感じるのだから、価値観や文化は多種多様なものであることを再認識できた。そしてそれらはその文化圏の中で生き残りやすいかそうではないかという違いはあっても、どれが良い悪いとラベルを貼れるものではない。

多くの日本人の一般的な価値観からするとプナンの人たちは貧しいけれど、決して不幸ではない。(幸福とも言い切れないけど)

もしも自分の子どもが、学校生活が合わず不登校になり、引きこもりになりそうになったら海外に行くことを薦めたい。日本の価値観にマッチしないだけで、世界には様々な価値観があるのだから。

さて、本書を読んで、感じたこと・思ったことは上記のようなものだが、疑問に思ったのは、「なぜプナンの人たちはこのような文化や考え方をもつようになったのか?」ということ。
以下に私がこの疑問に関して考えたことを記す。

●プナンと日本(現代人)の考え方
まず考えたのはプナンと日本人の共通点はどこかという点。
一つは豊かな自然があること。プナンも部族500人くらいが食っていけるくらいの食料を(会社勤めのような)労働をしなくとも狩猟採集で確保できている。
日本も水が豊富で森林も多い土地であったから、食糧の確保や生産(稲作)が可能だった。
二つ目に、個人主義ではなく、集団主義であるところ。
プナンは本書で見る通り、個人の独占的所有を遠ざけ、みんなで平等に分けることを重視している。
日本においても個人プレーよりも、「空気を読む」ことや「和を以て貴しとなす」ことが重要視されることが多い。

●では、異なる点は?
いわばどちらも森林の民であるが、こうも考え方に違いがでた。

プナンの思考は、“今”自分がいる場所から見える範囲のことに限定されるので、「将来のために~」とか「飢えに備える」といった発想がない。将来のことを心配したり、過去のことをくよくよと引きずらないので、鬱や自死といったものが無いのだろうか。原始仏教の言う、「今ここ」に通じるものがあるのかもしれない。
それに対して、日本人(現代人)の思考は、過去や知識を思い起こし、現状を見て、将来に備えるべく、自分の頭の中で観念を組み立てる。日本人は悲観的でネガティブな面が強いのかもしれない。日本では自然から多くの恵みを受け取る一方、台風や地震といった災害にも度々見舞われる。したがって、災害に対する備えをしないと死ぬ可能性が高い(備えてきた人間の子孫が生き残った)ので、そのような思考が身についた一因だと考える。
先の事を予測して、謝罪をしなかった場合や感謝の念を伝えなかった場合の悪い未来を想像して、そうならないよう、謝罪や感謝が日常化したのか。


●そもそもプナンには謝罪の念がないのか?
「(あなた使っていたものを勝手にもちだして)ごめんなさい。」や、借りた空気入れを壊して「ごめんなさい。」は必要ないけれど、「獲物がとれなくてすまない」はあるようだ。
仲間や家族に対して申し訳ないと思う感情はある一方、モノもコトも個人の所有を認めていないので、それらを勝手に使うことに対して申し訳ないと思う感情はない。

日本では言うまでもなく、どちらの場合も「ごめんなさい」だ。個人の所有を認めているし、相手に残念な思いをさせたり悲しい思いをさせたり、道を尋ねる時ですら「すみません」と言う国だ。この点は大きく異なる。

●逆になぜ、日本(現代人)には「ありがとうもごめんなさいも要る」のか?
当たり前で今まで考えたことがなかった。感謝の感情やエネルギーを相互にやりとりすることが正のフィードバックになるし、「ごめんなさい」とこちらの非を認めることで、迷惑をこうむった相手の負の感情が軽減されるのではないか。
しかし、これは感謝と謝罪の概念を維持している理由であって、そうなった理由ではない。
今となってはハッキリしないが、社会が形成される初期段階で、感謝の念を表すことで、両者がハッピーな気分になったことや、謝罪することで過ちを許してもらったことが広まっていったからではないか。
プナンの社会では、初期の段階で「お前のものは俺のものでもあるし、俺のものもまたお前のものでもある」という考えが立ち上がり、この点で、感謝を表す場面や謝罪する場面が訪れなかったのではないかと考える。自分の持ち物を壊したからと言って自分に謝ることはない。



日本人から見て(おそらく西洋人も)その違いが大きいプナンの人たち。なぜこのようになったのかを、私は以上のように考えたが、皆さんはいかがですか?

投稿者 center 日時 2018年9月30日


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えた事を読んでの感想は、結局、何のために生きているのかが、日本人と森の民では違うのではないかということだった。ありのままで生きているのか、何か理想とする未来の自分になるために生きているのかということだ。森の民はただ生きるために生きている。生きるために食べる。食べるために狩りををしている。そこには未来や過去がなく今を生きている。
それは、ありがとうがないということもつながっていると思う。ありがとうの反対は当たり前だと聞いたことがある。日本でのありがとうは、有難いということで、めったにないことだ。日本では滝川クリステルで有名なおもてなしというのがあるが、おもてなしされた側はありがとうと言うだろう。相手を喜ばせようという配慮だが、本来、気づかれないようにやるようなことなのかとも思う。
そして、日本人はというか現代人は無意識で判断しているのだと思う。これはありがたいことなのか、当たり前のことなのか。よくある自己啓発などではすべての物事にありがとうと言う。すべての出来事は自分の成長のためになっているとか聞いたことがある。確かにそういう考え方もあると思う。しょーおん先生のセミナーで印象に残っていることとして、すべての出来事の原因は自分にある。相手や周りの人にサイコロを渡さない。自分でサイコロを振る限り、すべてのこれからの出来事を変えられるというのがあった。
そういった意味では森の民は誰かのせいにしたり、自分が悪いと反省したりすることなくすべてを受け入れて次の方策を考えることが出来るのだろう。とにかく、森の民は判断していないのだと思う。出来事をすべて受け入れている。自分も日本に生きているのですぐ誰かのせいや社会のせいにしてしまいやすいが、そうしたところで何の解決にもならない。森の民が誰か個人の責任にして追放したり改善を求めたりすることなく、共同体としてどうしていくか決めていくことが出来るのも今を生きることが出来ているからではないかと思った。
人を反省させる世の中は、善悪や道徳観があり、悪い行いをしたり道徳を守れなかったりする人を許せない。現代に生きていると何らかの洗脳というかを受けていると思う。自分が何をしたいか、どう生きたいかなど分からなくなったり、心の声と現実に出来ることとの不一致が起きる。この望みが自分の心からの望みなのか、洗脳された望みなのか、もう訳が分からなくなる。
この本を読んで、そんな日本でも大事なのは、常識を疑う、ある出来事に対してすぐに判断しない。すぐ自分は正しく、相手が間違っているとか判断しない。高い視点というか、森の民のような、ありがとうもごめんなさいもない、そんな世の中があるということを頭に入れて生きてみたい。そうすることで日本的な会社の中でも心に余裕が持てる気がした。今を生きていないで、未来のお金の心配や、過去の失敗や反省をいつまでもしていてもしょうがないと思った。未来の心配を解消するために、こういう人間になりなさい、勉強しなさいなどと言う。過去の失敗や反省があるということは理想の現実を得られなかった、いま得られていないということだ。それではいつまでも自分ではない何者かにならなくてはいけない。今を生きれていないということにつながると思う。森の民のようにまったく反省せず、理想とする人間になるよう努力しないことは、日本の社会で生きていく、学校に行ったり会社勤めをしたりという中では難しいと感じている。
しかし、今の自分というものも、ある程度そのまま認めて、そんな自分が会社や家族や共同体の中でどう役にたてるかと考えることも大切だと思う。本当の自分が受け入れられ、共同体として成り立つというのはいい。森の民ではそれが出来ているからうらやましいと自分は思うのかなと感じた。そういったコミュニティはどこかで、何らかの形でこれから作られていくと思う。そういった場所で生きていける、そういった場所を作り出していけるといいなと思った。

投稿者 soji0329 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで



本書の原本になったタイトルは『熱帯のニーチェ』という。なぜニーチェなのか。それは『近代的自我としての私たちが生きていく上で抱える悩みや問題に解決の見通しを与えてくれる』からだそうだ。ボルネオ島に住む森の民、プナンは「ありがとう」=感謝、畏怖や、「ごめんなさい」=謝罪、反省も『いらない』という。なぜなのか。

まず「感謝」。そこには所有の概念が根底にある。プナンは狩猟採集を主生業としている。獲れないこともあるようだが、飢えて滅びるまでの危機感は感じられない。生きられるだけの充分豊かな自然が存在するのだ。そこからの獲物を共有し、皆平等に分け与える規範を社会に広く行き渡らせてきた。個人が所有するモノを他人に与えるのではないから「感謝」の概念が無いのだという。この考え方は「人よりもいいモノを多く所有することが幸せ」とする現代資本主義社会に生きる我たちには理解し難い。が、持たないことが最強である『ビッグマン』が共同体のリーダーとなるプナンに、精神的ストレスがないことはよく理解できる。モノを所有し滞らせるのではなく、循環させるのは大切なことなのだ。

次に「畏怖」。プナンは『死者の輪郭を虚ろなあやふやなものに』しようとする。これもまた墓を作り、死者に名を与え、永続的に敬おうとする我たちとは正反対である。祖先を大事にし、やがて神として崇め奉ろうとする現代人。その結果、死の悲しみからいつまでも解放されず、また神の名のもとに他民族との殺し合いを繰り広げる。プナンには私たちのように「ありがとうございます」と神にひれ伏すような感情は持ってない。が、身近な動物たちを敬い、雷を「人間的なもの」として恐れる。そのために獲った動物は速やかに食べ尽くし、保存、保管はしないという。一方私たちはどうであろうか。フードロスが問題になるように、食べ物を粗末に扱い、自然を汚し、身近なモノを敬うことをしない。宗教があっても自死は減らず、むしろ増えるばかり。プナンの死生観には学ぶことが多い。

そして「謝罪」。アロペアレンディングによって欲を捨てよと幼いころから教育される。時間の概念がない。過去も未来も意識しない。競争や選択の概念も存在しないから、喧嘩や犯罪が起こる可能性はとても低い。問題が起きそうな時にはビッグマンが中心となり皆で協議する。尊敬を集めるビッグマンの裁断で平和裏に解決するため、謝罪は必要ないのだ。

あとがきには昨今『大流行』している『謝罪会見』が取り上げられている。現代人は誰が誰に謝罪しているのか。本当にその意味を理解して謝罪しているのか。あらためて問われると、言い淀んでしまう自分がいる。

最後に「反省」。これが一番考えさせられた。というのも「反省とはいったいどういうものなのか」過去にその答えとなる研究の文献が見当たらないというのだ。私たちは毎日のように反省している。それなのに、である。本の中で著者は、大学の学生によるリアクションペーパーの紹介に多くのページを割いているが、結果的に答えを出していない。逆に『反省することの世界の外へ出てみることができるのか』と、新たに問題定義をしているのが面白い。

私なりに「反省とは何なのか」を考えてみた。それは「学ぶこと」ではないか、と思う。今回、文化人類学なる学問に触れ「異文化に触れることで、別の見方をするパースティクティブ」というアイデアを知った。そこから導かれた人類学者、原ひろ子氏の50年前に発表された文章が印象深い。『一定のカリキュラムにもとづいた教育が必要であることは認めます。しかし自分の心に浮かぶ好奇心を自分のペースで追求していくためのひまがない子どもが多いことは、悲しいことだと思います』。ここで言う「子ども」とは、まさに私たちのことではないか。

教育の名のもとに、私たちは多くの知識、情報を学んできた。詰め込められたと言っていいかもしれない。これらは現代の資本主義、競争主義、所有主義の社会において、役に立つ、幸せになるためだという。けれども本当にそうだったのだろうか。

ペナンの話を読んでいくと、日本における縄文時代や、西洋におけるエデンの園を想起させる。大いなる自然の恵みを享受し、家族を大切にし、お互い仲良く暮らす理想郷だ。しかしいつかはリンゴを食べてしまう時が来るのだ。事実、ペナンにも貨幣経済による「所有」の概念がジワリと滲透しつつあるようだ。余計なお世話かもしれないが、若者の狩猟離れもとても気になる。問題解決の見通しを提供してくれたペナンが消えてしまうのは、時間の問題かもしれない。

「感謝」とは。
「畏怖」とは。
「謝罪」とは。
そして「反省」とは。

これらについて、あらためて好奇心を持って学び、考え直せと気づかされた本であった。

投稿者 lazurite8lazward 日時 2018年9月30日


価値観を揺さぶられる書籍。

巻末にある『大いなる正午』。これをプナンの記事と照らし合わせて考えると人類が向かっている方向性は、今のままではまずいのではないかと考えさせられてしまう。

現代では、社会や生活をよりよくするために新しい技術や製品が生み出されて、一見豊かになっているようにみえるけれども、それに伴い問題や悩みも新たに発生している。「そんなことないよ」と言う方も確かにいるかもしれないけれども、新しい事が生み出されていくほど、諸問題が発生し、それをコントロールするための制度や仕組みを肥大させているのが現在の社会ではないかと感じる。例えば、情報のスピードが上がり、SNSとスマホが発達したことで欲しい情報を入手したり、遠方の人や知らない人とコンタクトすることが容易になったのはありがたい。しかし、コンタクトする母数が増えたことで少なからずトラブルが増えたり、情報の速度が速いので常に情報源に触れていないと乗り遅れてしまうという苦悩もある。先日、うっかりスマホを家に置き忘れて仕事にでてしまった。会社用のスマホもあるので、仕事には困らないけれどもいつも使用している個人スマホがないと情報が取れないので困ったが、その日は予想外の事が起こった。気付いたら仕事が異常にはかどるし、頭が疲れない。普段の生活でスマホからの情報が切ってもきれない状態になっていて、頭の結構な領域のメモリをくわれていたんだなとその時気付く事ができた。大した問題ではないと感じるかもしれないけれども、情報に縛られてしまっていること、これからも技術が発達していくとこのような諸問題が積み重なっていくことになると考えると恐ろしい。このような問題を大した問題でないと、普通のことだと考えてしまうことそのものが現代社会の危うさを表しているのかもしれない。

一方で、プナンの人たちにはきっとこのような苦悩が訪れることがないはずである。それはスマホがないからではなく、私たちのような直線的な時間軸で生活をしていないから。私たちは、何かの生きがいをみつけより良い方向に向かって何かを作り出し積み重ねて生きている。しかしプナンの人たちは朝起きたら生きるために食べ物を探しにいき、入手できればそれを食べあとは何をするというわけでもない。何かのために生きる事、国のために生きる事もなければ、理想をもったり将来の夢をもったりすることもない。つまり時間的な感覚も、ただ一方通行的に流れているのではなく、未来も過去も含んだ時間帯の中で暮らしていることになる。その考え方のベースは私たちとは異なり、人間同士で作り出す現実に物事を限定せずに大いなる自然と人間、人間と動物、生活に必要な水や木々と人間などを、同じ一つのフィールドで同じレベルで捉えているところにあるのだろう。プナンの人たちが自然の脅威を前に自分たちのルールをしっかりと守る生活をしていることに表れているとおり、人間は大きな自然の前では小さな部分にすぎず、たとえ自分たちが突出しても結局何か忌事がはねかえってきてしまう。だから、突出しすぎず、足りなすぎず、所有しすぎず皆でシェアして生きる。調和をとって生きるということが、結局は大事なことなのだと感じた。

『不在は、私たちの魂を揺さぶるような、根源的な問い』と示されているとおり、私たちは現在オーバースペックなのではないかと感じる。プナンの生活は『自然から与えられた聖なる恵み・贈与をきちんと返す』という生活だが、この考え方は人類に共通して与えられている本質的な法則だと思われる。今、きっと私たちは自然から多くのものを享受している状態だが、このまま人間の枠組みだけを基軸に多くの物事を進めていくと、難しい課題に直面する。その大きな課題の1つが、ホーキンス氏が警鐘を鳴らした「AI開発の成功は人類史上最大のイベントとなるだろう、そして残念ながら最後のイベントになるかもしれない」という表現に表れている。多くの著名人が警鐘を鳴らしているとおり、AIは人類にとって脅威になる可能性が十分にある。しかし、今回のプナンの人たちの考え方は、この人類のオーバースペックの最高峰であるAIにも非常に有益なアプローチをもたらしてくれるかもしれない。なぜなら、人間が考えた枠組みのなかでAIは人類を超えていくポテンシャルがあるかもしれないが、人間の枠組みがないフィールドでは、AIですら自然のなかの一部であると考えられるからである。

従って、今もしくは近い将来に私たちが必要な考え方は人間同士で作り出す現実に限定するではなく、自然と人間、人間と動物、水と木々と人間、AIと人間というようにすべてを同じフィールドで、且つ大いなる正午に照らされた状態で考え、フィールドを分かち合っている関係者との関連性から人間が生きる意義と可能性をしっかりと捉える必要があるのではないだろうか。プナンの人たちの生き方は現在ではマイノリティーだが、非常に重要な示唆を与えてくれていると感じた次第。

投稿者 sikakaka2005 日時 2018年9月30日


プナンの生活には私が当たり前と思っていることがないのにしっかりと生きていた。

そして、なんだか私よりも豊かにさえ見えた。

プナンの人の内面てどうなっているのか?と読みながらどんどん興味が引いた!

そんなプナンの人の内面で最も面白い!と思ったは、「ストレスがない」こと。

・なぜストレスがなく生きることができるのか?

・そんな社会になった背景はどんなことが考えられるのか?

このあたりをまとめていきたい。


◆なぜストレスがないのか?

それは1つに「反省しない」からだ。

なぜ反省しないかと言えば、何事にも「十分に努力した、やりきった」という意識があるのだろう。

日本人はなかなかそう思えないだろうが、プナンの人たちは、人のものを壊したり、狩りで成果がなくとも

「よくやったのだから仕方ない!」と全員が思っているんだろう。

プランの人たちの生活は必ずしも安定してはいない。

狩りでイノシシなどが取れないようなときは何日も食えない日がある。

狩りに出たメンバーにとって、成果がないのは普通なら精神的なストレスになる。

でも、彼らは自らを追い詰めるような思考にならない。

「なぜ、こんなことになったのだ??」とは思わない。

精神的にバランスをくずような場面においても

「ま~いいじゃないか!」

と切り替えることできるのだ。

日本人からすると、それが「反省しない」ように見えるのだろう。

逆に言えば、日本人は人生に対して「ま~いいか!」と思えないからうつ病をはじめとする精神疾患が多いとも言える。

この認識はとても参考になる!


◆なぜストレスがないか?

2点目は、「人の欲求に即して生きている」からである。

人が苦手とすること。

それは「目標を立てて計画的に実行していくこと」である

人はとても怠惰な生き物であるから、本来なら計画なんて立てたくない。

明日や明後日のことなんて考えずに、その日にしたくなったことをする。

これにがもっとも幸せを感じるし、最もストレスがない状態になれる。

でも、日本ではそうはできない。

常に成長が求められ、安心して生きる環境が出来上がっている社会では今後の見通しを求められる。

組織として同じ方向に向かうためには目標が必須だとされている。

計画には必ず問題がつきまとうし、問題を解消しながら、目標を達成するのはストレスフルである。

それがないから、プナンの人はストレスのないのだと思う。

そんな社会はうらやましくもあるが、やっぱりは私は成長したい!


◆ではなぜ、こういう生活スタイルになったか?

ならざるを得なかったのではないだろう。

予想もつかない大自然の中で、狩りをして食べ物を得て、生き延びるためには、

過去に良かったことにこだわっても仕方ないという結論に本能的に達したのではないだろうか。

明日の天気を的中させることだって難しい。

そういった状況のなかで、「今できること」「刻々と変わる環境に即応すること」の方が生き延びることできたのだと思う。

そんな状況下で生き延びるには、シンプルに今に集中するしか本能的に判断したのだろう。

そして、生き延びられる確率が高まることに気づいたんだと思う!


◆私たち日本人とは、生きることに対する考え方がまるで違う

このような生活スタイルになった背景を考えてみると、

私とプナンの人とでは生に対してまるで違う考え方をしていると思う。

私は平均寿命までは生きるだろうと思っている。

というか、日本社会も年金など制度を見ると80歳以上生きることが前提となっている。

最近は人生100年時代なんて言われている。

それほど人生は生きる見通しが立てられるものであって、死というものは稀なものだと捉えているように思う。

でも、プナンでは違う。

生きる、とは生き延びるという意味に近しく、死が身近にある。

「今生きなければ!」「今食べなければ!」

狩りをすることで、死を身近に感じているのだとも思う。

だから、私から見ると刹那的に生きているように見えたのだ。

そもそもは、死に対する認識の違いが大きな差につながっているだろう。


どっち生き方が良いか悪いかはないではない。

大事なのは、より良く生きる方法を取り入れること!

両極端では息苦しいので、都合よくグレーゾーンで生きていきたいと思う。


今月も刺激の多い本を紹介していただき、ありがとうございました。

投稿者 Pieces 日時 2018年9月30日


プナンの人たちは、現代の私たちとはずいぶんと違う。朝起きたら食べ物を探しに行き、あればそれを食べて、後はブラブラしている。何かのために生きるということも、理想や将来の夢もない。著者と同様に、私にとってもそれが一番不思議だった。
そもそもこの感想文も、目的があって書いている。自分の時間を一部使って、他に割り当てる時間を削って書いている。時間に優先順位の概念を持ち込んでいる時点で、プナンの人たちとはすでに相容れないだろう。
渡り鳥は、空気抵抗を減らすために、集団で空を飛ぶ。プナンの人たちも、個人としてではなく、共同体として生きる。すなわち自我が極めて薄いのだ。
自我はどうして生まれたのだろうか?所説あるだろうが、個人所有の概念が生まれたことと無縁ではないだろう。
個人所有の概念を強固にしたのは、貨幣経済の発達とその進化にあることは間違いない。現代ではビットコインという代物まで生まれて、その価値観はますます堅固になっている。
そんな生まれつきの、歴史的な価値観にどっぷりとつかった私たちが、プナンの人たちを理解できるのだろうか?読みながら、ふとそんな不安を抱く。
ただ、プナンの人たちは、森林伐採で木材業者からもらった賠償金で外部社会から物を購入する。森の奥深くに住み、隔絶された世界の中で、昔ながらの生活を維持している部族とは違い、貨幣経済に取り込まれながらも、個人所有の概念から解放されているのだ。
ここに私たちがプナンの人を理解できるかもしれない、一縷の望みがある。だから著者はプナンの人たちを選んだのだろう。
著者が飴玉をプナンの幼児にいくつか渡したとき、最初は独り占めしようとする。しかしそれを見た母親が、他の子どもにも分けるように言う。個人所有の概念にどっぷりとつかった私たちが持っている価値観をそぐという行為をプナンの人たちは意識的・集団的にしていくのだ。
なぜか?
そのような疑問を持つこと自体が彼らにとってすでにナンセンスなのだ。
共同体として生きていくために、愚直に近代の価値観をそぎ続ける。それは人体の免疫反応のようだ。
一方の私たちはまったく逆の道を歩み続ける。半ば無意識的に、個人所有の概念を幾重にも、幾重にも塗り重ね、時の為政者も巧妙に協力して、ますますその道を歩み続ける。
その一方で多くの人たちが、このままでいいのだろうか?と疑問を感じている。自分たちは「幸せ」なのだろうか?そもそも「幸せ」が何なのか?もっといえば生きること自体がなぜなのかと。
その疑問を解くには、まったく異なったパースペクティブが必要になる。
時に私たちは空を見上げて、雲をみる。太陽の光に目を細める。風が木々を揺らす音を聴く。
一方で、空は私たちを見ている。場合によっては太陽も私たちを眺めているかもしれない。
そんなパースペクティブの大きな転換こそが、現代を生きる私たちから不安や焦燥をぬぐってくれる唯一の方法かもしれない。
明日からは空を飛ぶ鳥の目で、私たちを見てみよう。
本書を読んでそう思った。

投稿者 morinokumasan 日時 2018年9月30日


日本は他の先進国と比べても自殺者が多い。マスコミで報じられているのは3万人であるが、WHOの世界基準だと日本では毎年11万人ということになります。これは実に他の先進国の10倍です。遺書がない場合は自殺にカウントされず変死として処理されます。日本には年間15万人ほどの変死者がいてWHOではその半分を自殺者としてカウントするので、公表すべき自殺者数は本当は11万人ということです。
プナンでは自死がない。この違いはどこにあるのか?日本人として彼らから何を学ぶべきなのか?
日本に足りないのは宗教または哲学。資本主義の世界で共同体を成立させるためには、資本主義の毒を弱めるためにはなんらかの宗教が必要なのだろう。私は仏教に答えがあると思います。日本のお坊さんはブツダの弟子なのだろうか。直接の弟子はすごい力を持っていた。超能力者だったと思いますけど2000年近く経てばコピーのコピー。エネルギーもなくなるでしょうね。
理想的な社会というのは閉じた世界にあるのだろう。仏教やキリスト教などのコミュニティの中には有難うもごめんなさいもいらない世界が存在すると思います。ただそれは主流派ではなく極めて限られた地域にあるのだろう。私有財産を認めずすべて共同体で共有する世界は排他的にならざるを得ない。外部からの侵略に弱い美しくも儚い世界だと思います。
プナンの人は身体感覚が凄い。自分たちで自覚せずに宇宙の法則に近いところにいるのだろう。
日本人は知識を得たがゆえに身体感覚が弱くなっていてそれが自殺者数に表れているのではないか?知恵を磨き心を無にすることで宇宙のエネルギーと伝わる。両方必要。日本人もプナンの人も欠けたピースの一つではないか?真の知恵を持ち、心を自由にすれば物事をありのままに見ることができる。その先に心の平安があるのではないでしょうか?
自分の所有物は自分のものではない。神様からの預かりものである。与えられたものを他人へとすぐさま与えてものを循環させる。これが正しい。正しいのだけれと理解するというのと実践するということの差は大きい。この世界が目指すべきものなのですけどね。
この世界にはルールがある。人類全体に共通する、もっと大きく言えばこの次元のすべてに共通するルール。
反省しない生き方というのは起きたことはすべて正しい。すべて自分にとって必要であるという考え方。この世は因果つまり原因と結果によって成り立つ。神の視点に立てば良いとか悪いとかいうことはない。自分の置かれている現実をありのままに見る。そのために不必要なもの。メガネを曇らせているものを取り除いていく。仏教では8正道。正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定8つの実践があります。これができたらありのままの世界が観れる。むずかしいですけど。
身体感覚から宇宙に近づく。知恵を重ねることによって宇宙に近づく。両方できたのはブツダなのでしょうね。昔の人のほうが身体感覚が凄い。無意識に真理に近いところにいたのではないか。
ありがとうのいらない生き方。僧に喜捨するのはありがとうではなく良い心がけになります。神がいるという怖さ。全部神が見ているという怖さ。与えることによってもらった側が徳を積ませてやったんだという考え方。わかるのですけどね。自分の中で消化はできません。
慈悲の瞑想というのがあります。私が幸せでありますように。あなたが幸せでありますように。みんなが幸せでありますように。私の敵が幸せでありますように。世界中の人が幸せでありますように。
これなんですよ。この世界が多分ありがとうもごめんなさいもいらない世界。消化できないのは私の修業が足りないのでしょう。

投稿者 present0ghost 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

この本から学んだことは大きく2点
・「所有という概念は価値観へ影響する」ということ
・「個人と共同体それぞれで所有という概念がある」ということ

1つめの「所有という概念は価値観へ影響する」という点について。
本書のタイトルにあってインパクトのある「ありがとうもごめんなさいもいらない」という言葉。
これは文化の違いであるとか狩猟採集民だからということにとどまらず、その集団で「所有」という概念がどういうものなのかに
左右されているというのが一番の驚きであり学びであった。
責任や事象の原因が個人のものでないから反省がないということ。
ものは誰か特定の個人の物ではないから恵んでもらっても感謝がないということ。
生まれた子供は共同体で育てるため、生みの親のみが親ではなくなるということ。
死者が出た際に関わる物を名前、遺品、住処から全て破棄することで死を遠ざける(=死を無いものとする)ということ。
個人の欲を徹底して潰すことで示される所有への姿勢が、こうしたプナンの人たちの価値観の基盤になっているだろうということが非常に興味深かった。

何故なら日本においてありがとうもごめんなさいも「必要」である以上、
あらゆる責任や事象の原因が個人のものである、といつからか考えに植え付けられていたということで、
ものは共同体のものではなく自然と巡ってくる恵みではないから感謝するのだと教育されていた、ということになる。
そのことの是非や善悪が論じたい訳ではなく、自分が反省するという行為、感謝するという行為そのものの由来をこうして見直すことで、
それぞれをより丁寧に行えるのではないか?と考えたのである。
例えば、この反省は責任が自分のものだからこそ行う反省なのである、と明確な意思をもって反省してみたり。
例えば、たとえこの恩恵が一時的な所有であって巡る循環の一瞬であったとしても、その途中に自分を通ってくれたことに明確な意思をもって感謝してみたり。
こうして意識してみると日常が変わって見えそうで試してみようと思う。


2つめの「個人と共同体それぞれで所有という概念がある」ということについて。
これは言われれば自明のことだと思えるが、あらゆる共同体はその共同体という単位で所有という概念をもっているのだと本書を通して気付くことができた。
もっと細かく言えば家族、会社、日本、友人間などあらゆるコミュニティーにおいてそれぞれが「所有」しているということに気付くことができた。
場の空気という言葉もあるように共有されるそれは、個人にも影響していくものだと考えられる。
したがってそれを意識して自分の感情などをつぶさに観察するとしたら、共同体が何を所有している(=個人に対して共有させてくる)を分析することができるのではないだろうか。
自分自身の価値観でその感情が芽生えたのか、共同体によって芽生えさせられたのか?などを分析できれば、場に流される、というようなことも抑えられるのかもしれない。
少なくとも家族や会社といった日常的なコミュニティーが今どんなものを共有させてくるのかを観察することは、自分をプラスの方向に向けているかマイナスの方向に向けているか見つめてみるのも面白そうだ。

逆に共同体に自分が何を共有できるか、という視点で考えてみるのも面白そうだと思う。
これまで私は「自分のもの」「別の誰かのもの」といった形で区別というか、無意識に自我の領域を固持していたところがあった気がする。
自らのなにかを「共有できるか」と考えたことはあまり無い。
本書を通して得た学びとして、プナンのように共有が当たり前ではないからこそ「反省」し「感謝」し、自ら「共有」しようと試みてみようと思う。

投稿者 str 日時 2018年9月30日


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

“反省しないで生きる“
少なくともここ日本でそれをやっていたら、さぞ風当たりの強い人生を歩めることだろう。文化の違いと言ってしまえばそれまでだが、異なる文化を持つ多くの国にも“ありがとう”や“ごめんなさい”といった言葉やそれに近い考え方が存在しているはずだ。

昔からの文化や風習が根強く残っていたとしても、これだけ文明が発達している今の世の中に於いて、外部から多少なり新しい情報や異なる文化のようなモノが入ってきていただろうに、そういった事に染まる事なく暮らしている。とはいっても、プナンの見た目は現代人とそれほど変わらず、ビールも飲むしファッションとして腕時計をしていたり。とも書かれている。ジャングルの奥地などで暮らしている原住民のようなイメージと現代人のイメージとが混在し、なんとも不思議な感覚だった。

”生きるために食べる”
生物として必要不可欠な食事。我々はそれを1日の目標とはしていない。なにか別の目的を持ち、決まった時間や空き時間、食べる事が出来る状況でも敢えて自ら摂らないという事もあるだろう。カロリーや塩分控えめだったり、何処で食べるか・何を食べるかという選択の幅が多い。時には「美味しくない」という批判までする。そういった点で私たちも食に対する”ありがとう”が希薄になっているように感じる。狩猟を主とするプナンにとっては”食事”という行為自体が確約されていない。僅かしか獲れない日もあればゼロの日もあるかもしれない。プナンが食事を1日の目的としている事に対し、1日の内に折り込み済みで、摂る摂らないを選択出来てしまう私たちとでは大きく異なる。生物としての本能という視点から見れば、私たちは多くの補助や保護を受けている事によって本能を抑え込まれ、個の生物としては弱体化しているのかもしれない。ここ最近で相次ぐ自然災害のが頭に浮かび、ふとそんな弱さを感じた。

プナンは”ありがとう”も”ごめんなさい”の文化もないにも関わらず『デス・ネーム』という、この世に残された親族をケアする文化が存在していたり、かと思えば”薬指”の名称がなかったり。無ければ誰かが名付ければ良かっただけとは思うが、それすら気にはしていない。名称不明のものをモヤモヤした気分になるのもまた、私にとっては異文化だからだろう。読んでいて感じたのはプナンの人たちは自らを巨大な家族の一員として受け止めているのではないか。という事だ。日本人は礼儀や規律を重んじる民族だ。しかし、気心の知れた親しい家族間ではややその傾向は薄れていくだろう。厳格な家庭なら当然の事、一般家庭であっても最低限の感謝や、謝罪・反省といった類のものは自然と教え込まれていく。それらは外の世界で存分に発揮され”常識”となっていくのだろう。

けれど家族という中の世界に於いて、果たしてそれほど感謝や謝罪を使う場面があるだろうか?勿論あるにはある。が、ある程度成人した人間が家族に対し謝罪や反省を行わなければならない状況こそ問題アリだろう。感謝もするしお礼を言われる事もあるが「家族なんだから別に普通でしょ」という感覚に近い。私たちが日常的に使っているそれらの感情や言語は、どちらかと言えば外の世界・他者へと向ける事の方が多いと思う。プナンが身内は元より外部の人達に対しても家族基準で接しているならば”ありがとう”も”ごめんなさい”もそれほど必要ではなかったのかもしれない。

『思い悩む暇がないほど、個が集団に溶け込んでいる』とある。プナンには心を病んでいる人がいないらしい。「一人にしてくれ」「しばらくそっとしておいて欲しい」といった状況に陥る事がないのだろう。私は別に悩んでいなくとも一人の時間は当然欲しい。逆に四六時中誰かと一緒にいたらそれこそ精神を病んでしまうかもしれない。それもまた文化の違い。どちらかに優劣をつけるものでもないとは思う。ストレスフリーな彼らの生き方を多少羨ましくも思うが。

プナンは”ないものはない”としてそれを良しとする。行かなくていい場所には行かず、やらなくても良い事はせず、不必要なものは新たに文化に組み込まない。ある意味、究極の効率化の形なのかもしれない。

投稿者 diego 日時 2018年9月30日


私を支えた念

私も普段、腕時計をしている。自動手巻きの、40年前のクォーツ時計。
毎日つけていないし、巻いていないので、時間も日付も曜日もあわせていない。
それでもつけているのは、つけていてステキだからという理由だ。
おー!プナンと一緒だ。

だが、時間があっていなくても時計を身に着ける理由が全く異なる。
私が腕時計をつけている理由は、もちろん大好きなこともあるが、まずは祖父の形見だからだ。
腕時計を忘れると、「おじいちゃん忘れた」とか言っている。

血縁が亡くなると、遺族に、私とその人について深く感動したことを話す。
どうやって生きていたかを教えてもらい、
写真を見せてもらい、使っていたもの、読んでいた本に触れる。
その人と、大事な時間を過ごした人たちから話を聞き、直接知ることができなかった側面を感じようとする。
少しだけでもいいから、その人の凝縮された人生に触れようとする。

亡くなった人へのまなざしはやさしい。
いろいろな問題があったり、大変な出来事があったりしても
過去となり、愛を持って語られることも多い。
そういう話を聞くのが、10代の頃から、大好きだった。
死者になった血縁は、わかりやすい。話もしてもらいやすい。
その物語性に心を奪われた私は、形見や写真にも興味を示すので、
遺品や写真を譲り受けることもあった。

本書を読んで、
死者の持ち物をすべて焼いたり処分したりする、そして死者の名前を口に出さない、
死者のことも語らないプナンの人たちに衝撃を受けた。
どうして?と思った。だがそれは、私の価値観から来ているだけの言葉だ。

先日、墓参のために亡父の実家である福井に行った。
父の妹である叔母と、その長男一家宅に泊めていもらい、祖父や祖母の話をあらたに教えてもらった。
その家で過ごしてびっくりしたのは、そこでの会話だ。
「あの角のお店をやっているご主人はおとなしい人で、奥さんがいつもにこにこしている。
その奥さんと、その隣の奥さんは姉妹で、そのお父さんは早く亡くなったけど、
お母さんが、がんばって姉妹を育てて…」
というような、地縁・血縁関係の確認や、過去からの経緯、新情報が延々と続く。
私の両親は地元から離れており、引越も多く、私はあまり地縁が理解できなかった。
都市部に住み、持とうともしなかった。
せっかく里帰りしたときにも、幼い頃は、生きている親戚地縁の話は、情報が断片的で、
語られない秘密もあり、理解できず、興味も維持できずにスルーしていた。

日本での地縁・血縁について充分に理解してこなかった私は、何かにすがろうとして、
形見という、形あるものに固執してきたのかもしれない。
本当は、死者たちがまだ生きている頃に、話を聞いたり、教えてもらったりする機会を、
私が充分に生かせなかっただけなのではないか?
生きている目の前の血縁自身の話を、もっと教えてもらうことはできなかったのか?
生きている人との時間を濃密に過ごすことが、本当にしたいことなのではないか?

プナンの人たちは、死者を悼んでいると感じた。
私は、死者の人生をいとおしいと思っても、その人自身をいとおしいと思っていないのではないか?
自分の人生を守ってもらえるような気がして、形見を大事にしているのではないのか?
その人への気持ちを忘れていないことを、わざわざ皆に示そうとしているのではないか?

学校教育の話も出てきたが、私は、学校に行って先生と接していたけれども、
先生という生きたお手本から学ぶのではなく、あまりに教科書やドリル、
マニュアルから学んできたかもしれない。
家族に勉強をみてもらったこともあるけれど、うまく習うことができていなかったし、
学んだ結果を返すこともできていなかった。

目の前に居る人から、直接何かを吸収して、わかったと伝えること。
誰かに引き継いで、お返しすること。
それが今でも、うまくできていないかもしれない。
お手伝いをするとか、実際に役立つことでないと、感謝されないことが多かったのは、
私自身の愛情が薄いか、愛情表現がうまくないこと、対人コミュニケーション能力が
不充分であるからかもしれない。

物(形見)とコミュニケーションをとって幸せを感じてきたこれまでは、それはそれですごく幸せだったが
人と人との関係が、自他を区別できないほどの濃厚なプナンの人たちの関係を知った今、
私は物にあまりに価値を置きすぎていて、人を見ていなかったことを痛感する。人といてリラックスしていて、その人自身を楽しむことをしてこなかったと感じる。

例えば会社にいるときも、仕事ばっかりしてたらだめなんだな。
愛を持って人と接しないと、理解してもらわないと。みんなと楽しまないと。
人と接しているのが仕事になることもあるもんな。楽しい人と仕事してたら楽しいもんな。
そーだよね。
では、そーしよー。

価値観がかわると、習慣がかわる。習慣がかわったら、人生もかわる。
今月もありがとうございました。

投稿者 satoyuji 日時 2018年9月30日


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして考えたこと』感想

自分の会社に新入社員が来た。その人は相手に感謝を示す事もなければ、謝罪することもない。そんな人が自分の周りにきたら、やりにくくて仕方がないだろう。では間違ったことをやってしまったら謝り、何かしてもらったら感謝することは人類に共通した行為かと言えば、そうではないらしい。それを紹介したのが本書である。日本語話者の視点から見れば感謝も謝罪もないのは非常識な極まりないが、プナンから見ればそんな言葉があること自体が不可解極まりないことなのかもしれない。

この違いはどこから生じたのだろうか。プナンは例外なのかもしれない。私違が中学校で習う英語にはThankという単語で感謝する単語が存在している。スペイン語にもイタリア語にも中国語にもある。これらの言語とプナン語とに違いを探すとすれば、言語の生存環境にある。プナン語は森で語られ、一部地域でしか使われていないし(本書を読む限りだが)文字も存在しない。それに対して他に挙げた言語は森の中ではなく、プナン語に比べて広域で話されており、文字も存在する。

使用される面積と文字の有無から考えられるのは世界観の中心点に違いが生じることではないだろうか。行動する範囲の拡大は空間認識を拡張し、文字は時間認識を拡張する。その結果、どこから認識するかに違いが生じたのではないか。プナンのように森という領域だけで暮らしていれば、自分を中心とする見方ではなく、森を中心として世界を認識することが可能になるのではないか。その結果、人から人への行為は大したことではなく、生存へも大した影響がないと判断された。その結果、感謝と謝罪という概念は生まれなかった。空間認識が狭いという仮説は他のことでも筋が通っている。プナンには東西南北という概念がない。その代わりに森の場所が位置を示す役割を担っている。

こうした認識の違いは生きることにどのような違いをもたらすのだろうか。筆者の書いている限り、現代の日本人が生きる日本という環境は複雑でどこか落ち着けない。そして文明として遅れているプナンの生活はどこか幸せな光景が広がっているように見えたという。

では私たちが以前の生活に戻れば幸せに生きられるのか。それはわからない。現実の話として以前に戻ることは不可能である。そして私たちは今の便利を手放すことができない。いま予感できるのは、便利さを追求して未来に進んで行ってもあまり楽しそうな未来はなさそうということである。ではプナンの生活を知り、私達に何ができるのだろう。今の生活に窮屈さを感じるとしてどのように窮屈さを無くしていけるのだろうか。私たちを取り巻く「当たり前」に気づくこと。そして当たり前を作っていることの根拠を見つけることだと思う。言葉が概念を作り、その言葉は環境に依存して作られる。しかし人間にはその作られたことを見つめ、どうしてなのかと問うことができる。私たちの社会から「ありがとう」は無くせない。「ごめんなさい」も無くならない。それらを無くす事が出来たとしても私たちは幸せには生きられない。あったことを無くせば喪失感に襲われる。違うことの今だけを見て、同じように見立てようとしても同じにはならない。ここで学ぶべきは今を見て、同じようにしようと努めることではない。そんなことをしてもいまを否定するだけで不幸にしかならない。そうではなく自分たちの当たり前が、場所を変えれば当たり前ではないと知った。そこから私たちの当たり前がどこから来て、どのようにして当たり前になったかを考えることである。

ありがとうは有難いから来ている。希少なことに私たちは感謝するという物語を私たちの日本語は持っている。そうした物語を知り、過去から現代を繋げられた時、私たちは当たり前が当たり前として存在することの偉大さを感じ取るようになる。

それぞれの当たり前がどこから来たのか。それはその場所、その時代によって異なることである。しかし私たちが、幸せと乖離して生きてしまうようになるのは根源との繋がりが希薄になってしまったからである。プナンは今も人類が原始時代に持っていた根源的生き方に近い生活をしているから作者には幸せそうに見えたのだろう。そこから単純に真似てもいまの私たちが幸せになることはない。本書から学び実践したほうがいいのは、私たちの「当たり前」に気づくこと。その当たり前がどこから来たのかを知ること。そしてその物語から生き方の根源を知ろうとすることである。

今回も素敵な思索の機会をありがとうございました。

投稿者 eiyouhokyu 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

 私がこの本から学んだことを、言語化するにあたり1冊の本の言葉を用いたい。
中秋の名月の時に読んだ宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」。物語の終盤でジョバンニがカムパネルラと二人になった時に言った台詞。「けれども、ほんとうのさいわいはいったいなんだろう。」

 私は、プナンという私たちの常識とは違った社会で生活している民族を知ることで、自分の価値観を揺す振らされた。冒頭のジョバンニの問いそのものが、私の心へ問いかけられた。

 “幸せに対する価値観”。この言葉は、私が自分自身に問うために用いる言葉で(プナンの方たちはこんなことをあれこれ考えないのかもしれない)掘り下げていくと、私の感じる幸せとは以下の通り。

 家を所有し、仕事に就き、毎月給料が出て、ボーナスも出て、貯金があって、家族もいて、子どももいる。休日には友人と遊び、食べたいときに好きなものを食べ、数日分の食料の備蓄があり、好きなときに連絡がとれ、希望の温度に空気の温度を調節し、移動手段を選択できる自由がある。この状態は幸せであるのだ、と自分に言い聞かせることで確認する幸せ。標準にあてはまっていることの安心。過去の私の幸せは、所有して安心することで成り立っているものだった。

 ところが、プナンの人たちは物を所有しようとせず、人にあげることを良い心がけとする生活だという。いったい、彼らはどうやって“安心”しているのだろうか。事前に用意して備えておくことで安心できるとか、困らないように蓄えておいて安心しようと考える様子がない。実際に困ることは起きている。けれども、反省するという概念がなく、失敗をみんなで共有し受け入れている。

 私の視点から見てしまうと、本当にそれでいいのかと思ってしまうが、生きづらさみたいのは感じてなさそうだ。彼らには自殺したり心の病を患う人がいないという。一方私たちは、生きやすさを追求し、不快を遠ざけ、便利な世の中を作ってきたのに、生きることに疲れてしまう人たちがいる。“生きる”という意味が、21世紀を生きる同じ人間でも異なっていることに衝撃を受ける。プナンの人たちのように、『生きるために食べる』というシンプルな生き方が分かりやすくて、心は楽だろうなと感じた(身体的には楽ではなさそうに思う)。

 とは言え、プナンの人もお金は欲しいし、物だって欲しいと言う。狩猟採集民に対して私が思い描いていたイメージは、洋服を着たプナンの写真を見ると、大きくかけ離れている。しかし、彼らの見た目ではなく、生き方や価値観の部分が近代化していると言う私たちのスタイルと異なっている。

 例えば、オナラの話。私たちは、トイレの個室に入った時、できるだけ音を立てないように、壁の外に音が聞こえたら恥ずかしいという感覚で、音を消すことに意識を集中する。ところが、プナンの人たちは朝から音楽のようにオナラをする。壁がないと開放的で、壁があると閉鎖的になる。「ある」文化と「ない」文化の大きな違いを感じた。プナンの人たちは、「ある」方を選ばない。私は、プナンの考え方を少しでも共有したかったので、「ない」方を選ぶという行動をしてみた。

 エスカレーターと階段があれば、便利じゃない「階段」を選ぶ。洋式と和式トイレがあれば、楽じゃない「和式」を選ぶ。極力遠ざけられた不快を身近に感じようと、“被災した場合を想定して、簡易トイレで1日過ごそう”と主人に提案してみたが、これは却下された。他人の糞便を見るのは、耐えられないことのようだ。実際の避難所のトイレは悲惨な状況と聞いたので、事前に体験しようと思ったのだが。

 改めて感じたのは、私たちの生活は、不快を排除しようとすることで成り立っていると気づいた。それは、物だけでなく、人間も不快に感じたら排除されるということ。だから、うまくいかないと社会から外れたと感じて、生きていくのがつらくなってしまう人がいるのだろう。

 “ちょっと不便がちょうどいい”私のライフスタイルを表す言葉である。この本を読んで、物質的豊かさが幸せに結びついているわけではないことを認識した。今まで私は所有欲が止めどなく押し寄せてきたが、プナンのように自分だけが所有することなく、人へ与え、人とのつながりに幸せが結びついていることが理解できた。私の幸せは、私だけの手の中にあるのではない。誰かが幸せにならないと私も幸せになれない。そんな気持ちに今はなっている。そのため、募金も素直に分ける気持ちで実践することができた。排除ではなく調和ができたら理想である。プナンのようにあるがままを受け入れる、そんな受容的な生き方を少し取り入れてみたい。

今月も良書をありがとうございました。

投稿者 kokchamp 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

とにかく衝撃的でした。この類の本を読んだことがなく、最初の下ネタ系の話題でとても面白く読んでいましたが、途中から、感謝や謝罪、反省する概念がないという部分や共同所有の概念、アロペアレンティングの考え方など、いろいろと考えさせられる本だなと思った次第です。
自分が理解できない文化と出会ったときにどう対処し、自分の中で折り合いをつけるかそして、そこからどのように思考を深めていくか。大いなる学びの過程を本書から得ることができました。
今回は気づきまで及んでいないので、私が学びを深めた部分についてまとめてみます。
価値観って何だろう
この本には私たちにはあってプナンには「ない」ことが沢山出て来ました。そのことから、今自分たちがあって当たり前だと思っているすべての前提をもう一度疑ってかかるきっかけとなりました。時に自分が確かだと思いこんでいる前提を、疑ってみるのも学びを深めるための手がかり、入り口となるのではないか。
あとがきで、二-―チェの「大いなる正午」という言葉が出てきました。「世界には固定された絶対的な価値観は存在しないことを体験を通して理解すること」だと説明されています。
私たちは、自分の地域・社会にある「価値観」が、ある意味絶対だと少なからず考えています。自分で作り出したものに囚われてそこから抜け出せないでいる。何に囚われているかというと、自分で作り出したものを絶対的だと思い過ごすことではないか。それが問題を複雑化しているのではないか。
そもそも、その「価値観」は本来シンプルなものであった筈だ。しかし、社会を良くしようと新しい技術がどんどん生み出されるに伴って新たな「価値観」が追加され、それによって逆に苦悩や問題も新たに発生している。
プナンには精神的な病はないという。プナンのシンプルな「値観感」では苦悩は発生しない。もし自分が今後おおいなる苦悩に陥った時、その発生源である、「価値観」そのものを覆して考えることで、その苦悩から逃れられるきっかけを得られるのではと思う。
その際に、多様な視点を持つという意味で、パースペクティブという言葉も気になりました。そもそも人間からの思考ではない視点を考える。人間だけが思考するわけではない。自然も試行しているという部分。自分と他人との視点に置き換えて考えると、他者の視点があるという前提を持てることが大事だと思う。
家族の絆って何だろう
プナンでは、夫婦という形態、親子という形態は我々とは全く異なる。他人の子供を預かり我が子として育てながら、近くには実の親もいる。プナンにおける「家族」と我々の「家族」それぞれを考えると、地域で子供を育てていた昔の日本の地域社会を思い出す。そこには、共同で育てるという価値観が存在する。この部分を見ても、現代の日本と昔の日本でも「価値観」は変わってきている。家族の絆の持つ範囲の広さと、1対1の関係ではなく、1体多の関係が家族の絆なのだ。
慾って何だろう
慾って消せないものだと思っていたし、またいい欲求は自分を進化・向上させてくれると思っていた。欲をコントロールすることは大事だけれど、そもそも欲を持つなという教えが慾って消せないものだと思っていたし、またいい欲求は自分を進化・向上させてくれると思っていた。欲をコントロールすることは大事だけれど、そもそも欲を持つなという教えが宗教ではないところで存在していることに驚いた。教育によって慾を持たずに生きられるのもまた驚きでした。そんな話を知って「慾って何?」と考え始めました。
学校って何?
プナンの人々は学校に行かない。知識を身に着けることと、学校という社会での画一性をみにつけることを差し引きすると本当に学校という制度が必要なのかと考え始めた。画一性は同調圧力を生む根源なのではと考えると一旦学校という制度をこわして教育について考えていく必要があると考え始めました。
このような文化人類学の本に触れたのは初めてで、哲学についても教養がなかったのでいいきっかけとなりました。
今月も良い本と出合えたことに感謝です。ありがとうございました。

投稿者 AKIRASATOU 日時 2018年9月30日


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと/奥野克己 著

本書を読んで自分の価値観が大きく揺さぶられた。人として生きてく上で、今日(過去〜今)起こった事を反省し、振り返る事で日々成長しようとか、同じ失敗を繰り返さないようにしようという考えは当然だと思っていたし、普通はそうだという価値観しか無かった。
またそうする事が幸せになる為の道の1つだと思っていた。
しかし、プナンの人々のように生きる事自体に特別な意味を見出しておらず、反省したり、振り返ったりしないという真逆の価値観で幸せに暮らしている人々がいる事は衝撃的だった。
基本編セミナーで、【この世の中には科学で解明されているモノと、解明されていないモノがあり、解明されていないモノの方が多い。今の自分の価値観を正しいと思い込んでいてはいけない】というニュアンスの話をされていたと記憶しているが、自分の価値観や常識が正しいと思い込んでしまっていたのだと改めて気付かされた。

狩猟採集社会という文明の発達した現代から見れば途轍もなく不便でアナログな生き方なのに、なぜプナンの人々は豊かに生きているのか。
それは【文明の発達=豊かになる】ではないという事であり、自分は文明が発達すると幸せになるという誰かが作った幻想を刷り込まれて生きてきたんだという事に気付いた。
それと同時に、自分は何の為に働き、人生で何を成し遂げたいのかという生きる意味について改めて考えてしまった。
私が何を成し遂げたいのかはさておき、労働が何の為にあるのかと考えると、日本には八百万の神が居て、働く事は神への奉仕であり、世の為人の為になる事をするのは当然だという価値観が基本的だが、欧米では労働は罰であり、週に一度は安息日が設けられている。
その点から考えると、プナンの人々にとっての労働(狩り)は、食糧が無くならない限り狩りに行かない、食糧が手に入ったらひたすら食べ続けるという部分から、労働を罰だと考える欧米的思考なのだろうと感じた。
また狩猟採集民社会で生きているのに、若者が狩りをしなくても何とも思わない、寧ろなるようになると思っているようなところは、資本主義社会に生きる我々と違い原因と結果の世界に生きていないのだなと感じた。
これもプナンの人々が精神的に豊かである事の一因ではないかと思う。
今の自分の常識で考えると、若者が狩りに行かない→狩りの技術が身につかない→今後食糧が得られなくなり困る という思考になり、残念な未来が待っているのではないかと予想してしまうのだが、プナンの人々にとっては現在と未来という時間軸において、AだからBになる というような考えは存在せず、わからない未来の事に不安を感じたりはしない。
豊かに生きる為には、自ら不安に足を踏み入れるような真似はしないというのも必要な考え方なのだと感じた。

個人の所有や独占、失敗、責任を排除するプナンの人々の特徴を真似たのではないかと思ったのがZOZOTOWNの仕組み。前沢社長が社員間の繋がりを良好に保ち、モチベーションアップを図るために、基本給とボーナスを一律同額にしているという記事を読んだ。資本主義社会において所有に大きく影響する所得を同額にする事でどのような組織になっていくのか、個人的にとても楽しみにしている。

投稿者 guntank 日時 2018年9月30日


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民とくらした人類学者が考えたこと

私が文化人類学の書籍を手にしたのは初めてかもしれない。

タイトルと帯から、さぞかし現代の日本のライフスタイルとかけ離れた生活をしている民族があって、その人たちから学ぶものがありまあすよ、というような内容を想像してから読み進めた。

結局のところ、ざっくり想像のとおりだったのであるが、ではそのおおよそ想像できていた事をいざ私または私たちの生活に生かそうかと考えてみると、それらが現実的ではないということ以上に、得体も知れない壁みたいなものが存在していることに気がつく。その壁というのは、地理や遺伝子や歴史的なものでもなさそうなのである。

その壁が何なのかということについてわからないので、1度目に精読せずに読み飛ばしたところを再読してみて、一つのことに気がついた。そう、ニーチェである。私はニーチェどころか哲学についても浅学で、どうしても理解できそうになかったので、ほぼ読み飛ばしていた。
しかし、筆者は、巻末の”さいごに”において、ニーチェをとデカルトとの対比の中に、私たち日本の生きづらさとプナンの生き方の違いの類似性を探ることを試みている。私は「なぜ今、ニーチェなのか」の部分は「なぜ今、プナンなのか」と置き換えることができるのではないかと考えた。そこに、前述の壁を越えるためのヒントがあるのではないかと考えたのである。ニーチェとニーチェの言葉を用いて、日本における諸問題に対応した「処方箋」が示されているが、いずれも苦そうだ、というのはそれは良薬であることが想像できるので同時に苦いだろうということだ。
具体的な「処方箋」の前に、私たちがまず理解しなければいけないことがあると思う。それはこの言葉に集約されていると思う。「偶像の黄昏とは−わかりやすく言えば、古い心理はもうおしまいということなのだ」ここで偶像とはキリストのことになるのであるが、筆者はこれをキリストではなくて日本の(現代の)行き方に置き換えられるものとして示したのではなかろうか。そして、そのおしまいになってしまったものをどうすべきなのか?今の私たちのありかたをディスるのか、そうじゃない。
「どちらかが善でどちらかが悪ということでもない。真実はないのだ」と筆者は示している。そして、「おおいなる正午」の解釈によって、私が感じた壁が何たるかを知ることができた。ライフスタイルを構成する諸要素に対する偏った見方「パースペクティブ」である。プナンと対比することでしか、自分たちを省みることができない偏った見方である。これが、今の日本の生きづらさを解消するために必要なことであると、筆者は強調したいのだと感じだ。そして、私自身に言えることとして、私の想定した壁が壁として見えるのも、偏ったパースペクティブによるものであって、真実を真実のままに見ることができるようにならない限りは、解決の糸口は見えてこないのだと感じた。もしかしたら壁は壁に見えているだけなのかもしれないし、壁だからといって越えなければいけないだとか、ぶち破らなければいけないとしか考えられない時点で、間違っているのである。筆者はプナンにはあって日本にはないもの(言葉、学校、時間、子育てなどの違い)を具体的に示しているが、それらの一つ一つはあくまで象徴的なメタファーというか、偏った見方を矯正するための分かりやすい事例を示してくれたのだと思う。

本書から離れるが、しょ〜おんさんの言われていた事を思い返してみると、パースペクティブが偏らないための具体的な対策が示されていると思う。読書による知識や知性の幅深さを大きくすること、自意識から離陸すること、そしてそのためのワザとその切れ味を増すためのマインドセット、エポケーなどがカバーされていると感じた。

よし、これからも精進します。

投稿者 tadanobuueno 日時 2018年9月30日


今回の課題図書で突きつけられたのは、
本当に自分が生きていく為に必要なことは何か?
と言う事でした。

以下にて、
・プナンの社会から感じたこと
・教訓を自分でどう活かすか
について述べさせていただきます。

<プナンの社会から感じたこと>
プナンという共同体の継続のために必要な、
人が生き続けることを支える為に不要なものを
そぎ落とした仕組みがある。

・社会による所有により富(食料・お金・物質)
 が持たざる者へ流れ、
・子供ができた後も社会によるサポートがなされ、
 親にとっての負担軽減、子供達にとっても安全・
 成長サポートとなっており、

我々の暮らす現代社会(以下、現代社会)で欠落が
指摘されているセーフティーネットが機能している。

更にこの価値観をビッグマンという価値の体現者が
プナンの人々に説き、人々もビッグマンを体現者で
あるか日々確認することで、この仕組みの衰退を
防ぐ仕組みが機能している。

この社会の欠点として、
将来を不安視せず、備えることがなく、成長を考えない、
その日暮らしな部分が指摘されているが、
現代社会で、将来に備え、成長していく価値観に縛られ、
うつ・自殺者・幸福に人生をおくれているか疑問視されて
いることは過去の課題図書でも多く触れられている。

プナンを通して知る事が出来る、人類が原始にもっていた
アナーキズム前の共同体を安定化させる仕組みをもとに、
我々がその後の発展を経て必要以上に変えてしまった点を
振り返り、良き点に光を当て、改めて本当に必要なことを
明確にしていくことに活用していきたい。


<教訓を自分でどう活かすか>
1.多様性の許容による自己の客観視

大いなる正午、エポケー、パースペクティブ、
自分の立ち位置を客観視する術を利用し自分にゆさぶりを
かけて本質の見極めを行う。
自分にとって本当に必要なこと(不要なことはないか?
形だけになっていないか?)を問い、人間としての根本の
問題(食べる、眠る、性、学び、成長など)を見つめ
直していく。

2.現代の共同体を活用していく
プナンのような、生きることを支えあう仕組みを現代の
共同体で実践できないかを模索する。

1.で得た本質を共有できる共同体との支え合いを模索する。

ネット・リアル、複数の共同体の活用し、そこに共同体の外
との商売も絡め、本質の見極めを継続して行いつつ、良い
とこどりの可能性の追求する。

自分は子供向けの活動を行っているため、本書にあった教育
に関して興味を持っており、

・日常の営みにつながる勉強、そのつながりを説ける人。
・自分の心に浮かぶ好奇心に、自分のペースで追求していく
 暇がない子供達に寄り添うサービス、仕組み。

これらの構築に動いていこうと思う。

以上

投稿者 chaccha64 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

日本人ではことあるごとによく使う「ありがとう」、「ごめんなさい」。地球上のすべての人が使うものだと思っていた。この「ありがとう」、「ごめんなさい」の言葉がない人とはどんな人たちなのか。さぞ困った人たちだろうなと。著者は、プナンと一緒に暮らし、生活、習慣、考え方を見、まずそういう概念、考え方がないことに気づき、なぜなのかを追求している。

それは、全てのことを「共有」しているということではないかと思います。物だけでなく、子供、その他の感情なども。

「ごめんなさい」。そこには、善悪があり、反省がある。
著者は、「子どもが悪いことをしたと気づいたら、親が無言で抱きしめてやる。」というような「悪いことをしたら、それをゆるやかに吸収する社会的な仕組み」で「反省する必要はない」ようにしているという。それだけでなく、盗癖のある男性、四輪駆動車を購入したリーダーの取り分がいつも十分の一だったというの話のように、悪を個人のものにせず、緩やかに共同体のものにしている。つまり、個人が反省する必要がないのではないか。
また、反省することもない。プナンには「発展や向上といった概念」がないようで反省することがない。乾電池を購入しに行った時の話で、最後のトラックを見逃したことを後悔はするが、「~したほうがよかった」と考えない。「~しなければならない」というプナン語はあるが、プナン人が使うことを聞いたことがないという話とつながっている。
また、「借りる」、「返す」という言葉がない。
そのため、人のものを勝手に使うし、持って行く。自分の物、他人のものという垣根がない。排他的な所有を承認しない社会である。

これらは、環境とそれに対する対応、考え方が影響していると思う。
まず、1年を通して個体数が大幅に増減することもなく、明確な繁殖期もない。植物の一斉開花も1年周期ではない。そして暦という概念がないし、時間のぜってい基準がない。そのため、緩やかな時間間隔なのだろう。
また、リーフモンキー鳥がリーフモンキーに人間がいると知らせることで猟に失敗する(と考えている)。これを仕方がないことだと思っているのだろう。必ず失敗するわけでもないので。そういうことで、『自然から偶有的に与えられる「賜物」』となっている。
また、取れた獲物はすぐに消費してしまう。これは書かれていないが、獲物をもてあそぶことが忌避されているところから後で食べて食中毒になったことがあるのではないか。
そういうところから、みなで分け与えるという行動に移りやすい。
そして、時間の感覚や財は賜物ということから「共有」という考え方になるのだろう。

その考え方を発達させるために、子供のころから、「慾を捨てよ」と言われるし、「本能」としての個人的な所有慾は、徹底的に殺がれる。そして、贈与が奨励される。
このような教えは、アロペアレンティングや供食により引き継がれる。社会的な絆、親子の親密な関係が築かれる。
そして、この関係は、子供たちが外に出ることを望まないプナンの中で続いている。つまり、このような環境が存在する西プナンの共同体の中だけのようです。東プナンでは違っていて、大卒者を出し、「自律的に生き」ているそうです。元は同じような考えだったのが、どのように考え方が変化したのか、何が原因だったのか、そこがわかるとどうして、どのようにして、なぜ共有の考え方になったのかがもっと分かったのではないだろうか。(フィールドワークは大変だろうし、長期間の調査も必要でしょうが。)

投稿者 jawakuma 日時 2018年9月30日


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと を読んで

今回の課題図書は実に深―い内容でした。読みはじめは放屁の話や、ペニス・ピンの話などプナンならではの風俗文化のネタで楽しく読み進めたが、要所要所で中沢新一や、レヴィ・ストロースなどの引用を用いて形而上学の話に踏み込んだり、デカルト、ニーチェなどの哲学の話にまで及んだりとプナンとの暮らしから著者が考えを深めた所の読み解きに時間がかかってしまいました。
まずタイトルにもなっている、ありがとうやごめんなさいが無い言語・文化が存在していることに驚愕しました。日本では赤ちゃんの頃からまず教える言葉ですよね。それを言わないだけでなく、言葉そのものがないのですから、その概念がないということですよね。代わりにあるのが「よい心がけ」だという言葉でした。そして所有欲は子供の頃から徹底的に排除されます。ケチはダメ。獲物は細部まで平等に分配する。協働生活のルールなんでしょうね。欲しがる人には惜しみなく与え、何も持たないがゆえの強みに気づきそれに酔いしれる、、、んー恐るべしプナン。資本主義の枠組みから完全に離れており、われわれ日本人とは全く異なる価値観に生きていることが良く分かりました。しかしそのプナンの生活が貧しく辛いものであるかというと、そんなことはないのです。他でもよく聞く話ですが、狩猟採集の暮らしは定住農耕がはじまってからの暮らしに比べ、食べ物を仕入れるためにかかる時間も少ないということが言われています。狩猟で獲物が取れないときもあるでしょうが、サゴ澱粉の主食もあるので、プナンは現代の都市に生きる人よりも労働時間は短く、時間的に豊かに暮らしているように思われました。プナンにはうつや精神病になる人もおらず、ただ生きるために獲物を捕り食べ、寝て、屁をこき、個々の能力や所得に思い煩うこともなく反省もせず、永続的な時間を生きているのです。
次に驚かされたのがその‟時間“です。プナンには時系列の観念が薄いのです。ここで述べられていた、「人類が時間を体系化しだしたのは農耕が始まってからだ」という仮説には納得させられました。プナンのように獲物を求め移住を繰り返す文化では暦やカレンダーも必要なく、自分の誕生日もあやふやなのです。だから子供に将来のことをきいても意味をなさないということなんですね。常に時間にがんじがらめに縛られているわれわれとは大違いです。主体的に人生の時間を生きれることに関してはうらやましい限りです。
子どものことといえばプナンの子育ての方法というのがユニークで周囲の大人が大勢でその子をケアする仕組みが秀逸だと思いました。日本では虐待やネグレストのニュースが流れ暗い気持ちにさせられますが、プナンのような養子制度を導入すれば関わる大人の目が増え抑止力となるでしょうし、より多くの親達と触れ合うことで子供たちにとっても大きな家族と共同体全体で多くのコミュニケーションをとって育っていくことができるのですね。
子どもの教育といえば学校ですが、プナンは小学校にすら行かない、行く必要性を感じないんです。これもすごいですよね。プナンの教育は専ら森で生活に直結したところで行われます。それも教えるのではなく、一緒に行って見て学び、時期が来ると自分でもやってみるといったやり方がとられています。子供にしてみたら楽しいでしょうね。毎日親と一緒に森で過ごせるのですから。対してわれわれ日本人は直接的な学びをどれだけしているのでしょうか?本書でも触れられていたように過去の間接的知識から抽出された膨大な概念を詰め込まれ、それが唯一の学びだと考えている節があるようです。
プナンの中には政府に対して抵抗運動を行い戦う先住民となった人達もいるそうですが、本著で取り上げられる西プナンの人々は国家や政府を経由せず、昔ながらの方法でアナキズムを貫いているといえます。長期の出稼ぎにもいかず森の周辺で生涯を過ごすプナンにとっては国家や政府という言葉もなく、マレー語から借りてきて使用しているくらいです。一つ疑問に思ったのは犯罪が起こった場合はどうするのか?です。獲物を売ったお金を使ってしまうくらいなら問題ないことのようですが、暴力や殺人は無いのでしょうか?その場合はこの共同体ではどういう措置をとられるのかが気になりました。
今月も良書をありがとうございました。

投稿者 SPE1127 日時 2018年9月30日


今回の課題図書『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を通じて。

本書を通じ、様々な『あるべきものがない』および『ないはずのものがある』場面に遭遇した時、即ち、全く異なる価値観に触れた時、どう考えて行動すればよいか?に関する指南書の様に思われた。

西プナンの方々と比較して我々にとって、『あるべきものがない』の内容としては、謝意や反省がない、子供は学校にも行かないし、西洋的な高等教育も必要ない。これらは『森の民』として狩猟生活する上では必要のない概念・価値観なので存在しなくても仕方ない。現在の狩猟採取生活にこれらの文化が流入したとしても、むしろ精神的に害なるものとして、根付かないことが想定される。

その一方で、『ないはずのものがある』の内容としては、敢えてデスネームを付けることにより、身内が亡くなった悲しみをやわらげたり、トイレがないことが糞便を介した健康状況の確認するためのバロメーターとなっていたり、獲物に対する忌み名の命名やリーフモンキー鳥やテナガザル鳥の概念は獲物を乱獲することから防ぐことに貢献しているのではと考えられる。また、個人的な所有を認めず、できる限り共有化する。これは狩猟した獲物や養子(子育て)の点で、コミュニティーに属する全員の生存確率を高める手段となっている。
特に、本能的に独り占めしたい気持ちを示した子供に対して、共有化するべきと躾けていることから、生来の価値観を書き換えるほどの重要な価値観として存在していると考えられる。

西プナンの方々は我慢しながらそのスタイルを貫いているのではなく、部分的に近代的な生活スタイルを受け入れつつも、無理なく狩猟採取民を続けている。彼らも近代的な異なる価値観に触れ、良いと思った内容は無理のない範囲で取り入れているものと考えられる。

違う価値観に触れた場合はもしくは自分の価値観が違うと指摘されると自分を否定されて気になり、認めることができないのが通常である。当然、個人により価値観は異なるし、数十年も同じ価値観で生きていれば、絶対的に正しいものと思い込むのが普通の対応である。

少し前の中国では、現地の取引先との商談後、懇親会にて挨拶がてら白酒を次々に注がれるという話を聞いた。それを飲み切って酔いつぶれてこそ、初めてビジネスパートナーとして迎えてもらえるとのことであった。程度が過ぎる飲みニケーションではあるが、それも彼らの価値観であると考えられる。

更に、仕事におけるチーム編成の際、多様性に富むチームでは対応力が増すため、結果が出やすいと一般的に言われている。そのチームを率いる際に必要な要素が個々のメンバーの価値観の把握と考えられる。メンバーの価値観や特性を活かした仕事の割り振りが重要となってくる。

また偏った世界観では頭の切り替えができず、困難な場面に遭遇してもそのまま受け止めてしまい、潰れてしまいかねない。例えば、口煩い上司や他人の足を引っ張る同僚などが何故その様な振る舞いをするのか? 思考を切り替えて、彼らの立場になって考えれば、彼らなりの言い文もあり、イライラする気持ちが自然に消滅する。

今後、異なる価値観に触れた場合でも、即座に拒絶せずに『不信の停止』を実践し、相手の価値観の背後にあるものが何であるかを吟味した上で判断することを心掛けたい。自分の人生を変え、好転させるために必要である。その後、次の一手として、その事象をどう活用すればよいかを考えるのが重要と考えられる。

もちろん現実世界で異なる価値観に触れる機会が多くあってもよいが、そればかりでは疲弊してしまう。自分の思考を切り替えて対応する上でも、読書や映画等を通じて自己と異なる価値観に触れておく必要はあると考えられる。

その点で、今回の課題図書は、日常的に当たり前と思い込んでいることが、実は違う可能性があるという意味で考えることができた点、『不信の停止』の有用性を再認識できた点で有用であり、自己の世界観を広げる良い機会になったと思われる。

投稿者 haruharu 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」を読んで

私にとっては難しい本でしたが、しかも、感謝や謝罪がない社会で生きていくっていまいちそこに入り込めない分もあったが、新しい価値観の発見や、今現在もやっている事や、今はないけど昔はそうだったよなぁという思いが入り混じった本でもありました。

個でなく全体で生きていく環境。
大人になって知人の影響で音楽祭に出かけるようになってから、第九のコンサートだったか何かで歌手のアドリブで『きよしこの夜』を会場のお客さんで歌うことがあった。その時に、「自由な人が多くて全然合わない」と言われたのが、キョーレツに残っている。そこで相手の音を聞きながら自分の音を出すという事を一瞬でも体験できた時は新鮮な感覚だった。社会全体で生きていくってことは、ハモル感覚に似ている。

「贈与の霊」の考え方はなくてもあるかのようにモノを循環させたり、お返しをしたりするのは常日頃やっているにしろ、しかし、個人占有の心が思いっきりある自分がモロに見え恥ずかしいと思った。

共同体のリーダ、ビッグ・マンは日本に置き換えると、いわゆるお金をバラ撒く人、よく人に奢る人、社会によく還元する人や会社、に似ている。でもそういう人は、社会においてもトップクラスだったりするのでそういう事をしてきたからトップになったのか。しょ~おんさんが教えてくれたビートたけしに然り。
自然界への畏敬の念
人と動物、自然の共存。

子育ての環境の価値観の変化
昔の日本、又は今のどこかの田舎でもあるのかもしれないが、子育てに周囲が関わっていく環境があった。
私も子供の頃は、近所の人から子守、今でいうベビーシッターをよく頼まれたものだった。月日が経って、子守をしていた親御さんたちと街などですれ違った際に挨拶を受けて初めて私の親は知る事になる。ということは、親を通さないで直接頼まれていたのだろうか。今いる私の環境からじゃ考えられない。当たり前だったのだろうか、振り返っても当時どんな風に頼まれていたのかが全く思い出せない。今じゃ、ベビーシッターという仕事があるらしいので数十年の間に価値観は変化している。

ありがとうございました。

投稿者 gizumo 日時 2018年9月30日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

住んでいるところが違えば、常識が違うという事は理解ができるが、プナンの人々は「“種”が違うのでは?」というほどに違っている。
神々がそれぞれに宿っていると考える点は日本人に近いとも思われる。また、亡くなった人の名前を一定期間呼ばないことや、その家族は住む場所を変えてしまう点などは、日本人とは大きく違う点である。どちらも長く歴史的な意味合いからの行為であり意味合い的には納得するものはある。
もちろん、どちらが正しいというものではないが・・・。陳腐な言い方をすれば、世界は広い。違っていてもそれぞれの暮らし方には、それぞれの理由、必然性があり理解と寛容は必要だと思われる。
ワイルドかつ繊細な部分もあるプナンの世界を受け入れることで心が休まり癒される気持ちになったのは、少し今の世界につかれているのかもしれないと思った次第である。

投稿者 lapis 日時 2018年10月1日


・反省という概念がない。
・「ありがとう」という言葉がない。
・所有の概念がない。

という世界は一体どんな世界なのか想像がつかない。


農耕民族と狩猟採集民族の違いであることが
考え方の違いを生み出している。


農耕と狩猟採集の文化の違いは
ざっくりと理解していたが
実際に狩猟採集任族の文化に触れた内容を読むと
ここまで違うのかと感心してしまう。

自分にとってあって当たり前の考え方が
全く存在しないことがありうる。


■反省という概念がないことについて

反省することは自然なことではないのか?

狩りに行ってイノシシを上手く捕まえられなかったとき
今回はこの点で失敗したから次は気を付けよう。
と思うのが反省である。

一般的に考えられている「反省」は
自分の悪かったことを振り返って改善することである。

反省をしないということは
失敗してもそのまま放置するということであり
向上心がないということだ。

少しでも良くしようとすることは
対象がなんであれ
ヒトの自然な感情だと思っていた。


■「ありがとう」という言葉がないことについて

「ありがとう」という言葉なくて
一番近いのが「良い心がけ」という言葉である。

「ありがとう」は相手の行動に感謝を表すことであり
「良い心がけ」というのは上から目線の言葉であり
上下関係を作っており、しっくりこない。


■所有の概念がないことについて

モノは誰かが溜めこむものではなく
常に人の間を動いていることを良しとする考え方がとても興味深い。

これはプナンの世界とかけ離れた世界である資本主義と
共有している部分であると思う。

資本主義では所有することをが重視されるが
一方で資本主義で力を持つお金は常に循環させることが求められる。

どこかで滞留してしまうことで
経済は上手く回らなくなってしまい景気が悪くなる。

スムーズに流すことも必要だか
所有したいという欲もある。

矛盾することをどう両立させるかで
誰もが四苦八苦している。

しかも、モノを手放すことで
かえってモノも人も集まってくるということも共有している。


プナンの文化で一番根底にあるものは
所有の概念がないということである。

所有しようと思わないので
反省する必要はないし、
相手に感謝する必要もない。
感謝するということは、相手にやってもらったことに対して
何らかの負債を持つことに繋がる。

子供たちが学校に行きたがらないし
親も学校に行かせる必要はないと考えることが
私は意外に思ったが
根底に所有しないという意識があるならば当然である。

学校は知識を学びに行くところであるが
それは個人が所有するものであり
集団で共有するものではない。

断捨離が浸透しつつあるが
モノが人の心理に負担をもたらすことになるということを
プナンの文化が示しているように思う。

投稿者 iwantail28 日時 2018年10月1日


『思考と行動の自明性を疑うこと』をテーマに現代の日本で生きる私にはいったいどんな「常識」に縛られているのかをプナンの人々と照らし合わせて考えるという機会を本書から頂いた。

 まず初めに本書を通して不思議に思ったのはありがとうもごめんなさいも、「いらない」という点だった。「言わない」わけではなく、そもそもプナンの人々にとって存在しない概念なのだということが、「言わなくてはならない」と教わった私にとって違和感だった。私は感謝の念を伝えなくとも良いほど密接な関係にある人は自分の周りにいるかと考えると親でさえ難しいように思えた。そのような一体感を他者と感じられるものなのだろうか。家族関係も良いし、パートナーとも順調、気の置けない友人もいるが、プナンの人々のレベルで密接かと聞かれればNoだ。置かれた環境の違いでは無いように思う。プナンの人々と同じではなくとも、その強固なコミュニティを自分の環境なりにつくっていくことはできるはずだ。仕事の人間関係も、プライベートでも、今のゆるい関係性に甘んじていたなと気づけた。プナンには感謝、謝罪、また社会的な挨拶もない、必要が無い。そのくらい相手と心の距離がない。その土台があって、さらに相手の行動を裁いたりもしない、自分自身のことも裁かない。ないものだらけのプナンの概念は鬱病のような精神病もないとくる。彼らの「ない」ことは豊かさなのだとしみじみ思う。

 彼らの密接なコミュニティが気になった私は、アドラーのいう共同体感覚を高めるコミュニティはとはこういうことではないかと考えた。有名な「嫌われる勇気」で共同体感覚とは「自己受容、他者貢献、他者信頼」の3要素が関係してあるということだった。プナンの人々に当てはめると、例えば狩で獲物を得てコミュニティに貢献することや、コミュニケーションを円滑にする言葉を用いる必要のないほど強い仲間意識を自然と持っている。「〜すべき」という概念も反省もないのであれば自分自の一挙手一投足を顧みては責め立てて自己否定に悩まされることもない。本書を読む限りでは彼らは置かれた環境で文句も言わず「生きること」を愚直に続けている。また、彼らの意識の中では神様や動物、モノさえもいわゆるワンネスで繋がっていて別け隔てない意識の中にいるように思えた。

 彼から1つ学んだことがある。それは共有の精神だ。『ケチはダメ』と、業務の重要度に左右されず完璧に平等にシェアされる。将来を見据えず、過去も振り返らずその日暮らしの生活でも存続できるのは、このシェア精神が理にかなっているからだろうか。単純にその日獲れた食べ物を平等に分けなければ、食べ物にありつけなかった人は飢えて弱ってしまう。狩りが下手な人はずっと食事にありつけないので死んでしまう。そしてプナン人は減って、極端だけれども死者が続けば最後は少ない数のプナン人しか残らず子孫を残せなくなってしまう。共同体の存続のためにはシェア精神を持ち、仲間と分け合うことで結果的に自分自身を守ることになっている。これがお金になっても、知識や体験になっても同じことで、この精神は成功者マインドじゃないかと驚いた。私自身行動が先行していた募金やあらゆるシェアが自分自身を守ることに繋がっているのだと本書を通して実感をもって理解することができた。

最後に疑問が残った点を挙げ、私の今後の課題にしたい。そもそも彼らはなぜそこまで共同感覚の強いコミュニティを維持してこれたのだろうか?コミュニケーションを円滑にする感謝も謝罪も平易な挨拶も「必要のない」コミュニティでいられたということは、他国や他の部族から価値観の侵略がなされなかったということだろうか?しかし今彼らの土地には諸外国のプランテーションが立ち並び、森林伐採による被害と利益を受けている。学校制度は彼らの生活に取り込まれなかったがその他の文明に対して定住を選らんだプナン人は今後も以前の生活様式を継続できるのだろうか。その選択を顧みることはないのだろうか。疑問は芋づる式に頭の中で掘り起こされていく。

 ニーチェの『大いなる正午』のように『何ひとつ「こうである」と言えるものがない世界』を垣間見ながらも、感想文で「こうではないか」と述べる自分に違和感があったが、『何の意味もないのだからむしろ積極的に力強く考え、そして生きてみなければならない』という著者の主張が腹にストンと落ちた。そして感想文を書かなければ気づけなかった著者の主張がたくさん見つかり、この本の後の読書をよりいっそう楽しめるようになった。

投稿者 dalir 日時 2018年10月1日


今月の課題図書を読んで印象に残ったのは
下記の2点です。

1.「直線的な時間」(目的を持つ事)を選択せざるを得ない背景・影響力
2.リーダーの影響力と時間感覚


1.「直線的な時間」(目的を持つ事)を選択せざるを得ない背景・影響力

狩猟生活、その日暮らしをしていたプナンの中から
州政府や森林伐採企業、つまり外部からの影響を受けて、それらと折衝や抵抗する目的を持った東プナンについての記載があった。

何故、折衝や抵抗する様になったか
それは、今までの狩猟生活(その日暮らし)が成り立つには森林が必要だからだ。

その為
その日暮らしで生きる「円環的な時間」から
目的を持って生きる「直線的な時間」を選択し、大卒者(学士)を輩出する
東プナンが起った。

私は東プナンが起ったのは外部の影響だけでなく、プナン内部の問題でもあるとも思う。
というのも
課題図書の中で、下記の記述があるからだ
「とりわけ二十代や十代の若い世代が、生業としての狩猟に興味を示さないばかりか、狩猟をしない事に気づく様になった。」
この事から、若い世代の中からフリーライダーが増えている事がわかる。
また、こういった事を課題図書の筆者がプナンの現役ハンターに伝えても
「たいしたことはない」
と答える始末で、フリーライダーを減らす対策が取られていない事がわかる。

分け合う事を美徳とするプナンでは、フリーライダーを問題視する事を
集団の中で議題にあげるのは心理的に抵抗があるからだと思う。

つまり、このままでは
森の中で狩猟生活自体続ける(生きる)ことが出来なくなるのでは?
と感づいた一定数のプナンが
(州政府や森林伐採企業への抵抗や折衝を本心で願っていないにしろ生きる為に)
「円環的な時間」の中で生きる事から
「直線的な時間」の中で生きる事を選択して
東プナンへ行こうと思うプナンがいても不思議ではないと思う。


2.リーダーの影響力と時間感覚

ビッグマンといった部族の取りまとめ役を指す名前が出て来ている。
私が持ったビックマンの印象は、プナンとしての道徳的な理想像をまとめたものだ。
というのも
気候がそれ程大きく変わる訳ではなく、食べ物に困る環境でもない森林地帯で
収穫に多少の誤差があるにしろ同じ事を繰り返す、その日暮らしをするなら
強力なリーダーシップが必要になるとは思わない。
今まではそれでも暮らしてこれた。

だが、外部から自分達の居場所を壊す人達がやって来た事で状況が変わる。
今まで暮らしてきた方法では対処できないからだ。
手を拱いていると、居場所がなくなってしまう。

恐らく、課題図書で書かれている森林伐採企業というのは
資本主義の影響を受けていると考えられる。
もし、そうだとしたら「直線的な時間」の中で暮らしていると考えるのが妥当だ。
プナンと森林伐採企業との違いは下記の3つ

a.話す言語が異なる
b.価値観が異なる
c.森林を巡って対立している

上記の3つの課題に対してプナン側は解決策を出さないとならない。
c.に対しては共同体のリーダーに対して賠償金を支払う事で対処がされているが
あくまで、森林伐採企業が相手にしているのは共同体に対してであって
プナンという、共同体よりも広く大きい地域に対しては何も対処していない。
相手にするにしても、その広く大きい地域を治める代表に当たる人・リーダーが不在なら
所々の共同体で賠償金を支払いながら森林伐採を進めていた方が
森林伐採企業にとっては有利だ。

そこで一定数の危機感を感じたプナン達がc.の解決に必要な
a.b.を効率的に解決する為に
「直線的な時間」の中で暮らす事を選択して
大卒者(学士)を輩出する必要に迫られたのではと思う。

ビッグマン、つまり理想・道徳上のリーダーに変わって
現実では森林を守る為にプナン達を引っ張ってゆく
リーダーを作ることが求められる様になったのではと思う。

もしそうだとしたら
今までの文化からでは想像し辛い概念を取り入れる事になるので
東プナンを起こしたメンバーには相当の苦労があったと思う。

投稿者 winered0000 日時 2018年10月1日


「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」を読んで

1、プナンの生きざまを知り、私の生きざまを振り返る
 私は日本で生まれ、日本で育ち、日本で仕事をし、日本で家族を持っている日本人である。この度、本書を読んで、自分の生きざまを振り返るいい機会となったので、自らについて振り返ることにした。私自身を形成するものは、以下大きく2つの要素があると考えている。
(1)まず私は責任感がとても強いと自負している。責任とは自分のやるべきことに対して、問題が起こらないように配慮することだと思う。そして問題が起こったら、問題から逃げることなく、解決に向けて行動することが責任だと思う。
(2)さらに、自己成長が感じられる事が人生において、生きがいとなっている。新しいことを学び、学んだことを活かして心と生活を豊かになる。それが人生において大事なものであると考えている。
さて、今回本書で読んだプナンの人々とは全く相反するものであると感じる。悪く言うつもりはないが、プナンはただの原始的な民族であり、この人たちは何のために生きているのか?ということが常に脳裏にあった。

2、追い詰めるまで頑張らなくてもよい?
  本書を読んでいくにしたがって、今の自分は頑張りすぎなのではないかということを思うようになってきた。与えられた役割の中でできる最大限のアウトプットをしたいと思っているが、問題が重なるときは多くの時間外の労働を行わざるを得ない。どれか一つでも後回しにできれば楽なのに・・・と思うこともしばしばある。プナンのように反省をせずに、「終わりませんでしたー」ということができればどれだけ心が救われるか、と何度も考えた。

3、日本の生活で、「終わりませんでしたー」は禁忌か
 プナンでは許されるかもしれない「終わりませんでしたー」を日本の仕事でやった場合は、間違いなく「なんで終わらなかったんだ」と詰められることとなり、「責任」を問われるだろう。信用をなくし、それを繰り返せば社会的な地位もなくしていくに違いない。やはり、プナンと日本は異なる社会なので、それぞれの価値観を適用することは間違っているわけである。日本では日本の価値観があるし、プナンにはプナンの価値観がある。それでいいのだと思う。
 日本でうつ病が多い原因が業務過多や、プレッシャーにあるのだとすれば、プナンから学ぶことは多いのではないか。そういう人たちもいるのだ、と考えることは、常にプレッシャーに追われている心を軽くすることはできる。そういう意識をもって、今後の日常の生活に活かしていきたい。

投稿者 roman10yanadi 日時 2018年10月1日


課題図書感想
この課題図書の世界が日本にもあるにはある。読み進めてみて共通の世界を見ているような気がした。
私は新聞販売業の仕事に従事してます。全国にあるこの業種は、従業員の多くは低学歴で、たまに高学歴の人がいますが、何かしら問題のある人です。かくいう私も大卒の身分でありまして、一族で経営してる会社を引き継ぐ者がいないため、フラフラしてたところを誘われて今日に至っています。
そもそも共通に感じたところは、ありがとうもごめんなさいも言えないスタッフと接しているからで、出入りの激しい業種なのに、似たようなキャラクターの何と多いことか。昼ご飯を一緒に食べに行って、ありがとうもごちそうさまも言えない人たちに不満がありました。そこに今回のプナンの人たちの話はなぜそんな挨拶がいらないのか、共通項は未開だからと決めつけて良いものかといったところが新しい気づきでありました。
私が接する人たちは、生き方として「○○のために生きる」と考えるまでに至らず、今を生きていれば良いのです。それ故に給料をもらったらその日のうちにパチンコに費やして、翌日に社長のもとへ行き借金なり前借します。反省の必要はないみたいです。誰かがお金に困っていたら、同僚が工面することもあります。実際に私のところにお金を借りにきたスタッフもいました。運命共同体なのでしょう。所有の概念が私の考えるものとは違うと感じました。返す気がない点も共通しています。ただ所有の観念が強いか弱いかの違いとなるだけです。
「6 ふたつの勃起考」にあるような、羞恥心のないところはもはや蛮族の域なのかと思いました。人類学の先生が考察の対象としたから立派な教材になったものの、このプナンの習慣を読んで、かつて嫌悪感を抱いたとあるスタッフを思い出させるエピソードでした。快楽を基準に行動する点が恥ずかしくないのか、それとも自然な行為なのか。教育水準が比較的高い私からみれば、彼らは本能のままに生きているのだろうから、プナンの人たちも新聞屋さんも同じようなものと感じました。
プナンの風習を通して、我が同業者の生きざまを別の角度から検証する機会を得たことは今後の付き合い方に影響します。一番の収穫は、教育水準や文明の発達レベルでしか考えられない自分が一番いけないと気づいたことです。なかなか手に取るに至らないジャンルの本なので、良い機会となりました。

投稿者 sulya9221 日時 2018年10月1日


ありがとうもごめんなさいもいらないのは、人間同士だけであって、きっと神様に言っているのだろう、いつも神を身近に感じている、シュリ・アーナンダマイーマーのような、人達ばかりの民族?かと思ったら違った。
こういうタイトルを見ただけで、自然と共に生きているなら崇高な精神に違いないなどとすぐに美化しがちであるが、ニーチェにとっては、彼らの生き方は理想的なんだろう。
所有しない・ストックしない
その日暮らしのような生き方。
私たちのまわりは私の所有物・誰かの所有物・外にあるもの道路も樹木も落ちてるものも全ては管理されている、誰かのもの
ないものは分けてもらう。持っていれば分け与える。
明日の分なんて心配しなくていい。
私は明日の分がないと不安。自分や家族の狭いつながりの時間を左右に伸ばした、細く長い所有が必要で、プナンはその日の、みんなの食べ物があればいいので円形になる。
所有とストックが増えに増えて、我々はこんなに忙しくなってしまったのか。
物欲とか知識欲とか成功したい欲、成長したいと望む気持ちも、私たちに原動力となって突き動かす役目もあるが、一歩進んだ欲持ってますと気取って、どんどんしんどくなって、反省しないといけない羽目になっているんじゃないか。
はじめて反省したのいつだ、覚えてないけどたぶん、私たちの人生初の反省は自ら進んでやってはいない、「反省しなさい!」と言われたから、したのじゃないかな。
もともとは、我々だって反省なんか好きじゃなかったんだろう。
狩りがうまくても、多く分け与えても感謝されない、
個人の能力は個人の所有に結びつかない、共同体全体で個人の能力でさえも共有しているみたいだ。これって良いと思う。授かった能力だから自分だけのものじゃなくてみんなのために。
日本のエリートたちも、そんな気持ちで働いてくれている、と信じてる(笑)
個人にスポットを当てない。いつも共同体全体が生きる単位。
しかし、ここまでできるのは犯罪者がいないというか少ないことが大きい。
反省しない盗難癖の男対策の会議で少しよぎった、本当は言いたいけど、言えないってことだったら怖いな、と思った。
死者に対する扱いも、悲しみや苦しみに蓋をするような考え方に思えて、この二つが違和感だった。
信仰らしいことをせず、自然の恵への感謝も特にしない、超絶現実主義ぽいので死後の世界という考え方もないから、死への恐怖感・不吉な感じをもたらしているのか。
それでも私たちはあくせく働いて信仰や祭事に時間や費用を使っているわりに問題山積み社会。
プナンは、必要最小限に働いて、必要最低限の禁忌を守って、宗教的行事もなくのんびり生きて、彼らは、洪水・雷・収穫がない日 以外の問題意識もっておらず・・
上手に生きているのは明らかに彼ら。子育ての問題もはやく真似しようよ。
自然と共生するだけで、あらゆる精霊や神様にかわいがられる、そんな風に見える。生物のヒトとして正しく生きているから、それでいい。
それが「倫理以前、最古の明敏」
ヒトとしてより、人間として生きる私たちは、倫理を持たなければならないのだろう。
こんなに違いがあるけど、放屁については分かり合えると思う(笑)。これって、どこの国や地域でも、特に男子ならやってるだろう。芸術的な領域とまではいかなくても、プナンは娯楽代わりでもあるし、健康のバロメーターという点では、こっちでもお母さんなら、家族のおならで、不摂生を注意する人もいるものだから。
生理現象は共通である。共通言語で共通の笑いだからおもしろい。