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第76回目(2017年8月)の課題本

8月課題図書

 

不屈の男 アンブロークン



今月は8月ということで、毎年戦争関連の本を課題図書にしています。

この本もご多分に漏れずでして、主人公はアメリカ軍の兵士です。

この彼があり得ない体験を繰り返して、最後は太平洋を漂流してしまうんですね。

このあたりのくだりは、ちょっと前に課題図書にした、

漂流

と対比すると面白いと思います。

そして命からがらとある島に上陸するんですが、そこで彼が見たこと、体験したこととは・・・。

まさに身の毛のよだつとしか言えないストーリーでこれがホントにノンフィクションなのか?

ホントは作り話だよねと何度も確認してしまうような体験なんです。


正直言って読後感は非常に悪いです。

でもそれが戦争なんです。日本人が最も抹消したい戦争の記録って、原爆でも東京大空襲でもなく、

これなんじゃないかと勘ぐりたくなったほどです。

 【しょ~おんコメント】

8月優秀賞


この本は分かりやすかったようで、みなさんピントがズレることなく書けていたと思います。

そしてやっぱりみなさん、途中で気分を悪くされたようで、あの読後感の悪さが印象に残ったようです。

本当に戦争って一面的に見てはいけないバケモノなんだな、と痛感した次第です。

そして一次審査を通過したのが、J.Sokudokuさん、vastos2000さん、tadanobuuenoさん、

chaccha64さんの4名で今回はJ.Sokudokuさんに差し上げることにしました。

 

おめでとうございます。

 

【頂いたコメント】

投稿者 tsubaki.yuki1229 日時 2017年8月27日


1.180度、逆サイドから見つめた二次大戦

 この夏は国外に一歩も出ていないが、まるでアメリカに一週間ほど滞在し、外から日本を見てきた
ような錯覚に陥っている。本書はどんな海外経験より、日本人の国際感覚を養ってくれるのではないか?
・・・それが「アンブロークン」が持つ、一番のパワーだ。

 これまで自分は戦争関連の本と言えば
「日本人が主役で、敵は外国、特に欧米人」という筋書きに、もっぱら慣れ親しんできた。
 だが、今回の課題図書の主人公はアメリカ兵。それも、日本の強制収容所で捕虜として
日本人に徹底的に虐待された青年の伝記である。

 (日本語訳が手に入らず、原書で読まざるを得なかった事情もあるが、)
本を読むと主人公に感情移入する自分は、今回も例外に漏れず、手に汗握ってルイを応援し、
いつしかアメリカ人のような心境で戦争を見つめていた。

 日本軍が乗り回す“Zero”という最新式の飛行機が、零戦を指すと理解するまで数ページを費やし、
Watanabe, Naoetsuという固有名詞を見ると、「何だか得体が知れない・・・」と恐怖を感じ、
「え?これ、私の国じゃない!?」と、一人で愕然とした。

 主人公ルイの数十ヶ月にわたる捕虜生活は、あまりに過酷で痛々しく、途中で何度も
読むのをやめたくなった。この非人間的な看守達が日本人だというのだから、ますます気が遠くなる。

 元連合国には「広島・長崎の原爆投下は正義だ。これが戦争を集結させた」と堂々と述べる者が、
いまだに多いと聞く。これまで私は、この発言を聞く度に憤りを感じていた。
広島・長崎の人々の苦しみが、正当化されて良いはずはない。

 だが、本書でルイが、いかに日本で酷い目にあったかを知り、上記のように
「原爆投下は、一部の人々には救いをもたらした」と言いたくなる気持ちも、
「分からないでもない」と、初めて思った。

 戦争のようなセンシティブな歴史を見つめ直す時、感情的になると本質が見えなくなる。
「アンブロークン」を読み、日本人側、アメリカ人側、両方の心境が分かってしまうという、
貴重な経験をした。
一面でなく、多方向から検証し、総合的に全体像を捉えることが大切だと学んだ。


2.傷ついた魂に救いをもたらすもの

 ルイは 
①数日間、太平洋を漂流(食べ物・水なし、サメに怯える)
②強制収容所で虐待される 
③終戦・帰国後もPTSDで苦しむ 

・・・と、次々に試練に襲われている。自分が同じ立場にいたら、①の途中で絶望・発狂していたかもしれない。これほど傷つけられた青年の魂を救うなど、可能なのか?神は彼の運命を弄んでいるのか?とさえ思った。
 だが、救いはあった。それは、グラハム牧師の伝えたキリスト教のメッセージだった。

 自暴自棄な人生を送るアル中のルイが「まっすぐ生きよう」と決意するきっかけは、
ヨハネの福音書8章の「姦淫の女」の話だという。
 これは大きなショックだった。このエピソードは、私も中学の頃から、耳にタコができるくらい
何度も聴いている有名な話である。律法にがんじがらめになり、思いやりを忘れた学者達を、
イエスが痛烈に批判し、社会的弱者の女性を励ますという、心温まるエピソードだとは思う。
だが、ルイの生き方を根本的に変えるほど、大きな威力のある話だとは、全く思っていなかった。

 グラハム牧師の話を聞いた後、貪るように聖書を読み始めたルイと自分を比較し、
聖書通読がマンネリ化している自分に喝を入れた。
「救いとは、あきらめずに手を伸ばし続ける者にだけ、訪れる」と知った。

 アメリカは戦勝国である。空襲で町を焼かれたこともなければ、食べ物も住居も十分にあり、
物質的には豊かだった。しかし戦勝国の彼らも、深く心を痛め、病んでいたことを知った。
兵士は無論だが、民間人も、戦争に行った家族を待ち、PTSDに苦しむ家族を世話するという
苦悩があった。そんな生き地獄から救われるため、彼らはキリストを必要としていたのだ。

 一方、日本人は、東日本大震災の後でよく言われた「絆」の言葉が象徴するように、
人と人が手を取り合って支えあいながら、焼け野原から不屈の精神で壊れた町を再生し、
復興を遂げたのだと思う。
戦後、目に見える街や経済の復興だけでなく、心の復興に注目することを、忘れてはならないと思った。

3.ワタナベはサイコパスか。

 「どんな人間も、権威を与えられ、個人として責任を問われない状況に置かれると、
罪悪感なしに残酷で非人間的な行為をとる」

 ・・・これは、スタンフォード大学の監獄実験を始め、多くの心理学的実験で実証されている。
 ワタナベは状況により悪魔になっただけで、戦争が終われば、自分の狂気に気づいて改心するのでは?
と密かに期待していた。

 しかし、晩年の彼はCBSの記者に戦時中の残酷行為を非難されても、反省を示すどころか
自分の無実を主張し、嘘をついていることに罪の意識も感じていない。
A級戦犯として逮捕されるのを恐れ、逃げ回る知能はあるにもかかわらず、である。

 ワタナベが先ほどの聖書の律法学者の立場にいたら、「じゃ、私は罪がないので」と言って
まっ先に女性に石を投げつけるだろう。本書で最も救いようがなく憐れなのは、彼かもしれない。

4.疑問点

①主人公のルイを始め、本書に出てくるアメリカ人は全員白人である。
 黒人で徴兵された人達がどんな目にあっていたのか、本書には書かれていないので、気になる。

②二次大戦で、これだけPTSDに苦しんだ兵士が多くいたのに、アメリカはこの後、
 ベトナム戦争を勃発させ、自国の兵士達を傷つけるという同じ過ちを繰り返している。
 学習能力がないのは、政府の罪である。

良書をお薦めいただき、ありがとうございました。

投稿者 H.J 日時 2017年8月28日


不屈の男 アンブロークン

本書を読んで率直な感想は「事実は小説より奇なり」という言葉がピッタリだと思った。
私の想像を遥かに超えていた。
ノンフィクションは「現実に起こったこと」という前提条件で読み進めるため、頭の中に思い描いた現実とのギャップが大きすぎて、カルチャーショックを受けた。
同時に実際に経験した人達の言葉はやはり重みが違う事を再認識した。

本書全編を通して言えるテーマは
”「当たり前だと思っていた事」が当たり前でなくなった時にどうするか”
ではないか。

そして、そうなった時に大事なことは
1.”まずは冷静に事実を受け止める”
2.“自尊心を保つ(取り戻す)”
だと勉強になった。

ルイさんは開戦、漂流、捕虜時代などを経験した後、当たり前だった元の世界に戻ってきたはずの解放後も後遺症に苦しんでいた。
しかし、ルイさんはいかなる時も一旦、現実を事実として受け止めている。
その上で、時には現実逃避をしたりすることもある。

現実を受け止めた上での現実逃避と
最初から現実逃避では天と地ほどの差がある。
この差が、漂流時にマックさんの生死を分けたと言っても過言ではないと思う。
マックさんは現実を受け止めずにチョコレートを食べきってしまった。
その時のマックさんは漂流という非現実的な事態に陥り、冷静さを失ってしまっていたのではないか。

想定外(特に辛い事)の事が起きた時、人は混乱し、現実から目を背けたくなる。
でも、冷静に現実を受け止めることができれば、”今”何をするべきかが見えてくるのではないか。
それは時に生死を分ける大きなターニングポイントの決断にも関わってくるかもしれない。

私たちにとっても他人事ではなく、現代社会でも起こり得ることである。
例えば、大きな例で言うと災害をはじめとした予期せぬ事態が起こった時、
小さな例で言うと仕事のミスをしてしまった時、
大きくも小さくも「当たり前だと思っていた事」が当たり前でなくなる。

その時、まず冷静に現実を受け止める。
そうすれば、たとえ周りが180°変わったとしても変わらない事が一つある事実に気付ける。
それは“自分が自分である事”だ。
これだけは誰にも何にも変えられない事実だ。

同時に、それは自尊心を保つためのカギでもある。
自尊心とは、外部からの評価や要因ではなく、自分自身の存在や生き方をどう感じ肯定するか。
自分が自分である事は変わらない。
自分を否定して、自尊心が欠如してしまった時、自分自身を見失ってしまう。
その時、道を踏み外すこともあるのかもしれない。

ルイさんも捕虜時代から解放後に掛けて、自尊心が欠如していたが、祈りと生きている事実を再認識する事によって自尊心を取り戻した。
自尊心を取り戻したことで、心が豊かになり、ワタナベさんを始めとした監視員たちを許した。

一方、元々裕福な家庭に生まれて、あの時代に不自由なく生きてきたワタナベさんは自尊心(プライド)が人より高い域にあると予測できる。
ところが将校になれなかったり、収容所に配置されたりでプライドを傷つけられ、自分自身を見失っていたのではないだろうか。
高い地位の人を虐げる事で自分の力を誇示したり、暴力を振るわない時には仲良しアピールをしたり、
戦後数十年後のインタビューにてワタナベさんは自分の非人道的な行いを戦争や軍の責任に転換していた。
こういった行動や言動からもわかるように、他人からの評価を気にしていた様に感じる。
はたまた、責任転換する事で許された気持ちになったのかもしれない。
ルイさんとの再会を果たさなかったのも、過去の罪を認めたくない気持ちがあったからだろう。
しかし、自分の行動は、きっかけや理由はどうあれ自分の責任なのだ。
責任を転換する事は回り回って自分自身を傷つける事なのだと勉強になった。


そして、日本の教育や本で教えられた事しか知らなかった自分に危機を感じたと共にもっと歴史を知りたいと思った。
そういった意味で本書は日本人として目を背けたくなる不都合な現実を教えてくれた。
まず冷静にその事実を受け止める。その上で私に出来る事は、過酷な時代の中戦い、未来を作ってくれた全ての人々に感謝と尊敬の意を示す事だけです。
今私たちが幸せに生きてられるのは、過去の人々たちが作ってくれた土台のおかげです。
この場を借りて、改めて言います。
ありがとうございました。

投稿者 wasyoi 日時 2017年8月28日


アンブロークン・不屈の男 を読んで

このメルマガを通して、8月は毎年一冊は戦争の本を読むという習慣が購読してから身につきました。ありがとうございます。

さてこの本は、日本で戦時中行われていた、知られていないが信じられないような捕虜の虐待について、かなり仔細に書かれています。頁をめくる手が重くなります。

今回3つの点が気付きになりました。

一つ目はザンペリーニが墜落、公式に戦死したという時の家族の態度です。戦死報告を全く信じず、生きているとただ信じた。『夢さえも兄が死んだことを認めなかったのだ』という記述にある通り、家族皆生きていると信じきっている点です。墜落・遭難した時の救助は本書によると、良くても全体の三割程度しか見つからないと言われる中、生きていると信じたこと。そして実際に生還できました。信じきるという事の力を感じます。

二つ目は、捕虜の目線から見た終戦の描写です。人間の尊厳も失いそうな終わりの見えない酷い捕虜生活の中、不意に訪れる戦争の終わり。収容所の日本人は敗戦国の、捕虜にとっては戦勝国の人間と立場が一瞬にして逆転した描写は、今まで気づいていなかった怖さを与えてくれました。ある意味でゲームのルールが一瞬で変わる時の混乱の凄まじさ、そしてルールが変わることによる処罰の怖さを感じます。
やり過ぎているとはいえ、任務として行っていた事が、ルールが変わる事で刑罰に繋がる。日本のビジネスでは今でも起こり得るのでは、と思います。

三つ目は、信じることの力強さです。
戦後なお、虐待の記憶と復讐心にさいなまれる主人公は、あの漂流の時に生かされたのは神によるものだと考え、信じることで救われます。神を信じることで、バードへの復讐心によりバードにある種依存した生活が終わります。そしてむしろ思いやりを持って接する気持ちさえ芽生えていきます。
この本の根底には「信じること」がとれだけ大切で、力強いものかを言いたいように感じています。

『物事が起きるのには理由があり、すべては結局うまくいく、そう信じて大変な事態が起きてもゆったり構えている』

ルイ・ザンペリーニ本人の言葉を名言として記録し、毎日頑張って生きたいと思います。
この度は素晴らしい本をご紹介いただきありがとうございます。

投稿者 audreym0304 日時 2017年8月28日


感想―アンブロークン

 この本を読んで思ったのは「戦争をしちゃいけない」や「戦争は二つの正義がぶつかることだ」のようなありきたりのことではなかった。思い出した戦争がらみことがいくつかあった。
「戦後」という言葉は戦争中に起こったことすべてをきれいさっぱり洗い流してなかったことにしようとしているようにも感じるし、日本人が「戦後」と呼んでいる間にも世界では戦争や、独立紛争、内戦、領土問題にテロとの戦いという名目で戦火と隣り合わせの人々がいるのに、その人たちを覆い隠し、いないかのように扱っているようにも感じるのだ。
 その証拠に太平洋戦争の相手国アメリカはその後、戦争つづきだ。戦争で家族を亡くした人々が軍需産業の工場で働き生計をたてているという矛盾もまかり通っている。その工場で罪なき人々によって作られた製品は当然戦地へと送られ、誰かの命を救うこともあるかもしれないが、ほとんどの場合は名前も知らない別の罪のない人々を殺す道具となる矛盾が生じる。
 この矛盾こそ戦争なんだとおもう。
本書に出てくるのはアメリカ人も日本人も鬼や悪魔ではなく、愛する人がいて生存を朝に夕に心配してくれる家族のいる普通の人々だ。普通の人々が戦場と言う異空間でそれぞれの武器をとって戦うことを余儀なくされる。その戦場だって、ただの無人島なんてことはないのだろう。アメリカ人か日本人かが住んでいたりもしくはアメリカや日本の小競り合いなんて全く関係のなかっただろう人々が住んでいた場所が突然、戦場になってしまうのだ。
 ここでは誰にとって、どんな利益が生まれてくるんだろう。その場所で何が行われようと司令部が世界地図に駒やピンを置いてどこがどの国の領地かを示すだけの場所なのだろう。

 本書を読んで感じたのは戦争を語るとき、人は自分が体験した出来事、もしくは自分が属する側に都合の良いのことしか語れないということだ。
 この本が異様な雰囲気を放ち、本書を読んでない日本人の多くも本書を批判する人が多いのではないか、と思う。なぜなら、日本人が見たり聞いたりすることの多い戦争体験は空襲、広島・長崎の原爆、学童疎開、特攻隊といったものを思い出すからだ。戦争した相手を血も涙もないような鬼畜米英と呼び、日本人は爆弾を落とされた被害者であり、親や兄弟姉妹、連れ合いに子供を亡くし、苦しさ悲しさひもじさに必死に耐えたという話だ。
 本書では全くの逆で、被害を受けた側が鬼畜と日本人が呼んだアメリカ人兵士であり、アメリカ人兵士が日本の捕虜になって以降の扱いや日本人兵士たちの振る舞いこそが鬼畜と言い現わさざるをえないものだからだ。たぶん、多くの日本人はこの部分に深い嫌悪感と拒絶を覚えるのだろう。だけど、申し訳ないが、私はこの部分に今さら嫌悪感も拒絶も覚えなかった。

 沖縄戦を経験した母方の祖母は言った。
「怖かった。日本人もアメリカ人も沢山人を殺した。どちらも怖かった」と。
それから何年も経って、フィリピン人の友人のお父さんも幼いころ日本とアメリカの戦争を経験したと言っていた。友人のお父さんは私の祖母とまるっきり同じことを言った。
 その後、タイでしばらく働いていたころ、旅行に行った先に日本軍がイギリス軍捕虜を強制労働させてあっという間に完成させたというタイメン鉄道の一部と思われる橋があった。山間の深い谷をまたぐ立派な橋だった。一緒に参加したタイ人が誇らしげに私に紹介してくれた。
「世界大戦中に日本軍がつくってくれた橋だよ。戦争が終わった後、タイのインフラとして活躍してタイの発展を支えてくれたんだ。日本人のおかげだよ」と。
 この言葉を聞いて私は非常に混乱したし、言葉にすることのできない複雑な感情が沸き上がった。
「日本軍は親切でとても紳士だった」という人もいるだろう。
反対に「恐ろしかった。悪魔のようだった」という人もいる。
もちろんアメリカ人に対してもイギリス人に対しても同様だ。
きっとどれも戦争の真実に違いない。

 祖母の言葉もフィリピン人の友人のお父さんの言葉もツアーで会ったタイ人の言葉もこれらはどれもけっして各国の公式文書には載ることはなければ後世にも残ることのない言葉だ。もちろん、本書もザンペリーニ氏が語らなければ誰にも知られずに消えてしまった話だ。解放後PTSDに苦しみ、戦争中の悲劇と相手を赦したとはいえ、戦争中の出来事を思い出す作業は苦痛そのものであっただろうから、本書が異様な雰囲気を放つのもおかしくはない。それでも本と言う後世に残る形にしてくれたのは感謝したい。

 最後になるが、アフガン戦争のときに帰還兵が戦場での出来事でPTSDを発症し、社会的に再起不能になり最悪は自死を選ぶこともあると聞いたことがある。戦場の出来事もPTSDをも克服する『赦し』そして人間に秘められた力というのはどれだけ偉大なのか、改めて知りたいと思った。

投稿者 akiko3 日時 2017年8月28日


「不屈の男」を読んで
    
悪がきの主人公ルイが、能力を正しく活かし、自分を超え続けるアスリートとして成長する姿は自己啓発本だなと思った。戦争が始まると今まで読んだ日本側の戦争ものの厳しさよりゆとりを感じた。だが、訓練中の事故や命をかけて出撃する不安や厳しさなどは同じだと思ったし、負けたからその後が厳しいのではなく、戦勝国の人達にも、戦後の苦しみや悲しみは多かったのだと改めて気づいた。毎年戦争ものを読む機会を得ているが、どこまで戦争の悲惨さ、平和の尊さを学び取っているのか…「戦争はやったものでしかわからない悲劇だ」戦争体験者の言葉が胸に刺さる。

漂流のシーンは、生命の限界曲線と太陽のジリジリした熱さにのどがカラカラになった。敵のサメも日本兵もいたが、心の孤独感は感じられず、3人の信頼が一緒に頑張る強さになっていた。前の漂流の船長という上の立場でも一人だけ日本人という相関図は…考えると孤独だし敵だらけの恐怖だ。
捕虜時代はもう醜い人間性にげんなりした。たまったストレスは出口を見つけて吹き出さずにいられないのか?ギリギリまで我慢を強いられ苦しみが続いた時、自分も豹変するのか?不安を覚えた。新聞でシベリア抑留の生還者の話を読んだ時は、ソ連ってひどいと思ったが、日本人も…無知は恥だ。国籍関係なく人間が持っている悪なのか?いまだ、いじめ、児童虐待、監禁殺人事件(身内に殴り殺させる非情さ、異常さ)、パワハラなど、追い込まれ傷つけられている人達も“いた”、“いる”ことを考えると、ずーんと気持ちが重く、生きるのが辛くなった。

心の平穏から遠く離れた地獄の苦しみ、終わりが見えない日々、そんな現実に“どうして?”と思わずにはいられない。
「あしあと」という詩がある。主に従おうと決心した人が、自分と主の2つの足跡がずっとともにあったのに、一番苦しかった時に1つしかなかった、「どうして自分を見捨てたのか?」と問うと、主は「あなたを背負っていたからだ」と答えるという内容で、苦しい時に歩いているのは“主”なんだろうけど、ルイのこんな状況をもっとちょっと具体的に助けられないのか?と思ってしまう。“すべては良きことのために起こっている”とも言われるが、バードの存在も主の意志が動かしているのか?いや、天使もいれば悪魔もいる世界だから、バードや監視員達のような存在は別の何かが動かしているのだろうか?。

限界を超え続け、勝利や命をつないできたルイは、まさに“不屈の男”だ。そのパワーは、最初は頑張れば結果が出るという努力の手ごたえとか運のよさと思ったのかもしれないが、漂流して何もない中で自分を超えた何かに“祈る”しかなく、気が付けば対話をしていて、一心に祈った後に雨が降って水が飲めた奇跡を体験した時には、自分以外の存在を確かに感じた!それが、その後の非常事態を耐え抜くパワー=意志力の支えとなっていたのではと思った。この雨のシーンは、戦後トラウマに苦しんで自堕落な生活をしていた時に再び出てくるとは思わなかったが、いつしか祈ることから遠のいていた時から、再び雨を降らせて目覚めさせた。妻の首にも手をかけるほど追い込まれていた時に、やっと神は再びその存在をはっきりと示された。私にもその存在は感動とともに感じられた。

神の存在は感じられた。でも、バードに対し“罰を与えたのか?”という思いがぬぐえなかった。バードが自殺したと思った時は、彼も孤独に打ちひしがれ懺悔の切腹をしたのかと、だったら許せるように思った。バードが人目をさけ、人を幸せにできないからと孤独に生きている様子に戦争で苦しんだのだ、家族も見張られ、決して自由ではなかったと…。だが、自由になり、家族や成功を手にし、インタビューでは素手でしかやっていない、職務としての行為と答えた時には、やっぱり罰を受けてないと不公平に思った。だが、ルイは心から日本人を赦し、笑顔で(囚人)元監視員達と握手し、バードの幸せを祈る思いやりの心を示した。その心情の清々しさと温かさと比較し、重く後ろめたい過去を引きずり、偽りで自己保身するバードの闇を思うと、いまだ罰を受けているのはバードで、幸せになっているのはルイだと気付いた。ルイは般若心経の空の世界を得ていたのだ。
それから、神は罰を与えないのだと気付いた。見えない存在は赦しや慈悲の存在ではなかったか?
最後に、フィルは『信仰』を持っていたので常に最善を尽くし、あとは委ね、祈る習慣があったから安定感があったのだと思った。信仰は人を強くするのだと思う。自分の中の見えない存在に対し信頼を抱き、生かされていることへの喜びを折に触れ表し、常にコンタクトできるようになろうと思った。魔の手の息苦しさにひっぱられないように…。

戦争で傷つき亡くなった方達のご冥福をお祈りします。

投稿者 satoyuji 日時 2017年8月30日


 恥ずかしながら私には第二次世界大戦に関して語れるほどの知識がない。8月15日が日本の終戦記念日であること。長崎と広島に原爆が落とされたことにより戦争が終わったこと。義務教育で教わった程度の知識しかない。つまり教わった知識の真偽を判断する力を持たず、それを肯定も否定もできない。その結果、原爆落とされたという知識から、アメリカという国にあまり良い印象を持っていない。同時に戦争を仕掛けた側である日本が原爆落とされたのは、仕方がなかったのではないかないかとも思っている。私の知識ではそこまでしか想像力が働かなかった。戦争という環境を生きていた一人一人が何を考え、何を当たり前とし、何を目標として生きてきたのかなんて想像もできなかった。戦前·戦中の教育は天皇を神とし、国のために働くように教育してきた。国のために戦争に行く事が日本男児の当然のあり方であるとされていた。自ら志願して戦争に行くなんて現代では考えられない。人々がそうした環境で生きていた時代があったのである。しかしそうした価値観は、政府から国民へと与えられた価値観であり、一人一人の価値観全てを表しているはずがない。

 現代の日本人男子は草食系と呼ばれ、異性と付き合うことに消極的であるという言い方をされる。それは全ての男子を表しているわけではない。とっかえひっかえ女性と交わっている男もいる。両極端な例ではあるがどちらも存在している。そして彼らに共通しているのは同じ時代を生きていることである。だから同じ価値観に触れることもあるだろう。その上で違う生き方をしている。なぜそうなのかと言えば、違う部分があるからである。

 本書の主人公ルイ·ザンペリーニは書名通りに不屈の男である。オリンピックへの激しいトレーニングにも屈せず、収容所での生活にも屈せず、戦争体験による後遺症にも屈せずに人生を終えた。本書にはそう書かれている。その中でルイの不屈の精神を引き立たせるように、完全な悪役として登場するのが大森収容所伍長、バードことワタナベ·ムツヒロである。このワタナベ·ムツヒロという日本人はどこから見ても、非道な男として書かれている。もし私がアメリカ人読者なら、ワタナベは日本人を代表する存在として映ったかもしれない。もちろん本書には捕虜達を自分と同じ人間として扱おうとする日本人もいた。それでもワタナベという日本人の振る舞いの前では霞んでしまう。しかし私は日本人であり、ワタナベの残虐非道の振る舞いに憤りを感じながらも、心のどこかで責めきれない自分に気づいた。そしてカワムラ等のワタナベ以外の日本人を思い出しては、日本人も悪くないと言いたくなっている自分がいた。

 同一の事象に接しても、その立場により受け取ること、感じることは異なる。私がワタナベを非道の存在として完全に非難しきれないのは、私が日本人であり、ワタナベもまた日本人だからである。その連想からワタナベの所行が自らの所行であるかのように思えてくる。しかし私はワタナベではなく、あの戦争の約70年後に生きている一人の日本人に過ぎない。今の私がしなければならないのは先人の過ちを恥じることでもなければ、一部の捕虜に対して真摯に接した日本人を思い出し過去の過ちをごまかすことでもない。戦争という環境が人をどのように変えてしまうかを知り、そうした環境でも人として正しい生き方ができるにはどうしたら良いのかを誠実に考えることである。それこそが戦争という先人の経験を糧にして現代を生きることである。過去の出来事に善悪という判断をつけて忘れてしまうのではなく、現代を作っている部分として生かすことである。

 戦争は自分の弱い部分を隠すために他人を傷つけることを可能とし、それを正当化するだけの 理由を与えた。自分の弱さを見せつけられた時、無意識にそれを隠したくなる。それを否定しようと人に強く当たる事もある。それは人の本質であり、弱さを曝け出すだけの勇気と強さを兼ね備えることは困難なのかもしれない。しかし人として正しい生き方をするには勇気をもたなければならない。多数派であるという理由から同一の選択をするのではなく、正しさを考え抜く思考の強さとその選択を行動に起こす勇気が必要である。戦争があり、戦争に行く者がいた。その中で武器を持って他者を制圧するだけの武力を兵士は持っていた。第二次世界大戦は肉体の強さを上回る破壊力を手に携えていた戦争である。言い換えれば、どの兵士も容易に意思の決断なく人の命を奪うことができた。その兵器は現代にも存在し、やろうとすれば部屋の明かりをつけるぐらいの動作で何百人もの命を奪うことが可能である。その意味では戦争は終わっていない。人として正しい生き方をするための戦いの難しさは変わっていない。誰もがそういう立場に在りうることを考えれば、より過酷になっているのかもしれない。日本人でも他の立場でもいい。人として正しい生き方をするにはどうすればいいのか。正しい生き方を自問し、それを行う勇気を持つことである。時には失敗し人を傷つけてしまうこともあるだろう。どうしようもない失敗をしてしまうことだってあるかもしれない。それでも前向きに自問し続ける強さがあれば、自分の人生を肯定できる生き方になると思う。怖いと思った時にこそ、勇気を持って進みたい。そう思わせてくれる本であった。

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投稿者 J.Sokudoku 日時 2017年8月30日


 本書に描かれるルイ・ザンペリーニ氏の人生から私が受け取った最大のメッセージ。それは、

“人生を形成していく上で、いかにその人の魂とこころの在り方が大切であるか”

である。
 まず、私なりに本書をターニング・ポイント毎に下記4つに分けてみると、
 1.不良少年が自らの意識と態度を改め、陸上に打ち込みオリンピックへ出場するまで
 2.時代の流れで戦場へ送られ、そして漂流に遭うも強硬な意思と意志で生き延びるまで
 3.捕虜となり地獄のような体験をするも強靭な精神で耐え抜き帰国するまで
 4.戦争後遺症PTSDという自分のこころとの闘いとその結末まで
となった。これらが全て一人の人間の人生に起きた出来事かと思うとその数奇性に心底驚いてしまう。まるで、神様が次々とザンペリーニ氏に試練を与えることで人間の強さを証明させ、そして、氏の人生と巡り合う多くの人々に
 “人生とは魂とこころで作られるのだよ”
というメッセージを送っているように思えてしまう。

・戦時下での人間の心理

 47日間の漂流中に、大自然から突き付けられた地獄のような極限的な状況に屈しなかったザンペリーニ氏を次に待ち受けていたのは捕虜収容所だった。 
「あの救命ボートに戻りたい、そう思った」(P.249)
この一文を読み、ザンペリーニ氏が地獄から更なる過酷な地獄に放り込まれた状況を想像した時、私は悪寒に身を包まれた。
 捕虜収容所での出来事は、いかに精神的苦痛が肉体的苦痛よりも生きるという意志を砕く力が強いかを生々しく表している。そして、その精神的苦痛を与えるのが同じ人間の故意的な行為だということに最初は吐き気さえ覚えた。
 「人間の心を打ちのめす方法を使った。たとえばカボチャや木に向かって何時間も礼をさせる」(P.324)
このような行為を考えつき、実際にやらせるには、どういった心理状況の人間であれば可能なのだろうか。戦争下では、平時では表立たない人間の凶暴性や残酷性などの暗部が容易に抉り出され、解放され、歯止めが利かない心理状況に陥ってしまうということなのだろう。
 そして、もしも私自身がその場で監視側にいたと考えた時に、捕虜収容所で起きていた残虐行為や侮辱行為をしないと言い切れない自分自身に言葉にならない嫌悪を感じ喪心した。戦争は、暴力を与えていた日本軍人側からも人間らしさや誇りを奪ったと言えると思う。

 一方、収容されていた外国人捕虜たちは、過酷を極めた労働、非衛生的な生活環境、凄惨な暴力、尊厳を奪われる屈辱に耐え、そして連合軍がたとえ戦争に勝っても生き延びることが難しいという状況で、どのような心境で日々を過ごしていたのだろうか。私は、その捕虜側の心境や心理を想像することに一生懸命努めても、想像力が追い付くことができずよく分からなかった。ただ、日本軍捕虜収容所と同じくらい、またはそれ以上に過酷なユダヤ人強制収容所の状況を描いた『夜と霧~V・E・フランクル~』を参考にして言うならば、収容所を生き出た人達に共通して言えることは、

 “生きたいという意思や希望”

を持ち続け、未来を見続けていたことではないだろうか。いかなる状況であろうと自分の意志次第で持ち続けることができる『精神の自由』を失うことが無かった人たちだったのだろうと思う。

・戦争との闘いは終わらない

 「彼らは、戦後も闘わなければならなかった」(P.472)
私のこころを深く沈み込ませる重しのような一文だ。

 終戦宣言が下されれば戦争は形式的には終わる。しかし、現実的には、戦争当事者達のこころの中で戦争との闘いは続いて行く。それは、本書からも多くの米国軍人が肉体的にも精神的にも戦争の後遺症と闘っていた事実からも分かるし、またTVの戦争特番からも日本人戦争体験者が戦争の記憶と闘っていることがはっきりと分かった。戦争は巻き込まれた人達のこころを甚振り続けるのだ。

 そして、ルイ・ザンペリーニ氏とワタナベ・ムツヒロ氏も戦後も戦争や内なる自分と闘い続けていた。しかし、その闘いの結末は全く対照的であると言える。

 “一方は、戦争に屈し続け、もう一方は戦争にも屈しなかった”
 
誤解を恐れずに言えば、ワタナベ氏の
 「責められるべきは自分ではなく、『戦争の愚劣さと罪悪、狂気』であり、自分は犠牲者だ」(P.527)
という発言を私は否定することはできない。しかし、戦時中の自らの愚行を真剣に反省することもなく、後悔することもなく自らの責任を戦争になすりつけ犠牲者として居続けたワタナベ氏は戦争に自らのこころを支配され、束縛され、屈し続けて生涯を終えたと言えるのではないだろうか。

 もう一方のザンペリーニ氏も戦争と闘った。もしかしたら、捕虜収容所という地獄より更に過酷な地獄で自分のこころと闘っていたのかもしれない。しかし、最終的には自らに降りかかった全ての悍ましい出来事を受け入れ赦すことで戦争の支配から脱却することができた。ザンペリーニ氏は、PTSDを克服する前の人生において幾多の極限的な状況に屈することなく生き続けてきた。そして最後には、この世で起こり得る最も凶悪性、悲惨性、残酷性を持つ戦争に打ち勝ち、正に「不屈の男」になったのだと思う。

 最後に、7年という歳月をかけて膨大な関係資料を紐解き紡ぎ合わせ、多くの関係者に幾度ものインタビューを重ね、そして自らの大病と闘いながら本書を執筆した著者ローラ・ヒレンブランドさんに精一杯の感謝をしたい。
本書は、日米では勿論のこと世界中で人類が忘れてはいけない過去を未来につなぐ本として読み継がれていって欲しい。

~終わり~

投稿者 vastos2000 日時 2017年8月31日


考えさせられることは多かったが、この本からの一番の学びは「人間の内側に秘められた可能性」だ。主には漂流の第3部と収容所の第4部に書かれていたが、希望を持つことが肉体にも影響を与えること、心身は互いに関連するが、心身という単語、心が先に書かれるのは、やはり先にあるのは心なのだと思った。

たとえば、『前向きに取り組んだルイとフィル。希望を失ったマック。それぞれの生きる姿勢が結果をもたらしたのだ。』と書かれている。「夜と霧」でも希望を持ち続けたことが生還につながったことが書かれていたが、緊張すると汗をかくとか、心拍数が上がるといったレベルよりはるか上位の命を左右するレベルでも、精神のあり方が影響することがわかる。


そしてもう一つ、『だが、爆撃機に襲われてよかったことも二つあった。』とあるが、ネガティブに思える出来事に対しても良いところを探せる。そのメンタル、そう思えることがスゴイ。少女パレアナの“なんでも喜びに変えるゲーム”ではないが、まさに置かれた状況に対してどのように解釈するかはその人次第と言える。

ルイは最終的に敵対関係にあったバードをはじめとする日本軍人を赦すことで自分も救われるが、これは「アーミッシュの赦し」と同じことだと捉えた。


心の持ち方や状況に対する解釈とは少し違うが、水がなくなって6日目のシーン、『神よ、われわれをこの渇きから救ってくださるなら、あなたに私の命をささげます――。』
と祈った後、次の日にどしゃぶりの雨。その後の2回の水切れのたびに祈ると雨が降った。(その代償が収容所生活からキリスト教に目覚めるまでの苦難なのか?)
やはり名を残す人はこういうエピソードがある。
私自身、最近少しずつ心と体が整ってきたのか、ちょっとした抽選ならかなり中るようになってきた。


そして、本書の大きなテーマでもある戦争について考えないわけにはいかない。
本書の第4部を読み、思い出したのは、すでに亡くなった私の祖父のことだ。
祖父は戦争から生還したが、亡くなる前年に少しだけ戦時の話を聞く機会があった。新兵時、理由もなく上官からめちゃくちゃに殴られたことが度々あったという。30年ほど前までの教育現場やスポーツの現場を見ても日本にはそういう風潮があると感じる。
他国の軍でもしごきや理不尽な上官の例はあるだろうが、特に日本はこの傾向が強いのではないだろうか。いわばダークサイドだが、戦争や震災の極限状況化で自分はダークサイドに落ちずにいられるだろうか?できれば答え合わせをせずにいたいものだが・・・。
結局言いたいことは、日本人は<空気>に流されやすい。「上官からこうされたから、自分も部下にたいしてこうする」とか、「今までこのやり方でこの組織はやってきたのだからこうやるのが正しい」と判断停止せずに、しっかりと自分で考えることができるだろうか?
本書の第5部にて、バードを捜索する日本の警察が出てくるが、同じしつこさ、粘り強さで戦前戦中はいわゆる非国民を探していたのでないかと思う。命令者が替わっただけで、やっていたことはおそらく同じだ。

ごく最近、私自身、宗教がらみの事案に否応なく関係したときに感じたことがあるが、私が住んでいる地域のみなさんは私が思うよりも保守的で、マスコミが提示する一面に流されやすいと感じた。その中のある人は、「マスコミは自分たちが書きたいように書くから全てを信じられるわけではない」と言っておきながら、どう考えてもマスコミがよくたれ流すある一面しか見ていない。私はもともと日本人の中では宗教に対して関心が高いし、この件に備えて宗教をテーマにした本を数冊読んでおいたこともあり、良いも悪いも賛成も反対もない立場だったが、周囲の偏見やネガティブな空気は正直引くレベルだった。つまりは反対意見のみが述べることを許される場であった。
きっと日清戦争から太平洋戦争へと至る国内・国民の<空気>も戦争を是認していたのだろうと想像できる。
今も北の国で突発的な事故が起きれば、日本の領土内に火の手が上がる可能性がある。そうなったときに、いままで「会話による問題解決を」を訴えてきた新聞がどのような意見となるのか。
日本国民の大部分は戦争など参加したくなが、その方法論の違いで右だ左だと争っているように見える。ちゃんと自分で考えること、意志の力を忘れずに過ごしていきたい。

投稿者 hiroto77 日時 2017年8月31日


【この物語からの気づき】
最初の気づきは、「究極のエゴイズム発生プロセス」です。
死と絶望に直面しながら大海を彷徨う「漂流」と、人と人が殺しあうことが犯罪とならない「戦争」という極限の状況が、人間の理性を消し去り、それぞれの「正義」の名のもとに、残虐な行為を肯定し、絶望からの生還を実現する、究極ともいうべき「生存のためのエゴイズム」を生み出すという事実です。

生存に必要な食物が得られない状況、行動の自由が完全に奪われている状況、常軌を逸した肉体的苦痛と精神的苦痛を与えられる状況、「漂流」と「戦争」に共通するそれらの「要因」が、「自我」であり、「自意識」である「エゴイズム」の自己支配を導くことを、この物語から学びました。

これは「狂気」や「本能」という表現よりも「摂理」という表現のほうが、相応しいと思います。
戦争だから、異常事態だから、集団ヒステリーだから、幻想と虐待、絶望と不屈の意思が発生し、悲劇と救出が起こるのではなく、状況に直面し、人間が本来もっている性質や感情が爆発した後、「エゴイズム」がなによりも優先され、エスカレートしてしまうという「法則」なのではないかと、推測しました。

次の気づきは、その状況下において、肉体も精神も、人の想像を超える「大きな変化」が生じるという事実です。
主人公の体験と試練を追想することが、その気づきの根拠となりました。
遭難、極限の漂流によって生じる変化、戦争により殺す側、殺される側を体験することによって生じる変化、捕虜として拘束され苛烈な虐待にさらされることによって生じる変化、生き延び、社会生活に復帰したことによる変化、悪夢に悩まされ精神障害を起こすことによって生じる変化、キリスト教に至り「安らぎ」を得る変化、それらは、その都度の状況によって、人間は、本人の意思、選択に関係なく、医学や心理学の想定をはるかに超えた、心身の「変化」を得ることが可能であり、「人間は、エゴイズムによってのみ生き延びる」存在へ変化することが可能である、という学びです。

主人公の「最大の敵」となった日本兵の虐待者「バード」も、戦争という状況が生み出した「エゴイズム」がそれを助長し、状況の変化によって、驚くべき「変化」をなしえた人物だと解釈しました。
残虐でサディストな監視者から、戦後、特別指名手配を逃れ生き延び、取材に応じたというトピックは、人間の心身と業(ごう)が、その都度の状況によって、信じられないような変化を体現し、生き延びたのだと理解しました。

最後の気づきは「ゆるし」が与える「奇跡」です。
「ゆるし」は、キリスト教における教義の軸であり、イエスが、自らの死と再生によって、人々に説いた「境地」です。
今回の物語で、主人公の偽らざる「ゆるし」がもたらしたのは、憎しみと復讐の連鎖を断ち切り、平和と安定と富みをもたらしました。
極限の漂流で死と直面し、人権が認められない虐待生活を耐え、やっと帰った母国での喧騒と苛立ちと失意の日々から、平穏と安定、笑顔と啓発の日々を迎え、人々に尊敬されながら長寿を全うする「人生」への転換は「奇跡」と評しても、過言ではないと思います。
また、加害者、敗戦国における戦犯である「バード」も「ゆるし」に至ったのではないかと、考えました。
自己をゆるし、敗戦後の自己理解を超えた状況をゆるした、でなければ、自殺を選ばす、特別指名手配を逃れ生き延びる「奇跡」も、その後、財を成し、戦犯側の証言者として登場する「奇跡」も、起こりえないのではないかと考えます。
「ルイからのゆるし」と「バードからのゆるし」、双方からの「ゆるし」が成立したとき、奇跡ともいうべき「不屈の男」のストーリーは、完成したのではないでしょうか。

読後、私が、最初に思い浮かんだのは、多くの日本軍人が学び、すがりついた『歎異抄』でした。
「善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや」
東郷平八郎、ラバウルの将軍今村均も、戦後信奉し、至った「境地」です。
これは「許し」の絶大な力、「ゆるし」という概念の真意を伝える一文だと、この本に登場する「善人」と「悪人」を想いながら、連想しました。

この物語について、事実か否かの議論や考証が行われていますが、戦後、敬虔なキリスト教徒としての道を歩んだ主人公への、取材から得られた箇所については、大部分が事実であったと認識しています。
なぜなら、極限の虐待者に対しての「心からのゆるし」を得た人物は、嘘や誇張を展開する必要がないからです。
他の時代考証、事実認定については、プロパガンダから発生した虚偽、誤認識も含まれていると思いました。
これは戦争という混沌においては、論証と記録による事実認定は不可能であり、その「不可能である点」だけにこだわり、全てが「誤認」だとするのは、「愚かな受け手」だと判断せざるを得ません。
私たちにできるのは、過去の事実の追求ではなく、理性の脆さ、正義の虚偽を学び、「生存のためのエゴイズム」と「ゆるし」の力を知り、明日の教訓とすることではないかと、この物語を読み、再認識しました。
【終】

投稿者 shinwa511 日時 2017年8月31日


本のタイトルに書かれている通り、主人公のルイスは不屈と呼ばれるくらい、第二次世界大戦を通じて様々な困難に屈することなく、困難を乗り越えて行きます。
今回の本を読んで、47日間の放流後に日本軍の捕虜になった際、捕虜に対する虐待を行ったバードという軍人が戦後、ルイスとは全く違う行動を取ったことが気になりました。
バードは終戦後、日本がアメリカの占領下に置かれても逃亡を続け、結局捕虜に対する虐待の罪を裁かれることはありませんでした。彼は結局、自身が犯した過去の罪から逃げ続けることを選びました。戦後、ルイスはバードが自身に行った虐待について許すと言います。和解をしようと申し出たルイスは、自身の体験した虐待のショックときちんと向き合い、何をするべきなのかを、しっかり落とし込んだ上で戦後を行動しています
ルイスが終戦後にアメリカへ戻った際、戦争のフラッシュバックに悩まされる日々が続きます。そのとき彼を助けたのが、福音伝道師のグラハムでした。宗教という人が「人間とは何か、人間は何処から来て、何処に行くのか」という、長い長い時間を掛けた問いかけの教えに感銘を受け、ルイスは自分自身が行うべきことを探していきます。
自分自身を信仰に捧げたキリストは、「人を愛しなさい。隣人を、家族を、敵対する人を愛するのです。」と教えの中で説いています。人に何かを期待するのではなく、まず自分から他の人に与える行動を取ることで、真の愛を得ることに繋がるとしています。愛とは決して奪ったりするものではありません。ただ無償に注ぎ、与えるもので、自信の損得という判断で量れるものでは無いとしています。さらに、人を愛することは、人を赦すことにも繋がります。人を憎んだり、自身が過去の出来事に、嘆き悲しんだりすることよりも、人を愛する行動こそ、自身を救う唯一の行為であると説いているのです。
実際にルイスはその言葉に従い、不屈の精神を作り出していきます。不屈とは屈しない力のことです。自身の辛い経験を正面から見つめ、戦争でひどい仕打ちをした人達を赦すという、バードが取った行動よりも高度な次元から、自分に出来ることを考えて行動に移して行きます。
その一つが、自身に虐待を行ったバードを許すという行為です。自分を苦しめた人でさえ、許すことで、ルイス自身が苦しんでいた苦しみから、ようやく解放されたと思います。
自分自身は、今までの人生を振り返ってみてどうだったのかと考えます。バードのような酷い事をしていなくても、何かから逃げ続けてはいないか、目を閉じて耳を塞いで自身の置かれた現実から、逃げ続けていることがあるのではないか、或いは、今は事実から逃げることが無いとしても、今後の人生の中ではそのような状況に、陥ることがあるのではないかと考えます。そのときには、ルイスの行いを思い出して、実践して行こうと思います。人は弱く、ときにその弱さで自身の持つ矜持を捨てた行動を取ることもあると思います。それでも、自分を虐待した日本人を許すという生き方をした彼を決して忘れないように、思い出し、考えていくようにします。それをすることで、不屈の精神とは何かついて考えることができるようになると思うからです。

投稿者 tadanobuueno 日時 2017年8月31日


たとえ漂流しても、捕虜収容所で筆舌に尽くしがたい虐待にあっても、戦後でその後遺症で人生のどん底にまで落ちても、全ては乗り越えられる。
ルイが乗り越えられたのはなぜか?

本を読んで頭に浮かんだ言葉は人事を尽くして天命を待つ。
ルイは人生で自分の目の前にある事に取組み、その過程で自分とも向き合い、諦めずに人事を尽くしてきた。その全てがつながり彼を最終的には天命、赦しとその後の幸せまで導いた。

子供時代からの反抗心から物事をどうにかする力、どうにかなるとの考えが、漂流時代に自分を救った。その場にフィルがいたことが信仰の道につながり、終戦後の赦しへとつながった。
家族のある身としては、シンシアがなぜルイに愛想を尽かさなかったのか、その点が本当に理解できなかった。ただ、戦時中に全てはより良き方向に向かうと信じ、諦めなかったこと、人事を尽くしてきたことが、シンシアとの関係をギリギリでつなぎ留め、赦しへとつながる出会い(天命)にまで導いてくれたのではないか。

ルイにとって物事がうまく回った時は、目の前の物事に取組み、その過程で自分の内面と向かい合ってきた。陸上競技で結果を出してきた時も、遭難で困難に直面した時も。
逆にうまくいかなかった時は戦後の後遺症と闘った時のように、自分との向き合いを避けてきた。
例え、自分の現状が認めたくない程、惨めな状態であっても、思い返すことで怒り・恐れ・恥辱感・無力感が湧いてきたとしても、自分と向き合い、その現状を認めること。
過去の課題図書「自分を超えていく」で、自分を信じ、自分と向き合い現状を認識できれば、自分に対して起こることを全て糧にでき、その経験から自分の進むべき道がはっきりしてくることをで感じた。今回のように向き合うことが非常に難しいことに対しても、赦しのような「自分より信じられる何か」を介することで、全てを糧にして、その経験から自分の進むべき道をはっきりさせることができると感じた。

ルイがその後、怒ることを長年していないと言える人生を過ごし、長い生涯を生きることができたのも、自分に向き合い、自分に対して起こった全てのことを自分の糧として、そこから得られた自分の道を進み続けることができたからではないか。

全てのことは乗り越えられる。
自分としても、目の前のことに取組み、自分と向き合い、全てのことを自分の糧として、そこで得られた自分の信じた道を進んでいこうと思う。

投稿者 BruceLee 日時 2017年8月31日


本書のタイトルは主人公ルイの不屈の精神を指す「Unbroken」だが、私が感じたのは戦争は人間を「Uncontrollable(制御不能)」にするという事だ。以下にまとめてみたい。

1)生死を分けたのは意思がControllableか否か
グリーン・ホーネットの墜落でルイ、フィル、マックの3人は漂流という物理的にUncontrollableな状況に陥り、結果的にマックは亡くなるのだが、ちょっと考えてみたい。3人の元々の体力差、健康差はあっただろうが、漂流後の条件は同じだった。そして残ったチョコレートを一人で食い尽くしたマックは若干有利だった筈だ。そのマックが先に亡くなったのは何故か?それは3人の意思の差、「生きる」と思ったか否かではないか?恐らくマックは絶望感に覆われ意思がUncontrollableになったのではないか。だが、ルイとフィルは違った。つまり問題は体力差や健康差ではなく意思の差なのだ。戦時という非常時でなくとも我々は耳にする。長年連れ添った夫婦の一方が亡くなると残った方も後を追うように亡くなる例を。生きる、という意思が生命維持に如何に重要かを示す例ではなかろうか。逆に老人ホームや病院で、恋をしたジーさんは意中のバーさんの部屋に階段を這ってでも行くというではないか。自分含め健康な人は日頃あまり考えないかもしれない。が、生きるとは意思なのだ。本書をキッカケに、何故自分は生きるのか?生きる張合いは何か?を見つめ直すのも一考かもしれない。

2)Uncontrollableになるのは弱者だけではない
ルイ、フィルは捕虜収容所で更なる地獄を味わうが、支配者のバード自身もUncontrollableだ。キレやすく、突如豹変し捕虜を痛める反面、涙して謝罪し、抱擁し情愛を見せる。がその虐待ぶりはあまりに酷く、同胞ながら自分が捕虜だったら、なぶり殺してやりたいと思ってしまった。が、暫くして我に返る。なぶり殺してやりたい、というのもある意味怒りの感情が自分をUncontrollableにしてるのではないか?安易にそうなる自分も非常時にはUncontrollableになるのでは?だから逆に本書の著者が非常に慧眼だと感じるのは「人を収容する責任を課せられるのは、多くの監視員にとって恐ろしい思いをする体験だった違いない ~ 捕虜に対して行なわれたもっともひどい虐待は、虐待をしたくないと監視員が感じた不安自体から生まれたものかもしれない」と、敵国の監視員側の心情をも冷静に見つめ「お互いフツーの状態に無かった」事に言及してる点だ。そして直江津庶民の描写から伺えるのは、降伏は恥とされていた日本は女子供を含む最後の一人まで戦う覚悟があり、国全体がUncontrollableだった事。自ら降伏、まして無条件降伏などあり得ず、外部の「圧倒的な何か」は必要だったのかもしれない。勿論、そこに原爆が使われた事は別の議論が必要だが、Uncontrollableだった日本が無条件降伏したからこそ、日本民族は消滅せず独立国として残り、我々は日本国民として今日平和に暮らせている、という解釈もアリな気はするのだ。

3)非常時にControllableでいられるかは平常時の自分次第
戦後は一変して酒浸りになるルイ。尊厳は打ち砕かれ、屈辱感にあふれ、自分は価値の無い人間としか思えないUncontrollableな状態。数多の苦難に屈しなかったルイの最後の敵、それはルイ自身だった。鮫やバード等の見える敵がいた時と異なり、今回の敵は目に見えない。故に少しでも自己をControllableにするため仮想敵が必要で彼の目標は「バードを殺す事」になる。が、これはある意味執着。ひたすら苦しみ、最愛の妻の首を絞め、離婚の危機もあったが、これまで生き残った背後の奇跡に気付き、キリスト教に傾倒。そして最後にバードを許す事で初めてルイの戦争は終わる。私は本書の醍醐味はこの戦後にあると思う。戦争中の艱難辛苦に屈しなかった事以上に、自分自身という最大の敵に屈しなかった主人公の姿勢にこそ、最も崇高な不屈の精神を感じるからだ。その精神はルイの幼少期から青年期にかけて養われたとある。つまり非常時にControllableでいられるか否かは、平常時の価値観、倫理観次第だと感じるのだ。そのレベルが低いとしたら、非常時は誰もがマックやバードになり得るのだ、と本書は示唆していると思うのだ。

戦争で傷付いた全ての人へ、鎮魂。

追記:正直、本書の戦後に大きな興味を抱いたもう一つの理由はバードの末路だった。あれだけの事をした人間はどんな最期を迎えるのか?が非常に気になったのだが、一体何なのこの強運?運が絡む話ゆえ是非しょうおんさんの意見を伺いたい所。まぁ、返答は「読書会で解説します」だろうと推測しているが(笑)

投稿者 magurock 日時 2017年8月31日


インターネットの本屋から送られてきた『不屈の男 アンブロークン』を手にとり、その分厚さに驚いた。読んでみて、その内容にさらに驚いた。すごい人がいたものだ。
悪ガキからオリンピック出場選手への華麗な変身、戦地での活躍や間一髪なエピソード、墜落からの過酷な漂流、捕虜生活、戦後のPTSDとその克服と、少なくとも5作くらいの物語が書けるくらいの波乱万丈な人生。まるでリアルでハードな『フォレストガンプ』ではないか。

それにしても、何度も押し寄せる命の危機にあってもルイス・ザンベリーニ氏が生き残ることができた理由はなんだったのだろう。運の強さなのだろうか?
でも、彼に襲いかかった数々の苦難を考えると、決してツイていたというわけではない。身体的能力や家族の愛に恵まれていたことは確かだが、幼いときから貧乏や逆境の中で育ってきているし、ガタガタの”グリーン・ホーネット”に乗るはめになったり、やっと辿り着いた島ですぐさま日本軍に捕らえられたり、バードに目をつけられて執拗な暴力にさらされたり、ツイていないのでは?と感じることも多い。
同じような境遇で命を落としている者がたくさんいるのに、彼が生き残ってきたわけは、いったい何なのだろう。

もしかしてそれは、生への積極性なのでは?と思った。生への「執着」ではなく、積極的に生きる姿勢があること。
小さいころは決して褒められることをしていないルイだが、その悪童時代も、陸上を始めてからも、活力がみなぎっていて何事にも積極的だ。戦争中も、漂流中も、捕虜生活中も、苦しみながらも希望や勇気を捨てずに生きてきたルイ。
一霊四魂の四魂の中で、勇気や忍耐、行動力、積極性の機能を持つ荒魂が発達している人ほど、神が喜び、加護を受けられると聞いたことがある。つまり、神様にエコヒイキされる人なのだ。
ルイもさまざまな場面で神の存在や導きを感じていて、自暴自棄のときにそれを思い出し、立ち直りのきっかけになっている。そしてそれからのルイは積極性を取り戻し、97歳までさまざまな活動を精力的に行った。
あれだけ傷めつけられたのに、なんと長寿!やはりこれも、神の加護によるものなのだろうか。

福音伝道師ビリー・グラハムとの出会い、そしてワタナベをはじめとした捕虜収容所の監視員への赦しで、ルイの戦争はやっと終わりを告げた。やはり赦さなくては、前に進めないのだ。過去にとらわれていては、積極的に生きることもできない。
本書を読んで、もういい加減、アーミッシュだから、この人は特別だから、と言い訳するのはやめて、自分もその仲間に入ろう、と思った。
とはいえ、未熟な自分は、まだまだ何度も赦しなおさなくてはならないだろうけど。でも、ルイが赦したものの大きさを考えれば、きっと自分にだってできないことではないはずだ。

投稿者 kakki 日時 2017年8月31日


本書がノンフィクションである事で、自分の中で
なんとも言えない感情が湧きあがってきた。
そのせいか解らないが、本書を読み終えるのに時間がかかった。
特にバードにやられているルイの描写は、何度も目を背けたくなった。
これが、戦争であり現実なのかと。

ルイは、何十日も漂流したことよりも、他人に殴られ
はずかしめを受けることの方がきついと言ってる。

体力よりも精神力が強い人間の方が、生命力がある
先月の課題図書『自分を超え続ける』の中でも過酷な登山で
最後まで諦めないのは、精神力が強い人々であった。

ルイは、生き残る運命だったのではないだろうか。
奇跡としか言えないような出来事を、何度も経験している。
零戦に撃たれても、墜落しても、漂流中、爆撃機に狙われても
バードに殴られ続けても、赤痢にかかっても・・・

ルイが生き延びることが出来た要因として、常に目標が
あったからではないだろうか。
目標の中身は、怒りや復讐であったとしても生きる
力を立ち上がらせたの起爆剤になったのではないだろうか。

戦争モノの本は、良書リストに載っているもの以外
ほとんど読んだことがないが、本書のような本が
戦争を知らない世代へ、戦争とはどういうものかを
伝えるツールになるのではないだろうか。

戦争で生き残っている方も、高齢になって久しく
体験談を語れる方も減っているのだろう。
誰しも戦争はいけないと考えると思うが、実際に
戦争を経験した事がない我々は、どれほど想像しても
戦争というものの実態について、想像の域を出ない。
そういった意味で、本書は戦争を体験していない
世界中の人々に、読んでもらいたいと思う。
読んだからと言って、世界から戦争がゼロになるとは
考えていないが、平和への一助にはなるのではないだろうか。
原爆投下の前後、終戦後の日本の街が壊滅している
描写は、心にナイフが刺さったような気分になった。

いまこうして、自分という人間が生きているだけでも
奇跡であり、五体満足でいられるのも奇跡であり、
これも先人達が命を繋いできてくれたお陰だと感じ
全力で生きていこうという気持ちになれた。

今月も良書をご紹介頂きありがとうございました。

投稿者 haruharu 日時 2017年8月31日


一人の人間が生きてる間にここまで心の復活を遂げるのは物凄いというか、奇跡というしかないように思います。
47日間の漂流を乗り越え、捕虜生活を乗り越えた精神が持ち合わせた総仕上げのような凄みがありました。
心というのは、世代を超えて引き継がれていく恐ろしさを持ち合わせていると思うからです。

20年ほど前になりますが、『沖縄の若いバスガイドさんが「戦後、戦後」という言葉をよく発しているのが違和感ありました』いう記事を目にしたことがあって、私はその記事を読んで、心の中で終わってない何かがあるんだろうなくらいにしか思いませんでした。

私は機会あって旧海軍司令部豪を何度か訪れましたが、壕の中では、日本兵による住民虐殺や、強制による集団死、餓死、外では米軍による砲爆撃、火炎放射器などによる殺戮ありの地獄絵図であったことを教えてくれます。

日本兵の沖縄戦に赴いた心中とはいかなるものなのか?ということを考えるたびに、もう死ぬしかないとわかってる、生きて帰る確率がないとわかってる戦地に沖縄の日本兵に沖縄県民の安全や保護を第一に考える選択はなかったんだろうな、だから狂ってあんなに惨いこともできたんじゃないだろうかとずっとぼんやり思ってました。

ですが、本書を読んで惨いことがここでも起こっていたのかと思うと何でだろう?どうしてそうなるんだろう?としか思えず、本書では、『日本の社会はとりわけ尊厳を重んじて、恥をおそれる。名誉が失われたら、自ら命を絶たなければならないこともある。これがもしかしたら、第二次大戦で日本軍が捕虜をひどくおとしめた理由なのかもしれない』とあるがそれでもよくわからなかったです。

兎にも角にも戦争というのは人間らしさとか、人生そのものを奪ってしまうとしか思えないのです。

神との出会いによってバードを完全なる赦しでルイの戦争は終わった。
虐待した元監視員たちに向かって笑顔で両手差し伸べることができるということは、ルイの世界観が孤独な暗闇から温かい美しい世界に変わっていったのは涙がでてくるほどすごいと思いました。

ルイが経験した世界と違って、恵まれてる私はそこまでの温かい世界観を持ち合わせておらず、もっと生まれ変わらないといけないなと思いました。
だって何でバードが長生きするの?どうして成功しちゃうわけ?って未だに思うからです。


今月も良書をありがとうございました。

投稿者 diego 日時 2017年8月31日


連鎖を断つ

8月の課題図書は、いつも重い。
直接は知らない、だが、今なお地続きである戦争に、向き合うことになるからだ。

今回はアメリカ人の視点から。
生還したアメリカ兵ルイは、普通の社会に戻って、でも元には戻れなくて、苦しみ抜く。
死んだ仲間を思い出しただろう。何度も何度も。

思い出すのは、去年の課題図書の『卑怯者の島』。
国や国民、家族を守るために戦って、負けて、やっとの思いで帰国したら居場所がなくて、自分をどうしようもできない。
命を投げ打って戦死していった仲間に対して、手のひらを反すような世情になって、苦しんで。
このことが、どれほどのことだったのか、今にして思う。
その時の日本人がどれ程過酷な経験をし続けたのか、一方で、どれ程過酷な経験を与え続けたのか、今にして強く感じる。

自分がやられたから、屈辱を与えられたから、他の人や当人に、同じことをするのは、不幸の連鎖だ。
ついやりそうになるのはわかる。この連鎖が、どこまでも止まらなかったんだろう。
止まらないどころか、よくもそこまでと思う程の増幅がなされて、更に繰り返された。

そんな不幸の連鎖は、断ち切らねばならない。
そのためにはどうすればいいのだろう。
誰に何をされても、毅然とした態度で居続けること?
確かに、勇気ある態度で、尊敬に値する。周りの心の支えにもなるだろう。
しかし、過酷な状況下で、どこまで毅然としていられるだろうか。

本書の主人公ルイは、戦闘しても漂流しても、過酷な運命にこそ挑んでいく。
そして、日本軍に捕まって暴行を受けても、生来の性格から、毅然として居ようとした。
しかし、その態度は、更なる反発と暴力を生んだ。
結果、ルイはぼろぼろになってしまった。
不幸の連鎖は、ルイのような強い人をも壊しうるのだ。

不幸の連鎖を断ち切るために必要なのは、毅然とした態度や、自分でいようとする強さではない。
自分で居られるように、支えてくれる存在だ。

日本軍の下、過酷な状況にいたアメリカ人捕虜たちを、人として思いやったのは、通訳兵のカノウだった。
少しでも言葉を理解しよう。言葉の持つ文化や、言葉を語る人を少しでも理解しよう。
そんな風に、通訳兵は、傷ついた捕虜たちを理解しようとしたのではないか。

国単位で考えると、想像力がついていかず、訳が分からなくなってしまう。
だが、他の国の人、著名人でもいい、もっと個人にしっかりと目を向け、理解しようとすること。
そこから、自分の無知と小ささを思い知り、自分には思いも寄らなかった新しい考え方へ向かうことができる。
争いや戦争以外の手段はないか、と考えること。
それは、国の中に息づいているたくさんの命に、きちんと目を向けることでもある。

争いごとがなく、協力しあってやっていける状態とは?
一生食べていける、幸せ、死ぬときにひとりぼっちではない、豊かに生きている状態。

豊かさと言えば、昔は、人より優れている、人より多くを持てるということだった。
しかし、近年、豊かさの基準は、そんなことではなく、
人と居て人の役に立っていて、幸せで感謝していられるかなど、人との協調にシフトしてきている。
人とのかかわりからは、おのずと、「したいこと」が生まれる。
「したいこと」が自分らしさにつながる。

人に認められ、「したいこと」をしていれば、争い事に向けるひまもエネルギーもありはしない。

私は、本書に触れて、「世界中のみんなが食べて暮らして、豊かに生きていけるのかな?そのためには、どんな世界になればいいのかな?」と、遅ればせながら考え始めている。

本書には、数々のことにショックを受けました。なんだその不幸の連鎖は!ガーン!の連続です。
自国内の連鎖を増幅させて殴打し続ける日本人。
過去を書き換えてしまうことで、生きながらえてきたワタナベ。
本書で最もダークな面ですが、もしかしたら、ルイからの許しを得たら、逆に楽になれしまうから、避けたのかもしれません。そう思いたい。

自分のこれからの一生を神に捧げると誓った自分を思い出し、連鎖を断ち切るルイ。
過酷な人生は、連鎖を断ち切ることで、いつでも転換できるのですね。勇気が出ます。

国がどこか、信念、信条がいずれであれ、自分以外の存在のために、自分たちの命や時間、
エネルギーを引換えに差し出してきたこれまでのたくさんの生に、
また、突然の脅威になすすべもなく犠牲になった生、苦しみ抜いた生、
まださまよい続けている魂、すべてに哀悼の意を捧げます。

そして、今に生きていることに深く感謝し、より平和になるために、
せめて不幸の連鎖を断ち切っているかどうか、これまで、これからの自分の生き方を見直します。
ありがとうございます。

投稿者 chaccha64 日時 2017年8月31日


「不屈の男」を読んで

罪を認めることと赦すこと。主人公ルイとワタナベの人生は対照的だったと思う。

ワタナベは捕虜に虐待を加える。その内容は尋常ではない。特にルイを目の敵にしている。他の捕虜に対しても尋常でないのに、ルイへの虐待は執拗でひどいものだった。
イラク戦争で「アブグレイブ刑務所の捕虜虐待」事件が発生した時、NHKの番組で、スタンフォード監獄実験の話が放送された。その中で、被験者は一般の普通の大学生だったにもかかわらず、囚人はより囚人らしく、看守はより看守らしくなる。密閉した空間では、理性が効かなくなり看守は囚人を虐待するようになるということだった。権力を持った人間は、普通でも他人を虐待してしまう傾向があるらしい。
人間は弱いものだ。戦争という異常状態で、その上捕虜収容所という隔離された状態だった。多くの看守は虐待するし、救援物資の横流しをする。そのような状況で、ワタナベだけが特別でなく、虐待したのも仕方がないことだったのかもしれない。
しかし、看守の中には捕虜にやさしくした者もいたし、一般人にもいた。これは、人間はどこまでも落ちることができるが踏みとどまることもできるということを教えてくれる。
そして、ワタナベは、戦後、戦犯で指名手配されるが逃走する。世間は自殺したものと思っていたが実は生きていた。戦後50年たって、イギリスの新聞に、そしてその2年後にはCBSのインタビューに応じ、罪を告白した。しかし、その内容は捕虜たちが語った内容とはかけ離れたものだった。虐待の事実を矮小化し、その上、責任を上官、国、戦争のせいにし、自分は犠牲者だと。まるで、自分は悪くなかったという感じで。本当に罪を認めているのか。そして、本当に赦しを乞うているのかと思える内容だった。
人間は、自分の過ち、罪を本当は認めたくない。少し話を手加減したい。その上、そのような心理から記憶が曖昧になっていくことはある。自己保身が働くのは仕方のないことだと思う。しかし、レベルが違いすぎる。真に罪を認めていないのならば、なぜ表に出てくる必要があったのか? 心の中で本当に認めていても、実際のインタビューでは話せないかもしれない。それならば、インタビューを受ける必要がどこにあるのだろう。それを、見たり、聞いたりした元捕虜はいたたまれない。そこには、他人を尊敬していない態度が、良心に嘘をついていて、自分自身と対峙していない姿が浮かび上がる。

一方、主人公のルイは、捕虜収容所での虐待のトラウマで苦しむ。ワタナベを自分の手で殺すことが唯一の希望となってしまう。悲惨な生活が続く。そんな時、1949年の伝道師の説教を聴き、救命ボートでの状況を、そしてそこでの神との約束を思い出す。そこで、「自分の人生は単にさまざまな苦しいできごとの連続ではなく、自分を救うために神が愛を持って手を差し伸べてくれていた」と感じたのだ。頭で、論理として理解したのではなく、感じた、判ったということだと思う。
それから、虐待した者たちを赦すことができるようになる。そして、1950年巣鴨プリズンで虐待した看守たちを赦している。また、1998年の長野オリンピックの聖火ランナーをするときには、ワタナベを赦し、会い、手紙を渡そうとする。実現されなかったが。ワタナベが本当に悔い改め赦しを乞うたかどうか疑問が残るのに。
ここには、「アーミッシュの赦し」と同じものがある。相手が罪を認め悔い改めていようがいまいが赦すこと。ルイへの虐待は、命だけでなく、人間性、人間の尊厳を奪うものであり、それも執拗に延々と続けられた。そのために、戦後もトラウマで生活が破綻していた。とても赦すことができるとは思えない。相手の非を責め、復讐しようとするのが当然だ。とても赦せる状況ではない。そんな状況なのに赦している。赦すことができた。自分には絶対できそうにないが、赦している。ただただ、尊敬することしかできません。

赦しについて再度考えさせられた話でした。やはり、相手が悔い改めているかを考えてしまいます。そんなことに関係なく赦すことが大事だとは思いますが。今回は、その前に自分の罪を認めることも大事だと感じました。まずは、そういう人間を目指します。

投稿者 str 日時 2017年8月31日


「不屈の男 アンブロークン」

 人の身体というのは実に素晴らしく、我々が思うよりも遥かに丈夫に創られていて、更には意志の強さで底上げが可能なもの。ほぼ同じ条件でボート上で漂流生活を送った三人。むしろ残りのチョコを一人で食べてしまったマックの方が、栄養面での生存確率は他の二人に比べて高かったのではないか。「一人で食べてしまった」という罪悪感からか、絶望的な状況で既に死を覚悟していたのか。それとも二人に対してどこか一歩引いたような関係だったために、精神的な支えとなるものが無かったからなのか。真相は不明だが、前向きに、希望を持ち続けたルイとフィルだけが生き延びた。諦めない意志が二人の身体に何らかの作用を起こしたのだと思う。「こんなになっても人間って生きていられるんだ・・」という驚きの方が大きかったが。

 “生=幸“ ”死=不幸“
普通に考えれば、または残された家族や親しい人たちの立場からすれば生還と戦死はこのような認識になりそうなものだが、本書と同じ状況に陥ったとしたら「死んだ方が楽だ」と考えるかもしれない。「ここを切り抜ければ必ず助かる」のであれば気持ちは大きく違うだろう。しかし実際は「ここを切り抜けたら助かるかもしれない」であり、更に酷い目に遭うかもしれないし、捕虜として劣悪に扱われた挙句、敵兵や看守の気まぐれで遊び半分に殺されるかもしれない。苦しみ・耐え抜いた結果あっさり殺されるのなら敵の砲弾や機銃の弾が当たり、一瞬で死を迎える事の方を自分なら“幸“として選択しまいそうだ。タイトルが示す通り『不屈』の精神を持つルイは「かもしれない」状況であっても自分の意志を貫き通し「かもしれない」を現実のものとした。終わりの見えない状況で生きる糧となるのは結局”自分”で在り続けることなのだろう。

 戦争というテーマである以上、目を背けたくなるような内容が当然出て来る。殆どが国のお偉いさんが起こした意地の張り合いや喧嘩に付き合わされた被害者の方たちだろう。本書ではルイ・ザンペリーニ氏の視点がメインの為、日本が“敵国“として映ってしまうのは仕方のないこと。どちらの国にも多くの犠牲者が出ており、その人たちのお陰で今こうして平和に暮らすことが出来ている。二度と起きるべきことではないが、忘れてはいけないし、知っておかなければいけない事だと思う。ルイでさえ幾度か弱気を見せるシーンがある。『あの救命ボートに戻りたい』そう言ったルイの心境が印象的だった。食料も飲料水も手に入るか不確定で、辺りには何一つなく、暑さと寒さに襲われ、頼りないボートの周囲にはサメがうろついている。そんな恐ろしい大自然を選択させるほど、戦争というものに侵されてしまった人間は恐ろしく・残酷な存在に化けてしまうんだなと。

 学校でも歴史の一環として“戦争“についても学ぶだろう。けれど大まかな年表や勝敗、空襲や原爆といった部分はともかく、捕虜に対しての扱いであったり「自国がされたこと」は教えるのに「自国がしたこと」などは教わった記憶があまりない。単純に銃や剣、大砲や爆弾だけで人が亡くなっていった訳ではなく、もっと深い部分も伝えていくべきだとも感じる。何かにつけてよく聞く「子供の教育上良くない!」とかいう声もあるのだろうか。
大人の事情ってやつですかね。

いずれにせよ戦争という経験から得たものは大きいのかもしれない。けれど失った代償はその比ではないと思う。昨今ミサイルを飛ばしまわっている某国もいるが、これまでの戦争被害者の方たちの為にも、間違った解決方法にだけは発展しないように願う。

被害者の方々へ追悼の意を込めて。
ありがとうございました。

投稿者 gizumo 日時 2017年8月31日


「不屈の男 アンブロークン」を読んで

 毎年夏の戦争を題材にした課題図書ですが、今年も実に深い・・・。日本側ではなく、日本と戦った側からの視点というのがとても新鮮でした。
「これ絶対、フィクションでしょ?!」というような、オリンピックあり、漂流あり、捕虜生活あり、の盛りだくさん。それぞれで本が一冊完成してもおかしくない。しかも日本での捕虜生活は生々しい。

 この本を読んで感じたことは、著者には失礼ながら「人間って生きられるもんなんだな」という事と、「やはり戦争はしてはいけない」という月並みな2点であった。
「生きられる」と言っても、著者の体力、精神力、また持ち合わせた運によるものも大いに関係していると理解しつつ、それにしてもこれほどいろいろなことがあっても生きて居たことはもはや奇跡だと思う。著者に限らず捕虜の方全てに言える事かもしれない。
 その中で、仲間がいること、知識のあること、目標のあること、に支えられる精神力は強靭すぎる。さらには、生きる事への執念と戦略ともいえる思考がそれを強化している。
 危機ともいえないぬるい環境で漠然と生活し、ただ生きて居るともいえる人々に対し、何倍も濃い人生を送っているのは教訓めいていて、やはりもはや作り話に見えてしまう自分の愚かさを呪いさえした。

 今までは、日本側からの話を体験したことがほとんどであり、著者の日本での経験・体験には深く恥じ入ってしまう。
 本当であって欲しくないが、事実だと認めざるを得ないことだろう。「もっとひどいことがあった」と言われれば、それも事実であろうが、それはそれ。どちらも事実である。
 自分は、少しでもこの事実が明確になり、このように文章でてに入れられる時代に生まれたことにも感謝したい。
 戦争には、大義名分もあるだろうが、やはり人がなくなり、傷つくのである。無くなるのは人だけではなく、またこれほど人を狂わすことになるのであるから、正しい戦争など絶対にないのだろう。
 誰もがそのことをわかっていながら、なぜ地球上に戦争がなくならないのか?神は人間に何を感じさせたいのか、がらにもなく考えさせられた。

投稿者 saab900s 日時 2017年8月31日


平成29年8月度 課題図書/「不屈の男」を読んで

産経新聞を愛読していることから、戦争時における日本人の価値観は高貴だったのだという美談を好んで耳に入れていた私にとっては、文章を読み進めるのも辛い内容であった。一部の美談は事実であったであろうし、バードの行った愚行もまた事実であろう。戦争は決して美しい場面のみではなく、自分の命を左右する状況が刻々と代わり、そして、愛する人や友人の命を奪う敵国と会い見える場面に遭遇した場合、バードの心情は程度の差こそあれ私も同じように感じるのだろうか。これは決して思考実験だけでは自分のみでさえ答えを導き出すのは不可能だろう。

ルイはこの極限の状態を生き延びた。殴られ、赤痢にかかり、流れる糞尿の傍で暮らし、虫に塗れて、栄養も無いままに。言葉では到底表すに足りない「どん底」を、何を以て掻い潜ったのだろうか。私は状況として夜と霧に似ているのではないかと感じた。背景を同じくする仲間と、おかれた境遇に対して別のカタチで抗うことによって得られる精神状態が大きく作用していると思われる。

このような話は私のフィルターを通した場合、手にさえ取らなかっただろう。ましては検索をかけて注文などは尚の事可能性はゼロに近い。この本とご縁を頂き感謝以外の念が思い浮かばない。

投稿者 kawa5emon 日時 2017年8月31日


書評 不屈の男 アンブロークン ローラ・ヒレンブランド 著

恒例の8月、先の大戦モノ課題図書に参加して以来、今回は3回目。
今回も非常に重い、深く深く考えさせられる著書であった。

それは自身にとって初めての、日本軍と戦ったアメリカ軍側の本格的な、
戦争ノンフィクションであった点、しかも生々しい捕虜談であった点も手伝った。
数値で表された日本軍の戦争捕虜に対しての結果に対し、
憤りを感じない者がいるだろうか。日本人として複雑な感情を持った。


前半特に学びを得たのは、人間にとって信じることはどういうコトで、
それが如何に重要か、そしてそれがどう生きる強さに繋がるのかいう点、
そして真逆の、それを失った時に如何に人間は弱く、脆い存在になるのか?
という点であった。
過去の課題図書でも類似の内容はあったが、今回も改めて学ぶことになった。


それにしても後半のワタナベ・ムツヒロの件は何とも悪い読後感を残した。
コトの問題を日本軍、日本政府、そのような状況にした組織・集団に責任転嫁し、
自身への問いかけが中途半端だと敢えて言いたい。
主人公のルイが最終的には全てを受け止め、相手を赦し、
次なるステップに進めた点と対比されられると更に、
ワタナベのその姿勢に問題提起をせざるを得ない。
しかしこの態度はワタナベや少数の当事者だけだったとは言えないと感じた。
何故なら、類似の回答は当時の当事者談ではよく耳にする内容だったからだ。
そういう意味では日本軍側の多くの参加者も同じように、
この出来事を処理できておらず、現代にその迷いを引っ張っている気がする。

ただ少なくとも自身の一生では、そのような振る舞いは絶対にすまいと、
強く自身に約束するキッカケを得た。墓場までは持っていきたいくない。


最後に当和訳著書が2016年2月初版なのには驚いた。
もっともっと、特に多くの日本人に触れてほしい内容である。


今回も良書のご紹介及び出会いに感謝致します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 jawakuma 日時 2017年8月31日


不屈の男 アンブロークンを読んで

いや~事実は小説より奇なりとはよく言ったもので、本書の主人公ルイをはじめ登場人物達の数奇な運命に引き込まれました。米兵版「夜と霧」ともいえる第二次世界大戦の一場面を垣間見ました。
それにしても長引く漂流に過酷な捕虜環境、そして偏執的な虐待を受けながらも帰国しPTSDも信仰により乗り越え、さらには虐待を繰り返した監視員たちを赦したのです。驚愕のひと言に尽きましたね。逃げぬき生き抜いたバードにもかなりビビりましたが。。
なぜ赦せたのか?これはアーミッシュの赦しにも通じるものですね。自分が赦すことを通して、自らも赦しを得ることができ平穏を取り戻したのです。そうは知識的には判ったつもりになっても感覚的には未熟者のわたしには腑落ちができないのですけれど。
そして、次に気になったのは希望を見出せない状況でのストレス耐性の違いは何なのか?ということです。漂流中は母親の作る料理を再現することで脳は食事をした気になり満足感を感じたと書かれていました。水が無い時、ボートから降り海に浸かっていると不思議と喉の乾きが癒されるのも脳が身体の周りに無限に広がる水によって騙された結果なのかもしれないと思いました。この方法は「漂流」でも紹介されていましたね。でも沖縄の海人とはちがい、海とは縁がない彼らの漂流体験は捉え方がちがったのではないでしょうか。
捕虜として抑留されている間も同じ環境なのにすぐに弱って亡くなる人と、絶望的な行く末を認識しながらも最後まで生き残る人がいます。ヴィクトールフランクルは研究を糧にしながらもその大事なレポートも失い、足の出し方を選べることなど些細な自由にスポットを当て生きのびることができていました。本書の捕虜たちも慢性化する赤痢と脚気に悩まされながらも飢えと渇きに耐え、死のリスクがあるのを承知で盗みや悪戯を繰り返しました。そういった行為がせめてもの生きる糧となっていたのでしょう。また楽天的とはまた違うのかもしれませんが希望を決して捨てずに気持ちを持ち続けることが大事な要素になっていたようです。
また、本書では人間が生存していくためには何が必要なのかも考えさせられました。
食べ物や飲み物よりも尊厳、人間らしさが奪われる方がこたえるということがルイの体験を通してリアルに伝わってきました。日本の捕虜管理の部隊は尊厳のおとしめ方を研究していたのかと思うほど徹底的に執拗に捕虜虐待を繰り返していました。これは日本が戦時中におこなった一つの事実として認識しなければなりませんね。米国の一人の航空兵からみた太平洋戦争という点では非常に貴重な書物なのだと感じました。
今月も良書をありがとうございました!

投稿者 truthharp1208 日時 2017年8月31日


「不屈の男 アンブロークン」を読み終えて

恥ずかしながら、私が今までに触れた戦争関連の書籍といえば、小学校時代の読書感想文コンクール課題図書の「ヒロシマのピカ」という絵本と、学校の図書室で読んだ「はだしのゲン」くらいしか記憶にない。
そんな状況で、本課題図書に出会い、ルイ・ザンペリーニというオリンピックの陸上選手の生きざまを通して、アメリカ側から見た太平洋戦争とはどんなものかを知るきっかけとなった。
今までテレビや新聞で触れた戦争関連の情報は、日本側からの視点のものばかりで、敗戦国の惨状に目が行きがちだったが、アメリカ側の想像を絶する出来事を知り、戦勝国だからといって喜びや安堵に満ちている訳ではなく、苦しんでいる方々も多いことに絶句した。

【ルイはなぜ、生き続けられたのか】

ルイは少年時代、イタズラと盗みに夢中で、嫌われ者だったが、兄ピートが才能を見いだしたことで陸上競技に取り組み、記録を残すことによって「トーランスのトルネード」と呼ばれる程、地元のスーパースターになり、1936年にベルリンオリンピック出場を果たした。
だが悲しいことに、太平洋戦争が始まり、ルイは戦地に向かうこととなった。
搭乗していたB24が墜落し、太平洋を漂流することになったが、いつ救助されるかわからない状況でも、生き延びるために時にはアホウドリを捕まえて食したり、歌を歌ったりフィルとこれからのことを話したりと、どうしたら生き延びる
ことが出来るかを考えて、行動に移していた。

奇跡的にマーシャル諸島の小島に漂着し、日本軍に捕らえられて戦争捕虜になり、監視員に想像を絶する虐待に遭い、食事もまともに与えられない劣悪な環境下に置かれても、あらゆるところから食べ物を盗み、生き延びるためには手段を選んでいる場合でないことを認識していたからであろう。

終戦後もアルコールに溺れ、監視員の1人ワタナベを憎み、殺したい程の感情に襲われたが、妻となったシンシアに教会へ連れられて、グラハムと出逢ったことがきっかけで救われて、彼を虐げ、苦しめた監視員達を赦すことにした。

日本人監視員達による戦争捕虜達への虐待行為にはあまりにも驚いたが、ルイの心構えは、困難にぶつかった時の在り方の見本になったと感じでいる。

今月も良書を薦めて頂き、ありがとうございました。

投稿者 wapooh 日時 2017年9月1日


201708 【不屈の男】を読んで
『言葉』と『許し』について、これらの重みを、幾つかの切り口で痛感した読書の時間だった。
本書を読み終えることができないまま、地元直江津の『平和記念公園』へ行き資料館を訪ねた。直江津捕虜収容所跡地とある。上越市の主水源である関川と頚城平野の稲田を潤す保倉川の河口が重なり海へと通じる縁の角地、川原町にその地はある。
除雪が行き届き小雪になった今でさえ、冬の日本海の殴られるようなしけた雪の暴風には閉口するのに、どれほど過酷だったろうと思い、その中で本書に描かれる残忍な対応が捕虜の方々に終わりもなくなされていたと思うと、胸が締め付けられて、半ば心を動かさずに機械的にページを繰ってしまった自分がいる。
資料館の入り口の解説を読み、はっとした。その後に読んだ本書にも記述されていた事柄ではある。
「『…生きて虜囚の屈を受けず、死して罪禍の汚名を残すことなかれ』と言う日本人の『戦陣訓』は裏を返せば、敵国の捕虜を虐待することを容認する意味合いを持つ」。
先日、しょうおんさんのウェブページ開設に伴う特典として「第8回読書会の無料音声」を頂いたので早速拝聴したのだが、そこで私が学んだのは「書かれている言葉の裏の意味を慮る」と言う事だったのだが、まさしくこういうことなのかな、と感じたのだ。
ジュネーブ条約を批准し、捕虜の保護について否定した日本。さらに強硬にした上記の意味。言葉の恐ろしさを、惨い行為と主人公らの苦しみを想像して身を斬られるような辛さの中にまざまざと味わった。
もう二つは、生きる手段として明るい強力な武器となる「言葉」。
一つ目は、『夜と霧』にも似た、人が生きるための力を心の中に具現化するための手段としてやはり「言葉」は重要であったということ。なにも持ち合わせていなくても、今自分が感じている「思い」は何人にも奪うことのできない持ち物なのだ、と言う事。どんな思いをどう持つか?それを現すのは「言葉」なのだ。
二つ目は、「言葉」特に本書では「英語」の持つ強み、つまり国をまたぐ言語は命綱になるということ。例えば、捕虜収容所には、ルイの祖国のアメリカだけではなくオーストラリアの捕虜もいた。彼らは、殆どの日本人職員には理解できない英語を話せることで互いに理解が出来、厳しい環境の中でコミュニケーションをとり協力し情報を共有し、時には食料を確保したり、戦況を予測して希望を抱けたりしていた。母国語以外の、今なら英語を話せることのメリットが、今後も起こるかもしれない混乱の状況にあって自分を救う手段になるのだと思わせられた。

『許し』については、憎しみと恐怖を溶かすものだと感じている。
戦後、ルイをはじめ豪州からも、直江津の収容所跡の平和記念公園を訪れる捕虜がおられる。自分を苦しめたその場所に、トラウマを超えてなぜ足を運べるのだろうか。心の強さだけでは説明がつかない気がする。
『許し』については、終戦時の直江津を離れるルイをはじめとする捕虜の心を記した文章が印象に残っている。『捕虜たちは、品格をもって直江津を出ることにし、日本人を許しの心で接した』と。人としての尊厳、品格を持つために『許す』。
数か月前の未読のアーミッシュの赦しの課題図書を読みたいと思っている。
そして『許し』と言えば、その時の悪事も状況や時間の経過により悪事ではなくなり許されることも、複雑ながら感じたことの一つだ。
例えば、ルイの幼少期の窃盗やいたずらの癖。これが戦時中の生きる術となった。収容所でも捕虜たちが監視の目を盗んで食料や物品を確保するエピソードが随所に書かれている。
『生きる』ことが最重要課題なのだから、思考停止ではだめ。情報を得て予測し、柔軟に対応し最適解を見つける。
時間軸を広げた思考力が必要なのだ。

8月は戦争について考える機会であるのに、かなりずれたところで心が動いてしまったが、やはりこの平和な現実が、戦争を経て結実したものであることを思い、感謝したいと思う。
自分にとっては戦争についての新たな認識を得た貴重な一冊となった。今月も有難うございました。