戦後70年、今年は戦争についてじっくり考えてみるぞ。

久しぶりの書評はこれ。


戦後70年となる今年、あの戦争が意味したものがなんだったのかを知るには、このような本に頼らざるを得なくなっているのが現在の日本である。戦後70年とは、つまり明治維新から数えると昭和10年頃になるわけで、つまりは日本が破滅への道をひた走り始めた時期と重なるのである。

昭和10年からの10年間で日本は都市圏がすべて焼け野原となり、軍人、軍属230万人、民間人80万人が犠牲となった。それら戦災者の一人ひとりに、この小説に出て来る片岡直哉や鬼熊軍曹のような物語があったはずである。しかしこのような物語を心の奥深くに格納し、吸収し、背骨の中心部に凝縮して集めるためには、浅田次郎のようなストーリーテラーが必要なのである。彼の筆によって、あたかも自分が片岡直哉や、鬼熊軍曹に成り代わったような錯覚を読者に起こさせるのである。

この小説のストーリーについてはくどくどしく解説をしない。終戦直前に臨時召集を受けた3人が千島列島の最北端占守島に向かうところから始まる。占守島がどこなのか、私もこの小説を読むまでは地理的な位置が分からなかったのだが、なんとカムチャッカ半島のすぐ南、たったの12キロのところにある島なのである。ここの島に向かうということは、かつてはこの島は日本の領土だったのだ。

我々日本人が一般的にイメージする北方領土というと、国後島、択捉島、歯舞色丹諸島だけであろう。しかし歴史的には、千島列島すべてが1875年(明治8年)当時のロシア帝国と締結した樺太・千島交換条約(サンクトペテルブルク条約)によって、日本の領土となっているのである。つまりこれは日露戦争の勝利によって奪った南樺太とは質が違う、平和時に平和裏に国対国が交わした約束によって確定した領土であり、その意味では、国後、択捉と同レベルで日本の領土と言えるのである。

然るに何故、北方領土というと国後、択捉、歯舞色丹諸島に限定されているのであろうか。ちなみに信じ難い事だが、これら千島列島すべてが日本固有の領土であると主張し、ロシア側に返還要求をしているのは、自由民主党でも民主党でも、公明党でもなく日本共産党なのである。

日本国内でもこのような状況になっているため、その千島列島の最北端にある占守島を現代に生きる日本人が知らなくても不思議は無いのである。そしてこの島には終戦まで、日本陸軍最強の精鋭たちが集っていたのである。ここには満州で実践と経験を積んだ関東軍が、アメリカの北からの侵攻を防ぐために、当時最新鋭の武器を携えて待ち構えていたのである。ところが、アメリカは北からでなく、南の沖縄から侵攻をする道を選び、そして日本がそれに気付いた時には制海権を失い、部隊の移動が既に出来なくなっている状態だったため、結局終戦まで全く戦う事無く放置された部隊となってしまったのである。

彼らを占守島に移動させず、そのまま満州に配備していれば、昭和20年8月8日から起こったソ連の対日宣戦による満州侵攻も、あれほど無様な、そして民間人の甚大な被害は抑えられたのでは無いかと考えられるのである。この満州侵攻により、中国残留孤児のような悲惨な事態が起こったのは良く知られている通りである。

しかし、この満州侵攻については百歩譲ろう。日ソ不可侵条約を一方的に破棄しての宣戦布告という卑劣な行為も、日本がまだポツダム宣言を受諾していない戦争状態だったので、こういう事も歴史上ゼロじゃ無いという事で、腹の立つ事ではあるが仕方がない。

このソ連による宣戦布告並びに、日ソ不可侵条約の一方的な破棄については多くの日本人が歴史の授業で習い、ご存じであろう。しかしこれから書く事、そしてこの小説で書かれている事というのは、それ以上に卑劣極まり無いソ連の悪行で、これが教科書からも、歴史についての報道からも消し去られているため、ほとんどの日本人が認識すらしていない事実なのである。

日本は昭和20年8月15日にポツダム宣言を受諾して、連合国に降伏をした。つまり、この時点で戦争は終結したわけである。ここからは双方戦闘行為をしてはならないというのが国際法の常識である。然るに、ソ連は8月18日に突然カムチャッカ半島から占守島を攻撃し千島列島を占領しに来たのである。繰り返すが、ソ連の侵攻は日本の降伏後である。先ほどの満州侵攻は8月8日で辛うじて戦時中であり、宣戦布告もしている事なので許容範囲と言えば言えるのだが、占守島への攻撃は断じて許容範囲外である。

しかしこの占守島には先述したように、関東軍の精鋭たちが準備万端整え、いつ敵が来てもこれを撃退する能力を持っていたのである。その結果、攻めてきたソ連軍はたったの2日で3000人以上の死者を出すボロ負け状態になるのである。ここまでは気分がスッとする話なのだが、このまま日本の勝ちとはならなかった事が次の悲劇を生むのである。占守島の日本軍は勝ち戦を展開していたが、日本という国は連合国に降伏をしたわけである。この矛盾を解くために、軍命により8月21日に占守島の日本軍は降伏し、23日に武装解除となる。

この結果何が起こったのか?日本軍が優勢に戦いを進めていたという事はソ連軍は負けつつあったわけで、それなのに公式には日本が降伏したということになると、ソ連としては腹の虫が収まらないわけである。これは個人のケンカを思い出しても同じであろう。殴り合いをして負けている方が、政治的な裁定で勝ちに転ずると、今まで殴られた仕返しをしたくなるわけである。この心理状態がソ連軍にも起こった結果、全く法的根拠もなく、平和裡に武装解除に応じた日本帝国軍人を捕虜としてシベリアへ連行し、そのまま抑留してしまうのである。この抑留は最長で、日ソ国交回復のなる昭和31年までという気が遠くなるような奴隷生活で、抑留者の10%以上が劣悪な環境による餓えや病気によって死亡したとされるシベリア抑留問題である。(もちろんシベリア抑留者は占守島にいた軍人だけでは無く満州で捕虜となった軍人も多数いて、総勢で60万人とも70万人とも言われている。)

実は日本降伏の前に連合国首脳で行ったヤルタ会談では、千島列島はソ連のものという約束が出来ていた(アメリカは明確な回答をせず、文書にも残っていないが、ソ連を参戦させるためにそのようなリップサービスをした可能性は極めて高い)が、このまま日本が降伏して、千島列島に日本軍及び日本人が居住していたら、ソ連の領土にはならないと考えたスターリンが火事場泥棒に参戦したというのが実態であろう。これが北方領土問題の全貌で、だからこそアメリカは今に至るも、(日米安保条約があるにも拘わらず)北方領土問題については全く日本の味方をしない理由であろう。それこそがヤルタ会談で、北方領土はソ連のものという合意があった証左にもなろう。

つまり国際法上では、ソ連の行いは文句なしに違法ではあるが(降伏後に戦争を仕掛けて領土を奪うなんて事が許されるはずが無い)、政治的にはなし崩し的に奪っちゃったものは大目に見るからね、という事であろう。こうして奪われた領土がいつの間にか、国後、択捉、歯舞色丹だけに限定されてしまったのはいつの事なのか?幌筵島(パラムシル島)も、阿頼度島(アライト島)も、占守島(シュムシュ島)も、松輪島も全部日本の領土なのだよ。

戦後70年となる今年、改めて我々日本人は、このような歴史について勉強する必要があるはずで、そのためにこのような小説は間口の入りやすさという意味で、とても貴重な存在なのである。日本人の中にある、ロシア人に対する得体の知れ無さというか、気味の悪さというか、抜きがたい不信感もまた、このような歴史が産んだ帰結であるとも言えるのである。

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