書評『最後の職人』


子供の頃、家の食事でどうしても好きになれないものがあった。それが天ぷらである。数ヶ月に1回、もしくは半年に1回くらい、しかもそれは日曜日である事が多かったのだが、母が台所に新聞紙を敷き始めると、ああ今日は天ぷらかとウンザリしたものである。当時食べていた天ぷらというのは、衣がボテっとしていて、油臭くとても食えた代物では無かった。しかも最悪なことに、全部のタネを先に揚げてしまうのだから始末が悪い。これだと一番最初に揚げたものが口に入る時には平気で30分とか経っているので美味いわけが無い。さらに言えば、我が家には天汁(つけ汁)が無く、全部のタネに刺身のように醤油を付けて食べる、という恐ろしい習慣だったのである。

その結果、私は極度の天ぷら嫌いになってしまった。長じて高校を卒業して、外で働くようになってからも、天ぷらだけには手を出さないように気を遣っていたくらいである。ところがある先輩に食事に誘われてたまたま入ったのが天ぷら屋だったのである。美味い店があるから行こうと言われてノコノコついて行き、店の前に来た時にここが天ぷら屋である事を理解した私は戸惑った。さすがにここまで来て、天ぷらは嫌いなので遠慮します、とはもう言えない。

覚悟を決めて店に入り、最も安い天ぷら定食を注文した。最悪の場合、ご飯と味噌汁、お新香だけを食べて、先輩に天ぷらを食べてもらおうと考えたのである。ところが、運ばれてきたお膳に箸を付けてみてビックリした。初めて見るホンモノの天ぷらは衣が薄かった。ピーマンなんて衣の膜の向こう側に緑色の果肉が透けて見えるじゃないか。我が家の天ぷらは衣の肌色が見えるだけで、その衣の形からたぶんこれはピーマンかも知れないなとアタリを付けるのがせいぜいであったのだから。オマケに口に入れると香ばしいゴマ油の香りが広がり、適度に水分が蒸発したタネがサクッとした歯ごたえで割けるのである。おまけに天汁の出汁の香りがまた油に合うのである。

なんだ!これが天ぷらなのか!と私を襲った衝撃は忘れられない。件の先輩も呆けたように天ぷらを味わう私の姿に驚き、「何だ?そんなに美味いのか」と身を乗り出して訊いてきた。今考えれば天ぷら定食で1000円以下だったので、全然高級店でも、老舗でもなく、値段の割にはそこそこ美味い、今思えば、チェーン店の「天丼てんや」のような店なのに、こちらは一人前1万円を超える高級店でのみ見る事が出来るリアクションをしたのだから、驚くのもムリは無い。

爾来結婚するまで、天ぷらは外で食べるというのが、私のポリシーとなり、美味い天ぷら屋を見つける事が密かな楽しみにもなった。

ところが、である。外食でまともな天ぷらを食そうと思うと、それはそれはギョッとする金額を払わなければならないのである。ちょっとしたところで3000円から5000円、本格的に美味いと言えるものとなると8000円以上は覚悟しなければならないだろう。これがどうにも腑に落ちなかったのである。天ぷらのネタって、魚介類でもどちらかと言えば安い部類に入る、エビ、イカ、キス、ちょっと高めだと思われるモノでも穴子くらいが良いところで、これ以外は野菜である。しかも量はと言えば、ひとつのタネは二口で食べられる程度の大きさがひとつかふたつだけ。なぜこんな分量のもので、これだけの価格になるのかが理解出来なかったのである。

寿司やウナギが高いのは理解出来る。素人目に見ても本マグロの大トロが安いわけ無いし、天然物のウナギが簡単に入手出来ないのは分かるから、でも天ぷらって極ありきたりの、それこそスーパーで買えるようなものを、ほんのちょっとだけ使って、衣を付けて油で揚げただけなのに、なぜあんなに高いのだろうか?と常々感じていた。

しかるに、無知ということがどれだけ恐ろしいことだったのかを本書を読んで痛感したのである。天ぷらってこんなに原価が高いわけ?っていうか、一人前の天ぷらを揚げるのに、ゴマ油を三度も四度も交換するって、そんな事をやったら儲かりませんがな。しかも揚げ手の力量というかスキルが、ここまで味にインパクトを与える料理だとは想像の範囲を超えている。あんなもの、衣を付けてテキトーに油に入れれば、それなりに似たようなものが出来るんだろうと思っていたのだが、温度計を使わず油の温度をピッタリ読み、衣の濃度と付け具合をタネによって変え、タネの揚がり具合を読み切り、完璧なタイミングで上げ、タネによっては余熱を利用してさらに熱を通す。すべてに絶妙の技術が要求される職人芸で、いくらタネが良くても腕が悪ければ全部がパーになってしまう厳しさがあるのだ、と恥ずかしながら本書を読んで初めて知ったのである。

本書には「天ぷら近藤」の店主近藤文夫氏の人生を振り返りつつ、天ぷらという料理の奥深さと、それを支える裏方の人々にもスポットを当て、さらに天ぷらという料理が歴史的にどういう変遷を辿ったのかについても書かれている、一冊で何粒美味しいのだと言いたくなるようなコンテンツなのである。ここでは、近藤氏にとって当たり前の事が、他の天ぷら屋ではどれだけ非常識なのかということが随所に出て来るのだが、このエピソードを読むだけで読者は「天ぷら近藤」で食べてみたいと思うはずである。

食材の旨さをどう最大限に引き出すかを考えれば、切った野菜を水にさらして準備するなどもってのほか。魚介は、内臓こそすぐに取り出しますが、乾燥を防ぐ意味でも、お客様の顔を見てからおろすのが当然です。そうでなければ香りも旨味も飛んでしまいますから
P168

かき揚げを上げる時の描写では、

青柳など貝類は水分を含んでいます。つまり、揚げている最中に水分が中から漏れ出そうするのですね。これを適度に飛ばしながら、それでいて青柳は半生の状態でとどめる。もちろん衣にも水分がありますから、この全体のバランスを掴んで、火力の調整と実際の油の温度を調整する必要があるのです。
中略
”近藤は涼しい顔をしてそんなことをのたまう。けれどもかき揚げを一度に六個も揚げ切る職人は天ぷら界でも数人いるかいないかだろう。普通、かき揚げを揚げる際、職人は、箸先に全神経を集中せざるをえない。心の状態が落ち着いていなければ、思い通りにかき揚げは揚がらないと語る職人もいた。また、人によっては、ひっくり返したと同時に箸でかき揚げに穴を空けて、その中心まで火を入れるというが、近藤はそんなことはしない。箸先で、ヒョイ、ヒョイ。玉蜀黍と同じようにいとも簡単にかき揚げをひっくり返して、じーっとかき揚げを見つめて終わりである。
P197~198

仕入れについても近藤氏の食材に対する真摯な態度は変わらない。築地市場には、毎日足を運ぶ料理人というのがごく少数いるらしいのだが、その数少ない料理人の一人が近藤氏なのである。なんとかれこれ五十年近く、市場が開いている日には休むことなく自ら足を運ぶ。その前日は深夜まで働いているにも拘わらず、六時に起きて河岸に足を運び続けているのである。その結果、仲買人たちは、いつでもその日最高の素材を近藤氏のために取っておいてくれるのである。これで作った料理が不味かろうはずはない。

本書は天ぷら職人の人生を書いたものだが、その裏に横たわっているのは、職業に命を賭けるサムライの心とはどういうものなのかである。口では誰でも「命を賭けている」と言えるのだが、それがどの程度のものなのか、本書で描かれている近藤氏の生き様と比較してみればよく分かるだろう。口で言わずとも五十年も休まず続けていれば、そこに伝説は生まれ、語り継がれる何かが滲み出てしまうのである。それを理解するために本書を読むというのもひとつの読み方であろう。

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