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第58回目(2016年2月)の課題本


2月課題図書

 

物欲なき世界

 

これ、タイトルが悪いと思うんですよね。これだけ読むとロハス的におカネを使わず、も
のを節約して生きる事に喜びを見出そうよ、的な話かと感じるわけですが(私もそう思っ
て買ったんですが)、実は全く話は違っていて、これからの21世紀の資本主義やビジネス
モデルはこういう方向に移っていくのではないか、という鋭い洞察を披露した本なのです。
かつてのように、ものを所有することが大多数の人の欲望だった時代から、シェアするこ
と、作ること、レンタルすることへ思考が変わりつつあるという話に始まって、トマ・ピ
ケティからの引用である資本主義の限界や、ポスト資本主義についても考察されています。

 

ネタバレなのであまり詳しく書きたくないのですが、ネットとスマフォの普及ならびに
3Dプリンタのような機器の誕生、さらにはUberのような新しいサービスの開始という変化
によって、我々の生活のなにがどう変わったのか?それによって資本主義ってどうなって
行くんだろうという疑問にある程度答えてくれるのが本書です。

 

個人的にはこれくらいの時代の変化は理解していなければ、時代からのサヤ取り(アービ
トラージ)は出来ないよね、という意味で読んでおくべき本だと感じました。逆張りって
こういう全体像を理解しているから当たるわけですよ。10年後、20年後に後悔しない生き
方をしたければ、これくらいのフレームワークは理解しておくべきだと思いますよ。

 【しょ~おんコメント】

2月優秀賞

 

今月のはなかなか難しかったようで、苦労した人が多かったようです。

その中で、印象に残った人をピックアップすると、

J.Sokudokuさんが書いてくれた、「こころが幸せを生む」というフレーズや(とにかく長

すぎて読むのに苦労しました)や、shiorinaさんが書いてくれた、「幸せを感じていない

人は、もしかしたら、目標の無い人たちなのでは」というフレーズ、そして、jawakuma 

さんの、「物はあって当たり前に」とても共感しました。これ以外に、kawa5emonさんと

andomanさんが一次通過したので、この5名の投稿を再度じっくりと読み返してしばし熟考。

結局、本書の言いたい事を的確に表現し、一番納得感が高かった、kawa5emonさんに差し

上げる事にしました。おめでとうございます。

【頂いたコメント】

投稿者 akiko3 日時 2016年2月26日


「物欲なき世界」を読んで
  
課題本はしょうおんさんからの伝言だ。メルマガを通じて成長していく塾生に、成長だけじゃなく“幸せ”とは何か?を定義して幸せでいて欲しいとの親心?だ。毎年8月に戦争ものを読むおかげで、ご年配の方の「戦争いっとったけぇ、こんなんしたことないよ」と穏やかな照れ笑いされても受け取るメッセージは全然違うし、今与えられているものに十二分の感謝が抱ける。(決して、下を見て暮らせ的な我慢・忍耐の世界でなく、心が軽やかな心地よさ、平和な中で“はぁ~”と満足のため息をつくような穏やかな世界がある)
一方で、スーパーであれこれ買い込むと確かに“快楽”に浸れる。自分を幸せにし、売り手を喜ばせる買い物。そこに双方の喜びがあるなら良しとしよう。経済の元々は『贈与』とは、まこと深い読みだ!大量生産で大量消費を煽り、買わせ、働かせるところに愛はあるのか?この心がこもっているか否かで、幸せ(の消費)なのか否か(浪費)なのか、道は大きく分かれる。経済にも心の問題が投影されるように、心の貧しさが引き起こす日々の事件の多さには不安を拭えない…。
人間が大きな悲劇(戦争)を経験し、平和・調和に真剣に向き合い求め成長してきたのに、2代目、3代目で会社が傾くように、今の地球は傾きかけている。でも人間は環境によって成長させられているので、資本主義経済の岐路を迎え、物欲なき人種が現れ、個々人に問うているのも自然の道理なのだと前向きに捉えたい。

自分の物欲が激減したのは、途上国へのボランティア&観光旅行で大きなカルチャーショックを受けた時だ。パソコンで仕事が当たり前の日々から、砂ぼこりの舞う市街地、道路脇には家なき人達が身を寄せ合っている現実。険しい山道に急に現れる土壁の集落は、確かに不便で貧しい。だが、木漏れ日をあび、木から吊るしたブランコで遊んでいる子供達、一人抱え、一人手をつなぎ、そばにぴとっとくっついて歩く子供、その前を大きな子が小さい子の手を引きながら歩く子沢山の家族連れ。民族衣装を身にまとい、ゆっくり談笑しながら歩く学生達。道行く人達の大人も子供も表情があって、日本みたいに無表情の集団ではなかった。ボランティア=貧しい人への施しなのだが、その国の富裕層達は割り切って自分達の生活を送っていて、外国人の自分は何をアクセク働いているのだろう…。ちょっと空しさを感じたのだった。それでも、旅の終わりには同じ時代を生きているのに、多くを持っている自分は持ってない人達の分も取りすぎているのではないかと思うようになった。そして帰国後、“いい仕事したいな”と素直に思った。日本での価値観が壊され、心揺さぶられ空っぽになれたから、心の底に押しやられていたシンプルな“与えたい”との思いが出せたのだろう。物欲は消えていたし、心も体も軽やかだった。(また日々汚してきているが…)

しかし、見えない世界だけを求めて、見える世界を無視して生きることは危険だ。自分が生きている世界の流れ、仕組みは理解しておくべきだ。今は孤独死とか人との繋がりの薄さが言われているが、2極化している分、濃いつながりが生まれつつあるのも事実。自分が自分の周りにどういうネットワーク築き、どういう人達と繋がっているのか、日常生活の目に見える物はローカル&コンパクトに、目に見えないものはITを使ってグローバルにワイドに。自分で選択できるんだと改めて感じ、見えない自分とも対話しながら興味深く読んだ。

追伸)なぜこの本はド派手な黄色なんだろうか?“幸せの黄色いハンカチ”にかけているのか?有彩色の中で一番明るい色だから、物欲なき世界の未来を表しているのか?それとも、止まって考えようという“注意信号”の黄色?本を生み出す人達も、自分達の思いを届けようと作る。その思いの部分を味わうと細部が気になり<1冊で2度美味し>。

課題を通し、自分の成長が感じられるのは喜ばしいことだし、そういう人が集まっている場、気の交流もとても心地よく楽しいです♪意図してしょうおんさんが作り、維持して下さっていることを心から感謝しています。
今月も課題に追われ、買い物にもいけなかったけど…。

投稿者 ws0103 日時 2016年2月28日


本書を読んで一番印象に残ったのは、著者が様々な事象の紹介を通して、将来資本主義社会が終わるという確信をもった予想をしている点である。自分の理解では、つまり現在のように貨幣が中心にあり、そして持続的に経済成長が続くという価値観が通用しなくなる時代が到来する可能性が高いということだと認識した。
そのような時代が到来する場合、一個人として一体何が必要なのかを考えると、当たり前だが、資本主義を前提とない価値観を持って生きるということだと思う。

 作者は多様なライフスタイルを持った者が世界中にいることを例に挙げ、今後到来する新しい世界に希望を有している。翻って、そうしたライフスタイルを確立できていない自分は、果してそうした世界に対応できるのだろうかと、本書を読了後言い知れぬ危機感を覚えた。
以前より、将来に対する備えとしては、既に経済としては衰退期を迎えつつある日本の現状を踏まえ、世界市場へ月々投資をすることにより、自分なりに将来への対策してきたつもりであったが、この投資自体、将来世界市場全体がシュリンクするという前提になると、意味がなくなるのではないかと思ったからである。

 果たして、資本主義社会が破綻したときに、どのように充実した生活を行うことができるのか。この答えに対して、明確な回答はまだ自分の中で整理できない。ただし、本書を通じて、一つのヒントとしては、「人との繋がり」が挙げられるのではないかと思う。それは、本書の中にもモノや子育てまでもシェアする事例紹介があったが、そうした考え方の根底には他人との共生、価値観の共有があるのではないかと感じたからである。
過去、日本においても貧しい時代、個々人では生計が立てることができなかった際には、家族、親族が支えあって少しずつ負荷を分担し合ってきた時代があった。核家族化が進み、親族ともそこまで深い関係が築けていない現代においては、それが価値観を同じくする血縁関係のない他者との関係に置き換わるのかもしれないと考えさせられた。

人生をいかに幸せに生きることができるか。否、自分だけでなく、周囲の人もそう思えるようにはどうすべきか。そうした問いかけは日々生活するだけでは後回しにされがちであるが、安易に逃げることなく、答えがクリアになるまで自問自答を繰り返していこうと思う。

(最後に、こうした機会を与えてくれる良書を紹介していただき有難うございました。)

投稿者 dukka23 日時 2016年2月29日


「自分のライフスタイルとして
過度な消費を好まず、
所有するモノを少なくして、シンプルに生きる。」
「お金は必要な分だけあれば良い。なかったらなかったで良い」

というようなライフスタイルが、
世間ではよく、「オーガニックであること」と混同されていて違和感を感じる。

そもそも「ライフスタイルそのもの」とか、「消費の対象が既成品かオーダーか」、
「消費するお金の多寡」、「物欲の大きさ」を見るのは分かるが、
「オーガニック」という単語が出てきた時点で、
ナチュラルに生きて、時間ゆったり過ごして、
という連想が行われるのは少し論点がずれているような気がする。

オーガニックであろうとなんであろうと、
商品の仕入れにはお金が掛かるし、
(逆に既成品・大量消費品より高価である場合が多い)
利益は確保しなければいけない。
普通のビジネス・金勘定は必要である。

オーガニックだから、資本主義経済ではないということではないと思うのだが、
反資本主義の代表格として取り扱われることが多く、
本書にも何か煙に巻かれているように思える箇所があったので、
気をつけないとと思った次第である。

とは言え、確かに均一的な消費に疑問を持ち、
お金ではなく自分のライフスタイルを貫く人は増えてきている実感があり、
自分自身もその価値観を持つ世代であり、その流れは自然と受け入れられる。
自身もモノの所有を最低限にしたいと思っているし、
仕事だけをするというよりは、
家族との時間や、仕事以外のやりたいことの時間を確保した上で
経済的な要素を最大化する志向を持っている。
おそらく日本において、こういった価値観は、
バブルを思春期で迎えたかどうか、がその一線を画するのではないだろうか。

一方で、資本主義が終わると何かまた別のイデオロギーが台頭してくるか?
という視点で見てみる。
「日本の資本主義」は明治以降と言われていることから、
資本主義ではない江戸時代を考えるとどうか。

江戸時代でも消費はあり、貨幣もあり、娯楽という
今と変わらない社会を仕組み作る基本要素はもちろんあった。
さらに富の集中もあった(例:地主、庄屋、豪商)。
集中している富の良い使い方の枚挙に暇がないし、
逆に悪く使われた例も多くある。

だから、資本主義ではないからといって、
これらの社会を仕組み作る基本要素はなくなるわけではないし、
富の集中も無いわけではない。

となると、これらの基本要素のうち、
マジョリティのヒトが、

・どの要素に重きをおくか?
・どれだけそれを顕著にするか?

ということだろうと思う。

そのため、資本主義でなくなっても、
おカネという交換のための概念はなくならない
=ビットコインなどの新しい貨幣概念の普及があり得るということであるし、
その場合でも富が集中するところにはするのだろう。

ただ、富の集中を誰もが躍起になって追い求めるわけではなく、
その傾向がマイノリティになるという変化なのだと思う
また、先進国が0%成長ということは、必然的に、
誰もが追い求めても成功するヒトは、
従来に比べてずっと少なくなるので、
大多数のヒトは単純に諦める(現実的ではない)という側面もあると思う。
その代わり大多数のヒトは、持っているお金の範囲で
実現できる「自分のライフスタイル」を求めるようになるのだと思う。


では逆張りで考えるとどうか?
華美な装飾やラグジュアリーが終焉するということは、
今後、ラグジュアリーであるだけで1%になるということである。
おカネや株式をふんだんに持っていると
それだけで1%の特異な存在になるということである。

資本主義の次の時代がくる、まさにその時に
この1%になるだけで、もしかしたら貨幣やおカネ、富という
経済的な側面から開放されるとどうだろうか?

あとは自分の好きなライフスタイルを、
我慢すること無く謳歌するだけ?

「流された物欲」はなくなっていっても良いと思うが、
自分のライフスタイルを実現するための
「必要なものを必要なだけ買う」ため物欲はあってよいと思うし、
そのためのおカネは必要で、それならこの時代の移り変わりの時に
この1%に何とか入って、経済的な余裕ができることはなにも悪いことではない。
やっぱりそう思えてしまうのだが、
まだ資本主義にアタマを侵されているのだろうか?

投稿者 magurock 日時 2016年2月29日


確かに、最近は洋服もあまり買ってないし、ファッション雑誌も読もうとは思わないな、と『物欲なき世界』を読んで感じた。
でも、以前は買い物依存症のような状態だったので、自分自身だけの流れかと思っていたのだが。
それに、今だってライフスタイルにこだわりはないし、ライフスタイル雑誌にもファッション雑誌同様、あまり興味が湧かないし、と気乗りしないまま読み進めると、「幸福はお金で買えるか?」との章に入り、俄然面白くなってきた。
特に電子マネーについて。
個人的には、少し怖さを感じつつも、国や銀行に関係ない電子マネーの存在が大きくなるのは、なんだか痛快。
仕事の報酬などが電子マネーで支払われるようになったら、政府はどういう対策をとるだろうか。
実際、マイナンバーと民間企業のポイントカードとの連係案が示されたのも、内職やアンケート参加の謝礼をポイントでも受け取れるサイトがあるためではないか? と想像してしまう。
ちょっとしたポイント稼ぎにも課税されるようになったらイヤだなぁ……

課題図書でなかったら、途中で読むのをやめていたかも知れないと思うと、本書が課題図書でよかった、と思った。
でも、この著書の文章は最後まで好きになれなかったし、どうも価値観が自分と違っているように感じる。
いろんな意見を並べてはいるものの、自分の意見は匂わせているだけのようにもとれるし。
映画『さよなら、人類』の感想も、自分はあのシーンに幸福感は感じなかったしな……

投稿者 saab900s 日時 2016年2月29日


2月課題図書感想文


「資本主義は人を幸せにすることができなかった」という一文にとても心を動かされました。
これまでのドグマとして、お金を得ることによってより良い物を、多く手に入れることによって
思い描いた幸せにたどり着けるものと考えられており、私もそれを信じていました。
私にとって一昨年に大きなライフイベントが起こり、幸せというものの定義が大きく揺さぶられる
結果になり、延いては死生観にまで影響を及ぼしました。
転勤もあったことから、大自然の雄大さとスケールの大きさと、私自身の存在を対比したときに
地球という軸で考えた場合あまりにも人生の時間が一瞬にして露と消える事を改めて認識し、
モノより思い出、知識より体験が最も私の魂を揺さぶるものであると身体を以て知ることが出来ました。
知識は本を読めば身に着ける事ができますが、経験は実際にそれを体験しない限りは身に着ける事が出来ません。
この差は、似て非なるものであると考えます。
例えば、積丹半島の塩水雲丹も市場で売られているような雲丹ではなく潮の香りと食べたあとのクリーミーさ
と、意外に歯ごたえがあったり、そして雲丹が食べていた海藻の香りもあとから出てきたりと筆舌に
尽くしがたい味と体験でした。
本にもあったように「どのような時間を過ごすか」がアウトプットと人生として、大きく影響を受ける
事を身をもって体験することができました。

ひとつの生物として、何を以て命を全うするかという問いかけに、私にとって一つの答えをとあるBARに
垣間見た気がします。
そこには、会社を定年退職をした方がそれぞれが演奏できる楽器を持ち寄り、BARでライブをしている風景があり、
とても自由で楽しそうに演奏をしていました。ここでは上手いか、下手かというよりもどれだけ楽しんでいるか
が最も大切にされているようで、盛り上げ上手のMCと一見こわもてのベーシストの意味のあるような無いような、
でも水面下で信頼関係がある、言葉の掛け合いがありとても気持ちが解された感覚を持ちました。

会社勤めで60歳の定年まで会社に尽くした挙句、会社という看板が無くなったとたんに付き合う人が
いなくなるという状況は多くの場面で見られる光景かもしれません。だとすれば自分が参加できるコミュニティの
窓口を広げるためにも、自分で何かできるものを磨いておくことによって、将来の豊かさは自分で勝ち取る
事が出来るのではないでしょうか。

私にはまだまだ物欲がありモノの背景を知ったうえで購入する癖があります。無暗にハイブランドは求めていませんが
物欲の本質を見極めながら上手く付き合い、より豊かな人生を歩んでいきたいと思います。

投稿者 ishiaki 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

今まで、自分の考えは大体その場しのぎで簡単に思いついたことをアウトプットをしている「点」だけの視点でまさか自分がスマートフォンを持つような未来は想像していなかった。
それをこの本がなるほど、と感じにさせてくれたが自分に物欲がなくなるかと言ったらまだまだ先の話になってしまうような気がしてこの本の内容になかなか追いつけないでいる。

投稿者 J.Sokudoku 日時 2016年2月29日


”変化の兆しを読み解くって面白いなぁ”、これが本書を読み進めていく中で最初に持った感想である。著者は、「賢く倫理的な消費」/「買うことから作ることの復権」/「他者との幅広い共有」/「お金の再定義」/「経済的な数値だけでない価値への尊重」(あとがきより)について、変化の兆しや新たな価値観という観点から考察している。これらのことに通底していることは資本主義の変容があるようだ。従来の拡大を宿命としてきた金融資本主義、グローバル資本主義、消費資本主義、物質資本主義等と言われる資本主義が今後何らかの変更、修正を余儀なくされるのは間違いないのだろう。その流れは、現在行われているアメリカ大統領選にも見て取れる。資本主義を生んだプロテスタントが主流のアメリカで、資本主義の申し子と言われるアメリカで、民主社会主義者を自称するバーニー・サンダース候補が民主党支持の若者達から圧倒的な指示を得ている。そして、共和党からの風変わりなドナルド・トランプ候補も労働者階級の貧困層から大きな指示を得ている。支持政党を問わずこの二人の候補を指示する人達は、上に記した資本主義から恩恵を得られていないアメリカ国民という点で共通している。たとえ、他の候補が次期大統領になったとしてもこの少ないとは言えない民意を汲み上げないわけにはいかないだろう。
では、本書で考察されるように資本主義は本当に終焉を迎えるのだろうか?そして、それはどのような形で終るのだろうか?正直、自分には想像がつかないし、わからない...ただ、“資本主義が終わる激動の時代だ”と慌て大騒ぎをすることも無いだろう。何故なら、いつの時代もモノコトは移り変わりながら蜿蜒と流れていくもので、”今“だけが激動な時代でもないだろう。そして、そもそも資本主義が終わる、終わらない、が問題の本質では無いのだと思う。重要なのは、人々が求める「豊かさ」、「幸せ」の変化はどういうものなのか、そしてその方向性はどうなのか、ということだと思う。この「豊かさ」、「幸せ」を生むのは人の“こころ”だ。結局のところ、人々の“こころ”が経済を変えてゆくのだと思う。人々の“こころ”の有り様で「豊かさ」、「幸せ」とは何かが変わり、それが人々の行動を変え、そしてそれに合わせて社会環境や経済が変わってゆくのではないだろうか。

まずは、自分なりに“幸せ”とは何かについて考えてみる。本書の中で「幸せとは何かを改めて定義したほうがいいときになっている P.195」という箇所を読んだ時、“幸せとは自らで【主体的に使える時間】を持っている状態なのではないだろうか”と自然と頭に浮かんできた。そして、その【主体的に使える時間】の量は、幸福度を測る1つの尺度になり得るだろうと考えるようになった。
では【主体的に使える時間】の量を増やすにはどうすれば良いのだろうか。1つの方法は、非主体的な時間に”行なっているコト”を変えて主体的な時間へと変えることだ。例えば、非主体的な時間によく譬えられるのは労働する時間だろう。この労働する時間を減らして、そのほかの幸せを感じ得るコトをする時間に充てる。この方法は、本書で人々が物欲を捨て始めている現象が示すように一部の人達は行動に移し始めているようだ。ある程度の生活水準に達すると、それ以上の収入は必ずしも“幸せ”の向上には繋がらないと人々は感じているからだ。ジョン・メイナード・ケインズのいう「生活の手段にすぎないものに自分を売り渡さない人」達が増加してきたのだろう。これはこれで価値観の変化で良い流れだろう。
 ただし、殆どの人達は、まずは生活のために働かなくてはならない。一定の生活水準を得るために働かなくてはいけない。多くの人達はこれに当てはまる。であるならば、その労働する時間自体を“行っているコト”を変えないで主体的な時間にする方法に焦点をあてるべきではないだろうか。その方法で幸福度を上げることも重要であると思う。それは、自分も最近になって気付き試み始めている方法でもある。その方法とは、”行っているコト”は変えないで自身の“こころ”の有り様を変えることによって主体的な時間へ変えてしまうことだ。労働時間の話でいえば、日々のルーティン的業務でも内容に興味を持ち、意味を見出し、そして矜持を保つことだ。営業職の自身であれば、資料作成、電話対応、メールの返信等という日々何度も繰返すこの日常業務に対して自身の”こころ”の在り方を変えるのである(訓練はいると思いますが)。会社の業務以外の日々の生活におけるルーティンワークに対しても同じコトがいえると思う。自らの例で言えば、日課である自宅の風呂場掃除だ。何の変哲も無い普通のユニットバスの我が家でも、その場所は自分と家族にとっては、1日の疲れやストレスを癒す重要な場所と考えると掃除をおろそかにはできないと思うようになった。少しでもキレイにし、気持ち良く入浴し、癒されたい。それ故に、丹念に気持ちを込めて毎朝掃除をするようにしている。興味を持ち、意味を見出し、矜持を保つ、これが非主体的な時間を“行っているコト”を変えないで【主体的に使える時間】にする、すなわち“こころ”の有り様で“幸せ”な状態を作り出す1つの有効な技ではなかろうか(現に、自分は風呂場掃除時と入浴時は“幸せ”である)。

 次に、本書に出てくる「賢い消費」と「他者との幅広い共有」という点について考えてみたい。本書には、消費者が買うモノの裏側にある物語やヒトを見るようになってきたということが説明されている。そこにあるという理由だけでモノを買うという時代は、消費が一巡した先進国では過ぎ去った時代なのである。差し迫る必要性を有するモノが無くなり、また選択肢が増えた時代に、そのモノの表面だけでは無く、消費者がそのモノの裏側を含め立体的に見るようになるのは必然的な流れだろう。そう考えて、自分自身の周りを注意深く見てみると、この「賢い消費」の傾向を上手く掴んでいるビジネスが結構あるなぁと感じた。例えば、元サッカー日本代表・中田英寿氏がプロデュースする日本酒イベントは、まさにこれである(作り手である蔵元の物語を伝えることで消費者の共感及び購買意欲を換気している)。また、自分自身の買い物においてもそのような基準で何を買うかを決めていることが増えていることに気づいた。人間は、本能レベルでモノやコトに意味を見出そうとし、またそこに温かみや親しみのような感情を持つ機会を探し求めているのだろう。自ら気に入ったモノ、コト、ヒトと“つながりたい”と思うからだ。そうして見つけたモノやコトが他と比べて値段がある程度高くとも人は高い方を選ぶようになってきたのだ。
 上に述べた通り、「賢い消費」はそこに意味を求める。現在の人々が消費に意味を求める傾向は他にも現れている。それは、環境問題の観点からエコロジカルな消費に向かう傾向を見せているという点だ。経済発展の過程において、物質的な消費が奨励されることは、社会の発展には必要ではあったのだろうが、それが環境破壊を生んだことは間違いない。今、未来のために、サステイナビリティー(自然資源の持続可能性)を考えることは必要だろう。そして、倫理的にも当然のことだと思う。この考えは、現在と未来においての「他者との幅広い共有」だと言えるだろう。現在と未来はつながっている。現在の人々が未来の人々と“つながりたい”と思う気持ちは非常に重要だと思う。
 ここまで「賢い消費」と「他者との幅広い共有」について書いてきたのは、この2点において近い未来に我々“日本人の価値観や倫理観”が試される状況が訪れると思っているからである。それは、2016年4月から始まる電力小売り自由化という新しい制度によってである。最近、新聞・ネット・雑誌、または、電車広告、街頭での宣伝活動等で、多くの人達が電力小売全面自由化について意識が向けられるようになったのではないだろうか。自分の場合は、つい最近、ネットで情報を集めることを始めた。きっかけは、新聞で電力小売り自由化に関する記事の中に【発電源の表示が義務付けられている】という文章を目にしてからだ(その時、記事という文字の塊の中でこの部分だけが光って見えたのが凄いなぁ)。発電方法の種類は、バイオマス/太陽光/風力/石油火力/水力/地熱/ガス火力/石炭火力/そして原子力だ(おおよそで発電コストの高い順で列記)。原子力については、最初は含まれないが、今後、原発が再稼働されていけば表示の中に含まれていくだろう。では、その時に我々日本人は、どのような選択を取るのだろうか。現在を重視した短い時間軸で経済合理的判断を下すのか。それとも、未来まで延ばした長い時間軸での経済合理性を取るのか、というよりは、取れるのか。真の意味での「賢い消費」と「他者との幅広い共有」という価値観や倫理観が持てるのかを試される時だと思っている。未来の人々があの時の日本人は福島の悲劇から何も学べなかったと、何故なら経済成長というコトバに呪縛され続けていたからだと卑下される状況が訪れないことを願いたい。我々は、未来を思いやる“こころ”で経済を動かすことはできるのだろうか。

 最後に、今後の自分作りについて書いてみる。本書には、「教養=リベラルアーツが重要になる社会に先進国は舵をきりつつある中において日本は逆行 P.163」という衝撃的(?)な箇所があった。日本の為政者は、大学の人文社会学科系再編を進めようとしているのだ。端的に言えば、経済界の要請で大学卒業後にすぐ即戦力になる人材を大学で育てようとしているわけだ。そのためには、身に付けて直ぐには使えないと思われているリベラルアーツを削ろうということだ。企業に入って即戦力になる人材を合理的で効率良く育成できる大学教育を推進していこうとしているのだ。我々は、今後日本の教育が蚕食されていく現象の立会人になってしまうのだろうか。何故なら、この合理性・効率性を追い求めた教育は高等教育から中等教育へ蝕みを進めていくのだろうから。日本が多くの先進国のように、過ちに気づき、そして違う方向に舵を切らない限り。
 日本の社会が短い時間軸で合理性・効率性で効果を追い求める中で、自らは時間軸を延ばしてリベラルアーツを身に付けることでゆっくりと効果を待つことを意識していこうと思う。バランス良く幅広く様々な知識を内側に取り込み、蓄積され暗黙知となる。そして、その様々な要素が有機的に結びつき熟成されていく。それが知性を育むということなのだろう。そしてその知性がふとした時に内側よりフッと湧いてくるようになるのだろう。時には、とんでもない切れ味を伴って。またその知性が、自分の後ろに奥行きやストーリーを作ることにつながっていくのだろう。そして、そういうヒトが他の人達を惹きつけることができるのだ(新しい消費の論理と似ていると思います)。これからは家庭でも、会社でも軽視されがちなリベラルアーツにもっと焦点を当てていこう。さらに周りの人達にも薦めていこう。そうすれば、将来に向けて自分の周りに幸せの人達が必然的に増えていくだろう。

~終り~

投稿者 satonaka 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで
 物欲という言葉を最近身近に感じるのは、レンズ沼という言葉で言い表されるカメラの交換レンズが底なしに欲しくなってしまう物欲である。私は交換レンズがまだ3本しか持っていないが、レンズカタログを見ていると新しいレンズが無性に欲しくなってくる。このレンズでこんな写真が撮りたい、こういう写真はこのレンズじゃないとなあ等、妄想がどんどん膨らんでしまうのである。
 これは過剰な物欲だが、物欲とはこのレンズ沼のようにいい写真が撮りたいという目的がありその手段として生まれてくるものである。こうして考えてみると、よく聞かれる「最近の若者は物欲がない」というのは、何かをしたいという目的そのものがないのではないかと思ってしまう。
 若者に物欲がないように見えるのは消費が量から質へと変化したからだ、という声もある。しかしバブルの時代の方がいいものが売られ買われていた。消費が物から体験に移ったから物が売れなくなってきたのだという声もある。しかしバブル時代は様々な体験にも多くのお金が消費されていた。
 消費の形態が変わったから物欲が無くなったように見えるというのは、実はきちんと現実を見ていないのではないかと私は思う。物欲が無くなった理由は、身の回りにすでに必要なものがあらかた揃っていることと、それ以上のものを欲しがるには財力の余力が足りないからというのが真実ではないかと私は考えている。
 私が小さかったころは、何かを買ってもらうことがとてもうれしかった。今でも小さい子は同じだろうが、やはり今の子の方が何かを買ってもらう頻度も質も高くなっている。同じものを買ってもらって喜びの度合いは同じではないであろう。こうして小さいころから所有に対する喜びのハードルがどんどん上がっていった結果、社会人になるくらいには欲しいものは身の回りにすべて有り、それ以上のものはちょっと入手困難だからあきらめるという状態になってしまう。
 欲しいものがお金では買えないものにシフトしていくのではと、この本ではきれいにまとめているが、現実はそんな古い考えと新しい考えの相違ということではない。幸福の達成手段として物欲を満たすことで成し遂げてきた古い世代に対して、何が幸福かわからず何の手段も講じることができない世代が言い訳のように「量から質へ」と叫んでいるのが現状である。
 所有することという簡単な幸福実現の目的を失った世代はかわいそうである。自分で幸福実現の目的を見つけなければならないからである。その中で目的を見つけることのできる人はわずかであろう。見つけられない人達は物欲もなく、消費もせず、だらだらと残らないものにお金と時間を使っていくことになる。
 物欲が無くなっていくことを前提とした議論は目新しいが、何も解決しない。どうしたら世の中に物欲が戻ってくるのかをきちんと考えるときになっていると、この本を読んで感じた。

投稿者 shiorina 日時 2016年2月29日


この本を読んで、ますます未来の自分と対峙しなければならないと思いました。
また自分における幸せの定義を再定義する必要があるのではと思いました。

自分はある程度、将来自分のやりたいこと、自分の家族のことなど、どうすれば幸せに
なれるのか考え計画を立ててきました。
もちろんそれはまだ道半ばで達成はできていませんが、着実に1歩づつ進んでいるかと思います。

あらためてこの本を読んだあとに、その計画を見返してみると、
確かに物欲はあまりないことに気づきました。

それは、自分の大好きなスポーツと子供に対する社会貢献ができれば自分は幸せになれるのでは
ないかとという考えた末の結論でした。

そして大前提として、自分の一番守らなければならないもの、一番感謝しなければならない存在として家族を幸せにすることもありました。
これが最初にある程度達成できなければ、自分の幸せを考えるべきではないと思っています。

幸せの定義は、人それぞれ違うと思います。
自分は既にある程度幸せを感じています。
それは、目標があり、それに向かって懸命に生きていることだけで既に幸せはほぼ達成できているのではと思う時があります。

幸せを感じていない人は、もしかしたら、目標の無い人たちなのでは思います。

そして、この本を読んでの新しい発見は、
資本主義が終わったあとの新しい世の中で、幸せを感じることができるような準備を今から
しておくべきだと感じたことです。

資本主義の次の社会がはたしてどんな社会・世の中になるのかを、予測をする能力も必要になってくると思います。

それは人と比較することが無い世界のような気がします。

また、人のことを幸せにすることができることが自分の幸せに繋がる、そんな考え方がますます強くなる、当たり前になる世の中になっていくのではと思います。

そのような考え方は今から準備できると思います。
でも、それにはまずは自分の家族が幸せになり、自分が幸せにならなければと思います。

もしかしたら、人のことを幸せにするには、ある程度の経済力は必要になってくるかもしれませんが、その経済力を必要とせずに、
人のことを幸せにできるにはどうすればよいか、そんな準備がこれからは必要になってくるのではと思いました。

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投稿者 kawa5emon 日時 2016年2月29日


書評「物欲なき世界」菅付雅信 著

本書は先月の課題図書「未来に先回りする思考法」と合わせて読むとより有益だと思う。
なぜなら、「物欲なき世界」は現代の社会解説、問題点指摘の点で素晴らしく、
「未来に先回りする思考法」はそれらを踏まえた上で、これからをどう生きたらいいのか?という
問いへのヒントが満載だからである。

本書に於いては、世界中の現代社会に於いて何が起きているのか、また起きようようとしているのか、
世界各地での各種研究データ、主張が随所に登場し、現代版大人の最新教科書として素晴らしい。

そういう意味からも先月の課題図書を自分なりにまとめた後に課題図書投稿に継続的に参加することに、
非常に大きな価値があることを今回改めて感じることができた。
まずはこの機会に参加できていることに感謝したい。


さて内容に関して、本書の根底に流れる思想の一つ(著者の主張)は、
自分の身の回りに物理的な欲しいモノを揃えれば(更にグレードアップしていけば)、
人生の「幸せ」を得られるはずだという考えが実は幻想で、自分たちが求める「幸せ」は
その延長上にはないという、謂わば「モノ信仰」の化けの皮が剥がれたということだと思う。
その認識に於いて、現状の資本主義が崩壊寸前、又は新たなステージを経ようとしているとの趣旨には
大いに賛同する。

では、何故そうなったのか?自分なりに思考を重ねてみた。

元々はモノが不足している時代、モノを手に入れることは必要であり、そして憧れでもあり、
そして所有が「価値」であったはずだ。
しかしモノが溢れ、自分達の身の回りに必要十分のモノが揃い始めて以来、徐々に消費者は違和感を感じ始めた。

その違和感とは、
・お金を稼ぐ→モノを買う(消費する、所有する)サイクルを繰り返しても
一向に「幸せ」にならないことへの疲弊。
・モノ供給側優先の消費社会(価格重視、売り上げ重視、購入させようとする巧みな仕掛け、
つまり供給側の際限なき膨張)。
・所得格差の拡大、地球環境への負荷増大など居住空間、社会、地球全体が
望まざる方向へ向かっていること。

であり、そこで自分たちの足元(消費)を顧みた時、

・本来は欲していないモノを半ば恣意的に買わされていたことに気付いた。
これを更に踏み込んで自分なりの表現で言うと、
・そこに自分らしさが無いことに気付いた。
つまり、見た目、安さ、便利さ等の外的価値ばかりを買ってきたことで、
「自分のらしさ」を売っていたことに気付いたのではないか?ということだ。

本書中でのインタビュイー一人のコメントが自分にはとても印象的だった。

「私たちの活動は、巨大産業から創造性を人々の手に取り戻すための招待状なのです。
それも単なる消費者ではなく、生産者となるための。」

ちょっとしつこいかもしれないが、ここはさらに補足を入れたい。つまり、

大量生産、大量消費システムの流れから出てきた生産品には、「自分らしさ【自分の魂】」が無い。
更には、そのようなモノを買うことは、自分の「魂」を売ることと同義なのではないか?というだ。

そのモノに自らの手を入れることで、今まで無意識的に売っていた「自分らしさ【自分の魂】」を
自分に取り戻すプロセス、
これが本書で紹介されている「本当の幸せを取り戻すムーブメント」だと自分は捉えた。


実はこの感覚は、今の自分の感覚とほとんど同じである。
寧ろ世界各地で現状に疑問を感じ、より幸せで、環境になるべく負荷をかけず、
持続可能な社会はどうあるべきなのかを、実生活を通じ、実践している方々の内容・各種コメントを
目にすることが出来て、とても勇気付けられた。

更に驚いたのは、すでに中国で少数派であってもこの動きがあること。
単なる「爆買い」人種と一元的に判断すべきではないと反省した。


やっぱり明らかに、ここまで発展した大量消費、大量生産による資本主義経済システムは、
そこで生きるすべての「命」にとって、健康的で、あるべき姿だとは思えない。
発展途上国等でモノが不足している場面を見れば、先進国のモノが溢れ返っている現状は、
何かがおかしいのである。
農家出身の自分の経験からすると、やはり店頭に、誰が買うのかもわからない大量の商品があるのは、
明らかに違和感を伴うし、資源の無駄は明白である。


今後の新たなシステムの到来も、もう時間の問題であろう。
この大量消費・大量生産を中核とした超資本主義システムはボロばかりで、賛同も出来ない。


しかしさて、このような変換期にあって、個人戦略はどうしよう?
自分なりに現時点と、今後を考えてみた。

まずはこの好ましくない流れ(システム)をいち早く終焉させる必要があるだろう。
個人レベルでの取り組みは短期的には決定的な打撃を与えるとは思えないが、できることはある。
しかも参加者の数が増えれば、その力は無視できないものになる。
そのためにはやることが、シンプルである必要がある。

それは、本書でも紹介の“消費は投票である”を実行することである。自分は既にこれを実践している。

この大量消費・大量生産を中核とした超資本主義を終わらせるために個人レベルでできること、それは、
・そのようなシステムを維持していると思われる商品・サービスを買わないこと(投票しないこと)。
・自分が本当に必要で納得したものだけを買い、前記の流れと相反している(又は関係がない)
商品・サービスを買うこと(応援すること)。
である。難しくない。

具体的に自分の場合、食品における大手チェーン店のファストフードや、価格重視量販店で販売のモノは買わないようにしている。
賛否両論は別として、やること自体は簡単である。買うモノをより意識するだけだ。


そして今後だ。
前述内容と重複するようだが、今までとこれからは以下のような消費の時代だと思う。

今まで:幸せを自分の外部に求めた時代(他人との比較が重要。しかしそこに自分の幸せは無い。)
これから:幸せを自分の内部に求める時代(原点回帰とも言える。自分の息がかかったモノ・コトを
身の回りに揃える時代)

具体的行動に際し、ヒントと成り得るポイントは、
・自分自身を再度見つめ直すこと(価値を自分の中に求める)。
・より積極的な情報発信(多種多様な他人とのコミュニケーションが、より自分の存在意義をはっきりさせてくれる)。
・他人の自己実現の手助け〔ストーリーを提供する(各個人が自分自身を考えるキッカケを提供する)、
少なくとも自分の試行錯誤情報で共感を得る)〕
つまり、自分自身を心身共に鍛錬し、その共感者を増やしていくことである。
自他の関係はもちろん「智の道」の関係である。

そしてこれは、先月の課題図書にそのやり方のヒントがある。
更に既に、上記を実践するためのツールは、インターネット上にあるではないか。
新たな世界への扉は、失敗を恐れず、自ら行動する。それだけである。
そしてその一歩と継続が新時代に乗り遅れないようにするためには大きな一助となるはずだ。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

投稿者 6339861 日時 2016年2月29日


物欲のない世界が先進国を中心に浸透しつつあるという。
資本主義社会で、人間は無限の物欲があるのかと思っていたが、
それもあるところまで行くと、臨界点を迎えるらしい。
もちろん、大きな収入が期待できなくなりつつあることも影響していると思う。
そうなると、当然消費は落ち込むわけで、それに伴ない、
GDPは低下することになるだろう。

企業に求められるのは、、
どんな業種でも、オリジナリティや、カスタマイズ、より踏み込んだホスピタリティ
といった差異化だと思う。
本書では、百貨店の例が挙げられていたが、
今、私が携わっているIT業界にしても、よく言われる製品の
コモディティー化が進みスペックの差異は小さくなっている。
このような環境で企業が生き残るには、ターゲットユーザを絞り込み、
そこの上流に深く入り込んでいかなければならなくなるだろう。
具体的には、ユーザが解決したい問題を認識した直後くらいまでさかのぼり
どういう方法で解決するのか、選択肢を示してそのメリット/デメリットを
説明し、その解決法を採択した際に起こる関連事象まで考慮してきめ細かい
対策を提示しなければならなくなっていく。
そうすることで、顧客の満足を得られ、次の受注チャンスが拡大していくのだが
この方法もかなりの営業経費をかけることになり、企業にとってはリスクを
伴うことになるだろう。
特に人材育成については、百貨店の例でも示されているが、これからの時代に
マッチした人事戦略を立てて、計画的に育成しなければ競争力を保てなくなるだろう。
例えば、商品・サービスの知識にとどまらず、顧客業界に必要な関連知識や
国の経済、施策や世の中の流れにも精通し、顧客と良好なコミュニーションを
とれる。。そのような人材が求められる時代になってくると想定する。

お客様も物欲レスの時代では、見栄とか、ステイタスといった概念はなくなり
経済合理性で、意思決定することになるようだ。

昔は、家や車が本人のステータスとして、モノの機能以外に消費の誘因になっていたが、
今後は、より【お得】なものが誘因になっていく。
これもネットの浸透による情報収集の容易性が原因と考えられる。
実際に家や車のローンは、非常に重く、それを苦痛と感じている人に
シェアハウスやカーシェアリングのお得度を実際に数字を受かって訴求すれば
効果の高いマーケティングが可能だろう。
なるほど、そうなると、ますます物欲レスな世界になっていくわけだ。

いったい、どこまでGDPが低下するのだろうか?

行きつく先は、合理性を追求した暮らしのような気がする。
特にこれからはさらにテクノロジーが進化し、コンピュータが最適な
意思決定を下してくれるようになるので、働かなくても収入が小さくても
それなりの暮らし方ができるようになってくるのだろう。

それで、今までのようにモーレツに働く人が少なくなり、いずれ
「昔は週5日も働いていたんだね~」なんて懐かしむ時代がくるのかもしれない。

投稿者 sakurou 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

この手の重い話題の課題図書は毎回スッキリとしない読後感なのだが、今回のは特にひどかった。
読み終わった後に、得も言われぬ、身の毛がよだち、冷や汗がタラリと流れる気がしたのだ。

本書はこれから間違いなく起こる、資本主義の終焉とも言える大きな変化を的確に予測していると確信し、不安を覚えたからだ。
しかし、本書はよくありがちな、いたずらに不安を煽る本ではない。これから起こる、お金が無くても幸せに生きるためのヒントが沢山ある。

ところで、本書に関連し、個人的な話で恐縮だが、今乗っている車がそろそろ買い替えの時期を迎え、非常に悩んでいる。軽自動車に乗り換えた人もいるし、国産より高額な輸入車に乗っている人もいる。昔は「いつかはクラウン」のコピーの通り、昔は持つことがステータスであり、カローラからクラウンという車の出世の王道のようなものがあったが、今はもはやクルマ離れが進んでいて、若者は車を持つことさえしない世の中になっている。今や高級車もレンタカーやカーシェアで乗れる時代になった。また、自分で買った車をシェアに出して維持費を稼ぐというのもある。
車一つとってもこれだけ多様な選択肢ができて、良い時代になったなと思う。

前置きはこれぐらいにして、本書を読んで気になったことを以下ににまとめる。

1.もはやお金ではない

お金は紙ではなく、もはや銀行口座やICカードの上にある単なる数字でしかないということに気付くと、お金に対する考えも変わってくる。

ロッタへのキッスでお酒が飲めるのもいいが(笑)、個人発行通貨というのは面白い。個人の信用で生活できる世界があってもよい。実際、地方での野菜のおすそ分けとは日頃お世話になっている近所の方に感謝し、より良いお付き合いをするための行為であり、ある意味信用で生活しているといっても過言ではない。

個人の信用やそれがITを使ってうまく流通できれば、副収入程度にはすぐなるのではないか?と思ったら実はクラウドソーシングはまさにそれで、仕事を頼んだ人からその人への評価が出ていて、信用を高めて、時給の高い業務を得ている人がいる。これはある種の信用をお金に変えているわけだし、たまたまお金というのが介在しているだけで(しかも実際会っているわけでもなく、単にネット上で送金しているだけ)、ある意味個人発行通貨と言っても過言ではない。通貨に必要な発行体機能はクラウドソーシング事業者が担っている(嘘の評価ができない機構になっている必要がある)。クラウドソーシングで稼ぐ人は副業ではかなりいるだろうし、この流れは止められないだろう。
当然クラウドソーシング事業者が廃業して自分が積み上げた評価が無くなるリスクがあるが、複数クラウドソーシング事業者に登録すればある程度ヘッジできるだろう。
(複数クラウドソーシング事業者にまたがり、評価を管理する機構があれば良いが。。。)

2.今の世界はまだ物欲を引きずって出来ている

バブルが弾けてだいぶ経ち、不景気と呼ばれて久しいので、物欲に対する考え方がだいぶ変わったと思っていたが、本書を読んで、僕は違うと気づいた。バブル崩壊から確かに25年ほどになるし、本書にあるSATCはほんの15年前の話だし、長い歴史を見ればほんの一瞬である。

今の社会構造の多くは高度経済成長やバブルを知っている人が作り上げている。本書にある営みは今はまだマイナーなのかもしれないが、もう数十年たち、ポストバブルの人が殆どとなった時、世の中の作り方もだいぶ変わっていると思う。

なぜならば、日本国債が破綻することになれば、否応なしに行政サービスが縮小されることになる。先月の課題図書にあったように、行政サービスが民間に代替され、生活保護はベーシック・インカムに置き換えられるとすれば、本書にあるような考えで強制的に「物欲なき世界」に移行せざるを得ない。

そうなった時に力を発揮するのが、この本にあるような、モノではないものに価値を見出し、それでビジネスにして社会を作る人々だろう。

中国も「爆買い」と言われ、まさにいま日本で言う高度経済成長にあるが、今年に入り、景気後退に入っているのは確実で、本書にあるように上海のアンテナの高い人はモノに囲まれた生活の限界に既に気づいているようで、いずれ今の日本のようになるだろう。
(そう考えると、日本は高度経済性業からバブル崩壊までは約30年だったが、中国の動きはそれより遥かに速いことに驚く)

もしかしたらここ数年の経済変調が新たな日本を形成する絶好のチャンス(敢えてピンチとは言わない)になるだろう。

3.ITが幸福な世界を創る

価値がモノから情報へ、モノとのつながりから人とのつながりへ、お金のような存在感のあるものから口座残高の単なる数字のように存在感のないものへ、という様々な変化は、ITの普及による一大変化と捉えるとストンと腹落ちする。
情報が瞬時に伝わり、SNS上で近況や感情をやり取りし、電子マネーでポイントを貯めて買い物する(ポイントも擬似貨幣)。

当然、課題図書ではお約束のGoogle、Amazon、Facebook、Apple等が絡んでいる。

これまでに無く大きな価値を持ち、新たな人間関係、コミュニティが形成されてくる。

今当たり前のようにしていることだが、これは人類史上無かったものであり、ITの進化の素晴らしさ(と恐ろしさ)を感じずにはいられない。

今や日用品はほとんど100円ショップで手に入るが、ITが無かったら世界中で生産されたものが低価格で入ってきて、日本人の生活を支えることもない。

これからもITは社会基盤として、私達の生活を支えることになる。私達の生活がより楽になると思うとワクワクする。

もちろん沢山のお金は無いのかもしれないが、地方で安く住み、図書館の本で知性を磨き、SNSで地域関係なくつながり、クラウドソーシングで稼ぎ、幸せに暮らせるならそれでもよいと思ってしまう。あとたまに都会で刺激を受ける必要があるくらいか。

 

そうそう、冒頭に話した車はもう少し乗るとして、その間に次の展開をじっくり考えることにします。自動運転が早く出てきて欲しい。。。

投稿者 diego 日時 2016年2月29日


ひょっとすると未来は幸せかも

死ぬ頃のことを想像したり、老後の一人暮らしを想像したりすると
共同体に属しきれていない私はとても寂しい存在かもしれない、
お金がなくて、細く生きていくしかないのかもしれないと考えて、
不安に苛まれていた時期がありました。

「物がない暮らしが『シンプルな暮らし』ということになって
カッコいいとしたら、それはお金のある人が行っているからでは?
お金がなければそれは
そうせざるを得ないからだと思われることもあるだろう」と
思っていました。

本書を読み、自分にとってのお金の意味が
非常に曖昧であることに気が付きました。
お金が、とあるステータスや余裕を示すものと考えていたり
とある可能性であるように感じていたり
兎に角、あれば安心、と思っていました。
ですので、社会情勢がどうあれ、
使うことよりもキープしておくことに
重点を置く生活をしていました。

「お金は信頼」ときっぱりと言い切る著者の意見を読み
お金を使う時に感じる抵抗が少なくなりました。
自分が信じているものや応援したいことに対して
素直にお金を払うことが、これからはできそうです。

自由に使えるお金がなくて
つらい思いをしたことが過去にありましたが
その思いは、
どちらかと言うと、お金がないから皆と遊びに行けないとか
お金がないから、学びたい学習プログラムが受けられないとかだった訳です。
お金を払わなくても得られる遊びや学びが増えている現代に生きていて、
「お金がないから」が減っていくとしたら
未来はひょっとすると幸せかもしれないと、
本書を読んでそんな風に考えるようになりました。

シェアハウスや育児シェアの話題もあり、
年代を越えた学びや遊びにも触れるチャンスが
誰にでもあるかもしれないということも
将来を明るく照らしてくれるようです。
大勢の子供や孫に囲まれることはあり得ないとしても
新たな方向に充分に成り得ることでしょう。

連綿と綴られた様々な方々の意見、活動を読み進めるうち
ひとつの大きな時代の流れに至るという本書の構成に馴染むうちに
難しそうな経済学のトピックにリアリティがあることを感じました。

ありがとうございました。

投稿者 chaccha64 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

世の中は「物欲なき世界」へ向かっている。
単純な「物」を購入することに対する欲求が少なくなっているだけ。人は幸せになりたいという欲求がある。これの一つが物欲となって現れていただけ。
戦後の日本、それ以前もですが、特に戦後は、物がなかったし、高価だった。そのために、物を手に入れることに躍起なった。そして、物を手に入れることは満足感を伴っていた。三種の神器と言われた掃除機、洗濯機、冷蔵庫、これらは生活を楽にしてくれる。その上、性能がいいものを持つことで優越感もあった。その流れで、物を手に入れることに躍起になってきた。
ところが、バブル後、特に2000年あたりから、物の価値が変わった。ライフサイクルが短くなった。2、3年、ひどいものでは1年も経たないうちに、品質は良くなるし、価格も安くなる。そのために、「物」を手に入れたという満足感が得られない。物の価値が、幸せの価値だと思っていた人が減っていく。そうして、購買が減ってきた。
物では幸せになれないとわかった人から、何が幸せなのかを考えるようになった。それが、ライフスタイルであり、趣味であり、働き方であり、暮らし方なので。自分らしさを考え、自分らしい幸せを求めている。そういう意味では、これからはいい世の中になるような気がする。期待したい。
とはいえ、いろいろな人がいるし、それぞれの幸せは多様なので、今まで様な「物」に代表されるようなものが出てくるのだろうか? そして、それは一つなのかも良くわかりませんが、心をほんわかにしてくれるものにはなるでしょう。
しかし、そのような世界が近づきつつあるのでしょうが、昨今の海外からの旅行者の日本での「爆買い」という現象があります。主に中国人なのでしょうが、これは今までの「物欲」の論理です。この本の中でも中国の一部の富裕層のもの離れの例がありますが、それはまだ本の一部なのでしょう。世界は広い。このように、物欲がまだ支配していなかったところへ浸透していく余地があるということ。物欲が世界の隅々まで広がるにはまだまだかかりそうだ。というようにも思えるが、早く「物」に変わる新しい世の中が来ることを期待したい。
そして、どのような世の中になるか予想できればビジネスに繋がるのでしょうが...難しいですね。

投稿者 gizumo 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」菅付雅信著を読んで

 ここ最近でもっとも読みづらかった課題本だったと思います。内容的にカタカナが多く、その意味さえ自分にとってはあいまいなのでより難解に感じられ課題本でもなければ絶対に向き合わない、読み進めない本でした。それにチャレンジした自分をまず認めたいと思ってます(自分に甘い?!)
職場ではみな、自分より年下の環境となり、「ちがうな~ぁ」と痛感する今日この頃。それが“良い”“悪い”ではないというのは理解できるほどの心の準備はできているつもりですが、やはりジェネレーションギャップに対する戸惑いは隠せません。彼らは確かに物欲はないけど自分の大切にする物にはこだわり、キチンと意思表示をする。お金なんか必要ないと語りつつしっかり確保はしている。決して“仕事”が一番ではない・・・。昭和ど真ん中の自分には戸惑う事ばかりです。
 この本で語られているほとんどが、ネットによる情報社会を前提としており、ちょっとかかわっている自分はその恩恵も受けているが、いわゆる「情報弱者」にはますます厳しい現実になるだろうことも感じられた。
 また、ぼんやりと思ったのは「一周したのかな・・・」という想いです。「これからは農業」と言われ、「コミュニティ」や「子育ての共有」、「シェアリング」と言葉はしゃれているが「共有」なども昔の日本では当然であったことで、昔に戻った感があり、この点は人間は変わらないことを改めて実感した。
 最終的に、自分が感じたことは「考える」必要性だと。みなが持っているから自分も所有する、周りと比べるために所有する、などではなく「自分がどうありたいか?」が大事になってきており決して所有ではないことが「物欲なき」と表現されてしまうのではないかと感想を持った。まだまだ物欲まみれの自分には職場の若者たちを観察する良い観点を得る機会となった本でありました。

投稿者 nkatani 日時 2016年2月29日


~物欲なき世界を読んで~

この本を読んで、「資本主義」という考え方に限界が見え始め、
時代の潮目が変わろうとしているという事を強く感じるようになりました。

「お金で買える幸せ」があるため、「お金が自分を幸せにしてくれる」と錯覚してしまいがちではありますが、
「お金」は「幸せになるための一手段」であって、
「幸せになるための方法」ではないと気づいた人が多くなってきたのだと思います。

また、物やサービスが飽和することによって、
価値観が多様化し、モノからコトへと価値が変化してい行く流れが見て取れました。
物自体ではなく、そこから得られる満足感に価値を感じる人が増えている、
と言う事は、多くの人が「上っ面の部分ではなく、本質的な部分に価値を見出した」という事だと感じます。

この流れよって、幸せになれる人が多くなると考えれば大変好ましいことではあると思いますが、
同時に「幸せになるための指標をなくす」事にもなるため、
「(自分にとって)何が幸せか」を常に問い続けなければ、幸せを見失い、
そこ遠ざかってしまうということでもあるということでもあります。
油断をしていると、メディアなどに誘導され、いいようにされてしまうかもしれないので、
注意しないといけません。

「幸せ」に近づくためにはどうすればいいかと考え続けていると、
「読書をしていろんな価値観に触れ、多くの知見を得るのが良い」という結論に思い至りました。
引き続き、読書を続け学んでいこうと思いました。

投稿者 BruceLee 日時 2016年2月29日


正直、理解しにくい1冊だった。著者が元編集者であるが故なのか、
様々な人とのインタビューや掲載された文言の切り貼りが多く、
どこぞの誰々が何々と言っている、とあるが「で?」となる事が
多かった。つまり著者自身のメッセージが良く分からなかったのだ。

が、読みながら感じたのは、著者のメッセージは「人生がときめく片づけ
の魔法」のこんまりさんのそれと似ているかも、という事だった。
個人的に、あの本のメッセージは、片付け自体が目的ではなく、人生が
ときめかせる方法、と理解している。「身の回りの不要なものは捨てて、
あなたがときめきを感じるものだけ残して。そうすればあなたはときめく
物だけに囲まれるのだから、あなたの人生がときめくでしょ」と。

明確に書かれている訳ではないが、本書の行間からも、人々が求めるのは
物自体でなく、その物を購入する事で得られる「ときめき」が 今後の
キーワードであると感じだのだ。ポートランドの話も、既にそのような
ときめきという精神性を重視した生活を目指す人々がアメリカで増えて
いると理解した。 とすれば、こんまりさんの本がアメリカでベストセラー
になった背景として、そのような高い精神性を持った人が多いという事で
辻褄が合う気もする。

日本では高度成長期、白黒テレビ・洗濯機・冷蔵庫の「三種の神器」
或いはカー、クーラー、カラーテレビの「新三種 の神器(3C)」があった。
人々の生活を便利にし、楽しませる新製品の登場。一方、当時は一般庶民
にとっては高嶺の花(欲しくても買えない)であったが、企業はこれらが
あれば生活が薔薇色になる的な宣伝を大いにしたと想像する。だから庶民の
「あこがれ」となり、高度成長と共に人々の生活や収入が安定する過程に
おいて、一般庶民の家庭にも揃えられ、今ではこれらを持たない方が珍しい。
ある意味、これまでは庶民の物欲をひとくくりに出来た時代と言えるかも
知れない。

が、現代は人々の価値観が多様化している。「○○があれば幸せ?」
と聞かれても「そうでもないかも」という人々の反応。人々が
「モノじゃ幸せになれないんじゃね?」 と気付き始めた過渡期が現代
ではなかろうか?

ここに大事なポイントがある。物が欲しくても「買えない」という、
経済的事情による理由(選択肢のない状態)でない限り、現代の我々は
大抵の物をお金さえ払えば得る事が可能だ。が、そこに「自分の生活
には必要ない」という価値観があれば「買わない」という「選択」を下す
事も可能だ。つまり背後には常に「自己判断」が下されているのだ。
逆に経済的に「買えない」ならば、そこに当人の思考プロセスは入らない。
考える以前に「(お金が)無い」のだから考えようが無い、考える自由も
無いのだ。そうではなく、お金があっても「買わない」選択をするという
事は都度都度、自己の価値観を照らし合わせて、選択する、つまり判断する
自由がある、のだ。この自己判断こそ自身の精神性の表れなのだろう。

最終的に、人々の購買に対する価値観は、ここに集約されるかもしれない。
欲しいものを次から次に購入した結果、何が大事なのか分からなくなって
しまい「本当に自分にとって必要なもの、ときめくものってナンなの?」
という問いかけ。その次に来るのは「折角買ったのに捨てたら勿体無い」
とか「これは高かったから」等と言う理屈ではく「ときめくか否か?」
というのがこんまりさんのメッセージであり、本書のメッセージは、
次の段階として、モノを買う前に人がそれを考える時代が来てるよ、
という事なのだろう。

ここで、我々は2つの見方で考える必要があると思う。顧客の立場と
ビジネス(ウー)マンの立場だ。まずは顧客の立場で考えてみる。

何かを欲しい!と思った時、金銭的観点から「買う」、
「買わない(買えない)」という判断だけではなく、 自身の価値観
に問いかけ「本当に所有する必要がある?」というワンステップが
入る事になる。その回答がYESなら「買う」し、NOの場合は「買わない」
になるが、それだけではなく、所有する必要は無いが、時に使う必要
がある、となれば「シェア」や「レンタル」もあり、となるだろう。

一方、ビジネス(ウー)マンとしてはどう捉えるべきか?人々の
価値観が多様化すればビジネスモデルも変わる、ということを認識
せねばならない。例えるならメーカであってもこれまでの「購入」
して頂ける対象が顧客、ではなく「使用/利用」頂ける対象が顧客、
というビジネスモデルだ。「シェア」や 「レンタル」はそのような
ビジネスモデルだし、その時に他社と差別化要因となるのは、例えば
ホテルなどで明らかだが、もの自体ではなく「サービス」に移行して
いくのだろう。購入して頂く事が目的、ではなく顧客満足度という
指標が常にウォッチされる時期なのかもしれない。
*これはこれで、営業のインセンティブ指標がより複雑になり、
  議論を呼ぶかもしれないが(笑)

一方、そのような視点で考えれば新しいビジネスも創出されるかも
しれない。例えば私が購読してる家事をテーマにしたメルマガで、
掃除ではなく「ま、いっか」で全てを片付けようと試みる大胆不敵
なモノがあるのだが、先日、非常に感銘を受けたのは「老後破産」が
トピックに上がったシリーズで、最終的にコミュニティの重要性に
言及し、今後各個人の「他者とのコミュニケーション能力」が問われる
時代となる、というのがあった。これは本当に考えさせられたのだが、
所謂高額な費用が必要となる老人ホームでなくても、人々が集まり
お互いが助け合っていくスモールコミュニティの、有り得る形かも
しれない、と思ったのだ。今後提供される形として、物でもなく、
高額な費用が必要となるサービスでもなく、一般人同士が共有する
事でお互いに幸せを感じあえる価値観、と言う観点で考えると、
もしかしたら全く新しいビジネスもありだと思うのだが。。。
どうだろう?

そんな発想が出来るか否か?が、問われる世界に我々は遭遇している
のかもしれない。

以上

投稿者 ktera1123 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」ってなに。
以前(今もやっているかな)のテレビコマーシャルで、「ものより思いで」(某自動車メーカー)、「プライスレス、お金で買えない価値がある」(某カード会社)と今も耳に残っているキャッチコピーがある。
このころから、徐々に所有するものでなく、楽しむもの、体験するもの、借りるもの(「わ」ナンバーのベントレー、ベンツ、リムジンがあり結婚式で友人、知人が借りてきて乗り付けた話を聞いたことがある)、シェアするもの(公共交通機関は究極のシャアの形では)、自ら作り出すもの(週刊○○をつくるなどのパートワーク)になってきたのかな。
「○○に完成はない。」との金言があるように、ものをつくる過程が楽しいのであって、所有しているものを眺めるだけではつまらない。所有している数を誇るものでもないし、金の力で買い集めるものでもない。マスプロ的な生産物ではそのうち再生産がかかるものだし、プレミアがつく転売目的でもない。
「物を持っている=ステータス」というライフスタイルが昔あったけど、これからは「作り出す喜び、体験する喜び、表現する喜び」がこれからのキーワードになるのかな。

投稿者 vastos2000 日時 2016年2月29日


『物欲なき世界』


本当に物欲が無くなってきているの?本当にそうなのかなぁ?
単純に80年代~90年代と比べて平均所得が低くなってきてるから、買いたくても買えなくなってる人が(若者を中心に)増えてるだけじゃないの?それを「ライフスタイル」に逃げてるだけじゃないのかな。

確かに、アメリカや日本はすでにモノはすでに飽和状態。で、今は時間を買ったり、質の良い者にこだわったりといった人たちが増えてるんだろうけど、それを持って物欲が無くなってきてると言えるのかな。
この本で取り上げられてたシェアハウスだって、自分ひとりで住む部屋を借りたり買ったりする金がないから普及してきてんじゃないのかね。

バブル景気の気配が残っていた90年代の女性ファッションは、プラダやらグッチやらシャネルやらを統一感なく身に着けていたけど、あれは広告に踊らされていただけじゃないのかな。今だって、「友達が大事」「イイネ!をたくさんもらうのがクール」ていう空気に流されてソーシャルメディアに時間を費やす人が増えてるってのが実情じゃないの?

と、毎月家計のやりくりにヒイヒイ言ってる俺だからこんなヒネクレタ見方から入ったけど、資本主義がそのうち終焉を迎えるというのは同意。
前代未聞のマイナス金利の状況で、資本が利潤をもとめて肥大化していくのももう限界が近いのではないかな。
でも資本主義が終わったとしても、人類が滅亡するわけじゃないし、いまさら原始的な物々交換や完全自給生活になるとも思えないから、電子マネーのような信用をベースにした通貨が今のお金と同じように流通するんじゃないかな。今までだって、クレジットカード(まさに信用をもとにしたもの)を使用する場合は現金に触れることもなく、通帳の残高が減るだけ。マイレージやTポイント、アマゾンポイントなどは市場を限定されるけど、現金と同じように使用できる。
さらには国家が通貨の発行権を失うとどうなる事か。多国籍企業が新たなる帝国として実体をもつようになってくるかもって思う。価値観が変わるポイントが近づいているのかも。

そんな状況下で個人として何ができるんだろう。今の俺の仕事(マーケティング担当+営業のようなもの)の枠内で考えてたら、仕事そのものが無くなっちゃう事態になったら失業者が一人増えるだけだね。今から死ぬまでの数十年のスパンで打算的に考えると、ポルトガル語となんかの専門性をかけあわせて、海外からの移住者と日本社会を結びつけるようなことが見込みあるかな。ネガティブな例だけど、警察だって、スペイン語やポルトガル語を話せる職員はほしいだろうし。それに自治体や、大学・高校なんかの教育機関もそうだろうしね。ある程度考えたらあとはそれを実行できる覚悟と仕組みを作らなきゃ。

投稿者 wapooh 日時 2016年2月29日


201602【物欲なき世界】を読んで

『しまったなぁ』と先月同様の一言を、まずは課題図書ほんの数ページを繰りながらつぶやく。なんとなく、最近の課題図書は、「考える脳で世界の情勢を見る思考」を問われている気がするのだ。去年1年ずっと課題図書を読むことも感想文も書いてこなかった。
『しまったなぁ』。本書の冒頭で「ライフスタイル」というマーケット手法について紹介されている。モノ、単品では売れなくて物を手にした先の快適な生活を人々は選択するという。でも結局は、消費しているだけではないのだろうか?「快適」「おしゃれ」という付加価値で提供された「ライフスタイル」というパッケージを購入しているようにしか思えなかった。ふと、先月の課題図書を思い出し、ぞっとする。情報化社会において、消費者は知らず用意されて選ばされている未来に気づかず、自分の意思で選んでいるかのようにまたは、自覚して選び消費する。それは考えない消費者が増えるということに他ならないのではないか?と身震いした。
『しまったなぁ』。たとえば先月の課題図書をぐっと読み込めたらよかった。情報化社会を見越すなら、もっと前の課題図書Googleの本を読むべきだった。グローバルな視点から労働とか産業の移動とか語るなら地政学の本とか読んでおけばよかった。これまでの産業が支えた有形の技術文明とこれからのIT技術による文明社会について想像を巡らせて本書を読むのであれば、科学技術なくして現在の文明を再生するにはという本を読んでおけばよかった。
そういえば『下流社会』とか『不平等が健康を損なう』も思い出される。
知性の豊かさが生きる力となることがここ最近の課題図書の狙いなのでは?と積読を重ねている身で想像して悔しくなっているのである。。。妄想はこのくらいにしておいて。。。」
『物欲なき世界』とは、決してモノがあふれて便利で、欲望が低下した社会というだけでは済まされないような気がした。『所有に価値を見出せなくてシェアという産業が商機を見出すことによって、ハードが売れなくなり経済が縮小する報告に向かう』世界がやってくるのでは?と思った。
先月の課題図書の内容に感化されたのかもしれない。私たちの消費欲さえも解析し予測し用意されてしまう情報化社会の中での『物欲なき世界』。当たり前のように目の前にある物たちに対して思考せずに嗜好する社会。『欲』がないのは欲しいのではなく、もはや『物を考えない』がゆえの無さではないのではなかろうか?本書の言う通り物が売れない時代に目を向け続けるのもよいが、これからを生きるのに必要なことは何だろうと思うとき、『イメージができるか否か』『物の成り立ちを体験してきたか否か』もしくは『小さな自分の身体感覚で想像できるか否か。そういう思考の時間を持てたか否か』が大切になるのではないだろうかと思うのだ。
IT技術が進み様々なことがブラックボックス化してしまった中で、ヒトは考えることも汗水たらして苦労することも少なくなっている。この温暖で平和で便利な日本の世の中は特に。本書に記されている「人は目に見えるものしか見えない世界からのシフト」という意味合いのことが後半何度も出てくる。今のように経済が破たんして、安価な労働力を求めて産業が空洞化しかけてファブレスな日本において。便利さを享受しながら、不便の価値を慮り、安さに惑わされず賢くお金を払う。払うために賢くソコソコ儲けていなければはいけないのだ。どうやって?
意見が漠然としてきたのだが、この黄色い本が対象としている生活者は経済の中心に住む都市生活者に思えてならない。気象も公共交通インフラも流通トレンドも人口の少なさや地理的歴史的事情で都会のように人間の思う通りには行かない嗜好ビジネスが成り立つほどのマーケットとは言えない田舎暮らしに本書の内容は少し響きにくかった。とはいえ、世界的に見れば、日本の田舎も黄色い本の世界=資本主義経済の一つに過ぎない。
本書の分かりやすい例として『オーガニック商品』が挙げられている。オーガニックとは結局手間と時間をかけて見えない付加価値を付けたもの。確かな「おいしさ」「安全」などがあるだろうか。しょうおんさんが言うように、美味しくて食べることで体が元気になれて結果カロリー以上の生きる時間を与えてくれるもの、の象徴?オーガニックがいい、と思うのは対象となる大量生産大量消費向けの安い効率重視の味気ない野菜が大衆の食品のデフォルトとしてスーパーに並んでいるからではないか?
実際、地方居住者の自分も数年前の都会での赴任暮らしの時には、美味しさと体の充実感を求めて有機野菜の店に行き食材を調達していた。でも、消費人口=需要キャパのせいで有機野菜は電車で5分の一駅先の駅ビルに行けばすぐに入手できる。調味料一つとっても、地元ならわざわざ友人が取寄せてくれたり70㎞離れた自然食店に行って大容量のものを有難く購入していたのに、都会にいれば探さずとも簡単に小分けサイズのものが、『選べば』簡単に入手できるのである。『選べば』。しかし大量にならぶモノ中から、最初から田舎の野菜の味を知らずして、あえて少し高めの商品を『選ぶ』ことってできるのだろうか?そこには情報を見抜く力と実際に味わう経験という意欲が必要だと思うのだ。便利で安価から外れる知恵。
行きつく先まで行きついた資本主義経済をまだしばらく生きていく立場の人間として、幸せに生きるためには、経験することだ。五感を使うこと。モノや数値で目に見えるように図れない『身体機能を十分に味わって、酸いも苦いも味わったうえで美味しい体に良い』が見分けられるような幸せを生きている人間として実感できるビジネスや有意義な労働、知性を磨くことなのだと思う。なんだかやっぱり茫洋としていてまとまらない感想になってしまいました。冒頭のその他の本を順次読み自身の思考を深めたいと思います。
今月も貴重な読書の機会をいただき有難うございました。

投稿者 2l5pda7E 日時 2016年2月29日


『物欲なき世界』を読んで。

私は今、転職活動をしておりますが、本書を読んで張っていた気が抜けてゆきました。
元以前紹介されていた「7割は課長にさえなれません 終身雇用の幻想」を読んで、
日本の会社の現状を知り、私自身が新卒プレミアムを逃した現職の状況から抜け出そうと、
ワンランク上の階層にアプローチしておりますが、一次書類通過も難しいのです。

5章の『幸福はお金で買えるか?』の中で、ユニクロを辞めて、『精神的なストレスは一切ない』
という言葉が響いてきました。
今自分がいる場所やこれから自分が目指そうとしている場所で、この言葉が言えるのか?
答えはノーで、本当に心からやりたいことじゃ無いからだと、思ったからです。

もっと自由で良いのだと言い聞かせて、じゃあやりたい事って何なの?と問いかけても、
やりたい事よりも、何よりも先にお金について考えてしまいます。

資本主義の次の新しい価値観はどうなってゆくのでしょうか。今の私には見当もつきません。
本書は物の共有や、農業への取り組み、お金についての考え方について今までの私の価値観とは
違うものを提供してくれました。

良書をありがとうございました。

投稿者 morgensonne 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

 しょ〜おんさんのセミナーでも、メディアでもよく21世紀はモノからコトへと人々の価値が移ってきていると言われています。それをこの本では具体的に世界がどのように変わっていくかを述べている。社会全体では資本主義が限界に来ているということであるが、確かにお金の価値も日々変動し、その変動幅もだんだん大きくなってきている気がする。そしてお金に対する信頼性も少しずつ揺らいできているのではないかと感じる。
その中でも何のために働くのか、自分や家族の幸せとは何かを今まで以上にもっと考えることが必要になってきていると思う。私自身としては、まずは目に見えるモノにとらわれることなく自分や家族を見つめ直すことが必要であると思う。
社会人になってからだんだん仕事の時間が増えてきて、平日は会社と自宅の往復がほとんどになってきている。その代わりに自分の趣味の時間が減り、コミュニティーへの参加も減ってきているのが現状である。将来のためにも少しずつ仕事の割合を減らし(しょ〜おんさんのセミナーで教えていただいたスキルを使って)、家族とのコミュニケーションを増やしていきたいと思う。
ちょうどもうしばらくすると職場の環境が変わり、これが実現しやすくなりそうである。
早速、これからやりたいことをリストアップし、可能な範囲でそれを中心に仕事を組み立てていきつつあります。そうすることで少しずつではあるが、毎日が楽しくなり、仕事にも集中できるようになってきた気がする。

 

いつも勉強になる本を紹介いただき、ありがとうございます。

投稿者 jawakuma 日時 2016年2月29日


物欲なき世界を読んで

マズローの欲求5段階説の話を聞いたことがある人は多いだろう。
人間の欲求は5段階のピラミッドのように構成されていて、低階層の欲求が充たされると、より高次の階層の欲求を欲するというものだ。
1.「生理的欲求」
2.「安全・安定の欲求」
3.「所属と愛の欲求(社会的欲求)」
4.「承認の欲求(尊厳欲求)」
5.「自己実現の欲求」
本書に書かれる“物欲”の定義とはどういったものであろうか?
その求める 物 と ランク によりどの段階の欲求かは分類されるように思われる。
マズローにいう第一段階である1の「生理的欲求」は衣食足りて礼節を知ると言われるように、生活の基本となる衣食住にあたる 物 だ。しかしながら、同じ衣類でもユニクロで済ますのか、ディオールを求めるのかにより、その段階はことなってくる。高級ブランドを購入し身に着け、保持することは、持っている自分をアピールする、“自己ブランディング”の要素が含まれている。本来、マズローの第1段階であるはずの衣類が、他者からの羨望を集めたいという尊厳欲求の第4段階を体現する物へと遷移している。つまり、物を買う、使う、保持することにより自分の価値をその物に重ね合わせているのだ。そう意識するとブランド品などの高級商材だけでなく毎日のスーパーでの買い物までその観点でみることができる。近代社会での物欲とはそういう意味合いをもっていた。
産業革命以降(日本では太平洋戦争以降)豊かさ快適さを求めて人は物を大量に流通させ消費してきた。
生理的な欲求を満たし、さらなる豊かさを求めた。それは必然、生きるために必要な行為だった。そして物はいきわたり、物のステイタスは薄らぐ。ITの発達、かつて物で代替えしていたマズローのいう3、4段階の欲求は、SNSなどのつながりでも得られるようになった。物からコトへのシフト、どのような価値観をもつか、ライフスタイルが問われるようになってきている。同時に訪れる、資本主義の限界。行き詰まる先進国。超高齢化社会を迎えいち早く行き詰まりが予想される日本。しかしながら。必要は発明の母という。ハードランディングor ソフトランディングを経て日本から超資本主義の次の価値観が発信されるという予測もある。
まずは過渡期を乗り切るべく、適応し、準備する。良質な情報のインプットを怠らず、解答率を上げ、愚直にインプット量を増やして、スピードも向上させる。中でも大切なのは実際に行動し、肌感覚で理解することだ。
その先にある新たな世界の幕開け。どんな世界か?
よりその人のコンテンツ(人柄や持てる情報)に注目が集まるだろう。物はあって当たり前。それぞれの価値観で好きなチョイス。ビジネスもかつての資本家のような強大な資産はなくとも、アイデアひとつでクラウドファインディングのような仕組みでスタートできる。
過渡期やその先の世界でも通用する自分になっておく。投資、修行、インプットやることは盛りだくさんだ。先を読む目、世間の求めるものは何か。俯瞰して理解する
先回りをしてそこに沿うものを置いてあげる。今はただ一人のサラリーマンであるが、そんなビジネスをめざしたい。
そうしてマズローのいう5段階目、自己実現の欲求が満たされるのだろう。

今月も良書をご紹介いただきありがとうございました。

投稿者 ken2 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

わたし、物欲、あります!

広告に踊らされ、モア・アンド・モアの資本主義に煽られている状態に人々は飽き飽きしてきているだろう。しかし、物欲はなくならない、と思う。欲がなくなったら人は生きていけない。

ただ、欲求といってもモア・アンド・モアの飽くなき欲求ではなく、ちょっとだけ優雅、自分だけのこだわりのモノを持ちたい、といったささやかなものだが。
「ボロは着てても心は錦」では寂しいのだ。 華美でなくてもブランドでなくても、ちょっとだけいいものがほしい。

食にしても住居にしてもそうだ。 少しだけいいものがほしい。 そして安心、安全を買うにはお金がかかる。

大量生産、大量消費というライフスタイルが飽きられてきている以上、物欲の向くベクトルは多種多様に枝分かれしてきている。(それはもはや物欲とは呼ばないかもしれないが)

著者が指摘しているように「ポスト物欲」とでもいうべきものは以下のようなものがある。
・「モノより思い出」という体験型、自分でやってみる、創造体験するというベクトル。
・「二次元化」・・・ネットの世界、ゲームの世界などに喜び、価値を見出すベクトル。
・「シェアリング」・・・所有欲、ステータスを満たしてくれた家や車までもシェアリングするというベクトル。

マズローの欲求5段階説でいうところの「自己実現欲求」「承認欲求」は単に高価なモノを所有するということでは叶わず、珍しい体験やネットの世界(Facebookのいいね!やシェア、ツイッターのリツイートなど)、また、人間関係のなかで感謝されたりすることにより満たされる意味合いが強くなってきたのかもしれない。

共産主義とは違うが、所有するということの力点が、固有(個人の所有)から共有(モノも経験も感動も分かち合い)に変わってきていると思う。

お金や与信も形をかえ、Facebookのいいね!やツイッターのリツイートで図るのが当たり前になってくるのかもしれない。

最後の章に書かれていた多国籍企業と国家(民主主義の)の力関係について。
この勝負は多国籍企業が勝つに決まっている。 国が対抗するためには、かの国のように統制国家にならなければ無理である。

ユニバーサルサービスのように全国津々浦々まで均一なサービス(福祉など)を求められる国が、利に聡い営利企業、特に多国籍企業に敵うわけがないのである。
そんな多国籍企業に対し、先進国が歩調を合わせて、課税するという案も書かれているがどだい無理であろう。

それよりも多国籍企業が「超民主主義」を築くのでは、といった予見のほうがありそうな気がする。
その多国籍企業が「智の道」を実践してくれたら、と思うのだがそれでは絵空事になってしまうので、まずは個人個人が草の根的に「智の道」を実践していくというムーブメントが結局のところ、ポスト物欲資本主義にもっとも叶っているのではと考える次第です。

今月もありがとうございました!

投稿者 andoman 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

本書の前半は正直、自分にとって面白みが無く、何故この本が課題図書に???
と疑問符だらけだったが、4章辺りから「おや?」となり、5章で「お〜。」となって、6章で「ドヒャー!」となった(笑)
資本主義の終焉と、その先の経済。
非常に興味深い話である。
以前、課題図書の感想文で、学生時代に「無貨幣経済論」という卒業論文を書いたことがあると触れたのだが、本書で触れた資本主義社会の終焉の先にある経済システム…。
それこそが、まさに「無貨幣経済論」の世界である。
卒業論文を書いた当時、大学のゼミ(経済系)で「ポスト資本主義」や「トランスパーソナル心理学」等について学んではいたが、それほど深くは学べておらず、インスピレーションで卒業論文を書き上げた。
無貨幣経済というゴールは見えているが、現代の経済システムからのシフトする、その道程が全く見えていない…。
その様な形であったため、はっきり言って、絵に描いた餅。夢のまた夢といった内容だった⋯。
しかし、本書によって、その線がかなり繋がる事となった。
お金に対する定義の再考。
今の資本主義システムの正体と到達点。
そして定常化社会の可能性⋯。

本書では、貨幣に代わる経済の循環媒体について、どの様なものがあるかの明言はしていなかったが、まるで、なぞなぞやパズルを解かせるかの様に、部分部分でヒントを匂わせ、ピースを点在させている様に感じた。
そう感じたのは、P245「酒の代金はロッタへのキス」と、本書のP.185『お金に人の感情がダイレクトに反映される未来』の節で、「デイヴィッド・イブレイ・エヴァンズ」氏が語っている『その時に"支払い"という行為がどうなるかというと⋯(中略)⋯近い未来、人は自分自身がもっている、もっと根源的な価値で支払うようになる、と思うんです』(P.186、6行目〜11行目)と、まさに、ここである。
終焉の果てに行きつく先は【「貨幣という媒体」による交換経済では無く、「他者や社会に貢献」する事で、自らの必要なモノを得る。】という交換経済の事であり、それは直接的な見返りを求めない「ボランティア」に限りなく近く、労働力の間接的な交換による経済循環だと私は考えた。
ただし、この場合「どの様な人も、必ず何かしらの形で社会に貢献している」という、行動と信頼が前提となっている必要がある。
(これは、本書で述べていた、個人が発行する信用貨幣と酷似する。)
それがもし成立していない場合(十数年前に崩壊したどこかの国の様に)、真面目に働く者がバカを見る、社会になってしまう…。

例えば、貨幣による交換経済を廃止し、全ての人に衣食住が保障され、個人の望むままの自由な職に就き、世界経済の維持に貢献して働く事で、自分に必要なモノやサービスを受け取る事が出来る社会になったとしよう。
貨幣は必要無いため、誰でも自由に必要な時に、必要なだけモノやサービスを受け取る事が出来る⋯。
その様な社会になった場合、モノを過剰に得たり、誰かがそれを独占するという心配は起こり得ないだろう。
何故なら、衣食住は保障されており、いつでも好きな時に必要なモノを得る事が可能。という考えが常識であり、無駄なモノを無意味に所有するのはナンセンスとされるためだ。
本書の中で、豊かな人こそ、消費がメインではなく、ロハス的な生き方こそが主流とされる考えにシフトしている。という話があった通りだ。
その内容を前提に考えると、その時代には「所有」というものは、野蛮で古い考えとなり「共有」が一般的な考えになっているだろう。
自らが、食事や日用品など、個人レベルで必要なモノを必要な時に得ると同時に、車や製造コストの高いモノについては、共有するという事になるのは、目に見えている。
それは既に現在でも、カーシェアという形で、その様な考えにシフトが開始されているという事実を本書で取り上げている。

ここで一つ、全世界人口の衣食住を保障し、誰でも自由に必要な時に、必要なだけモノやサービスを受け取る事が出来る。という事は、非常に難しいと思うだろうが、そうでも無いと私は考える。
現在の科学技術であれば、十分実現が可能だろう。
衣食住においては、そのほとんどが、オートメーション化によって、量産が可能である。(味やこだわりについては、今は別課題)
物流や人の移動についても、自動運転システムの導入で、自動化が時間の問題となっている。
人間は、衣食住の保証をされる事で、自分のやりたい仕事を選び、自らの望んだ人生を歩む事ができる様になるだろう。
もし、それが無い人の場合、見つかるまで世界を旅すれば良い。(何故なら、全てが無料だし、将来的に今の自分探しが世の中の貢献に繋がると、全ての人が理解しているし、物質的にも心にも、余裕があるのだから。)
旅が出来ないなら、職安の様な場所でSPIや性格診断で自分の可能性を探したり、それにあった仕事から始めればよい。
また、他者を出し抜く事が大前提の競争社会(資本主義社会)から解放されているため、週に3日も働けば十分になり、残りの4日の余暇を十二分に漫喫出来るだろう。
また、人は心に余裕が生まれると、他者のために貢献したくなる。という本能を持っているため、親切な人が増え、犯罪も激減するだろう…。
少なくとも、経済的理由による犯罪は0となり、交通の自動化により、事故も激減する事になるだろう。
犯罪といっても、恐らく喧嘩程度だろうが、それすらも、人の心に余裕がある段階で、ほとんど起きる事は無くなってしまうだろうし、多くの人が善人になる事で、悪人も善人になってしまうのではないだろうか…。
まさに、いいことずくめだ…。
この世がまさに天国になってしまうかもしれない…。

著者が本書の中で、繰り返し述べていたが、この終焉の先に辿り着くには、「ハードランディング」「ソフトランディング」になるかは、自分達次第なのだと、私も思う。
恐らく「ハードランディング」は、世界的な株価暴落による恐慌や戦争、大飢饉となり、多くの人が悲しみの果てに、どうしようもなくなって初めて辿り着く事だろう。
一方「ソフトランディング」は人々の意識改革により、貨幣という魔法から覚め、手を取り合い、平和の下に共存して行く事を目指した結果、辿り着く事なのだろうと考える。
最期に、「ソフトランディング」による夢の様な社会の実現は、人類全てが「智の道」を知り、理解して、その道を歩み実践する事で、可能となるだろうと、私は考える。

よもや、学生時代の卒業論文に繋がる本に出逢えるとは、思いませんでした。
大変素晴らしい本を、ありがとうございました。

投稿者 morgensonne 日時 2016年2月29日


「物欲なき世界」を読んで

 しょ〜おんさんのセミナーでも、メディアでもよく21世紀はモノからコトへと人々の価値が移ってきていると言われています。それをこの本では具体的に世界がどのように変わっていくかを述べている。社会全体では資本主義が限界に来ているということであるが、確かにお金の価値も日々変動し、その変動幅もだんだん大きくなってきている気がする。そしてお金に対する信頼性も少しずつ揺らいできているのではないかと感じる。
その中でも何のために働くのか、自分や家族の幸せとは何かを今まで以上にもっと考えることが必要になってきていると思う。私自身としては、まずは目に見えるモノにとらわれることなく自分や家族を見つめ直すことが必要であると思う。
社会人になってからだんだん仕事の時間が増えてきて、平日は会社と自宅の往復がほとんどになってきている。その代わりに自分の趣味の時間が減り、コミュニティーへの参加も減ってきているのが現状である。将来のためにも少しずつ仕事の割合を減らし(しょ〜おんさんのセミナーで教えていただいたスキルを使って)、家族とのコミュニケーションを増やしていきたいと思う。
ちょうどもうしばらくすると職場の環境が変わり、これが実現しやすくなりそうである。
早速、これからやりたいことをリストアップし、可能な範囲でそれを中心に仕事を組み立てていきつつあります。そうすることで少しずつではあるが、毎日が楽しくなり、仕事にも集中できるようになってきた気がする。

 

いつも勉強になる本を紹介いただき、ありがとうございます。

投稿者 19750311 日時 2016年3月1日


「物欲なき世界」

40代前半の男性で、家族との笑顔の為、まだ良い車に乗りたい、より広い良い家に住みたいと自分に人参をぶら下げながら、仕事の質を上げようとしている自分の一面もある中で、正直この短時間でははっきりとした「学び」は得られる程、私の思考が深くありませんでした。

ただ本書で語られている現社会に至る考え方は、ここ数年家族との時間を犠牲にして仕事に打ち込んで来た自分にはとても深く共感し、これからの生き方を真剣に考えるきっかけとなりそうです。

自分らしく、生きるって