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第124回目(2021年8月)の課題本


8月課題図書

 

満州とアッツの将軍 樋口季一郎 指揮官の決断

 

先の大戦で、日本は攻める時には強いけれど、一旦守勢に回ったらグダな戦い方しかでき

ないという例がたくさんみつかるんですね。最悪はインパールの戦いで、あそこでは戦闘

行為で死ぬ人の数倍の餓死者が出たわけです。これは偏に指揮官が無能だったから起こっ

た惨劇です。

 

ところがあの大戦で、素晴らしい撤退戦をやった例があるんです。それがキスカ島撤退で

す。米軍も日本軍の撤退の見事さを称賛するくらいなんですが、その時の指揮官が本書の

樋口季一郎中将です。そのあたりのことを知りたくて本書を読んだのですが、彼はそれ以

外にも満洲に逃げて来たユダヤ人たちにビザを発給してナチスから逃がしてあげるなんて

こともやっているんですね。ということで、非常に興味深い人物です。

 

 【しょ~おんコメント】

8月優秀賞

 

8月分の一次審査突破は、tsubaki.yuki1229さん、LifeCanBeRichさん、M.takahashi

さん、sarusuberi49さんとなりました。この4名の投稿には、日本語としても、論立てと

しても大きな破綻が無く、非常に読みやすかったです。

 

この中で、優秀賞はsarusuberi49さんに差し上げることにしました。おめでとうございま

す。

 

【頂いたコメント】

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 
 樋口季一郎はアッツ島の戦いで、部下2638名を戦死させた罪の意識により、発狂や自殺をしてもおかしくなかったと思う。(日露戦争後に秋山真之が発狂したことを思い出した。)だが彼は、アッツ島放棄の交換条件として、キスカ島の即時撤退を日本軍と交渉して認めさせ、さらなる戦死者を出すことを未然に防ぎ、敗戦後もソ連軍と戦い抜いた。
 彼の精神力はどこから来ているのか。次の二点を考察した。

 第一に「決断力」である。
 本書は樋口の伝記だが、タイトルは『樋口季一郎の一生』でなく『指揮官の決断』。そのことからも、決断力の重要さが本書の主題だと分かる。
 樋口は幼少時代に両親の離婚を経験したものの、結婚後は温かい家庭に恵まれていた。だからこそ、自分の部下一人一人が誰かの大切な父であり息子であると、自らのことのように理解していたに違いない。アッツ島が日本軍に放棄された時、大切な部下達を見殺しにせざるを得ないと悟り、指揮官として胸が張り裂けそうな思いだっただろう。
 だが彼は「部下の死を決して無駄にしない。彼らや家族の痛みを背負って生き抜こう」と「断固たる決断」をしたのだと思う。状況が日本軍に不利になろうとも、自暴自棄にならず、自ら玉砕して「負けて華々しく散る」道も選ばず、被害を最小限に抑えるため冷静に判断を下せたのは、決断が彼の精神を支えたからだと思う。

 樋口と対照的なのが東条英機である。樋口は東條を「善、且つ愚」と評価する。これは樋口が「参謀長、ヒットラーのお先棒を担いで弱い者いじめ(ユダヤ人迫害)をすることを正しいと思われますか」と言い放った際、東條が樋口の話に耳を傾け、懲罰を科さなかったエピソードに良く表れている。
 東條には自分の断固たる信念が感じられない。もし彼が、ヒトラーと協力して戦争に何が何でも勝つつもりだったなら、ドイツの抗議書を受けて、ユダヤ人を救った樋口を厳重に処罰しただろう。逆に、人道的にユダヤ人迫害に賛成できないなら、ヒトラーを「内政干渉するな」と突っぱねただろう。東條はどちらでもなく、ヒトラーにも樋口にも「良い顔」をした。一見「優しくて良い人」だが、確固たる自分がないため、目まぐるしく変わる歴史や環境の変化に流され、良いように使われ、最後はA級戦犯として処刑された。「良い人」なだけでは駄目で、「決断力」を併せ持たなければ生き残れないことが分かる。

 戦争のない現代の日本にも、人生の局面やビジネスで「決断力」を要求される場面は多々ある。私が樋口の生き方から学んだのは「自分で決める」行為の重みである。決めたことを実際に守れたか、どの程度完遂できたかはそれほど重要でなく、むしろ「決断したことを意識して生き抜く」ことが、周りの状況に流されぬブレない自分を作るのだろう。(余談だが、私が子供の頃「元旦に新年の目標を言わなければ、両親からお年玉をもらえない」という家訓があった。日本全国、全ての家庭の常識だと思っていたら、私の家の独自のルールだと大人になってから判明した。私は「今年は数学の成績を上げます!」と毎年元旦に高らかに宣言したことからも分かるように、決断した目標を年内に全て達成したか?と問われると必ずしもそうではない。だが、家族の前で宣言した決断は今でもよく覚えており、それは年間を通して自分を支えた。あの我が家の習慣には意味があったと、今頃わかって両親に感謝した。)

 樋口の精神を支えた第二の要素に「救われた感謝」があると思う。
 人から親切にされ救われた時、私達は感謝の念を持つ。(中にはそれを忘れる薄情者もいるだろうが。)それは一生その人を支える糧となり、後の人生を大きく動かす。オトポール事件後、ハルビンから旅立つ樋口を見送りに来た群衆のほとんどが、樋口に救われたユダヤ人達だったという。彼らは敗戦後、スパイ容疑でKGMに捕われそうになった樋口の救出運動を起こし、アメリカ国防総省まで動かして樋口を救った。数年たっても忘れぬ「恩」は、人々を結束させ、歴史さえ大きく動かす。

 本書に詳しく書かれていないが、樋口もまた「自分は救われた」という強い思いを持ち続けたのだと思う。彼を救ったのが、若い頃から入信していた法華経の仏か、海外駐在中に親切にしてくれたユダヤ人か、あるいは日本国内外で世話になった家族や友人達か、詳細はわからない(あるいは全てかもしれない)。

 とはいえ、キリスト教徒の杉原千畝が
「私に頼ってくる人々を見捨てるわけにはいかない。でなければ私は神に背く」
の有名な言葉を残したように、樋口もまた
「自分も救われた。だから自分も人を救う。でなければ私を救ってくれた存在に背く」
という強い信念を持っていたと推察する。その信念がユダヤ人を救い、アッツ島玉砕の悲しみに押し潰されずに次の行動に切り替え、これ以上の犠牲を出さぬよう戦う道に、彼をつき動かしたのだろう。

 樋口の言葉「世の中には絶対の善も絶対の悪もない」は、多くの知恵を教えてくれる。
 戦前の日本陸軍の青年将校達が好んで用いた言葉「大善」と「小善」ほど、危険な思想はない。これは「日本の勝利という大きな目的(=大善)達成のためなら、多少の犠牲(小善)は仕方ない」の思想のもと、多くの若者達を特攻隊として死に追いやった思想そのものである。
 絶対的な悪と俗に言われるナチスは、ジェット機やロケット、現代の福祉や源泉徴収制度などの優れた発明を残した。善と悪は同じものの内部に共存する。誰もが自分を善と信じて行動し、中には自分の主義が悪だと途中で気付きつつ、歯止めが効かなくなって自滅する者もいる(ヒトラーも自殺した)。

 自分には弱さも失敗もあると認めつつ、晩年、自室にアッツ島の風景画を飾り、毎日アッツ島で失われた兵士達を思い、それでも、より良い生き方を目指して最期まで生き抜いた樋口。彼のように、戦時中に多大なる苦労をされた人達のお蔭で、今の私達の平和があることを感謝すると共に、どんな状況に置かれても、周りに流されず、小さい決断・大きな決断を積み重ね、確固たる自分を持って生き抜こうと、気持ちを新たにした。
 
投稿者 BruceLee 日時 
「真実とは当人にも分からないものなのかも」

自分は本書を読むまで樋口季一郎を知らなかった。序章に以下記述がある。

「アッツ島の戦いは、先の大戦において、大本営によって『玉砕』という言葉が用いられた最初の戦いとなった。かつて多くのユダヤ人の生命を救った男は、部下の日本人の命を救うことができなかったと言える。樋口は『日本初の玉砕戦の司令官』という汚名を背負うこととなった」

この「玉砕」という言葉。現代では忌み嫌われる精神論に基いた行動だろう。「日本初の玉砕戦の司令官」という表現からマイナスの印象を持ってしまうが、いや待てよ、「かつて多くのユダヤ人の生命を救った男」ともあるからシンドラーや杉原千畝のような人物で、決して悪い人間ではないのか?と多少戸惑いながら読み始めたのだが、次第に樋口の人間的崇高さに気付く。陸大に合格出来た頭脳・勤勉は勿論、家族の証言による厳格な人物像。先の大戦当時、ユダヤ人難民を受け入れるのは、同盟国ドイツに対する裏切りと見なす人もいた筈だ。が、樋口は断行した。それは何故か?

「近しい人が死にかけている」という眼前の事実を何とかして解決したいという、本来、誰もが多かれ少なかれ有している心情を、行動として実践に移したのがオトポール事件の核なのかも知れない

何のことはない、目の前で人が死んでいくのを放っておけなかったのだ。「人道的」という立派な言葉以前に、人として黙ってられなかったのだ。それは人としては正しい決断だと思う。が、戦時下という時代的には?ドイツ同盟国という日本の立場的には?つまり一点からは善悪は判断が難しい面もあり、それが現代から振り返った場合、先の大戦を複雑化させる要因でもあろう。また以下一文もある。

その際、キスカ島撤退兵の一人の少佐が、酒の勢いもあり、樋口に俯瞰の意を示し始めた。その少佐は、キスカ島において最後まで戦いたかったのだという。

自分がこの部分を読んだ時、最初は撤退して生き延びたことの感謝が語られるのかと勘違いした。が、当時はお国のため命を捧げる事が名誉な時代。この少佐はそのチャンスが奪われた被害者意識があったのだろう。ここで現代に生きる自分は思う。いつの時代でも、全員から賛同を得るのは不可能だ、と。このネット時代、人は自由な意見を発信可能だが、中には「そこツッコむ?」みたいな、自分からすると頓珍漢な誹謗中傷をする輩もいる。だが、それぞれの人の背景にはそれぞれの事情があり、各人からすれば「頓珍漢な誹謗中傷」と感じる自分こそ頓珍漢なヤツ、と映るのかもしれない。戦後、樋口は自分の功績を語らなかったという家族の証言があるが、時代の違いに加え、考えの違い、立場の違いを考慮し「多くは語らない」という選択をしたのだろう。本書では明瞭に記述されている。

人間の決断というものは、一つの理由によってなされるほど簡素化されたものではなく、複数の要因が複雑に絡み合いながら、本人にも的確に整理できないままに、行われるものであると言えるのかもしれない。それを後になってどのように理由付けをしても、どれも正確ではないという感覚が残る。樋口はそのことを感じ、動機を語る困難さを悟り、静かに斜線を引いたのではないだろうか。

その基にあるのが「善悪不二」(世の中には絶対の善もなく、絶対の悪もない。善悪は相関的なものである)ではないか。時代の違いがあれば勿論、同時代でも考えや立場の違いで物事は良くも悪くもなる。そして時に、人は自分が良いと判断した対象に反対する人と対立する。であれば、喧嘩や戦争が永遠に無くならないのは道理なわけで。。。

と、片付けるのは安易だろう。最後に自分が本書で考えたことを書きたい。日々ネットを見て感じることでもあるのだが「人間はどこで判断されるべきか?」ということ。自分としては「どんな言葉で何を言ったか?」ではなく「どんな行動で何をしたか?」と考えている。言うのは簡単、書くのも簡単。だが、人間性は最後は行動に出る。行動こそがその人の考えの表明ではないか。だから何を言ったか、でなく何をしたか、だと自分は思う。そしてその人の人間性は何処から来るのか?戦時下という非常時における樋口という指揮官の決断が本書に書かれているが、その大本にあるのは戦争とは関係のない、日常にあるのではないか。その意味で月寒の官邸引き渡し時のリンゴの実の話は自分にとって印象的だった。

「みっともないことをするな」

この一言が樋口という人間を表していると自分は感じた。樋口をどう解釈するかは人それぞれの見方、感じ方次第だ。が、確実な事実がある。それは戦後、樋口に対するソ連からの戦犯引き渡し要求の際、かつて樋口が助けたユダヤ人たちが救出運動を実施したことだ。過去の樋口の行動がユダヤ人たちに行動させた。説明も理屈も不要な真実がここにある、と感じた次第である。
 
投稿者 mkse22 日時 
満州とアッツの将軍 樋口季一郎 指揮官の決断を読んで

本書を読んで、最も印象に残ったのはオトポール事件だ。

オトポール事件とは、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りから逃れ、
ソ連領のオトポールに出現したユダヤ人難民に対して
当時ハルビン特務機関長だった樋口が独断で満州国への受け入れを
認めさせた事件だ。

当時、日本とドイツは日独防共協定を結んでおり、良好な関係であった。
その中で、樋口はヒトラーのユダヤ人追放に対して反抗したわけだ。
この判断をした理由として、彼はは回想録の原文の中で2つ
(①彼自身の人道的公憤と②対ユダヤ関係の緊密化)挙げている。
ただ、後でこれらに斜線を入れて取り消しているが。

この樋口の行動に、①と②が理由として正確ではないが嘘でもないという気持ちが
透けて見えるようだ。

すると次に樋口の本音はどちらに近いのかという疑問が湧いてくる。
本書では、そのどちらでもなく、知り合いのユダヤ人を助けたいという素朴な感情だと
推測している。

それでは、①と②は、本音に対してどういう位置づけのものになるのかと考えると、
周囲への説明向けとしての理由なのかもしれない。
周囲を説得するための理由というわけだ。いわば、建前である。
たしかに、難民受け入れを周囲に認めさせるためには、知り合いがいるから助けたいだけでは
不十分で、建前としての①のような人道的理由や、②の経済的理由が必要かもしれない。
そして、①と②は本音と乖離しているから、あとで斜線を入れたのかもしれない。

この樋口の難民受け入れ理由は、現代ドイツのそれと酷似している。

現代ドイツも難民受け入れに積極的であり、それを国民を説得する理由として
人道的理由とともに経済的理由を挙げている。

ドイツは戦後、ナチスへの反省から抑圧されたものを受け入れる方針を掲げ、
難民の受け入れに積極的となった。

ただ、当初から人道的理由だけでなく、経済的理由もあったようで、
自国の労働力不足の穴埋めのために難民を利用したいという計算も入っているようだ。
最近のドイツでは難民に対する教育を恩恵ではなく投資と見做しているとの記事を
読んだとき、なるほどとおもった。

ただ、難民の受け入れには、メリットだけでなくデメリットも存在する。
例えば、難民が受け入れ先に溶け込むことができずに両者が衝突する可能性があるからだ。。
その衝突の一例としてドイツでは2015年に発生したケルン大晦日集団暴行事件がある。
同事件をきっかけに難民受け入れの方針が一時期変わった。
2016年には保守系政治家が任民の受け入れに上限を設けるように主張したそうだ。
現在は、元に戻りつつあるようだが。
さらに難民受け入れのためには、教育など一定の費用が必要で、それはドイツ国民の負担となる。

現代のドイツでも政治家が人道的観点のみで難民受け入れを主張しても、国民全員の同意を得ることは難しいようだ。難民問題は常に選挙の争点となっているからだ。だからこそ、経済的利益など別の利益を主張するわけだ。

このように、難民受け入れ理由について樋口と現代ドイツは同じものを掲げたわけだ。
人権意識が高い現代国家と同じ理由を挙げた点に、樋口に先見の明があったように感じる。

もちろん、違いもあり、それは本音の部分だ。
樋口の本音は知り合いの人を助けたいという気持ちであり、
ドイツは、当初はナチスへの反省と言われているが、現在は不明だ。
本音が経済的理由になっているかもしれない。

樋口の回想録に次の言葉がある。
〈世の中には絶対の善もなく、絶対の悪もない。善悪は相関的なものである〉 (Kindle の位置No.2915-2916)善悪は相対的なものであり、善の反意語は悪ではなくもう一つの善である。

この言葉から、①と②に斜線を入れた別の理由を推測可能なのではないか。
例えば、樋口は①と②を善と考えていたが、後世から真逆の評価をされる可能性があることに気づき、
そのことは自身の本音からは大きく乖離するため、あえて斜線をいれたのではないかとかである。
ただ、仮に本音を書いたとしても、それ自体が、時代によりが真逆に評価される可能性もあるわけで。。。
言葉で伝えることが如何に困難であるかの良い例だ。

戦後、樋口が戦争中のことをあまり語らなかった理由はここにあるのかもしれない。

今月も興味深い本を紹介していただき、ありがとうございました。
 
投稿者 shinwa511 日時 
本書を読んで、樋口季一郎氏は、人の命を大切にする、人道を貫いた人であると感じました。


ドイツの迫害から逃れてきたユダヤ人達を助けて欲しいと、極東ユダヤ人協会の代表のアブラハム・カウフマン博士から相談を受けたときも、窮状を見かねて支援と逃走ルート確保ために尽力しています。


キスカ島撤退の際も、小銃を捨ててでも兵員の撤退時間を速くさせることで、撤退作戦を完了させています。


それぞれで、樋口季一郎氏の人を助ける人道を持っていたのは理解できたのですが、キスカ島撤退から、占守島や南樺太へと転戦する部下の兵士たちは、どう感じていたのかを考えました。


それを調べていくと、当時の日本の日中戦争以降の兵士の教育では、国民は報国するように統率されていた事が分かりました。
そこに個人としての主義や主張が入る余剰はなく、男であれば兵士となり国の為に戦え、と学校や召集される軍隊で教えられます。


日中戦争、太平洋戦争と進むにつれて、軍による国民への統制は厳しくなり、戦地の情報漏洩や密通を防ぐために、兵士が送る手紙にも検閲が入りました。


本土でも、隣組制度や愛国婦人会などの組織ができて、戦争という国難に国民総動員で当たるように、徹底されたのです。


戦地で兄が戦死したことを知り、母親に送る手紙でも、立派な最期を遂げたことを誇らしく思ってください、と書き、公の挙国一致のスタンスを貫いて行こうとしていたのです。
公の場で、泣くことや戦争は嫌だ、と主張することは出来なくなっていったのです。


しかし、人は生き物ですから、生きるという事については貪欲です。


学校や軍隊などの公の教育で、戦死することは名誉だ、と教えられても、いざ激しい銃弾や、砲撃の飛び交う戦地にいる極限の状態が長く続けば、生きて日本や家族のところへ帰りたいと思う気持ちも当然出てきます。


そのような、過酷な状況で戦っている兵士の立場からすれば、自分を生かしてくれる上官がいれば、その人についていこう、指示に従えば生きることが出来る、と考えたのではないかと思います。


上官である樋口季一郎氏としても、兵士を戦力の数として見ているのではなく、一人一人の人間として見ていたからこそ、兵士をキスカ島で撤退させるように努めたのだと考えます。


戦争で責任を負って死ぬのは、命令を出した上官で一人の責任であり、部下ではない、という考えを貫き、一人でも多くの兵を助けようとしたのです。


玉砕を名誉としていた陸軍の中で、このように自分の兵士やユダヤ人など多くの人を助けた樋口季一郎氏という存在を本書を読んで知れたのは、とても良かったです。


悲惨な戦争の話がある中でも、そのように兵士を人として捉え、実際に行動するには、自分の中にある、何が大切なのか、の価値観を見失わなかった事によると考えます。


時代がどのように変わっても、自分の価値観を無くさず、それに基づいた判断を通そうとする気概を持ちたいと思いました。
 
投稿者 tarohei 日時 
 アッツ島玉砕とキスカ島撤退、この二つをやり遂げた樋口季一郎中将の決断力が強く印象に残った。ユダヤ人難民を独断専行の決断力で救ったオトポール事件も感慨深いものがあったが、ここではアッツ島玉砕と指揮官・リーダーに求められる決断力について、少し違った切り口で感想を述べていきたい。

 指揮官に求められる決断力とは何であろうか。戦況を打破し組織をより有利な状態にまで導く優秀な指揮官の存在は、作戦の成功を期待される組織において不可欠な存在である。戦場の指揮官は戦闘の継続・撤退を瞬時に決断しなければならない場面に多く遭遇する。そのような時に求められるのが指揮官の決断力なのであろうということが本書を読んでよくわかった。そしていままで心の中で引っかかっていたものがある。決断力と判断力という言葉である。決断力と判断力、似た言葉ではあるが、その違いについてなにやら心の中でモヤモヤしていたが、本書を読んで少しキリが晴れた気がしたのである。
 どういうことかと言うと、大本営からの決定命令、それによる部下への約束の反故、憤りなど混乱した戦況や進むべき方向性が定まらない時こそ、決断力が指揮官に望まれるものである。なぜなら、決断力とは現状を打破し、さらなる目的を達成するするため意志決定をはっきりさせることができる能力のことだからである。
 一方、判断力とは、これまでの経験やデータや数値などを基に現状を分析する能力のことをいい、過去のデータから現状を分析し、最善策をジャッジするのが主な能力と言えよう。例えば、会社における管理職などが部下の働きぶりを評価する能力は判断力、組織のトップが行う意思決定とは決断力である。組織として前例のないことに挑戦していくためには、指揮官やリーダーの決断が不可欠である。いざという時に思い切った決断をするうえでは、明確な基準を持つことが必要である。とは言え、この条件を満たしたら撤退、この問題をクリアできなければ決行などというように、基準が明確であれば苦労はしない。時に失敗を認めて撤退を決断する勇気を持つことも指揮官やリーダーに必要な条件なのであると、気がつかされたわけである。
 このように決断力と判断力とは、状況や環境を変えることができる意思決定能力が決断力、現状についての分析能力である判断力という違いがあり、各々発揮すべきシーンが違ってくるだけのことだと思う。この決断力と判断力を兼ね備えていなければならないのが指揮官に求められる決断力なのであろうと考えさせられた次第である。

 長々と、指揮官としての決断力と判断力について述べてしまったが、さらに指揮官の資質について本書を読んで考えさせられたことがある。それはなにかと言うと、戦う組織の指揮官は、敵との関係から生じる不確実性や限られた情報をもとに極めて短時間に決断・判断を下さなければならない場合がある。このような困難な状況で指揮官自身が適切な意思決定を下すことができたとしても、それを組織の方針として徹底するにはなお難しさが残る。
 それは、大本営への増援要請、大本営からの放棄命令、現地守備隊長への謝罪というように、組織の内外からの反対意見、方針変更にさらされた場合に、それらを説得し組織の結束を保つ困難さのことである。さらには、状況により撤退や中止を余儀なくされた場合、やめる勇気を持てるかてるかどうか、既に動き出した組織に対して徹底できるどうかの困難さを言う。
 変化の激しい状況や解決が困難な状況の場合、指揮官としての独断専行を行いことを想定されるため、部下と上官との潤滑なコミュニケーションとリレーションシップが必要不可欠である。
 部下を信頼して任せきることができるか、部下が窮地に陥った時、適時必要な支援を行うことができるか、現場の情報が少なかったり、状況が難局であったりすれば尚更で、このような場合には上官も部下も指揮官本人同様、資質や器量が試さるのではなかろうかと思った。正にアッツ島玉砕に当たっての大本営と守備隊長のやりとりはこれに近いものがあったのであろうと想像する。

 最後に、日本が太平洋戦争へのめり込んでいき、ほぼ全員が内心では望まなかった米国との戦争に突入していった経過をみると、決められない政治、正確な決断と判断が下せない組織、見通しを誤った外交戦略など、複合的な要因があったと思う。当時の陸海軍トップ・幹部の多くはこれ以上米国と戦うべきではないと考えているにもかかわらず、会議や公式の場では反対意見を主張する者は少なく、少しずつ望まぬ戦争の道を歩んでいくという、決められない政治、正確な決断と判断が下せない組織なのであろうと痛感した。最近の政府の対応を鑑みるに、この国の国家体質は前後75年経った今でもなにも変わっていないのではないかと思うと、心の中の奥の方からなにやら込み上げてくるものを感じざるを得なかった。
 
投稿者 LifeCanBeRich 日時 
“決断と犠牲について考える”

樋口季一郎は置かれた状況を冷静に、客観的に把握し、覚悟を持って決断を下すことができる秀抜な指揮官であったと同時に、誠実で責任感の強い人間であったと思う。例えば、オートポール事件。同盟国ドイツとの関係を鑑みれば、自身の立場を危うくすることも十分に考えられた状況で、覚悟を持ってユダヤ人の救出を決断した。この誠実で人道的にも模範となる樋口の行動は、後世に語り継がれるべきものであり、また英雄伝として人々が大いに好むものだ。ただ、オートポール事件よりも本書の中で私の印象に残っている樋口の決断は、キスカ撤退である。キスカ撤退は北海道における地上戦という戦禍を回避して、ソ連軍の侵略阻止につながったのだから大英断であり、また日本を守ったという意味で樋口は讃えられるべき国民的英雄であるはずだ。しかし、一見英雄伝であるはずのキスカ撤退について戦後の樋口は回想録の中でも殆ど触れていないという。むしろ、キスカ撤退の決断は、戦後樋口の人生の中で大きな影となる。なぜかというと、キスカ撤退という決断の裏側には、アッツ島玉砕という多大な犠牲があり、樋口はその事実を背負って生きたからだ。

本書の中で、私の心に最も大きく訴えてきたのは、「多くの人々の生命を預かり、自らの名において決断をしなければならない立場にある人間の苦悩というのも、また十分に語られるべき歴史の一要素である」(P.193)と著者が戦争の被害者について触れた場面である。なぜならば、私はこれまで先の大戦を振り返った時、どうしても末端の名もなき兵士たちや権力者の無謀な暴走に巻き込まれた民間人たちに目が行きがちだったからだ。確かに、戦場に実際に赴いた兵士たちが、どのくらい壮絶で悲惨な死に方をしたのか、どのような思いで死んで行ったのか、それを思う家族の心情などを描いた物語は人々の心を動かす。しかし、本書は樋口という指揮官を通して、読者を別の角度から戦争について考えさせるのだ。抗うことのできない軍司令部の決定とはいえ、キスカ撤退を実現するために、アッツ島玉砕を容認した指揮官樋口の苦悩はいかなるものだったのか。その苦悩は戦争という異常事態に身を置いたことのない私が、十分に想像できるものではない。が、私がここで思うのは樋口と同じ心境、苦悩を味わった指揮官は先の大戦において少なくなかったのではないかということだ。神風特攻隊を編成する未成年の若者たちに出撃を言い渡す指揮官、帰還するために必要な燃料も積まない戦艦を出航を命じた指揮官の中には、樋口と同様の苦悩を味わった者たちが多数いたのではないかと思うのだ。いくら戦争状態が日常となり、戦場で死ぬことが栄誉とされた当時の価値観においても、やはり他人の命を奪うという決断を下すことは、尋常ではないことだったに違いない。そんな指揮官たちの心境、心情に思いを馳せることも重要なのだと本書は教えてくれる。

戦時中、樋口をはじめ多くの指揮官は国という全体のために、兵士の命という個を犠牲にせざるを得ない苦渋の決断を多く迫られた。本書から例を挙げれば、上述したアッカ島の兵士たちを犠牲にしながら撤退したキスカ島の兵士たちが、後に占守島でソ連軍の南下を足止めし日本国を守った。キスカ撤退の決断は、言い方は悪いかもしれないが最大数の最大幸福のために致し方なかった、いや最善の決断だったのではないだろうか。しかし、樋口はこの功利的な考えを由としなかった。自らが下した決断によって救われた命があった一方で、失われた命があったという事実。そして、樋口はより後者の事実に向き合って戦後を生きたのだろう。この樋口の誠実さと責任感の強さは、彼の部屋に飾られていた1枚のアッツ島の水彩画が物語っているように思う。

では、今現在の日本において、樋口のように組織や団体を守るために個を犠牲にするという苦渋の決断をせざるを得ない人たちはいるのだろうか。私はいると思う。生と死が隣り合わせの過去の戦時と、そうではない現在の平時という状況に格段の違いこそあれ、犠牲を伴う決断を迫られているのは、このコロナ禍で不況に陥り、人員整理というリストラを余儀なくされている企業の経営者ではないかと思うのだ。日本では、1年半余り続くコロナ禍で緊急事態宣言が幾度と繰り返されている。3密状態の回避をはじめ、外出や移動が制限される中、外食産業や観光産業などで事業規模の縮小を迫られる企業の数は膨大だ。その中には、コロナ禍でなければ、リストラなどあり得ない企業もあるだろうし、また、リストラの対象になどならない従業員の雇止めを会社存続のために苦渋の決断をせざるを得ない経営者たちも多くいるはずだ。従業員を身近に感じる中小零細企業ならなおさらだ。それら経営者の心境はいかなるものなのか。これは、経営者の心境を大袈裟に語っているわけではない。なぜならば、このコロナ禍において長らく減少を続けていた自殺者数が増加した、そして、その中にはコロナ禍のリストラで経済苦になり自殺に追い込まれた人たちが、中小零細企業で働いていたという事実があるからだ。

私も零細企業の経営者として、もしも上述したような苦境に立たされれば、会社存続のため、最大可能な従業員の雇用を続けるために、リストラという犠牲を伴う決断を下すはずである。その時に、私はどのような心境になるのだろうか。願わくは、樋口季一郎のように犠牲となった人たちに思いを馳せることのできる誠実さと責任感を兼ね備えた人間になっていたいものである。

~終わり~
 
投稿者 msykmt 日時 
"死ぬときに後悔しないよう自分で決める"

本書は、旧陸軍における中将、樋口季一郎氏がどのような経緯で諸々の決断を下したのか、そして、その決断がその後の歴史にどのような影響をあたえたのかを物語る評伝である。

本書を読んだことにより、私は次のような考え方を強めた。それは、自分の身にふりかかってくるあらゆる物事において、とりうる対策の選択肢が複数ある場合に、そのうちどれを選ぶのか。それを、そのときの状況に流されずに、自分の意志を立ち上げた上で、決めること。そのことが、死ぬときに後悔しないようにするために大切である、ということだ。

なぜ死ぬときに後悔しないようにするために自分で決めることが大切であるのか。それは、自分で決めることにより、どんな結果になろうとも、納得感を得られるからだ。そして、納得感を得られるから、死ぬときに後悔しないのだ。どういうことなのか、樋口氏の人生にあてはめてみるとよくわかる。彼は、まわりの人の意見や、まわりの空気感といった状況に流されずに、自分の信念や自分の知見にしたがって物事を決断した上で、行動を起こした。そして、それによって引き起こされた結果がどうであれ、その結果を正面から受けとめた。なぜ受けとめられるかというと、自分で決めたことによるものだから、その結果については納得せざるを得ないからだ。

一方で、どれかを選ぶ、つまり、どれかに決めるということは、選ばなかった他の選択肢を切り捨てるということだ。そして、他の選択肢を選んだほうが、よりよき結果になる可能性がある。だから、どれを選んだほうがよりよいのかが不確実であるうちは、どれかに決めてしまうことは、必ずしも好ましいとはいえない。そう異を唱える声もあるだろう。

たとえば、いままさに我々にふりかかっている物事でいうと、新型コロナのワクチンを打つのか打たないか、という選択がある。この例を、私自身をあてはめると、新型コロナに感染したら統計的に重症化しやすい年代であるから、私は打つという選択をした。一方で、私と同年代である、ある同僚からは、本気でそのようなことを言っているのか疑わしさがぬぐえないものの、このような話をきいた。それは、ワクチンを打つと妊娠に悪影響が出るなどの好ましくない影響が出る可能性がある、と彼の娘が、彼女の通う高校の同級生から伝え聞いてきたのだという。だから、それをもって、ワクチンを打つのか打たないかという選択を、彼を含めた家族全員は保留したのだという。

しかし、そのような態度であっては、悪しき結果になったときに、納得できないと思うのだ。なぜならば、自分で決めていないから。もっというと、そのようにデータを自分で調べようとせずに、まわりの状況や雰囲気にゆだねるなどといった、成り行きに任せる態度は、理性の発達した人間らしい生き方ではない。だから、どのような結果になろうとも納得できるように、そして最終的には死ぬときに後悔しないように、自分で決めることが大切なのだ。

次に、樋口氏が自身の決断により、どのような結果になろうとも、本人としては納得しているように見受けられた事例を三つ述べる。まず、満州におけるユダヤ難民の救済劇、オトポール事件の断だ。この事件では、ドイツと日本は防共協定を結んでいる上に、陸軍内においては親独派主流という状況において、それに反するように、樋口氏は満州へのユダヤ難民受け入れを決めている。その結果、日本はドイツから抗議を受けたり、樋口氏はユダヤ人からの称賛を得たりする。一方で、本人としては誇らしい行動であったと自負していたことが樋口氏の孫の証言からわかるから、本人としては納得していたのはあきらかだ。次に、アッツ島玉砕の断である。このときの大本営の下達に対して、樋口氏は唯々諾々としたがうのではなく、キスカ島撤退にかかる海軍の全面協力という譲歩を引き出している。その結果、初の玉砕戦司令官という汚名を自身が背負ったり、キスカ島撤退成功が後の防衛戦への兵力確保につながったりする。一方で、本人としてはキスカ島撤退を成功に導いた少将を呼び寄せ、謝意を述べ、言祝いでいる。このことから、アッツ島玉砕で失ったものもは少なくないものの、その結果については納得しているようだ。さいごに、占守島の戦いの断である。これは、大本営からの戦闘停止命令が出ている状況下で、ソ連の侵攻に対して、徹底抗戦の断を下したものである。その結果、戦後ソ連から戦犯の指名を受けたり、スターリンの北海道侵攻作戦を阻止することにつながったりする。一方で、本人としては当たり前のことをしたまでという風情で、その武勲を誇ることなく、戦後はつつましく暮らし、家族に囲まれ、つつましく死んでいる。このことは、樋口氏が自身の生を、いいかえると自身の決断や行動の結果すべてを納得した上で、これでよかったのだと、己の生をまっとうしきったことを示す証左であるように私にはうつるのだ。

したがって、本書を読んだことによって、自分で決めることが死ぬときに後悔しないようにするために大切である、という考えを私は強めた。だから、自分の身にふりかかってくるあらゆる物事についてどうするのかを自分で決める、ということを私は決めた。
 
投稿者 Terucchi 日時 
世の中の出来事は「善悪不二」である。

この本の主人公である樋口が好んだ言葉がこの「善悪不二」の言葉だったと言う。意味は、「世の中には絶対の善もなく、絶対の悪もない。善悪は相関的なものである(p252)」である。彼もまた、戦争によって振り回された人間である。この本を読んで、私なりに戦争の善悪について考えてみたことについて書いてみたい。

まず、戦争時において、人を殺すことは善なのか悪なのか。今の平和な世の中では、当然、悪である。しかし、戦争時のような非常事態であれば、人を殺さなければ生きていけない。なぜなら、やらなければやられるからだ。ここで、私は、チャップリンの映画「殺人狂時代」の言葉を思い出す。「1人を殺せば犯罪者だが、100万人殺すと英雄になる。」とういう言葉である。今の世の中では人を一人でも殺すと、当然、殺人犯として罰せられる。しかし、人類の歴史を見てみると、一人どころか、多くの人を殺して国が成り立っているのである。〇〇国や〇〇王朝の時代など、まさしく多くの人間を殺した結果であり、その国の力の強さとなっていることを歴史が証明しているのである。その時に戦争反対と言っても理解されないであろう。戦争というものは、如何に考え方の善悪を変えてしまうものか。「善悪不二」という言葉もまさしく同じであろう。樋口は戦争時代では、人を殺すことを正しい、日本のためであるり、戦争は善だという考えだったはずが、戦後になっては、戦争は悪であり、日本のためではなかった、と世論が全くの正反対となってしまったことを経験している。戦争中はあれほど戦争を正しいと信じて戦ったものが、戦後になって悪だったということは、体験者としては割り切ることが大変だと想像するのである。

次に、宗教的観点で考えてみたい。昔テレビで、日本でイスラム教徒の人が財布を拾った時に自分のものにした話(小事件)があり、これについての世界三大宗教のそれぞれでは解釈の違いがあるという話があった。当時、私は周りのみんなで話し合い、宗教が変わるとここまで考え方が変わるものかと思わされた。話の内容は次の通りである。もし、財布が目の前に落ちている場合、仏教、キリスト教、イスラム教ではどのように考えるか。まず、仏教徒の場合は、相手のことを考える。もし自分だったら困るから、相手も困っているはずだと想像し、ではどうしたら良いかと考えるのである。だから、日本人の場合は交番に届けようとなるのである。次に、キリスト教徒の場合は、自分が神に試されている、と考えるのだそうだ。目の前の財布を持っていくのは悪いことだと認識しており、その目の前に落ちた財布は悪の道の誘いであり、その誘いに乗ってしまうのかどうか、心の弱さを神が試していると考えるのであるとのことだった。なるほど、会社関係で出会ったキリスト教徒は、神の前で自分が正しい行動を取っているのかどうかをいつも考えている、と話していて、納得したのであった。では、今回のようにイスラム教の場合はどうだったのか。このイスラム教徒は、目の前の落ちている財布は、神が与えたものだと、答えた。神がもらっても良いと言っているから、自分のものにしたという話であった。この時、もちろん、本人は悪いとは全然思っていないし、落とした相手も困っているとも思っていないのである。その後、警察がこのイスラム教徒に返すことを求めた時、初めは神から与えられたものだとして返すことをしなかったが、時間が経ってから結局返した。なぜ、当初返すのを嫌がっていたにも関わらず、返すことになったのか。その時の言葉は、神から返すようにお告げがあったから返すのである、と回答したと言う。初めに持って行ったのも、今返そうとするのも、神のお告げであり、全て神の意志である、とのことである。とても日本人にはその考えが理解できないと思った。当時、みんなで話し合って、同じくみんなも理解ができないと話した。しかし、イスラム教徒にとっては、当然のことなのであった。イスラム教徒の言う聖戦(ジ・ハード)ということも、信じる人から見れば当たり前のことなのであろう。日本人には理解できなくても、宗教によっては、正しいことが全く違ってくるのである。キリスト教でもそうだが、神という存在を常に意識して、神という存在が絶対であるものだということが日本人には理解できないのかも知れない。今回の樋口のオトポールにおいて、ユダヤ人を助けたのは、ただ相手がかわいそうとを思い、素直に助けただけであると、私は考える。所謂、慈悲の心であり、私がこのように考えるのも日本人であり、仏教的な考えなのだからかも知れない。平和な時でさえ、善悪の考え方で違いがあるのに、ましてや戦争のような非常時では、尚更、善悪というものが一概に決めることができないものだと私は考えるのである。

最後に、私は樋口がこの戦争についての是非を、善悪不二として、割り切っていると考える。しかし、いくら善悪の価値観が変わっても、人を死なせてしまった事実や死んだ人間も帰ってはこないという事実も変わらず、辛さを噛みしめていたであろう。私は、この戦争を肯定せざるを得なかったかも知れないが、これを教訓として、今後は戦争のない平和な世の中を願う次第である。
 
投稿者 str 日時 
指揮官の決断 満州とアッツの将軍

戦争である以上、双方どちらにも流血は避けられないだろう。“死んでしまえばそれまで“だとしても、どのみち避けられない運命であるならば、兵士を駒として扱うような指揮官ではなく、樋口季一郎氏のような指揮官を持ったことで、いくらか死者の魂も浮かばれるのではないか。

勤勉で数々の配属先へ赴いているにも関わらず責務を果たし、国からの役目、自らの立場もある中で尚、誠実さを忘れず独断で行動に移すことができる意志の強さもある。それでいて家族に対する接し方、家族しか知らない素顔もあったりして、唯々凄い人という感想を持った。

樋口氏の場合は自らの持つ知恵と、自らが持つ権限で出来る範疇で一人でも多くの人を救うことを厭わない。“自分のできる範囲で、できるだけのことを”実に合理的且つ現実的ではあるが、自分の身も立場も絶対安全とは言えぬ状況下で実際に行動に移せる人が果たしてどれほどいるのだろうか。まさしくリーダーとは、リーダーの素質とはどうあるべきかを、まざまざと見せられた気がした。

強力な統率力で圧倒的な戦果を上げた。というのも優秀な指揮官としての一つの形であることは間違いないだろうし、後に英雄として称えられるものなのかもしれないが、個人的には弱者にも手を差し伸べ、信念を貫き通した樋口季一郎という指揮官を称賛したい。
 
投稿者 mahoro 日時 
『指揮官の決断/満州とアッツの将軍 樋口季一郎』(文春新書)を読んで

この本を読んで感じたことは、自分の職務において職責を果たすことの大切さと、同時にそれを実行することの難しさである。職務を遂行するうえで、職責を果たすことは当然のことであるが、「自分の職責において、いま何をすべきなのか」について、本質的なレベルで正しく認識することは、意外に難しいことがある。

とりわけ、組織のなかで働いている場合には、なおさら難しくなるだろう。
なぜなら、本質的なレベルで職責を果たすことは、時としてその組織の表面的な利害と相反する判断をしたり、行動をとったりすることが必要になる場合もあるからだ。

ともすれば人は、自分にとって有利だったり、精神的な負担が少ない行動を選んでしまう。
そのため、組織の利害を自分の利害と同一化してしまうことで、表面的には義務や責任を果たしているようにみえるが、状況に流されているだけで、本当の意味での職責を果たしているとはいえない状態になってしまうことが多い。

もちろん、どのような場面においても本質を認識するためには、自分や自分の置かれた状況を正しくメタ認知できるだけの知性が必要である。「正しい行動」をするためには、まずは「鋭い知性」が必要なのだろう。

自分の職責を正しく認識できる鋭い知性の持ち主が、勇気をもってその職責を果たそうとすれば、組織のなかにいながらどれだけのことが成し遂げられるのかについての、具体的な事例ともいえるのが、この伝記本で紹介されている樋口季一郎の一連の行為である。

ナチスの迫害に追われて当時のソ連を経由して逃げてきたユダヤ人の難民に対して、これも当時の満州国を動かす形で入国ビザを発給して受け入れたことや、アッツ島での「玉砕」を断腸の思いで引き受けることと引き換えに、キスカ島から撤収の承諾を取り付け、その撤退戦を完遂したこと、そしてポツダム宣言受諾後に占守島(しゅむしゅとう)に侵攻してきたソ連軍との戦闘を指揮して、敵側に相応のダメージを与えたこと、そのいずれの行為も本質的な意味での自分の職責について真摯に向き合い、行動した結果だと思う。

そして本質的な意味で職責を果たすことは、自分のことより他人のことを優先することになるので、必然的に利他の精神につながってゆくことに気がついた。さらにその利他の精神による行為が、窮地に陥ったときに自らを助けてくれることは、占守島での戦闘がきっかけでソ連から戦争犯罪人として訴追されそうになった樋口について、戦時に入国ビザを発給してもらったことで恩義を感じていたユダヤ人たちが、様々なルートを通じて働きかけた結果、訴追を免れることができたことからも理解できた。

日本側が善戦した占守島での戦闘にはキスカ島からの「撤収組」の将兵も多く含まれていたという。この本には書かれてはいないから想像の域を出ないが、占守島での戦いで日本側が善戦できたのは、指揮官の意気に感じていた将兵が多く、士気が高かったからかもしれない。

知性と勇気、そして利他の精神が「知られざる歴史的な偉業」をもたらしたことを知ることができたのは、この本から得られた大きな収穫だった。
 
投稿者 3338 日時 
名将と士気の高い兵卒

読み終わって心に残っている想いが二つある。

一つは樋口中将は稀に見る名将であるということ。

樋口中将はどこまで行っても知将のイメージがある。ユダヤ人のために奔走したときも、汪兆銘工作の時もアッツ島玉砕の時も、そこから最大の効果引き出すための戦略を、念頭において行動しているように見える。アッツ島の放棄の際に、キスカ島の撤退の協力を取り付けるあたりも、常に状況を分析し、交渉を試み最大の効果を上げている。感情に溺れず状況を見極めて、手持ちの駒でどれだけの成果を挙げられるかを考えられる司令官は、ほとんどいない。司令官としては一流だと思う。

中国では司令官を育てるときに、大きな盤面で対局をしながら戦いを学んだと言われている。ところがいくらこの対局が強くても、実戦で役に立たない司令官がいるという。実際に駒ではなく人を動かして戦う局面では、冷静さを欠き対戦の流れを読むことができず、負けてしまうようだ。5人いればまともに実戦で戦える司令官は1人とも言われている。

では、樋口中将は感情の無い人なのかと言えば、全く逆でむしろ情に厚く、人の道を弁え人に対しては公明正大な態度で接し、家族や友人にも当時としては珍しいくらいに愛情深い為人であった。しかも、頭脳明晰で人品卑しからぬ佇まいの人であったようだ。

その樋口中将がアッツ島の放棄を通達した時は、断腸の想いだったに違いない。それでもその後精神を病むことが無かったのは、それが最善の策であったと確信していたからだと思われる。考えに考えて、あの状況であれ以上の策は無かったことを、誰よりもよく弁えていたから、全くブレることが無い為人を心から尊敬する。

今一つは、p190の返電「戦さする身…」を読んで、これはどんな心境で発せられた言葉なのかと考えた。何度も何度も読むが、少なくとも強がりや痩せ我慢には思えない。最後に残った言葉は「美学」に尽きた。

もともと美学とは人間の経験に根ざしたものであった。と言っても美学はあらゆる人間がいろいろと定義づけしている。崇高が痛みであるというバークの本が印象的だった。美意識が経験に根ざすという考え方に、大きな変化を与えたのはカントでだった。カントは、美は我々の認識対象としての事物の中にあるのではなく、ある事物を美しいと判断する人間の「認識能力の働き」の中に美の根拠があると考えた。私がに山崎大佐のこの言葉に美学を感じたのは、私の認識にそう言ったものを美学と感じる根拠があるからということになる。

なるほど私は、死から逃れられないなら、そこに意義見出そうとするのは本能だと考える。例えば、死地に赴いて尚、人は死にたいはずがない。生きて帰ることができないと覚悟を決めたとしても、心の底では死にたいとは思わない筈だ。死にたくないと思っても、死を覚悟するような状況では、死ぬことに意義を見い出す以外に己を生かす方法は無い。

口に出すのは国のため!しかし心の中では君のため、家族のため、自分の守りたいもののため。だから死んでも悔いは残らない、死して尚君を守る、家族を守る自分の信義を守る。その想いがあれば、全てを諦めて死んでいける。そんな想いを抱いて、どれだけの人間が戦場の露と消えたことか。そして、その何倍もの家族がその想いを知りながら、父を夫を息子を送り出した。大きな運命の輪に絡め取られて、身動きができず大事な人を失っても、生きていかなければならなかった。「君が今生きているのは、誰かが生きたかった明日」その想いを胸に生きている者のために生きるのもまた「美学」ではないかと思う。

もし、樋口中将のような冷静な司令官が、山崎大佐のように死地を見つけた兵卒を率いて戦ったら、普通なら勝利できたと考える。勝てなかったのは間違っていたから。必死にやり繰りしても、間に合わないほど物資が足りず、補給戦も確保できない状態で戦ったからに他ならない。全て準備万全に整えて戦争を始めても、状況の変化に対応できずに敗北することもあるのに、あまりに見通しが甘く、現場や戦況を軽視した戦争であった。

戦後世の中は変わり、今また時代が変わろうとしている。先の大戦の評価がどうであろうと、渦中に生きた人たちは、ただ必死に生きて来ただけ。この時代の変化がどうなろうと、今渦中に生きている私もただ必死に生きていくだけ。ちょっと違うのは去年あたりから、なんとなく時代の流れが見えるような気がすること。勘違いでもそれがけっこう必要ではないかと思った。
 
投稿者 masa3843 日時 
本書は、日本陸軍の軍人で、1938年にナチスの迫害から逃れてきた多くのユダヤ人難民を救った、樋口季一郎の生涯を記したノンフィクションである。本書の要諦は、タイトルにもある通り、樋口の卓越した決断力にある。オトポール事件でユダヤ人難民を救った決断以外にも、第二次世界大戦中の1943年には、キスカ島撤退において樋口の決断力が多くの命を救った。どちらのケースにおいても、樋口の置かれた状況は厳しく困難なものであった。樋口は、日本陸軍という強固なピラミッド組織に身を置き、制約条件のある中で、多くの命を左右する決断を迫られたのである。こうした困難な状況の中で、樋口はどのようにして難しい決断を下したのか。樋口の決断の困難さを掘り下げてみることで、優れた決断とは何なのか考えてみたい。

まず、オトポール事件における決断の難しさ、それは自身が処分されるかもしれないという恐怖心との葛藤である。満州のハルビン特務機関長であった樋口は、人道上の措置としてユダヤ人難民を受け入れる決断をしたが、当時の日本は対ソ連の防共協定をドイツと結んでおり、ドイツの国策に反するユダヤ人難民受け入れは、ドイツはもとより日本の首脳からも大きな反感を買う可能性があった。そのため、部下の中には、樋口の立場を慮り自重を促す者がいたほどである。実際に、オトポール事件後ドイツから日本政府に対して公式の抗議書が届けられており、外務省や陸軍省から樋口の独断が問題視されることになった。関東軍内における立場も厳しくなる中で、樋口は司令官である植田大将に自身の正しさを主張する書簡を送り、東條参謀長に対しても難民受け入れの正当性を強調。その堂々とした樋口の弁明からは、自己保身の念を微塵も感じることはできない。厳しい上下関係が存在する軍隊組織において、例え人道的な問題であれ、上司に正論をもって反論することは難しかったに違いない。しかしながら、自身の決断の正しさを信じた樋口は、これまで築き上げた地位を失うかもしれないという恐怖心に打ち克ち、優れた決断を下すことができたのである。

次に、キスカ島撤退における決断の難しさ、それは多くの命を救うために犠牲となる命が存在したことである。一般的に、決断することは何かを捨てることであると言われるが、キスカ島撤退においては、上層部からの命令とはいえ、アッツ島に残る部下の命を見捨てることが要求されたのだ。ここで樋口は、アッツ島を見殺しにする交換条件として、キスカ島の即時撤退を認めるよう上層部に迫った。かつてオトポールの地で、自らを危険に晒してまで多くのユダヤ人の命を救った樋口である。自身の命が惜しくて、アッツ島の部下を見殺しにしてキスカ島撤退を進言したわけではあるまい。アッツ島の命を諦めることで、より多くのキスカ島の命を救う決断をしたのである。樋口でなければ、部下を見殺しにして敵前逃亡する不名誉を良しとせず、感情的に玉砕する道を選んだ者もいたのではないだろうか。より多くの命を救うため、涙を流して全体最適を選んだ樋口の決断は、オトポール事件以上に難しいものであったと言えるだろう。

翻って、現代日本の決断力はどうであろうか。新型コロナウイルスの対策として実行された数々の政策は、決断力があったとは言い難い。自己保身という面では、2020年の感染拡大初期の段階で、日本の対コロナ病床の少なさを指摘する声は一定程度存在していたが、政府自民党の大票田である医師会の不利益になるという理由から、病床を増やすための抜本的な対策が打たれることはなかった。コロナ発生から1年以上が経過し、デルタ株蔓延によって感染者が急増し始めた最近になってようやく、医療機関にコロナ病床を確保するよう要請する始末であり、しかも強制的なものではない。政府が保身に走っていることで、有効な対策が実行できていないと思われても仕方ないだろう。また、何かを「捨てる」ほどの思い切った決断ができていたかといえば、それも否である。政府は、感染が拡大すると、緊急事態宣言やまん延防止措置といった法的強制力のない中途半端で安易な自粛要請に終始。「感染拡大防止と経済の両立を図る」と言えば聞こえは良いが、要するに大きな批判を受けにくい無難な対策でその場しのぎを繰り返してきたに過ぎない。経済を諦めて都市封鎖をするわけでもなく、ワクチン接種を強力に押し進め、ある程度の感染増加を許容して経済活動を継続するわけでもない。こうした中途半端で安易な決断は、政府に限らず日本の大企業でも多く見られる悪弊ではないだろうか。今こそ、樋口季一郎のように、自己保身に走らず、リスクや批判を恐れない毅然とした決断が求められており、こうした決断力こそが、これから組織のリーダーを担う日本人が誰しも持たなければいけない能力であろうと思う。

今月も素晴らしい本を紹介してくださり、ありがとうございました。
 
投稿者 vastos2000 日時 
私は本書を読んで樋口季一郞を知った。当時の日本軍の将校の中で、樋口のようにバランス感覚があり、自分の信念を貫いた人物は少ないのではないだろうか(当時の軍部では、自分の信念を通すと出世できなかったのはないだろうか)。
当時の陸軍は陸大時代の成績が大きく出世に影響していたので、官僚的な色が強かったのであろうと思う。勉強ができることと、人格を備えていることは直接関係しないのはある程度の年齢の方ならご存じのことだろう(もちろん両方を兼ね備えている人はいる)。サンプル数が少なくて恐縮だが、私が直接知る範囲(主に大学とIT業界)の高学歴の代表、東大ないし京大卒の方々は、社会不適合な面が強く出ていたり、エキセントリックな性格であったり、県内のとある地域のある業界で悪名を広く知られていたりする。
樋口は東京帝大よりも難しいと言われた陸大を出ているのだから、もちろん勉強はできただろうし、努力もしたのだろう。卒業後も東京外大に通ってロシア語を勉強している。それにも関わらず(←この接続詞を用いるが正しいのか?)、私は樋口が人格を備え且つバランス感覚を失っていない人物であると感じた。

本書のタイトルは『指揮官の決断』であるので、オトポール事件とアッツ島・キスカ島の戦いを念頭に置かれているだろうと推測するが、キスカ島の撤退戦はもちろん、第六章の占守島の防衛戦はもっと日本人に知られて良いのではないかと思った。
私は勉強不足のためか、「キスカ島」の名前は聞いたことがあってもどこにある島かは知らなかった。占守島に至っては本書で初めてその存在を知った。Googleマップで調べてみると、キスカ島とアッツ島は本土から遠く離れたアリューシャン列島の西端あたりにあり、占守島は千島列島の北端にあった。(正直、日本の国力でよくここまで戦線を拡大したなぁと思った)


まずはキスカ島の撤退戦だが、樋口は撤退に際して、兵士達に武器や弾薬の放棄を許可した。これが後日、大本営において議論を呼ぶことになったそうだから、当時の常識ではこの判断は下し難いものだったのだろう。
武器や弾薬は材料があれば同じ性能のものが量産可能だ。それに対して人間は皆が異なり、同じ人間はいない。それ故か、戦争のない時代を生きる私の感覚では、三八式歩兵銃を含む各種兵器を「命にかけても手放すな」と言う(p203)のは違和感を覚える。
私は、道徳的な面でも、戦力的な面でも武器や弾薬などのモノよりも兵士の命の方が貴重だろうと思う。兵士が死んで武器だけ残したら敵を利することになってしまう。それよりは兵士を生かして別の部隊と合流させて任に就ける方が国益に適うと考える。
『大空のサムライ』でも、熟練パイロットが零戦の防御力の低さとその運用思想故に次々と命を落としていくのに対し、アメリカ軍はパイロットの命を救う策がとられていた描写があるが、私もアメリカ軍と同じく後者のほうが勝利の確率が高まると考える。戦争に勝利するという目的を達成するために、合理的に作戦を立て、年功序列ではなく実力主義をとったアメリカが勝利したのは、後から振り返れば当然だろう。


キスカ島の撤退戦とは異なる面で私の印象にのこったのが、占守島の防衛戦だ。
この戦闘に於いては、ソ連は8月18日の一日で一気呵成に占守島を攻略するつもりであったらしいが、第九十一師団がよく戦い、ソ連側に多くの犠牲を出し、21日に停戦成立に持ち込んでいる。
もしもここでソ連のもくろみ通り一日で占守島を陥落されていたら、そのままの勢いで千島列島を南下し、北海道までソ連軍が到達していたかもしれない。なにしろソ連はアメリカよりも日本に近いのだから。
事実、スターリンはトルーマンに対して北海道の半分を要望していたという。占守島で踏ん張っていなかったら、シベリア抑留や北方四島の占領どころでは済まず、ドイツや朝鮮半島のように、北海道の北半分が共産圏になるということもあり得たのではないだろうか。
これを防いだ(と私が感じる)占守島の戦いで、樋口は直接指揮を執ったわけでは無いが、ソ連に対する警戒心を持ち続けていたことが防衛に大きく影響したのではないだろうか。『樋口季一郎回想録』によると、樋口は中央部の考えとは大変異なる「第一に対米作戦準備 第二に対露(ソ連)作戦準備」という信念を師団長連に伝えていたとある。
ソ連に対する警戒を敗戦確定(8月15日)後も切らさなかった樋口のファインプレーではないだろうか。


中央と現場では見ている風景が異なるという要素もあるだろうが、樋口は与えられたポジションで、自分にできることを精一杯やっていたように感じる。新聞班だったときはイマイチ実力を発揮できなかったようだが、他のポジションでは活躍している。
意に沿わぬ異動は少なかったようだが、活躍する場を与えられたのは、その前の持ち場で力を尽くしたからではないだろうか。

私自身の話になるが、自分では向いていないと感じる部署に異動となってから、気が晴れない日々を送っていたが、先週の通勤途中、突然に「今の仕事を頑張ろう」という気持ちになった。これは、本書を通じ樋口季一郎中将を知ったことが影響しているのかもしれない。
どういう事かと言うと、置かれたポジションで頑張っていれば、誰かが見ていて、また誰かが恩を感じ、その結果、思わぬところから応援波動が届く場合もあると知れた事だ。
本書のケースと私とではスケールが違うが、近しい人達のため、そして自分のために、まずは今の仕事に全力で取り組もうという気持ちになれた一冊だった。
 
投稿者 daniel3 日時 
 日本では幼少期から「戦争は良くないものであり」、「平和の大切さ」を繰り返し教えてくれている。そのこと自体はとても素晴らしいことであると思いますが、その反動として、かつての私も含め現代の人は、「軍人」という職業についてある種の先入観があるように思います。それは「軍人」は人を殺し、戦争に勝つことをその職務としているため、現代の我々とは一線を画す、暴力的で、残虐な人であったということです。しかし本書を通して描かれる樋口季一郎の姿は、そういった先入観とはかけ離れているように思えました。もちろん、軍人にも様々な考え方をもった方がいたと思いますが、本書で描かれる樋口季一郎の生涯からは、現代の我々も見習うべきことが多いと思いました。大きく2点に分けて述べたいと思います。

(1)軍人という職業、状況や立場に染まらない姿勢
 樋口季一郎は幼少期から秀才の誉れ高く、陸軍士官学校を経て陸軍大学校に入学するエリート将校でした。各種外国語も堪能であり、情報士官として最終的には中将まで上り詰めます。戦闘の現場からは離れて指揮をする立場にいたと思われますが、一歩間違えれば命の危険がある職業です。その重圧は我々の想像を遥かに超えるものと予想されます。しかし本書を通して周囲の人から知ることができる樋口の父親や祖父としての姿は、穏やかで、優しさをもった人柄であるように読み取れます。過大なプレッシャーがありながらも、穏やかさを併せ持つ樋口の心の保ち方はどのようなものであったのでしょうか?あくまで推測ですが、樋口は「軍人」という職業に対して、ある一定の距離感を保ち、第三者視点で取り組んでいたように思います。これは、周囲の将校が、過激な思想に走りがちな当時の状況においても、あくまで中立的な立場を保ち続けたところからも見てとれます。この職業との距離感を保ち続けれたからこそ、オトポール事件で自身の立場が危うくなるにも関わらずユダヤ人を救出する決断ができたのだと考えました。

(2)大局観と決断
 第二次世界大戦での日本の戦闘といえば、沖縄などをはじめとする南方戦線での激しい戦闘を思い浮かべます。しかし、アッツ島のような北方においても激しい戦闘があったのを初めて知りました(あらゆる方向から攻め込むのは戦略的には当たり前だと、改めて考えれば思いますが)。
南方戦線各地の損害のため、樋口を含む北方戦線では乏しい人員での戦いを強いられます。樋口は、その後の戦局をある程度予見できていたようですが、十分な戦力を調達できず、結果的にアッツ島の90%以上の人員を失う状況に陥ってしまいます。冷静さを保てない将校であれば、状況に飲まれて悲観的になったりするところかもしれません。しかし樋口は苦渋の決断として、すぐに残存兵力があるキスカ島の撤退戦を進言します。すぐに思考を切り替えて手を打ったことや、絶妙なタイミングでの霧の発生、敵の誤爆など複数の幸運が重なり、キスカ島では完璧な撤収を成功させます。気持ちを保ちつづ的確な判断を下すところにも、第三者視点が遺憾なく発揮されていると思いました。口で言うのは簡単ですが、人命がかかっている場面において、状況に飲まれずに心を保つことは、至難の業だと思います。

以上のことから、職業は違えど樋口がその生涯で行ってきた決断は、現代の私たちも見習うべきところが大いにあると思います。樋口季一郎の100分1でもその姿勢を見習うことができれば、生ぬるい現代のビジネスにおいて、抜きんでた成果を出すことができるのは間違いないでしょう。樋口季一郎氏をはじめ、今日の平和な日本へと導いてくださった偉大なご先祖様に思いを馳せた8月の読書でした。
 
投稿者 akiko3 日時 
人生は決断の連続だ。

1つの決断もたった一つの理由だけではないし、起こる現象も単純なものではない。
それでも、樋口氏は数々の英断を下している。
著者はそのことを「ギリギリの決断を迫られた時、人間は選択肢の界面の上で、より本能的な存在へと収斂されていくのかもしれない」と記している。

では、この本能的な存在とは何なのか?
樋口氏の人生を読んでいるとあらゆるエピソードで人徳や魅力を感じた。
・ 少尉時代、小休止をとったのは自分が疲れていたから皆も疲れただろうと思って
・ 駐在武官時代の海外生活で複眼的な視点を得て、視野を広め、より懐の深い世界観を養えている。これはもともとの柔軟でバランス感覚の良さを補強することだ。
・ 海外生活で人種差別を受け、ユダヤ人に助けられた経験や社交界で人脈を広げる中、一個人として人とどう向き合うべきか身に染みたのだろう。
・ オトポール事件では、近しい困っている人を助けたいという自分の良心に従った。
・ アッツ島玉砕での決断は、少しでも命を無駄にしない益を考え、撤退に全力を注いだ。その後、アッツ島玉砕の慰霊碑を作り、慰霊祭にも足を運び、遺族に詫びている。

これらに共通しているのは”良心”だと思っていたら、「日本人はりんごの実まで…」と言われることは『武士道』に反すると子をたしなめており、『武士道』か!と腑に落ちた。

とはいえ、武士道とは…ぼんやりとした感覚でしかとらえておらず、改めて調べてみた。
・ 人として必ず守らなければならない“義”正義
・ “義”に裏打ちされた行動である“勇”(勇気には動じない平常心も含まれる)
・ “礼”他者の喜びや悲しみを自分のことのように感じる能力
そして、盲点だった”最善の勝利は血を流さずに得た勝利である“という格言。

樋口氏の本能的な存在とは武士道だったと考えた。

それから、著者は、樋口氏は時代が戦時でなければ芸術の世界で才能を発揮していたかもしれないので、アールデコという言葉が一般化し、世界中に広がるヨーロッパの空気を直接吸えたことは、人生にとって大きな収穫であったろうと書いていた。
私はこのことは単純に、氏が芸術的な刺激を受けたということだけでなく、その前のアールヌーボ―と真逆の実用的、合理的、幾何学的なアールデコが流行るというその価値観の変化が大きく影響を与え、氏の判断力の刺激にもなっていると思ったし、ヨーロッパ人がアジア人を差別していることを肌で知っていただけに、アールデコが日本的な幾何学美意識だということも差別意識への変化も予感したのではなかろうか?
ちなみに、この頃のヨーロッパでの不安の裏返しが芸術運動の勃興という現象になっているのも興味深く、近代都市生活へと時代が変わる中で、価値観や美が真逆になったのだ。
この変化をイメージした時に太極図が浮かんだ。

この太極図的な考え方は、樋口氏の中にもあると感じた。
なぜなら、部下の相沢に自分の方針を理解させたが、東京に行くと北氏の指導力が強力であった為、動揺し、台湾行きも重なり事件になった。上司の自分と革命家北氏の積極・消極、攻勢守勢の威力的差異の問題でもあると考え、事件の責任を取ろうともしていた。
そして、そんな相沢の家庭人としての良さも知っているから、考えは相反しても家族付き合いをし、部下としての生末を熟考したのだと思う。

また、駐在武官として複眼的な視点を得て、視野を広め、より懐の深い世界観を持つバランスのよさも太極図的なものの現れだろう。駐在武官の中には、自らの方向性を偏狭な愛国心に収斂させるものも少なくなかったようだから…。

最後に、「第一次世界大戦後の国家間の戦争において、どちらか一方が加害国で、一方が被害国であるなどということはありえず、その割合の差異はあるにせよ、国家間の相互的な関係性の中において発生するものである」と樋口氏は言っていた。
インテリジェンスとしての氏の有能ぶりは、いまだにどこかで起こっている戦争や紛争で証明されるのも複雑な心境である。
 
投稿者 sikakaka2005 日時 
課題図書を読んで印象的だった点が2つある。

1点目は、戦後、樋口がソ連に収監されそうになった際に、ユダヤ人の団体がそれを食い止めたことである。まるで、映画のクライマックスのようだった。点と点がきれいにつながり、ストーリーが回収されて、とても感動した。思わず、本を閉じて天井を見上げてしまった。

感動した理由として、樋口のユダヤ人に対する決断が私にとってカッコ良かったことが挙げられる。樋口が満州の所属だったときに、ドイツの包囲網から逃げてきたユダヤ人にビザを発行し、満州鉄道に乗せたことに対して樋口が責任を問われたことがあった。樋口は当然、ユダヤ人にビザを発行すれば、後々に問題になると分かっていたはずである。なぜならば、当時日本はドイツとの親交を深める方針を取っていたからである。ドイツはそのころすでにユダヤ人に対して迫害を始めていた。そんなユダヤ人たちを、日本軍が助けたとなれば、ドイツから日本に対してクレームが入り、内部からも反感が出てくることは樋口は容易に想像できたはずである。

そうと分かっていながらも、目の前で困っているユダヤ人を助けるために、自らの判断でビザを発行して、結果的に逃したことは、誰にでもできる決断ではないだろう。少なくとも、私が同じ立場にいたら、確実にできなかったと断言できる。なぜならば、私のように意志の弱い人間は、組織にいれば、簡単に長いものに巻かれてしまうからである。組織にいればときには、自分の意志と、組織や上司の方針とが異なることがある。そんなときに樋口のように自分の意志を優先して行動できることはとてもクールであると思う。しかし、もし失敗すれば、全ての責任が自分に降ってくる。失敗したら責任問題を問われる。なぜ勝手に判断したのか?なぜその判断で正しいと考えたのか?きっと上司もガバナンスの問題を問われるだろう。成果評価は最低になるかもしれない。勝手な行動をする人材として人事評価にバツが付くかもしれない。何より、上司との関係が最悪になるだろう。飛ばされることも覚悟しなければいけない。そんな不幸な未来を考えたら、無理に自分の自分の意志を通すよりも、組織や上司の方針は合わせてしまっておいたほうが、楽だし、面倒なことにならないことを私ならば考えてしまうだろう。しかも、樋口の場合は、責任と問われることはほぼ確定した前提での決断であったから、なおさらである。

だから、そんな私から見て、樋口の決断は輝いて見えたのだ。(東条英機とのやり取りも胸が熱くなったが)。そこまで、軍人としての人生をかけて決断したことが、巡り巡って、数十年後に、当時助けたユダヤ人に樋口が救われたことは、本当に感慨深かった。本書では、キスカ島撤退作戦など読み応えのある箇所が多数あったが、個人的には、ユダヤ人に救われたシーンが、短い文章であったが、心がじんわりと温かい気持ちにさせられた。

2点目は、終戦後のソ連の日本に対する侵攻である。日本がポツダム宣言を受諾して、無条件降伏を受け入れたのにもかからず、ソ連はその後、数週間に渡って、日本に対して、侵攻をやめなかった。ソ連が一方的に戦いを止めず、殺戮を繰り返して、日本の領土を奪ったことは決して許されることではないと思う。当時の資料や証拠が残っているのだから、国際的にも避難されるべきことであると考える。ソ連が一方的に責任を追求されるべき事案であろう。ただ、ここでソ連側の立場になって考えてみたい。なぜ、ソ連はそこまでして日本へ攻めきたのか?将来的に証拠を追えば、ポツダム宣言の受諾後にソ連が日本へ侵攻したことは白日のもとに晒される。国際的に非難されることはソ連も想像できたろう。もしかすると、ソ連がポツダム宣言後に侵攻した島は、没収されるかもしれない。ソ連が賠償責任を問われる可能性もあったかもしれない。戦勝国としての立場が危うくなったかもしれない。

それでもなお、侵攻した理由は何か?それは、独ソ戦による尋常ならぬ被害を受けていたからではないと想像する。昨年か、独ソ戦に関する課題図書を読み、独ソ戦の、特にソ連の被害に度肝を抜かれた。ソ連の死者数は、兵士が約1470万人、民間人を含めると、2000〜3000万人である。日本の死者数は、軍人が約230万人、民間人を含めると310万人であるから、ソ連は第二次世界大戦で考えれば、戦勝国であるにも関わらず、日本の7〜10倍、さらに多くの人が犠牲があったと考えられる。

戦争が終盤に差し掛かったとき、ソ連の上層部は焦っていたのかもしれない。このまま行けば戦勝国になれることは確実である。ただし、戦争の代償はあまりに大きかった。それは国民や兵士も十分に気づいているだろう。もし、戦後に十分な賠償が受け取れなかったら、国はどうなってしまうか。生き残った国民や兵士たちは、この戦争はなんだったんだ、何を得たのだと怒りに震えるかもしれない。国民や兵士が暴徒化して、上層部にいる自分たちの命を狙ってくるかもしれない。それに、国として立ち直れないかもしれない。このまま指をくわえて待っているだけでは悲惨な未来がソ連に待っているかもしれないと考えたかもしれない。

これだけの損害に対する埋め合わせをしなければ、割に合わないし、生き残った国民も兵士も納得しない。ならば、自分たちの手で取り返さないといけないのではないか。自分たちの手で奪い取らないといけないのではないか。自分たちの手で先に賠償分をもらうべきではないかと考えたかもしれない。そこに来て、近場に弱っている日本がいるではない。そう考えた結果、終戦後間際の侵攻につながったのではないと、本書の終盤(ソ連に繰り返し侵攻を受けるシーン)を読んでいて、想像した。

あくまで私の想像であったが、そう考えると、日本とロシアとの領土問題の決着は難しいかもしれない。なぜならば、ロシアには、あまたの兵士や国民の命と引き換えに得た領土であるという認識があるかもしれないからだ。
 
投稿者 M.takahashi 日時 
戦前の陸軍大学校は「陸大に落ちたものが東大に行く」と言われたほどの超難関であり、陸大の出身者で固められた軍の将校も当然とびきり優秀な頭脳が集まっていた。それほどのエリート集団であるはずの帝国陸軍が、特に大戦の末期において顕著だが、素人目にも明らかに無謀な数々の作戦を立案・実行し、多くの将兵の命を無駄に失う結果を招いたことは周知の事実である。しかし、本書で描かれている樋口季一郎という人物はそのような帝国陸軍にあって、その人間性、軍人としての能力とも卓越しているだろう。なぜ樋口氏は本書にあるような数々の優れた判断・決断をし、周囲に流されずにそれを実行することができたのだろうか?そこには樋口氏が生涯を通して芸術や文学に親しんできたことが影響していると考えた。芸術や文学を通して養われる美意識は、理論的には結論を出すことの難しい判断を下す能力や倫理観と強く結びついていると言われている。(「世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか?」参照)

オトポール事件を例に考えても、エリート軍人で将来有望だった樋口氏が、親独派が幅を利かせていた陸軍の空気に反してユダヤ人難民を助けるという決断は、理論的に導かれたものではないだろう。戦後にユダヤ人たちの恩返しで救われたことは結果論であり、オトポール事件の時点では樋口氏に救助することによる個人的な利益はまず考えられなかった。日本の国益を考えていたという可能性は完全な否定はできないものの、自らのキャリアを危険にさらしての無私の決断であったことには変わりない。樋口氏の回想録においても、この決断に至る過程には揺らぎが見られるが、このようなロジックで解決できない問題を扱う時に必要となるのが教養や美意識なのであり、それらを備えた樋口氏だからこそ人道的に正しい決断を行えたのだろう。

また、戦時中は鬼畜米英などと言い、敵国の捕虜を虐げていた部隊も少なくないようだが、樋口氏は公正かつ温情ある態度で扱っていた。なお、同じく捕虜を丁重に扱ったことで知られる陸軍大将の今村均も教養に富んだ人物だったという。捕虜を虐げる背景にあるのは、単なる交戦国への憎しみだけでなく、異文化や異国への無知があると思われる。無知であるがゆえに、戦意高揚のためのプロパガンダを鵜呑みにして洗脳され、非人道的な行為に至ったのではないだろうか。周囲の空気に流されずに、自らの倫理観に従った行動をとることも美意識の為せる業だ。

キスカ島からの撤収において武器や兵器の放棄を認めた点からも樋口氏の大英断の一つだ。現在の価値観で考えれば、武器が兵の命よりも大切なはずはなく、武器を捨てて速やかに撤収することは合理的で当然すべきことのように思われるかもしれないが、「命にかけても手放すな」と言われた銃を放棄するということは当時の常識で考えればありえないことだったはずだ。銃を捨てて生きるより、銃を持ったまま死ぬことを良しとする者さえいたかもしれない。戦局は壊滅的で、戦死することを美化するような風潮の中、無駄死にをさせずにあくまで現実的に撤収させ、次の戦場に備えさせるという樋口氏のこの判断には、美意識に加えて冷静なリアリストの一面が垣間見られる。

上述した3つの例では、樋口氏は周囲の空気や常識を無視して、自らの倫理観や規範に沿っての決断をしている。これは言ってしまえば非常にシンプルだが、全くイージーではない。エリートは大きな権限を与えられるがゆえに、自らの中に倫理観を持たないで、既存のものを盲信してしまえば、優秀なエリートが重大な非人道的行為を行う恐れすらある。ユダヤ人の大量虐殺を効率的に行ったアイヒマンや、オウム真理教でサリンを作った高学歴信者たちのような例もある。それゆえに、エリートには美意識が求められるのだろう。樋口氏のように自ら正しいものを判断し、それに沿って行動をするということは容易なことではないが、その第一歩として芸術へ触れてみようと思った。
 
 
投稿者 sarusuberi49 日時 
【運命に立ち向かうため、貪欲に学び教養と思考を深めるべき】

本書を読んで感銘を受けたのは、樋口季一郎の飽くなき向学心である。幼少期より非常に優秀だった彼は、生涯読書家で進取の気概に富んでいたが、彼の持論の一つが「死ぬまで勉強」であったという。本書から私が学んだことは、学び続けることの重要性である。豊富な知識と多様な経験により培った柔軟な思考や合理的な判断力が、樋口の数奇な人生を切り開き、役目を果たす突破口となって行ったからである。陸軍将校としてエリートコースを歩んだ樋口だが、オトポール事件でも分かる通り、上司の意に沿わない判断をすることが度々あった。これは、立身出世を考えれば明らかに不利である。しかし、ただ単に情に流されただけの人道的な決断とは思われない。東條英機参謀長に「ヒットラーのお先棒を担いでの弱い者いじめ」と言い放った事からも分かる通り、樋口は国際社会で信用を築くためには、公明正大な態度が最も有益である事を理解していたのである。常に学んで先見性を養っていたからこそ、目先の上司の心証ではなく、日本の将来的な国益を考えて判断できていたのだと考える。

私がそう考える理由は、ポーランド公使館付武官時代の人脈作りのエピソードにある。当時情報将校としてインテリジェンスに携わっていた樋口は、オペラやダンスを学びヨーロッパ社交界で大いに人脈を広めたが、それが日本の中央に悪く伝わっていたという。しかし樋口はそれに揺るがないばかりか、現地に妻を呼び寄せて夫婦での社交界活動に益々精を出したのだ。私はこれこそが賢明な判断であったと考える。社交界で各国の国民性の違いを知り、実際に海外の要人の懐に入り込み、個人的な付き合いを深めたことで、海外の諜報活動の様子をつぶさに学べたことは、後年の彼の判断力に磨きをかけたと考える。

また、樋口の活躍はそれだけにとどまらない。当時、ソ連とドイツに挟まれたポーランドの陸軍は、ソ連・ドイツ両国の暗号解読に大きな成果を挙げており、樋口のポーランド在任期間中、樋口と陸軍士官学校の同期である百武晴吉がポーランドで暗号研究に取り組んでいたからである。樋口の広い人脈が、陸軍の暗号システムを築く百武の活動を影で支えていたこともあり、日本陸軍の暗号技術はきわめて高度なものとなったと言われている。資料によれば、日本陸軍の暗号は終戦まで敵国に解読されず、逆に陸軍はソ連の軍事暗号をかなりの程度解読できていたという。これはミッドウェー海戦の大敗でも明らかなように、作戦計画が連合軍にほぼ完全に解読されていた日本海軍の暗号と対照的である。日本陸軍とポーランド陸軍が暗号解読を含む機密情報をやりとりできるほどの信頼関係結ぶことができていた背景には、樋口の柔軟な社交術による人脈が大切な素地となったことは想像に難くない。樋口は圧倒的な勉強量による多様な知識と深い教養を用いてインテリジェンス将校としての役目を全うし、日本の国益に資していたのである。

これらの学びの蓄積が、第五方面軍司令官としての樋口の決断を支え、日本が分断される可能性すらあったと言われる、ソ連軍の侵攻撃退につながったといえる。なぜなら日本はポツダム宣言受諾時、武士道精神のためか、整然たる降伏を目指していたからである。しかしポーランドに駐在経験があり、ヨーロッパ各国の権謀術作が渦巻く様を見てきた樋口であるならば、停戦後に一番危険なことは、丸腰になった味方が殲滅され虐待されることであり、武装解除した後に行なわれる敵の不法行為によって、決定的に国益が侵されてしまう危険性を予見できていたのではないだろうか。大本営は8月16日に戦闘行為の即時停止を命令するだけでなく、8月18日午後4時以降は、自衛目的の戦闘行動も全て停止と命じた。しかし国際法上、国家の自衛権というものは、いついかなる時でも許される人類普遍の自然権であるため、自衛目的の戦闘すらも停止などは、敗戦を受け入れたとしてもありえない。簡単に武装解除せずギリギリまで条件交渉するのが世界の常識である。ゆえに日本側の稚拙な外交感覚を鵜呑みにせず、北海道の占領を狙って終戦後にも国際法を破って侵攻を続けるソ連軍への断乎たる反撃を命じた樋口の功績は大きいと言える。

陸軍将校として重い決断を担った樋口の運命は過酷を極めたものであったが、そんな樋口が、けして癒されることのない自責の念や苦悶を抱えながらも、学び続けて人生を終えた姿には、胸を打たれるものがある。樋口の生きていた時代と現代では価値観が大きく変わっているが、未来が不確実であることには今も変わりがない。コロナ禍で働き方や日常生活で大きな変化が生じ、先行きが益々不透明となっている現代こそ、過酷な運命に翻弄されつつも自分の軸を見失うことなく時代の行く末を見届けた樋口の生き方を見習い、学びに時間を投資することが有益であると考える。
 
投稿者 H.J 日時 
指揮官の決断 満州とアッツの将軍 樋口季一郎

2021年8月31日
23:21

言葉で表せられないほどの人生を経験している人。
樋口季一郎氏に対して、そんな感想を抱く1冊だった。
もちろん、現代日本に生きている私達から見ると、この時代に生きていた人たちは同じく言葉で表せられないほどの人生を経験しているわけだが、その中でも樋口氏は異質に感じる。
上からの命令は絶対。軍国主義の時代においてエリート軍人でありながら、ユダヤ人難民の救出を自らの立場を賭けて上層部への進言し実行する傍ら、アッツ島では上層部の決定に逆らえずに受け入れることしか出来ない辛い場面まで樋口氏のエピソードが満載の1冊。
樋口氏がいなければ、当時のソ連軍に北海道まで侵略されていた可能性があることも本書で記述されている。
さらに戦後、ソ連軍から戦犯引き渡し要求をされた際には、自らが助けたユダヤ人たちによる恩返しという形でその身を救われるエピソードや最期をトイレで安らかに眠る等、率直にドラマ性溢れる人生である。
にもかかわらず、私は今まで樋口氏の名前を知らなかった。
ユダヤ人を救った日本人というと、おそらく多くの人が杉原千畝氏を連想するだろう。
もちろん、私の知識不足ということはあるにしても、もっと名前が露出してもおかしくない様に感じる。
信念に基づいてユダヤ人を救った日本人、ソ連を北海道から守った指揮官、ここまでのエピソード性を持った人物が何故有名でないのだろう?
疑問が残った。
敗戦国の当事者として、大々的に敗戦国の軍人が英雄扱いされる事が許されないという世論や政治的な問題もあったのかもしれない。
いずれにしても、宿題としてこの疑問は考えてみようと思う。

また、塾生としては、自らが助けたユダヤ人たちによる恩返しという形でその身を救われるエピソードは智の道の様にも感じる。
あとがきに書かれている様、「善」の反意語は「もう一つの善」、すごくいい言葉だと感じる。